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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第六十五(百六十五)潜水艦は海大五型(伊六十五→百六十五型)潜水艦の1番艦である。

1924年(大正十三年)に軍令部は大正16年(昭和2年)から大正20年(昭和6年)までの5ヵ年計画の中で14隻の海大型の建造を要求したが、大幅に削られ昭和2年(1927年)度計画として3隻の海大型が建造された。 これが海大5型で、伊号第六十五〜六十七潜水艦が1932年(昭和7年)に完成した。

1機関は海大四型のラウシェンバッハ式二号ディーゼルから、徹底的に改良を加えたスルザー式三号ディーゼルとした。 この結果、船体線図の改正も相まって水上速力は20.5ノットに向上し、特殊全力では22ノットを発揮した。 水中速力は8.2ノットで、前級の8.5ノットからやや低下している。

1海大四型で艦首4門艦尾2門に減少した魚雷発射管はそのまま踏襲され、搭載数も14本のままであったが、八八式無気泡発射管が採用された。 八八式以前の発射管は魚雷装填後に航走深度や斜進角を変更する手段がなく、また魚雷を押し出した空気がそのまま管外に放出されるため、敵に射点を察知されるおそれがあった。 これらの欠点を解消するため、航走深度と斜進角の管外調定が可能で、ピストン式無気泡発射管の八八式が開発された。 砲熕兵器は、航空機に対抗するために、潜水艦用に開発された10cm高角砲を装備した。 機銃も従来の留式7.7mm機銃にかえて、毘式12mm単装機銃1基を後甲板に装備した。

13隻建造された本型は、1940年(昭和15年)南鳥島南方水域で訓練中の事故により沈没した伊号第六十七潜水艦を除く2隻が太平洋戦争に参加し、全艦が戦没している。(1)(2)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型海大五型(伊六十五→百六十五型)
水上排水量 ※11,575トン(基準)/1,705トン(常備)
水中排水量 ※12,330トン
垂線間長90.50m
全長97.70m
最大幅8.20m
喫水4.70m
主機スルザー式三号ディーゼル2基、2軸
主電動機閉鎖通風型1基
蓄電池一号五型×240個
出力6,000馬力(水上)/1,800馬力(水中)
速力20.5ノット(水上)/8.0ノット(水中)
燃料重油:230トン
航続力10ノットで10,000浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員63名
兵装50口径八八式10cm単装高角砲1基
毘式12mm単装機銃1基
留式7.7mm単装機銃1基
八八式53cm魚雷発射管6門(艦首4門、艦尾2門)
八九式魚雷14本
安全潜航深度60.0m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1929年(昭和4年)7月6日伊号第六十五潜水艦と命名。
1929年(昭和4年)12月19日起工。
1931年(昭和6年)6月2日進水。
1932年(昭和7年)12月1日竣工。 本籍は佐世保鎮守府。 第一艦隊第一潜水戦隊第三十潜水隊に編入。
1933年(昭和8年)6月29日〜7月4日第三十潜水隊は戦隊と佐世保から馬鞍群島に向かい、基隆着。
1933年(昭和8年)7月13日〜8月2日第三十潜水隊は戦隊と馬公から南洋方面に向かい、岸和田沖着。
1933年(昭和8年)11月15日第三十潜水隊は第一潜水戦隊から除かれ、第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1934年(昭和9年)9月27日〜10月5日第三十潜水隊は戦隊と旅順から青島に向かい、佐世保着。
1934年(昭和9年)11月15日第三十潜水隊は第二潜水戦隊から除かれ、佐世保鎮守府部隊佐世保警備戦隊に編入。
1935年(昭和10年)11月15日第三十潜水隊は佐世保警備戦隊から除かれ、第二艦隊第二潜水戦隊に編入。
1936年(昭和11年)4月13日〜22日第三十潜水隊は戦隊と福岡湾から青島に向かい、寺島水道着。
1936年(昭和11年)8月4日〜6日第三十潜水隊は戦隊と馬公から履門に向かい、高雄着。
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日第三十潜水隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾着。
1937年(昭和12年)7月15日〜17日第二艦隊は宿毛湾着。 待機後、別府に回航。
1937年(昭和12年)7月21日第二艦隊は別府から佐世保に回航。 補給待機。
1937年(昭和12年)7月29日第二艦隊は北支部隊に編入。 陸軍と協力して、居留民保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保において待機を下令される。
