伊号第六十八(百六十八)潜水艦は海大六型a(伊六十八→百六十八型)潜水艦の1番艦である。
日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長躯敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 大正7年(1918年)の八六艦隊計画で海大型潜水艦として最初に建造された海大1型は、水上速力20ノットを要求されたが、大出力のディーゼルが無かったため、海中型で採用した機関(1,300馬力)を4基搭載、推進器は4軸とした。 そのために内殻は円筒を2つ横に並べたような特異な形となった。 非常な努力により完成した海大1型(伊号第五十一)潜水艦であったが、実際の水上速力は18.4ノットにとどまった。 つづく海大2型(伊号第五十二)では水上速力22ノットをねらい、ズルツァー式3号ディーゼル機関(3,400馬力)を搭載し、主機を2基としたため、船殻構造は円筒形となった。 公試では水上速力21.5ノットを記録したが、大出力ディーゼル機関は故障が多く、実用上は19.5ノットが限界であった。
1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約により八八艦隊案を廃棄した日本海軍は、大正12年(1923年)度計画で改めて海大型潜水艦12隻を建造した。 その最初の4隻が海大3型aで、確実性を考慮して機関出力を3,000馬力とし、水上速力20ノットとした。 次の5隻は、凌波性改善等の若干の変更を加えたもので、海大3型bと称された。 海大3型9隻が建造されたのは、このタイプが高速潜水艦として一応の水準に達したことを示している。 大正12年(1923年)度計画の最後の3隻は、海大4型として機関をズルツァー式からマン社設計によるラウシェンバッハ式2号ディーゼルに変更した。 艦型的には海大3型bと同じであったが、寸法的には若干小さくなり、魚雷発射管は艦首6門艦尾2門から艦首4門艦尾2門となり2門減少している。 尚、水上速力は20ノットのままであった。 昭和2年(1927年)度計画で3隻が建造された海大5型は、機関を徹底的に改良を加えたズルツァー式3号ディーゼル機関とし、船体線図も刷新して、水上速力を20.5ノットに向上している。
ロンドン軍縮会議後の昭和5年(1930年)度の第一次補充計画(マル一計画:マルの中に一)において6隻が建造された海大6型aは、基準排水量を1,400トンに抑えられたが、艦本式1号甲8号ディーゼル(4,500馬力)を搭載し、水上速力23ノットを発揮した。 次の海大7型で水上速力23ノットにとどまっているのは、用兵上の要求がすでに満たされていることを示している。(1)
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 海大六型a(伊六十八→百六十八型) |
水上排水量 ※1 | 1,400トン(基準)/1,785トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 2,440トン |
垂線間長 | 98.40m |
全長 | 104.70m |
最大幅 | 8.20m |
喫水 | 4.58m |
主機 | 艦本式一号甲八型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 閉鎖通風型2基 |
蓄電池 | |
出力 | 8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中) |
速力 | 23ノット(水上)/8.2ノット(水中) |
燃料 | 重油:338トン |
航続力 | 10ノットで14,000浬(水上)/3ノットで65浬(水中) |
乗員 | 68名 |
兵装 | 50口径八八式10cm単装高角砲1基 九三式13mm単装機銃1基 留式7.7mm単装機銃1基 八八式53cm魚雷発射管4門(艦首)、2門(艦尾) 八九式魚雷14本 |
安全潜航深度 | 70m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1931年(昭和6年)6月18日 | 起工。 |
1932年(昭和7年)8月1日 | 伊号第六十八潜水艦と命名。 |
1933年(昭和8年)6月26日 | 進水。 |
1934年(昭和9年)7月31日 | 竣工。 本籍は呉鎮守府。 呉鎮守府部隊に編入。 |
1934年(昭和9年)9月6日〜16日 | 呉から南洋方面に向かい、呉に帰着。 |
1935年(昭和10年)10月8日 | 呉鎮守府部隊第十二潜水隊に編入。 |
1935年(昭和10年)11月15日 | 第十二潜水隊は第二艦隊第二潜水戦隊に編入。 |
1936年(昭和11年)4月13日〜2日 | 第十二潜水隊は戦隊と福岡湾から青島に向かい、寺島水道着。 |
1936年(昭和11年)8月4日〜6日 | 第十二潜水隊は戦隊と馬公から履門に向かい、高雄着。 |
1937年(昭和12年)3月27日〜4月6日 | 第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から青島に向かい、有明湾着。 |
1937年(昭和12年)7月15日〜17日 | 第二艦隊は宿毛湾着。 待機後、別府に回航。 |
1937年(昭和12年)7月21日 | 第二艦隊は別府から佐世保に回航。 補給待機。 |
1937年(昭和12年)7月29日 | 第二艦隊は北支部隊に編入。 陸軍と協力して、居留民保護、権益擁護を下令される。 第二潜水戦隊は佐世保において待機を下令される。 |
