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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第十六潜水艦は巡潜丙型(伊十六型)潜水艦の1番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した。 次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画(マル三計画:○の中に三)では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。

昭和12(1937)年度のマル三(○の中に三計画で5隻が建造され、1940年(昭和15年)から1941年(昭和16年)にかけて竣工した。 強力な雷装を持つ丙型は、艦隊決戦時の敵主力部隊攻撃を目的として建造されたが、実際には甲標的や回天の母艦任務に就くことが多く、雷撃による目立った戦果は挙げていない。(1)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型丙型(伊十六型)
水上排水量 ※12,184トン(基準)/2,554トン(常備)
水中排水量 ※13,561トン
垂線間長103.80m
全長109.30m
最大幅9.10m
喫水5.34m
主機艦本式二号十型ディーゼル2基、2軸
主電動機特五型2基
蓄電池二号五型×240個
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8.05ノット(水中)
燃料重油:816トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員95名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管8門(艦首)
九五式魚雷20本
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1937年(昭和12年)9月15日起工。
1938年(昭和13年)5月28日伊号第十六潜水艦と命名。 
1938年(昭和13年)7月8日進水。 
1940年(昭和15年)3月30日竣工。 本籍を横須賀鏡守府と定める。 練習潜水艦と定め、呉鎮守府部隊に編入。 練習のことに関しては、海軍潜水学校長の指揮を受けることと定める。 
1940年(昭和15年)11月15日第一潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊・連合艦隊)に編入。 練習潜水艦を予備潜水艦に改める。 練習のことに関して、海軍潜水学校長の指揮を受けることと定めたのを解く。 司令潜水艦に指定される。 
1941年(昭和16年)2月2日第一潜水隊は、高知発、南洋方面に向かう。 訓練。 
1941年(昭和16年)3月3日第一潜水隊は、高雄に到着。 
1941年(昭和16年)5月24日第一潜水隊は、知多湾発、南洋方面に向かう。 訓練。 
1941年(昭和16年)6月26日第一潜水隊は、有明湾着。 待機。 
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 
1941年(昭和16年)10月20日呉に回航、大臣訓令の特別工事を下令される。 
1941年(昭和16年)10月22日横須賀発、呉に向かう。 
1941年(昭和16年)10月24日呉着。 25日入渠、甲標的搭載用の設備工事に入る。 
1941年(昭和16年)11月5日第一潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)に編入、機動部隊の作戦に協力、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日先遣部隊(第六艦隊)特別攻撃隊(第三潜水隊司令指揮)に編入。 甲標的による奇襲、オアフ島南方海面における監視、奇襲を下令される。 甲標的搭載用の設備工事を終わる。 甲標的搭乗員 横山正治中尉、上田定二等兵曹が乗艦。 
1941年(昭和16年)11月14日特別攻撃隊は、呉鎮守府第二会議室に、先遣部隊指揮官、各潜水艦長、甲標的搭乗員が参集。作戦打ち合わせ。
1941年(昭和16年)11月17日特別攻撃隊は、呉水交杜において、隊内の打合せに当たる。
1941年(昭和16年)11月18日呉発、亀ヶ首において甲標的1隻を搭載。 夕刻、伊号第二十二潜水艦において、出撃壮行会を開き、20:00発、ハワイ方面に向かう。
1941年(昭和16年)11月19日4:40、沖ノ鳥島南方を通過。 8:00試験潜航。 東京通信隊との受信は困難となる。 
1941年(昭和16年)11月20日5:15、八丈島付近を通過。 ハワイに向け直進。 17:00警戒航行。 19:30重要電報2通受信。 
1941年(昭和16年)11月21日翌22日にかけて波浪で難航。 22日敵の飛行哨戒圏に入り、22:10艦橋見張3直とする。
1941年(昭和16年)11月24日ウェーク・ミッドウェーの中間点を通過。 24:00までに、機械室ビルジの廃棄を完了。 
1941年(昭和16年)11月25日深度30mで進航。 3:00浮上。 艦の動揺激しく。 乗員は不眠。 