1937年(昭和12年)8月17日〜30日第三十潜水隊は旅順に回航を下命され、佐世保から旅順に進出。 待機。
1937年(昭和12年)8月21日第三十潜水隊は旅順から裏長山列島に回航。 待機。
1937年(昭和12年)8月23日第二潜水戦隊は北支部隊主隊に編入、A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。
1937年(昭和12年)8月25日A支隊の青島攻略作戦は取り止めを下命される。
1937年(昭和12年)8月28日第三十潜水隊は裏長山列島から青島の居留民引揚掩護に向かう。
1937年(昭和12年)8月31日〜9月1日第三十潜水隊は帰投を下令され、山東角から旅順着。
1937年(昭和12年)9月4日第三十潜水隊は旅順から大沽向け船団の護衛に向かう。
1937年(昭和12年)9月19日大連に帰着。 待機。
1937年(昭和12年)9月22日大連から旅順に回航。 待機。
1937年(昭和12年)9月24日第二潜水戦隊は北支部隊第一封鎖部隊に編入。 海州湾以北の沿岸封鎖を下令される。
1937年(昭和12年)9月27日〜10月3日第三十潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月9日〜15日第三十潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)10月21日〜27日第三十潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月1日〜7日第三十潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月9日〜15日第三十潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。
1937年(昭和12年)11月20日北支部隊は編成を解かれる。第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。 第三十潜水隊は旅順から佐世保に向かう。
1937年(昭和12年)11月23日第三十潜水隊は佐世保着。
1937年(昭和12年)12月1日第三十潜水隊は第二潜水戦隊から除かれ、佐世保鎮守府部隊に編入。
1939年(昭和14年)1月1日第三予備潜水艦となる。
1939年(昭和14年)11月15日第三十潜水隊は第一艦隊第四潜水戦隊に編入。 予備潜水艦となる。
1940年(昭和15年)3月26日〜4月3日第三十潜水隊は戦隊と有明湾から南支方面に向かい、基隆着。
1940年(昭和15年)11月15日第三十潜水隊は第四潜水戦隊から除かれ、連合艦隊第五潜水戦隊に編入。 
1941年(昭和16年)2月24日〜3月3日第三十潜水隊は佐世保から南支方面に向かい、基隆着。
1941年(昭和16年)11月5日第五潜水戦隊は南方部隊に編入、南方方面の要地攻略作戦の支援を下令される。
1941年(昭和16年)11月15日第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊に編入、比島方面の要地攻略作戦の支援を下令される
1941年(昭和16年)11月24日第三十潜水隊は佐世保から海南島三亜に向かう。
1941年(昭和16年)11月28日第五潜水戦隊は南方部隊潜水部隊から除かれ、南方部隊馬来部隊潜水部隊に編入、敵艦隊攻撃、敵情偵察を下令される。
1941年(昭和16年)12月2日第三十潜水隊は三亜に進出、補給待機。
1941年(昭和16年)12月5日第三十潜水隊は三亜にから南下。
1941年(昭和16年)12月6日第三十潜水隊はイギリス艦隊の北上を警戒、カモー岬南方100浬に配備を下令される。
1941年(昭和16年)12月7日第三十潜水隊はカモー岬南方100浬の散開線着、待機。
1941年(昭和16年)12月8日第五潜水戦隊は撤哨して、マレー半島トレンガヌ東方の第22散開線に第22散開線に配備を下令され、伊号第六十五潜水艦はS4哨区に配備を下令される。 夕刻に着哨。
1941年(昭和16年)12月9日カモー岬の165度125浬の哨区において、イギリス戦艦2隻を発見、報告ののち追跡北上したが見失う。 北上捜索。
1941年(昭和16年)12月10日クアンタン沖に急行を下令されるが、イギリス艦隊は撃沈されたと分かり、既令の哨区に向かう。
1941年(昭和16年)12月12日ミリ沖の配備に移り、ボルネオ上陸作戦の支援を下令され、配備を移動。
1941年(昭和16年)12月14日ミリ沖の配備につき、索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月15日クチン北西125浬で発見を報告された敵船団の攻撃を下令され、移動。
