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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第六十四(百六十四)潜水艦は海大四型(伊六十二→百六十二型)潜水艦の3番艦である。

1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約により八八艦隊案を廃棄した日本海軍は、大正十二年(1923年)度計画で改めて海大型潜水艦12隻を建造した。 その最後の3隻が海大四型である。

海大四型は海大三型a、三型bと比べ、機関にラウシェンバッハ(Rauschenbach)式二号ディーゼルを搭載している点が異なる。 この機関はドイツのMAN社の設計で、巡潜1型にも採用されたディーゼル機関である。 この機関により、海大四型の運転の安定性は向上したが、本機も回転数が240〜320/分の間に達すると強烈な捻じり振動を起こすという欠陥があった。 水上速力は前級と同じ20ノット、水中速力は8.5ノットと若干高められている。

魚雷発射管は艦首6門艦尾2門から艦首4門艦尾2門となり2門減少している。 これは耐圧強度向上のため、長断面だった前部発射管室の形状を円形に改正したためである。 魚雷は従来までの六年式にかわり八九式が搭載されたが、搭載数は14本に減少している。 砲熕兵器は12cm砲1門と7.7mm単装機銃1基で、前級と同じである。

1941年(昭和16年)に壱岐水道で特設砲艦「木曾丸」と衝突沈没した伊号第六十一潜水艦を除く2隻が太平洋戦争に参加した。 伊号第六十四潜水艦はミッドウェーに進出中に戦没したが、伊号第六十二潜水艦は1943年(昭和18年)までインド洋方面の通商破壊戦に従事、戦後海没処分された。(1)(2)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大四型(伊六十二→百六十二型)
水上排水量 ※11,635トン(基準)/1,720トン(常備)
水中排水量 ※12,300トン
垂線間長91.00m
全長97.70m
最大幅7.80m
喫水4.83m
主機ラウシェンバッハ式二号ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型1基
蓄電池一号五型×240個
出力6,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力20.0ノット(水上)/8.5ノット(水中)
燃料重油:230トン
航続力10ノットで10,800浬(水上)/3ノットで90浬(水中)
乗員58名
兵装45口径三年式12cm単装砲1基
十五式三型53cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)
八九式魚雷14本
安全潜航深度60.0m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1927年(昭和2年)8月6日伊号第六十四潜水艦と命名。
1927年(昭和2年)3月28日起工。
1929年(昭和4年)10月5日進水。
1930年(昭和5年)8月30日竣工。 本籍は佐世保鎮守府。 佐世保鎮守府部隊第二十九潜水隊に編入。
1930年(昭和5年)12月1日第一艦隊第一潜水戦隊に編入。
1931年(昭和6年)3月29日〜4月5日第二十九潜水隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、裏長山列島着。
1932年(昭和7年)3月27日〜4月3日第二十九潜水隊は戦隊と佐世保から北支方面に向かい、旅順着。
1932年(昭和7年)12月1日第二十九潜水隊は第一潜水戦隊から除かれ、佐世保鎮守府部隊佐世保防備隊に編入。
1933年(昭和8年)8月11日〜21日隊は館山沖から南洋方面に向かい、木更津沖着。
1933年(昭和8年)8月25日第二予備潜水艦となる。
1933年(昭和8年)11月15日第二十九潜水隊は佐世保防備隊から除かれ、第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1934年(昭和9年)9月27日〜10月5日第二十九潜水隊は戦隊と旅順から青島を経て、佐世保着。
1935年(昭和10年)2月7日〜25日第二十九潜水隊は戦隊と単冠湾から幌筵海峡に向かい、宿毛沖着。
1935年(昭和10年)3月29日〜4月4日第二十九潜水隊は戦隊と油谷湾から馬鞍群島に向かい、寺島水道着。
1935年(昭和10年)11月15日第二十九潜水隊は第一潜水戦隊(第一湛隊)から除かれ、佐世保鎮守府部隊佐世保防備戦隊に編入。
1936年(昭和11年)12月1日第二十九潜水隊は佐世保防備戦隊から除かれ、第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日第二十九潜水隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾着。
1937年(昭和12年)7月15日〜17日第二艦隊は宿毛湾から別府に回航。 待機。
1937年(昭和12年)7月21日第二艦隊は別府から佐世保に回航。 補給待横。
1937年(昭和12年)7月29日第二艦隊は北支部隊第二艦隊に編入。 陸軍と協力して、居留民保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保において待機を下令される。
1937年(昭和12年)8月17日第二十九潜水隊は旅順に回航を下命され、佐世保から旅順に向かう。
1937年(昭和12年)8月20日第二十九潜水隊は旅順に進出。 待機。
1937年(昭和12年)8月23日第二潜水戦隊は北支部隊主隊に編入、A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。
1937年(昭和12年)8月25日A支隊の青島攻略作戦は取り止めを下命される。
1937年(昭和12年)8月28日第二十九潜水隊は裏長山列島から青島の居留民引揚掩護に向かう。
1937年(昭和12年)8月31日第二十九潜水隊は帰投を下命され、山東角付近から裏長山列島に向かう。
1937年(昭和12年)9月1日〜2日第二十九潜水隊は裏長山列島着。 旅順に回航。 待機。
1937年(昭和12年)9月4日第二十九潜水隊は旅順から大沽向け船団の護衛に向かう。
1937年(昭和12年)9月18日大連に帰着。
1937年(昭和12年)9月20日大連から旅順に回航。 待機。
1937年(昭和12年)9月23日〜29日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)9月24日第二潜水戦隊は北支部隊第一封鎖部隊に編入。 海州湾以北の沿岸封鎖を下令される。
1937年(昭和12年)10.5日〜11日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月17日〜23日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月29日〜11月3日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月5日〜11日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月17日第二十九潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かう。