1941年(昭和16年)11月26日3:30潜航、15:00浮上。 艦の動揺は激しく、最大傾斜24度。 
1941年(昭和16年)11月27日海上は荒れ模様が続く。
1941年(昭和16年)11月29日西経に入る。 ミッドウェー沖を通過。 針路97度。 
1941年(昭和16年)11月30日ミッドウェー南方に到達。 ハワイ・ジョンストンの中間に進航。 
1941年(昭和16年)12月1日蒸留水を使用して、洗面、汚れ物を洗う。 真水は一切未使用。 水中の無線は感度良好。
1941年(昭和16年)12月2日対米開戦は8日と下令される。 見張員以外が艦橋に出るのを禁止、喫煙は許可。 
1941年(昭和16年)12月3日ハワイの300浬圏内に入り、穏密裡にオアフ島に向かう。 
1941年(昭和16年)12月7日真珠湾外に到着。 20:12、湾口の212度7浬において、甲標的を湾内に向け発進させ、待機。 
1941年(昭和16年)12月8日対米開戦。 湾口付近において監視ののち、同夜、ラナイ島西方の収容予定点に向かい、17:00〜23:00まで待機したのち、再び湾口に向かう。 横山艇は、湾内に侵入、敵艦を雷撃したが外れ、アメリカ駆逐艦「モナハン (Monaghan)」 により撃沈された。 搭乗員2名は戦死、二階級特進。
1941年(昭和16年)12月9日湾口において待機ののち、前夜とほぼおなじ行動をとる。 
1941年(昭和16年)12月10日夜間ラナイ島西および南方において、捜索ののち、湾口の哨戒に当たり、12日黎明時まで、捜索を下令される。
1941年(昭和16年)12月11日湾口の監視から、夜間の収容捜索に当たる。 
1941年(昭和16年)12月12日特別攻撃隊は、3:00、甲標的搭乗員の収容捜索を打切り、搭乗員を発見収容できないままに、作戦を終了してクェゼリンに向かう。 
1941年(昭和16年)12月20日クェゼリン着。 整備休養。 
1941年(昭和16年)12月22日甲標的の戦訓を報告。 兵器の改善と訓練のため、内地に帰投を下令される。
1941年(昭和16年)12月25日クェゼリン発。 横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)1月2日横須賀着。 待機。 
1942年(昭和17年)1月3日横須賀発。 呉に向かう。 
1942年(昭和17年)1月4日呉着。 改装工事の手直しと試験に当たる。 
1942年(昭和17年)2月2日先遣部隊特別攻撃隊は編成を解かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水隊(第一潜水戦隊)に編入。 次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月10日第一潜水隊は、第一潜水戦隊から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 第八潜水戦隊司令官は、旗艦に当艦を指定。 第一潜水隊は、先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月21日第八潜水戦隊司令官は、旗艦に当艦から伊号第十潜水艦に変更。 
1942年(昭和17年)3月24日第一潜水隊は呉発。 内海西部において甲標的と訓練。 
1942年(昭和17年)3月31日第一潜水隊は、先遣部隊(第六艦隊)甲先遣支隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋、アフリカ沿岸方面の敵艦隊攻撃、敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)4月10日第一潜水隊は、部隊とペナンに進出を下令される。 
1942年(昭和17年)4月15日第一潜水隊は呉発。 広島湾に部隊と集結、待機。 
1942年(昭和17年)4月16日第一潜水隊は呉発、広島湾発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)4月24日第一潜水隊はシンガポール着。 補給。 
1942年(昭和17年)4月25日第一潜水隊はシンガポール発、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)4月27日ペナン着。 甲標的(搭乗員 岩瀬勝輔少尉、高田高三二等兵曹)を搭載、出撃準備。 
1942年(昭和17年)4月30日ペナン発、ダーバン方面に向かう。 
1942年(昭和17年)5月5日以後15日まで、5日毎に洋上で特設巡洋艦から補給を受けた。 
1942年(昭和17年)5月18日3:38、波浪により主機械排出口から浸水。 左舷機が使用不能となり、艦内の応急復旧ができない状況であった。 
1942年(昭和17年)5月20日第一潜水隊はマダガスカル島ディエゴスワレスの在泊艦船攻撃を下令される。 
1942年(昭和17年)5月21日第一潜水隊は、29日朝、マダガスカル島北端を迂回して、ディエゴスワレスに向かうよう下令される。 
1942年(昭和17年)5月29日第一潜水隊はマダガスカル島北端を迂回して、ディエゴスワレスに向かう。 