1941年(昭和16年)12月16日クチン沖着。 索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月18日アピ水道に移動。 索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月25日配備から徹哨し、カムラン湾に向かう。
1941年(昭和16年)12月26日第五潜水戦隊は南方部隊馬来部隊から除かれ、南方部隊乙潜水部隊に編入。 ベンガル湾において、敵海上交通破壊を下令される。
1941年(昭和16年)12月27日第三十潜水隊はカムラン湾着。 補給待機。
12月28日乙潜水部隊は、東経106度以西のインド洋作戦を下令される。
1942年(昭和17年)1月7日第三十潜水隊はカリマタ海峡、ジャワ海を経て、インド洋に進出を下令され、カムラン湾から出撃。 伊号第六十五潜水艦はロンボク水道を経てと下令され、カムラン湾から出撃。
1942年(昭和17年)1月9日ジャワ海において、8千トン級油槽船を砲雷撃により撃沈と報告。 オランダ貨物船「Benkoelen(1003トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月15日2:17、ベンガル湾南方において、インド貨物船「Jalarajan(5102トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)1月16日シンガポール在泊のイギリス戦艦を警戒のため、マラッカ海峡北口において待機を下令され、マラッカ海峡北口に向かう。
1942年(昭和17年)1月17日マラッカ海峡北口着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月18日敵戦艦は誤認と判明、海上交通破壊を下令され、マラッカ海峡北口からペナンに向かう。
1942年(昭和17年)1月20日ペナン着。 補給待機。
1942年(昭和17年)2月5日ペナンからセイロン方面に向かう。
1942年(昭和17年)2月9日乙潜水部隊は、セイロン島、インド沿岸、マラッカ海峡北口、スマトラ南岸方面の監視を下令される。 伊号第六十五潜水艦はインド沿岸方面に配備を下令される。 セイロン南方において、敵船団を攻撃、2千トン級貨物船1隻を撃沈と報告。
1942年(昭和17年)2月10日インド西岸のコチン南方に向かう。
1942年(昭和17年)2月15日コチン南方において、イギリス貨物船「Johanne Justessen(4681トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)2月20日セイロン西方で、イギリス商船「Bhima(5280トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)2月21日セイロン西方を撤収して、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)2月28日ペナン着。 補給待横。
1942年(昭和17年)3月10日ロンボク海峡、スターリング湾を経て内地に帰投を下令される。
1942年(昭和17年)3月13日〜17日ペナンからスターリング湾着。
1942年(昭和17年)3月18日〜25日スターリング湾から佐世保着。
1942年(昭和17年)4月10日第五潜水戦隊は第二艦隊から除かれ、第六艦隊に編入。
1942年(昭和17年)5月14日ミッドウェー作戦のため、佐世保からクェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)5月20日伊号第百六十五潜水艦と改名。
1942年(昭和17年)5月24日クェゼリン着。 補給。
1942年(昭和17年)5月26日クェゼリンからフレンチ・フリゲート礁北方の乙散開線に向かう。
1942年(昭和17年)5月16日乙散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)5月17日第五潜水戦隊はミッドウェー東方の丙散開線に配備変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)5月20日第五潜水戦隊はミッドウェー東方の丙散開線に配備変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)5月25日R散開線(北緯30度、西経180度付近)に配備変更を下令され、移動。
1942年(昭和17年)7月14日第五潜水部隊はR散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月10日大破漂流中の飛龍の捜索と処分を下令される。 以降12日まで捜索。
1942年(昭和17年)6月13日敢空母部隊の大部が、ミッドウェー東方にあるとの情報により、第五潜水戦隊はU散開線(北緯29〜35度、西経175度)に配備の移動を下令され、東方に向かい、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月15日第三十潜水隊は帰投を下令され、反転して佐世保に向かう。
