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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第五十六(百五十六)潜水艦は海大三型b(伊五十六→百五十六型)潜水艦の1番艦である。

1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約により八八艦隊案を廃棄した日本海軍は、大正十二年(1923年)度計画で改めて海大型潜水艦12隻を建造した。 その最初の4隻が海大三型aである。  主機は海大二型と同じスルザー式三号ディーゼルであるが、MAN社製のラウシェンバッハ(Rauschenbach)式ディーゼルの特長を取り入れて改造を加えている。 確実性を考慮して水上速力を20ノット、水中速力は8ノットに抑制されている。 航続力は海大二型と同じく10ノットで10,000浬である。

船体は、内殻板厚を海大一、二型の12.7mmから15.9mmに増して、安全潜航深度を45.7mから60mに増大している。 また、二重ハッチの昇降口や山高シャツクル、ダイバーズ・ロックの採用による安全対策の強化などが実施されている。 兵装は12cm砲1門を装備、魚雷発射管は海大一型と同じ十年式53cm発射管8門(艦首6門、艦尾2門)、魚雷搭載数16本である。

次の5隻は、若干の変更を加えたもので、海大三型bと称された。 艦首部の形状を改めて凌波性を改良し、補助発電機室と上部賄所、倉庫などの区画配置を変更しているが、その他に関しては同じで、基本寸法や性能はほとんど変化していない。  同型艦5隻のうち1939年(昭和14年)に、豊後水道で伊号第六十潜水艦と衝突沈没した伊号第六十三潜水艦以外の4隻は太平洋戦争参加、開戦直後に伊号第六十潜水艦が戦没した。 残存した3隻は中期以降、練習艦に転用され、戦後いずれも海没処分とされた。 (1)(2)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大三型b(伊五十六→百五十六型)
水上排水量 ※11,635トン(基準)/1,800トン(常備)
水中排水量 ※12,300トン
垂線間長94.00m
全長101.00m
最大幅7.90m
喫水4.90m
主機スルザー式三号ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型1基
蓄電池一号五型×240個
出力6,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力20.0ノット(水上)/8.0ノット(水中)
燃料重油:230トン
航続力10ノットで10,000浬(水上)/3ノットで90浬(水中)
乗員63名
兵装45口径三年式12cm単装砲1基
十五式一型53cm魚雷発射管8門(艦首6門、艦尾2門)
六年式魚雷16本
安全潜航深度60.0m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1926年(大正15年)5月24日伊号第五十六潜水艦と命名。
1926年(大正15年)11月3日起工。
1928年(昭和3年)3月23日進水。
1929年(昭和4年)3月3日竣工。 本籍は呉鎮守府。 呉鎮守府部隊に編入。
1929年(昭和4年)4月1日第二艦隊第二潜水戦隊第十九潜水隊に編入。
1929年(昭和4年)4月4日〜7日第十九潜水隊は呉から榮城湾を経て、大連着。
1930年(昭和5年)5月17日〜6月19日第十九潜水隊は戦隊と古仁屋から南洋方面に向かい、横須賀着。
1931年(昭和6年)3月28日〜4月5日第十九潜水隊は戦隊と福岡湾から青島を経て、裏長山列島着。
1931年(昭和6年)12月1日第十九潜水隊は第二潜水戦隊から除かれ、呉鎮守府部隊呉防備隊に編入。
1932年(昭和7年)12月1日第十九潜水隊は呉防備隊から除かれ、第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1933年(昭和8年)6月29日〜7月5日第十九潜水隊は戦隊と佐世保から馬鞍群島を経て、馬公着。
1933年(昭和8年)7月12日〜8月14日第十九潜水隊は戦隊と高雄から南洋方面に向かい、父島二見着。
1934年(昭和9年)9月27日〜10月5日第十九潜水隊は戦隊と旅順から青島を経て、佐世保着。
1934年(昭和9年)11月15日第十九潜水隊は第二潜水戦隊から除かれ、呉鎮守府部隊呉防備隊に編入。
1935年(昭和10年)11月1日第十九潜水隊は呉防備隊から除かれ、第一艦隊第一潜水戦隊に編入。
1936年(昭和11年)8月4日〜7日十九潜水隊は戦隊と基隆から履門に向かい、馬公着。
1936年(昭和11年)12月1日第十九潜水隊は第一潜水戦隊から除かれる。
1938年(昭和13年)12月15日第三予備潜水艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日第十九潜永隊は第一艦隊第四潜水戦隊に編入。