1942年(昭和17年)5月31日隊主力(当艦、伊号第二十潜水艦)は、ディエゴスワレス湾口に進出、零時頃、甲標的を発進させた。 岩瀬艇は、他の僚艇とともに、港内に在泊中のイギリス戦艦「ラミリーズ (Ramillies、29,150トン)」と、イギリス油槽船「ブリティシュ・ロイヤリティ(British Royality、6,993トン)」を雷撃撃破させたのち、消息を絶つ。 搭乗員2名は戦死、二階級特進。 隊主力(当艦、伊号第二十潜水艦)は、同夜ディエゴスワレス湾外の収容予定点に向かい、甲標的搭乗員の捜索に当たり、待機。 
1942年(昭和17年)6月3日第一潜水隊は、甲標的搭乗員の収容捜索を打切り、モザンビーク海峡の敵海上交通破壊に向かう。 
1942年(昭和17年)6月4日第一潜水隊はモザンビーク海峡の配備哨区に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)6月6日モザンビーク南方の南緯15度42分、東経40度58分において、ユーゴスラビア貨物船「スザック(Susak、3,889トン)」を、砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)6月8日モザンビーク海峡の南緯16度12分 東経41度00分においてギリシャ貨物船「アギオス・ゲオリギオスW(Aghios Georgios W、4,847トン)」を、砲撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)6月12日モザンビーク海峡の南緯16度12分 東経41度00分においてユーゴスラビア貨物船「スペタル(Supetar、3,748トン)」を、砲雷撃により撃沈。 艦は、モザンビーク海峡を撤収、マダガスカル島南端セントマリー岬南東約250浬の集合点に向かう。
1942年(昭和17年)6月17日第一潜水隊は集合点に到着、特設巡洋艦から補給を受けた。 
1942年(昭和17年)6月19日集合点から、モンバサ東方の敵海上交通破壊に向かう。 
1942年(昭和17年)6月29日モザンビーク海峡の配備哨区に到着、索敵。 
1942年(昭和17年)7月1日モザンビーク海峡の南緯17度00分 東経40度00分においてスウェーデン貨物船「エクナレン(Eknaren、5,248トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)7月23日マエ島を偵察。 
1942年(昭和17年)7月26日ディエゴガルシアを偵察。 
1942年(昭和17年)7月アフリカ東岸を撤収、ペナンに向かう。 
1942年(昭和17年)8月10日ペナン着。 補給休養。 作戦間、魚雷の不調が問題視された。 甲先遣支隊は、内地に帰投、修理整備を下令される。  
1942年(昭和17年)8月14日ペナン発。 横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)8月25日横須賀着。 修理整備、休養。 
1942年(昭和17年)10月8日第一潜水隊は、先遣部隊(第六艦隊)丙潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入。 整備終了次第、トラック進出を下令される。
1942年(昭和17年)10月9日第一潜水隊は、横須賀出港までに、運貨筒?搭載準備の実施を下令される。
1942年(昭和17年)10月17日横須賀発。 トラックに向かう。
1942年(昭和17年)10月22日トラック着。 補給待機。
1942年(昭和17年)10月24日トラック発。 ショートランドに向かう。
1942年(昭和17年)11月2日ショートランド着。 千代田から甲標的30号(搭乗員 八巻悌二中尉、橋本亮一上等兵曹)を搭載。 出撃準備。
1942年(昭和17年)11月7日ショートランド発、ガダルカナル島ルンガ泊地に向かう。
1942年(昭和17年)11月11日未明、ガダルカナル島エスペランス岬北西方から、甲標的を発進させ、ガダルカナル島沖から、トラックに向かう。八巻艇は、離艦時の事故で、操縦不能となり自沈。搭乗員は同島基地に帰還。
1942年(昭和17年)11月18日トラック着。 補給休養。  隊は、先遣部隊(第六艦隊)丙潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、甲標的によるガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船攻撃を下令される。
1942年(昭和17年)11月19日トラックにおいて甲標的10号(搭乗員 外弘志中尉、井熊新作二等兵曹)を搭載、出撃準備。
1942年(昭和17年)11月21日トラック発、ガダルカナル島に向かう。
1942年(昭和17年)11月27日ガダルカナル島エスペランス岬付近から甲標的を発進させ、同島沖から、トラックに向かう。外艇は、発進後、消息を絶つ。ガダルカナル島陸上部隊は、大型輸送船の撃沈を視認と報告。  アメリカ軍資料によれば、アメリカ輸送艦「アルキパ(Alchiba、6,198トン)」が、雷撃により沈没と記録される。
1942年(昭和17年)11月28日甲標的の搭乗員2名は、戦死と認定、二階級特進。
1942年(昭和17年)12月2日トラック着。 補給休養。