1942年(昭和17年)6月26日佐世保着。 整備。
1942年(昭和17年)7月10日第五潜水戦隊は解隊。 第三十潜水隊は南西方面艦隊付属に編入。 
1942年(昭和17年)7月14日第三十潜水隊は南西方面部隊潜水部隊に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)7月16日第三十潜水隊は南西方面部隊B部隊潜水部隊に編入、ベンガル湾機動作戦の事前偵察および敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)7月22日佐世保からカムラン湾に向かう。
1942年(昭和17年)7月28日カムラン湾外において、同日触雷した「りおでじゃねいろ丸(特設潜水母艦」)の護衛警戒にあたる。
1942年(昭和17年)7月29日カムラン湾着。 待機。
1942年(昭和17年)8月1日〜6日カムラン湾からペナンに進出。
1942年(昭和17年)8月7日アメリカ軍のガダルカナル島来攻により、ベンガル湾機動作戦は取り止め、B部隊は編成を解かれる。第三十潜水隊は南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第三十潜水隊)に編入、インド洋方面の敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)8月11日ペナンからセイロン南西方の海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)8月25 日セイロン南西方で、イギリス貨物船「Harmonldes(5237トン)」を雷撃により撃沈。 セイロン南西方から撤収、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)8月31日ペナン着。
1942年(昭和17年)9月16日ペナンからセイロン南西方の海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)9月24日マルデイブ諸島東方で、アメリカ貨物船「Losmar(5549トン)」を雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)9月28日カーティヤーワール半島にインド工作員を揚陸。
1942年(昭和17年)10月1日マルデイブ諸島東方から撤収、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)10月9日ペナン着。
1942年(昭和17年)11月5日ペナンからベンガル湾の海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)11月26日ペナン着。
1942年(昭和17年)11月スラバヤを基地として、オーストラリア西岸の海上交通破壊を下命される。
1942年(昭和17年)11月30日〜12月3日ペナンからスラバヤに回航。 補給。
1942年(昭和17年)12月5日アラフラ海の海上交通破壊に向かう。
1942年(昭和17年)12月22日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)1月第三十潜水隊は南西方面部隊(南西方面題隊)奇襲部隊(第三十潜水隊)に編入、要地偵察、敵艦戦攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)1月7日スラバヤからオーストラリア北西岸方面に向かう。
1943年(昭和18年)1月12日ゼラルドトン南方のポートグレゴリー付近において、敵貨物船1隻を砲撃により撃破。
1943年(昭和18年)1月13日南西方面部隊はケ号作戦に関連して、オーストラリア北岸、北西岸、フリーマントル方面に対する機動および敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)1月14日三十潜水隊司令の指揮下に、ゼラルドトンの陸上施設の砲撃、同方面の敵海上交通破壊を下命される。
1943年(昭和18年)1月28日ゼラルドトン南方のポートグレゴリー陸上施設の砲撃。
1943年(昭和18年)2月12日オーストラリア西岸から撤収し、スラバヤに向かう。
1943年(昭和18年)2月16日スラバヤ着。
1943年(昭和18年)2月24日スラバヤから佐世保に向かう。
1943年(昭和18年)3月5日佐世保着。 入渠修理。
1943年(昭和18年)4月15日第三十潜水隊は南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第三十潜水)に編入、敵海上交通破壊を下令される。
1943年(昭和18年)8月26日佐世保からペナンに向かう。
1943年(昭和18年)9月8日ペナン着。