1937年(昭和12年)8月17日〜20日 | 第十二潜水隊は旅順に回航を下令され、佐世保から旅順に進出。 待機。 |
1937年(昭和12年)8月21日 | 第十二潜水隊は旅順から裏長山列島に回航。 待機。 |
1937年(昭和12年)8月23日 | 第二潜水戦隊は北支部隊主隊に編入、陸軍A支隊の青島攻略作戦支援を下令される。 |
8月25日 | 北支部隊はA支隊の青島攻略作戦の取払止めを下令される。 |
1937年(昭和12年)8月28日 | 第十二潜水隊は裏長山列島から青島の居留民引揚掩護に向かう。 |
1937年(昭和12年)8月31日 | 第十二潜水隊は帰投を下令され、山東角付近から裏長山列島に向かう。 |
1937年(昭和12年)9月1日〜2日 | 第十二潜水隊は裏長山列島に帰着後、旅順に回航。 |
1937年(昭和12年)9月3日 | 第二潜水戦隊は4日以降、第十四師団の船団護衛を下令される。 |
1937年(昭和12年)9月4日 | 第十二潜水隊は旅順から大沽向け船団の護衛に向かう。 |
1937年(昭和12年)9月18日 | 大連に帰着。 待機。 |
1937年(昭和12年)9月22日 | 大連から旅順に回航。 待機。 |
1937年(昭和12年)9月24日 | 第二潜水戦隊は北支部隊第一封鎖部隊に編入。 海州湾以北の沿岸封鎖を下令される。 |
1937年(昭和12年)10月1日〜7日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)10月13日〜19日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)10月25日〜31日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月3日〜8日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月13日〜18日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かい、旅順に帰着。 |
1937年(昭和12年)11月19日 | 第十二潜水隊は旅順から北支沿岸の封鎖監視に向かう。 |
1937年(昭和12年)11月20日 | 北支部隊は編成を解かれる。第二潜水戦隊は内地に帰投を下令される。 |
1937年(昭和12年)11月24日 | 第十二潜水隊は佐世保着。 |
1938年(昭和13年)4月9日〜14日 | 第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、基隆着。 |
1938年(昭和13年)10月17日〜22日 | 第十二潜水隊は戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、馬公着。 |
1938年(昭和13年)12月15日 | 第十二潜水隊は第二潜水戦隊から除かれる。 第三予備潜水艦となる。 |
1939年(昭和14年)11月15日 | 第十二潜水隊は第二艦隊第三潜水戦隊に編入。 第三予備潜水艦を予備潜水艦と定める。 |
1940年(昭和15年)3月26日〜4月2日 | 第十二潜水隊は戦隊と中城湾から南支方面に向かい、高雄着。 |
1940年(昭和15年)8月25日〜9月21日 | 第十二潜水隊は戦隊と横須賀から南洋方面に向かい、横須賀に帰着。 |
1940年(昭和15年)11月15日 | 第三潜水戦隊は第六艦隊に編入。 |
1941年(昭和16年)2月2日〜19日 | 第十二潜水隊は戦隊と南洋方面に向かい、南支水域に進出。 |
1941年(昭和16年)3月3日 | 高雄着。 |
1941年(昭和16年)11月5日 | 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、機動部隊(第一航空艦隊)の作戦に協力、ハワイ方面アメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 |
1941年(昭和16年)11月10日 | 第三潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、オアフ島南方海面において、奇襲、監視、ラハイナ泊地の隠密偵察、機動部隊不時着人員の収容を下令される。 |
1941年(昭和16年)11月11日 | 第三潜水部隊は佐伯湾からクェゼリンに向かう。 |
1941年(昭和16年)11月20日 | 第十二潜水隊はクェゼリン着。 補給待機。 |
1941年(昭和16年)11月23日 | 第十二潜水隊は、クェゼリンからハワイ方面に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月1日 | 第十二潜水隊は、ハワイの300浬圏内に入り、隠密裡にオアフ島南方に向かう。 |
1941年(昭和16年)12月7日 | オアフ島真珠湾口南の外側D1哨区着。 待機。 |
1941年(昭和16年)12月8日 | 第三潜水部隊は索敵を開始。 伊号第六十八潜水艦は真珠湾口南の内側E1哨区に移動。 |
1941年(昭和16年)12月9日 | 真珠湾口南の外側Dl哨区に後退。 |
1941年(昭和16年)12月11日 | クェゼリンに帰投を下令される。 |
1941年(昭和16年)12月14 日 | 以降、敵監視艇による爆雷攻撃をしばしば受け、被攻撃21回に及び、後部発射管室に浸水、漏油の疑いがあった。 |