1942年(昭和17年)12月4日トラックにおいて甲標的22号(搭乗員 門義視中尉、矢萩利夫二等兵曹)を搭載、出撃準備。
1942年(昭和17年)12月6日トラック発、ガダルカナル島に向かう。 
1942年(昭和17年)12月13日ガダルカナル島エスペランス岬付近から甲標的を発進させ、同島沖から、トラックに向かう。 門艇は、敵駆逐艦を雷撃したが、効果がなく。 自沈させたのち、搭乗員は同島基地に帰還。
1942年(昭和17年)12月18日トラック着。 補給休養。 甲標的によるガダルカナル島ルンガ泊地の敵艦船攻撃は、中止を下令される。
1942年(昭和17年)12月20日先遣部隊(第六艦隊)乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する作戦補給輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)1月5日トラック発、ショートランドに向かう。 
1943年(昭和18年)1月9日ショートランド着。 輸送準備。
1943年(昭和18年)1月11日ショートランド発。 ガダルカナル島に向かう。
1943年(昭和18年)1月13日ガダルカナル島カミンボに到着したが、敵機の制圧を受け、大発が来なかったため、ドラム缶糧食を浮揚させ、放棄したまま離脱。 ショートランドに向かう。 
1943年(昭和18年)1月15日ショートランドに寄港して、同日発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)1月18日トラック着。 運貨筒輸送の準備に入る。 ガダルカナル島に対する糧食輸送一回終了と同時に、先遣部隊甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、ケ号作戟に策応して、ガダルカナル島南東海面において、敵の増援阻止に当たり、28日黎明時までに、甲散開線に配備、友軍航空部隊と協同して敵艦船の捕捉撃滅を下令される。
1943年(昭和18年)1月20日トラック発、ショートランドに向かう。 
1943年(昭和18年)1月23日ショートランドに寄港、同日発、ガダルカナル島に向かう。
1943年(昭和18年)1月25日ガダルカナル島エスペランス岬に到着、運貨簡(18トン)を揚陸したのち、同島南東方に向かう。 
1943年(昭和18年)1月26日ガダルカナル島南東方の配備につく。 
1943年(昭和18年)1月28日甲散開線の配備につき、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)2月3日16:40、配備点において、駆逐艦多数の敵部隊が、針路170度14節で南下するのを発見と報告。
1943年(昭和18年)2月5日甲潜水部隊は18:00発動、G散開線(ケロラ43〜ケヨロ34)に配備を下令される。 東から4番目に配備。
1943年(昭和18年)2月7日ケ号作戦の終了により、先遣部隊(第六艦隊)戊潜水部隊(第一潜水隊)に編入、 エスピリットサント島付近において、約5日間、敵艦船攻撃の上、トラックに帰投を下令される。 ガダルカナル島南東方から、エスピリットサント島付近に向かう。
1943年(昭和18年)2月11日司令代理は、司令潜水艦を伊号第十八潜水艦(喪失)から当艦に変更。  戊潜水部隊指揮官は、第一潜水隊司令代理(当潜水艦長)となる。
1943年(昭和18年)2月16日エスピリットサント島付近を撤収、トラックに向かう。
1943年(昭和18年)2月26日トラック着。 補給休養。
1943年(昭和18年)3月14日先遣部隊戊潜水部隊は編成を解かれる。艦は、先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、トラックにおいて整備休養。
1943年(昭和18年)3月20日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、東部ニューギニアに対する作戦輸送を下令される。
1943年(昭和18年)3月22日トラック発、ラバウルに向かう。
1943年(昭和18年)3月24日司令は司令潜水艦を当艦から伊号第二十一潜水艦に変更。
1943年(昭和18年)3月26日ラバウル着。 輸送準備。
1943年(昭和18年)3月29日ラバウル発、ラエに向かう。 作戦輸送。
1943年(昭和18年)4月1日ラエ着。 兵器弾薬糧食約40トン、ドラム缶30本、便乗者を揚陸してラバウルに向かう。
1943年(昭和18年)4月2日ニューブリテン島南方において、ラエに向かう伊号第二十潜水艦と水中触衝して、艦体に軽微な損傷を受けた。
1943年(昭和18年)4月3日ラバウル着。 応急修理。
1943年(昭和18年)4月4日南東方面部隊(南東方面艦隊)から除かれる。先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、内地に帰投、修理を下令される。
1943年(昭和18年)4月6日ラバウル発、トラックに向かう。
1943年(昭和18年)4月9日トラック着。 補給待機。
1943年(昭和18年)4月11日トラック発、横須賀に向かう。
1943年(昭和18年)4月16日横須賀着。 入渠修理、休養。