1943年(昭和18年)9月14日ペナンからオーストラリア西岸の海上交通破壊に向かう。
1943年(昭和18年)10月8日ペナンに帰着。
1943年(昭和18年)10月24日インド南西海面の海上交通破壊に向かう。
1943年(昭和18年)11月1日第三十潜水隊は南西方面兵隊から除かれ、第六艦隊第八潜水戦隊に編入。
1943年(昭和18年)11月26日ペナンに帰着。
1943年(昭和18年)12月1日ペナンからシンガポールに向かう。
1943年(昭和18年)12月3日シンガポール着。 整備。
1943年(昭和18年)12月16日〜18日シンガポールからペナンに回航。 待機。
1944年(昭和19年)1月7日ペナンからインド洋の海上交通破壊に向かう。
1944年(昭和19年)1月16日セイロン北方の北緯12度00分、東経80度14分において、イギリス貨物船「Perseus(10,286トン)」を雷撃により撃沈。
1944年(昭和19年)2月5日ペナンに帰着。
1944年(昭和19年)2月7日〜9日ペナンからシンガポールに回航。 整備待機。
1944年(昭和19年)2月23日〜25日シンガポールからペナンに回航。 待機。
1944年(昭和19年)2月28日ペナンからインド南西方の海上交通破壊に向かう。
1944年(昭和19年)3月18日マルデイブ諸島東方で、イギリス貨物船「Nancy Moller(3916トン)」を雷撃により撃沈。
1944年(昭和19年)3月25日三十潜水隊は解隊。 第六艦隊第八潜水戦隊に編入。
1944年(昭和19年)3月30日ペナンに帰着。
1944年(昭和19年)4月2日〜4 日ペナンからシンガポールに回航。 整備待機。
1944年(昭和19年)5月15日〜17日シンガポールからスラバヤに回航。 待機。
1944年(昭和19年)5月31日スラバヤからオーストラリア西岸の海上交通破壊に向かう。
1944年(昭和19年)7月5日スラバヤに帰着。 待機。
1944年(昭和19年)7月20日ビアク島に対する作戦輸送および、第二十八特別根拠地隊司令官ほかの救出を下命される。
1944年(昭和19年)7月24日ドラム缶60本ほかを搭載、スラバヤからビアク島に向かう。
1944年(昭和19年)7月27日機械故障のため、アンボンに向かう。
1944年(昭和19年)7月30日アンボン着。 故障修理。
1944年(昭和19年)8月12日アンボンからビアク島に向かう。
1944年(昭和19年)8月18日ビアク島ワルサ湾の北西14浬付近において、敵哨戒艇2隻と遭遇。 退避潜航したが、4回9発の爆雷攻撃を受け、搭載したドラム缶の一部が浮上したため、固縛を解放して離脱。 至近の爆発のためメインタンク、横舵、潜舵に規傷を受け、潜航18時間ののち、アンボンに向かう。
1944年(昭和19年)8月23日アンボン着。 応急修理。
1944年(昭和19年)8月24日ビアク島への輸送の取り止めを下令される。 アンボンからスラバヤに向かう。
1944年(昭和19年)8月27日スラバヤ着。 応急修理。
1944年(昭和19年)9月10日〜13日スラバヤからシンガポールに回航。
1944年(昭和19年)10月7日シンガポールから佐世保に向かう。
1944年(昭和19年)10月17日佐世保着。 入渠修理。
1944年(昭和19年)12月15日第八潜水戦隊から除かれ、呉潜水戦隊第十九潜水隊に編入。 警備兼練習潜水艦となる。
1944年(昭和19年)12月16日〜17日佐世保から呉に回航。
1945年(昭和20年)2月11日〜12日大竹から神戸に回航。
1945年(昭和20年)3月入渠。 回天2基搭載の設備工事。
1945年(昭和20年)4月1日第十九潜水隊は解隊。 第六艦隊第三十四潜水隊に編入。 警備兼練習潜水艦を予備潜水艦と定める。
1945年(昭和20年)6月回天特別攻撃隊轟隊に編入。 第六艦隊司令長官の指揮下に、沖縄−マリアナ間の補給路攻撃を下令される。
1945年(昭和20年)6月4日光基地に入港。 回天2基を搭載。
1945年(昭和20年)6月15日光からマリアナ諸島東方海面に向け出撃後、消息不明。
1945年(昭和20年)6月27日サイパン東方(北緯15度28分、東経152度39分)でアメリカ海兵隊機の爆撃を受け沈没。
1945年(昭和20年)7月29日マリアナ諸島方面で亡失認定。 
1945年(昭和20年)9月15日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p52-57
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p51,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編2.名古屋,ニュータイプ,2004,p240-250
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p20