1937年(昭和12年)11月20日北支部隊は編成を解かれる。第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。
1937年(昭和12年)11月23日第二十九潜水隊は佐世保に帰着。
1938年(昭和13年)4月9日〜14日第二十九潜水隊は寺島水道から南支方面に向かい、基隆着。
1938年(昭和13年)10月17日〜2日第二十九潜水隊は寺島水道から南支方面に向かい、馬公着。
1938年(昭和13年)12月15日第二十九潜水隊は第二潜水戦隊(第二艦隊)から除かれる。佐世保鎮守府部隊に編入。 予備潜水艦を練習潜水艦と定める。
1939年(昭和14年)11月15日第三予備潜水艦となる。
1940年(昭和15年)10月15日特別役務潜水艦となる。
1940年(昭和15年)11月15日第二十九潜水隊は連合艦隊第五潜水戦隊に編入。 予備潜水艦となる。
1941年(昭和16年)11月5日第五潜水戦隊は南方部隊に編入、南方方面の要地攻略作戦の支援を下令される。
1941年(昭和16年)11月15日第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊に編入、比島方面の要地攻略作戦の支援を下令される
1941年(昭和16年)11月24日第五潜水戦隊は佐世保から海南島三亜に向かう。
1941年(昭和16年)11月28日第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊から除かれ、南方部隊馬来部隊潜水部隊に編入、敵艦隊攻撃、敵情偵察を下令される。
1941年(昭和16年)12月2日第五潜水戦隊は三亜に進出、補給待機。
1941年(昭和16年)12月5日第二十九潜水隊は三亜から南下。
1941年(昭和16年)12月6日第二十九潜水隊はイギリス艦隊の北上を警戒、カモー岬南方100浬に配備を下令される。
1941年(昭和16年)12月7日第二十九潜水隊はカモー岬南方100浬の散開線に到着、待機。
1941年(昭和16年)12月8日第五潜水戦隊は撤哨して、マレー半島トレンガヌ東方の第22散開線に第22散開線に配備を下令され、伊号第六十四潜水艦はS4哨区に配備を下令される。 夕刻に着哨。
1941年(昭和16年)12月9日第五潜水戦隊はイギリス艦隊発見の報告により、追躡を下命される。
1941年(昭和16年)12月10日クアンタン沖に急行を下令されるが、イギリス艦隊は撃沈されたと分かり、既令の哨区に向かう。
1941年(昭和16年)12月12日艦はコチ水道に向かい、ボルネオ上陸作戦の支援を 下令される。
1941年(昭和16年)12月14日グレートナツナ島東方のコチ水道着。 索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月15日クチン北北西125浬において敵船団の発見を報告。 以後、クチン沖において索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月22日クチンの325度60浬においてオランダ潜水艦の発見を報告。
1941年(昭和16年)12月25日配備から徹哨し、カムラン湾に向かう。
1941年(昭和16年)12月26日第五潜水戦隊は南方部隊馬来部隊から除かれ、南方部隊乙潜水部隊(第五潜水戦隊)に編入。 ベンガル湾において、敵海上交通破壊を下令される。
1941年(昭和16年)12月27日カムラン湾着。 補給待機。
1941年(昭和16年)12月28日乙潜水部隊は、東経106度以西のインド洋作戦を下令される。
1942年(昭和17年)1月7日第二十九潜水隊はカリマタ海峡、ジャワ海を経て、インド洋に進出を下令され、カムラン湾から出撃。 伊号第六十四潜水艦はチモール島を迂回して進出を下令される。
1942年(昭和17年)1月16日シンガポール在泊のイギリス戦艦を警戒のため、スンダ海峡南口において待機を下命され、ジャワ海東部からスンダ海峡南口に向かう。
1942年(昭和17年)1月18日敵戦艦は誤認と判明、海上交通破壊を下令され、スンダ海峡南口からセイロン方面に向かう。
1942年(昭和17年)1月22日スマトラ西方において、オランダ貨物船「Van Overstrate(4482トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月27日セイロン北方のマドラス沖に進出。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月28日マドラス南方沿岸において、イギリス貨物船「Idar(391トン)」を砲撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月29日マドラス付近において、アメリカ貨物船「Florence Lucke(5049トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月30日マドラス付近の北緯12度59分、東経81度00分において、インド貨物船「Jalatarang(2498トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月31日マドラス付近の北緯13度00分、東経81度08分おいて、インド貨物船貨物船「Jalapalaka(4215トン)」を砲雷撃により撃沈。 マドラス付近を撤収、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)2月5日ペナン着。 補給待機。
1942年(昭和17年)2月23日ペナンからインド東岸方面の海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)3月10日第二十九潜水隊は解隊。 連合艦隊第五潜水戦隊第三十潜水隊に編入。
1942年(昭和17年)3月13日マドラス北方において、ノルウェー貨物船「Mabellai(1513トン)」を砲雷撃により撃沈。 インド東岸を撤収して、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)3月17日ペナン着。 補給待機。
1942年(昭和17年)3月20日内地に帰投、整備を下令される。
1942年(昭和17年)4月2日ペナンから佐世保に向かう。
1942年(昭和17年)4月10日第五潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。
1942年(昭和17年)4月12日佐世保着。 入渠修理。
1942年(昭和17年)5月16日ミッドウェー作戦に参加のため佐世保出撃、クェゼリンに進出中消息不明。
1942年(昭和17年)5月17日四国南方230浬でアメリカ潜水艦「トライトン (Triton) 」の雷撃を受け沈没。
1942年(昭和17年)5月20日伊号第百六十四潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月25日四国南方で亡失認定。 
1942年(昭和17年)7月14日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p52-56
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p50,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p223-229
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p20