1943年(昭和18年)6月13日先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、引き続き、内地において修理整備に当たる。
1943年(昭和18年)8月9日第一潜水隊は第八潜水戦隊から除かれる。 第一潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)8月15日引き続き、先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、既令の整備任務に従事。 
1943年(昭和18年)9月21日横須賀発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)9月25日第一潜水隊は解隊。 艦は、第二潜水隊(第一潜水戦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)9月27日トラックに進出、補給待機。 
1943年(昭和18年)10月4日ラバウルに回航し、11日付けで、先遣部隊に復帰予定の伊号第百七十四潜水艦と交替を下令される。 
1943年(昭和18年)10月6日トラック発、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月7日伊号第百七十一潜水艦と、第十二潜水隊司令の指揮下に、ウェーク島方面に向かい、X日(11日)、アメリカ機動部隊警戒の配備につくよう下令される。 転針して、ウェーク島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)10月8日ウェーク島方面への配備を取り止め、伊号第百七十四潜水艦と交替のため、ラバウルに回航し、11日付けで、南東方面部隊に編入を下令される。 転針して、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月11日先遣部隊から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦輸送に従事。 
1943年(昭和18年)10月12日ラバウルに進出、輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月14日ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月17日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月19日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月22日ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)10月25日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)10月27日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)10月31日ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月2日シオ着。 糧食等、第八十五警備隊30名を揚陸、帰航。 
1943年(昭和18年)11月4日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)11月6日ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月9日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月11日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)11月17日ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月20日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)11月22日ラバウル着。 輸送準備。 第九艦隊司令部付のシオ、マダン、ウエワク輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)11月24日第九艦隊司令長官は将旗をラバウル陸上から当艦に移揚。 ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)11月27日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、付近において待機。 第九艦隊司令長官は将旗を当艦からシオの第七根拠地隊司令部に一時移して巡視に当たり、のち再び当艦に移揚。 艦は同夜、シオ発、マダンに向かう。
1943年(昭和18年)11月29日マダン着。 第九艦隊司令長官は将旗を当艦からマダンの陸軍第十八軍司令部に一時移し、作戦打合せののち再び当艦に移揚。 同夜、マダン発、ウエワクに向かう。 
1943年(昭和18年)11月30日ウエワク着。 第九艦隊司令部を揚陸、ラバウルに向かう。 第九艦隊司令長官は将旗を当廉から第二特別根拠地隊司令部に移揚。 