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日第十九潜水隊は戦隊と有明湾から南支方面に向かい、基隆着。
1940年(昭和15年)8月25日〜9月22日第十九潜水隊は戦隊と横須賀から南洋方面に向かい、横須賀着。
1940年(昭和15年)11月15日第四潜水戦隊は第一艦隊から除かれ、連合艦隊に編入。
1941年(昭和16年)10月9日第四潜水戦隊は呉に入港。 戦備作業。
1941年(昭和16年)11月5日第四潜水戦隊は第二艦隊に編入。
1941年(昭和16年)11月15日第四潜水戦隊は南遣艦隊に編入。 マレー方面要地攻略作戦の支援を下令される。
1941年(昭和16年)11月20日第十九潜水隊は広島湾から海南島三亜に向かう。
1941年(昭和16年)11月26日第十九潜水隊は三亜着。 待機。
1941年(昭和16年)12月1日マレー半島コタバル沖哨区に配備、天候偵察を下令され、三亜からコタバル沖に向かう。
1941年(昭和16年)12月7日コタバル沖哨区着。 気象通報ののち待機。
1941年(昭和16年)12月8日哨区において索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月9日新散開線に配備を下令され、移動。
1941年(昭和16年)12月10日クアンタン沖に急行を下令されるが、イギリス艦隊は撃沈されたと分かり、アナンバス諸島−グレートナツナ島間に配備を下令され、哨区に向かう。
1941年(昭和16年)12月11日トレンガヌ東方で、ノルウェー貨物船「Hai Tang(1187トン)」を雷撃により撃沈。
1941年(昭和16年)12月12日クアンタン東方の哨区に配備を下令される。
1941年(昭和16年)12月13日哨区に到着。 索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月19日カムラン湾に帰投を下令される。
1941年(昭和16年)12月21日カムラシ湾着。 補給、待機。
1941年(昭和16年)12月26日ジャワ島南方に配備を下令される。
1941年(昭和16年)12月27日カムラン湾において、作戦打合せ。
1941年(昭和16年)12月28日カムラン湾から、ジャワ海、ロンボク水道を経て、ジャワ南方に向かう。
1942年(昭和17年)1月3日チラチャップ沖の哨区に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月5日チラチャップ沖でイギリス貨物船「Kwangtung(2626トン)」を砲撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月6日チラチャップ南方40浬において、オランダ商船「Tanimbar(8169トン)」を砲撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月8日チラチャップ南方80浬において、オランダ貨物船「Van Rees(3000トン)」を雷撃により撃沈。 オランダ貨物船「Van Rieb(2263トン)」を砲撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月13日カムラン湾に帰投を下令され、ロンボク水道に向かう。 バリ島西南方で、オランダ貨物船「Patras(2065トン)」を砲撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月18日カムラシ湾着。 補給、待機。
1942年(昭和17年)1月31日カムラン湾からアナンバス基地に向かう。
1942年(昭和17年)2月1日第四潜水戦隊は南遣艦隊から除かれ、第二艦隊に編入。
1942年(昭和17年)2月2日アナンバス基地に立ち寄り、補給ののちロンボク海峡南口へ向かう。
1942年(昭和17年)2月6日スンダ海峡南口に配備を下令される。
1942年(昭和17年)2月8日スンダ海峡南口着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)2月11日スンダ海峡南方において、貨物船1隻を雷撃により撃沈と報告(連合軍側資料に該当記録なし)。
1942年(昭和17年)2月17日スンダ海峡南口から撤哨し、スターリング湾に向かう。
1942年(昭和17年)2月21日スターリング湾着。 補給待機。
1942年(昭和17年)3月5日スターリング湾からチラチャップ沖に向かう。
1942年(昭和17年)3月8日チラチャップ沖着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)3月10日第四潜水戦隊は解隊。第十九潜水隊は第二艦隊第五潜水戦隊に編入。 内地に帰投、整備を下令される。 チラチャップ沖から撤哨し、スターリング湾に向かう。
1942年(昭和17年)3月12日スターリング湾着。 補給。