1943年(昭和18年)12月4日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)12月11日ラバウル発、シオに向かう。 作戦輸送。 
1943年(昭和18年)12月15日シオ着。 糧食等を揚陸ののち、ラバウルに向かう。 
1943年(昭和18年)12月18日ラバウル着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)12月25日ラバウルにおいて敵機の爆撃を受け、至近弾により損傷、応急修理ののち、同日発、横須賀に向かう。 南東方面部隊(南東方面艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入、内地に帰投、修理を下令される。 
1944年(昭和19年)1月2日横須賀着。 入渠修理、休養。 
1944年(昭和19年)1月15日第一潜水戦隊は解隊、第二潜水隊は第六艦隊(連合艦隊)に編入。 
1944年(昭和19年)2月27日横須賀発、トラックに向かう。 
1944年(昭和19年)3月1日先遣部隊第十一潜水部隊から除かれ、同第一潜水部隊(第六艦隊司令長官)に編入、トラックに進出を下令される。 
1944年(昭和19年)3月5日第二潜水隊から除かれ、第十五潜水隊(第六艦隊)に編入。 
1944年(昭和19年)3月6日トラックに進出、櫛拾得機。 
1944年(昭和19年)3月15日司令は司令潜水艦を伊号第四十一潜水艦から当艦に変更。 メジュロ−ヤルート間において、敵機動部隊が発見されたため、艦は応急出撃を下令される。 
1944年(昭和19年)3月17日オルロック南方に配備を下令され、トラック発、東進。
1944年(昭和19年)3月18日配備につき、索敵哨戒。
1944年(昭和19年)3月20日先遣部隊甲潜水部隊(第五十一潜水隊司令指揮)に編入、配備を180度100浬移動するよう下令され、移動。
1944年(昭和19年)3月22日先遣部隊甲潜水部隊は編成を解かれ、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指挿)に編入、マーシャル東方に配備を下令される。 トラック南東方から、マーシャル東方に向かう。
1944年(昭和19年)3月23日18:00、伊号第三十二潜水艦がヤルート北方60浬に発見されたアメリカ機動部隊を邀撃のため、クサイ島北方に配備を下令される。
1944年(昭和19年)3月25日アメリカ機動部隊との会敵はなく、マーシャル東方に配備を下令される。
1944年(昭和19年)3月27日マーシャル東方の東経177度〜179度の間で、索敵哨戒を下令される。
1944年(昭和19年)3月30日マーシャル東方に進出、索敵哨戒。
1944年(昭和19年)4月17日先遣部隊第一潜水部隊から除かれ、同第七潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、南東方面に対する作戦輸送を下命される。
1944年(昭和19年)4月19日サイパン着。 補給待機。
1944年(昭和19年)4月21日Z一号作戦発動を下命される。連合艦隊司令部機能喪失の間、太平洋方面作戦は、中部太平洋方面艦隊司令長官の指挿下に、Z一号作戦のニューギニア方面の作戦は、南西方面艦隊司令長官の指揮下に実施と下令される。 サイパン発、トラックに向かう。
1944年(昭和19年)4月23日トラック着。 補給待機。 
1944年(昭和19年)4月司令は司令潜水艦を当艦から伊号第三十八潜水艦に変更。 
1944年(昭和19年)4月30日アメリカ機動部隊は、トラックに来襲し、当艦は出撃して、A散開線に配備を下令され、トラック発、A散開線に向かう。 
1944年(昭和19年)5月1日第七潜水部隊甲潜水部隊(第十二潜水隊司令指揮)に編入、A散開線において、待敵警戒を下令される。 
1944年(昭和19年)5月2日甲潜水部隊と、撤収してトラックに帰投を下令され、帰航。 
1944年(昭和19年)5月3日トラック着。 補給休養。 艦は、第七潜水部隊乙潜水部隊(第七潜水戦隊司令官指揮)に編入、作戦輸送、敵情偵知、敵艦船攻撃を下令される。 
1944年(昭和19年)5月14日トラック発、ブーゲンビル島ブインに向かう。 艦は、以後連絡がなく、消息を絶つ。 
1944年(昭和19年)5月19日ブイン北東(南緯5度10分、東経158度10分)でアメリカ護衛駆逐艦「イングランド(England)」のヘッジホッグ攻撃を受け沈没。
1944年(昭和19年)5月14日ブイン輸送のためトラック島出撃後、消息不明。
1944年(昭和19年)6月25日ソロモン群島北方で亡失認定。
1944年(昭和19年)10月10日除籍。

参考資料

  1. 日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p8-12,120-124
  2. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p68,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p136
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p537-546