1942年(昭和17年)3月13日スターリング湾から呉に向かう。
1942年(昭和17年)3月20日呉着。 整備。
1942年(昭和17年)4月10日第五潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。
1942年(昭和17年)5月14日ミッドウェー作戦のため、呉からクェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)5月20日伊号第百五十六潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月24日クェゼリン着。 補給。
1942年(昭和17年)5月26日クェゼリンからフレンチ・フリゲート礁北方の乙散開線に向かう。
1942年(昭和17年)6月4日乙散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月5日第五潜水戦隊はミッドウェー東方の丙散開線に配備変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)6月7日R散開線(北緯30度、西経180度付近)に配備変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)6月9日第五潜水部隊はR散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月13日敢空母部隊の大部が、ミッドウェー東方にあるとの情報により、第五潜水戦隊はU散開線(北緯29〜35度、西経175度)に配備の移動を下令され、東方に向かい、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月15日第十九潜水隊は帰投を下令され、反転してクェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)6月20日クェゼリン着。 補給。
1942年(昭和17年)6月22日クェゼリンから呉に向かう。
1942年(昭和17年)6月30日呉着。
1942年(昭和17年)7月10日第五潜水戦隊は解隊。 第十九潜水隊は呉鎮守府部隊に編入。 予備潜水艦を警備兼練習潜水艦と定める。
1943年(昭和18年)5月21日北太平洋に出撃を下令される。
1943年(昭和18年)5月22日〜23日呉から横須賀に回航。 待機。
1943年(昭和18年)5月29日横須賀から木更津沖に移り、部隊と作戦打合せののち、同日、木更津沖から幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)5月29日北太平洋方面の作戦は中止。アッツ島玉砕。 第五艦隊第一潜水戦隊に編入、キスカ島に対する作戦輸送を下令される。
1943年(昭和18年)6月1日幌筵着。 輸送準備。
1943年(昭和18年)6月4日幌筵からキスカに向かう。
1943年(昭和18年)6月14日アマチグナック島の偵察に当たる。
1943年(昭和18年)6月15日アマチグナック島付近から撤収、キスカに向かう。
1943年(昭和18年)6月16日キスカ島着。 兵器、弾薬3トン、糧食2トンを揚陸。 人員60名を収容して幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)6月20日片岡湾着。 収容人員を揚陸。 補給待機。
1943年(昭和18年)6月21日〜26日幌筵から呉着。
1943年(昭和18年)6月28日第五艦隊から除かれ、呉鎮守府部隊に復帰。
1943年(昭和18年)12月1日練習兼警備潜水艦となる。 第十九潜水隊は呉鎮守府部隊呉潜水戦隊に編入。 乗員養成任務に従事。
1945年(昭和20年)2月11日〜13日呉から舞鶴に回航。 待機。
1945年(昭和20年)2月20日〜21日舞鶴から呉に回航。 呉工廠に入渠。 回天搭載設備工事。
1945年(昭和20年)4月1日第十九潜水隊から除かれ、第六艦隊第三十四潜水隊に編入。 回天作戦の準備を下令される。
1945年(昭和20年)6月25日〜28日呉から大連着。 燃料補給。
1945年(昭和20年)6月29日〜7月2日大連から呉着。
1945年(昭和20年)8月15日第三十四潜水隊は解隊。 第六艦隊第十五潜水隊に編入。 
1945年(昭和20年)11月30日除籍。
1946年(昭和21年)4月1日五島沖でアメリカ軍により海没処分。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p52-55
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p48,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p176-183
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p20