1941年(昭和16年)12月18日 | 第三潜水部隊はオアフ島付近を撤収し、クェゼリンに向かう。 |
1941年(昭和16年)12月28日 | クェゼリン着。 応急修理。 |
1941年(昭和16年)12月31日 | 修理のため、内地に帰投を下令され、クェゼリンから呉に向かう。 |
1942年(昭和17年)1月9日 | 呉着。 呉工廠で入渠修理。 |
1942年(昭和17年)4月10日 | 第三潜水戦隊は、東京湾東方700浬付近のG散開線に進出、アメリカ機動部隊を警戒、索敵掃航を下令される。 |
1942年(昭和17年)4月15日 | 呉から部隊とG散開線に向かい、索敢掃航。 |
1942年(昭和17年)4月18日 | 対アメリカ艦隊作戦第三法発動と下令され、部隊と犬吠埼東方410浬の散開線につき、アメリカ機動部隊の邀撃を下令される。 |
1942年(昭和17年)4月19日 | 部隊は1:30、90度方向に18節で進撃を下令される。 アメリカ機動部隊は東経155度以東に避退した算大で、戦隊は北緯34度以北を捜索し、敵情を得なければ、K散開線(東経160度)に向かうよう下令される。 20日22:00までに、S散開線に配備を下令される。 |
1942年(昭和17年)4月20日 | 18:00までにT散開線に配備を下令され、次いで14:00、速やかにT散開線を経て250度方向に18節で進撃を下令される。 対アメリカ艦隊作戦第三法止めを下令されたが、引き続き、警戒を下令され、G散開線(犬吠埼東方950浬)において哨戒。 主機械故障のため、解列して呉に向かう。 |
1942年(昭和17年)4月26日 | 呉着。 電動機換装のため、呉工廠に入渠。 |
1942年(昭和17年)5月20日 | 伊号第百大十八潜水艦と改名。 |
1942年(昭和17年)5月21日 | N−5日までに、キューア島およびミッドウェー島の偵察をおこなったのち、ミッドウェー付近にあって、天候報告を下令される。 |
1942年(昭和17年)5月23日 | 呉からミッドウェーに向かう。 |
1942年(昭和17年)5月30日 | ミッドウェーの285度210浬において敵飛行艇を発見。 |
1942年(昭和17年)5月31日 | ミッドウェーの285度210浬において敵飛行艇を発見。 |
1942年(昭和17年)6月1日 | キューア島の170虔7浬において敵飛行艇を発見したほか天候報告。 のちキューア島に接近、偵察。 |
1942年(昭和17年)6月2日 | 前夜半からミッドウェーに接近、陸上施設、哨戒境の発着状況などを偵察、天候報告をおこない待機。 |
1942年(昭和17年)6月3日 | 以後、ミッドウェー付近に待機、天候報告に当たる。 |
1942年(昭和17年)6月5日 | ミッドウェーの東北東130浬に進出を下令され、移動したが、2300以前にイースタン島の航空施設の砲撃を下令され、引き返して2224、イースタン島南方4粁から砲撃したが、照射反撃を受け、射弾6発で退避した。 |
1942年(昭和17年)6月6日 | 漂流中のアメリカ空母「ヨークタウン (Yorktown)」の撃沈を下令される。 |
1942年(昭和17年)6月7日 | 「ヨークタウン」を発見。 距離900mで魚雷4本を発射。 「ヨークタウン」と駆逐艦「ハムマン ( Hammann)」を撃沈。 |
1942年(昭和17年)6月19日 | 呉着。 |
1942年(昭和17年)6月25日〜26日 | 呉から佐世保に回航。 入渠修理。 |
1942年(昭和17年)10月31日 | 先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内港西部において訓練および輸送実験を下令される。 |
1942年(昭和17年)11月7日〜8日 | 佐世保から呉に回航、以後、内海西部において訓練、運貨筒の輸送実験に従事。 |
1942年(昭和17年)12月15日〜22日 | 呉からトラックに進出。 補給待機。 |
1942年(昭和17年)12月22日 | 先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する作戦輸送を下令される。 |
1942年(昭和17年)12月25日〜29日 | トラックからショートランドに進出。 輸送準備。 |
1942年(昭和17年)12月30日 | ショートランドからガダルカナル島に向かう。 |
1943年(昭和18年)1月1日 | ガダルカナル島カミンボ着、ゴム袋糧食15トンを揚陸したが、敢魚雷艇2隻に襲撃され、約6割で揚陸を中止、駆逐艦照月の乗員60名を収容して帰航。 |
1943年(昭和18年)1月3日 | ショートランドに帰着したが、漏油が大で、修理のため内地に帰投を下令される。 |
1943年(昭和18年)1月4日〜7日 | ショートランドからトラック着。 |
1943年(昭和18年)1月8日 | トラックから呉に向かう。 |
1943年(昭和18年)1月14日 | 呉着。 入渠修理。 |
1943年(昭和18年)2月1日 | 第十二潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第十二潜水隊)に編入。 アリューシャン列島方面の敵海上交通破壊を下令される。 |
1943年(昭和18年)2月22日 | 呉から横須賀に向かう。 |
1943年(昭和18年)2月25日 | 横須賀着。 補給待機。 |
1943年(昭和18年)3月5日〜10日 | 横須賀から幌筵に進出。 補給待機。 |
1943年(昭和18年)3月13日 | 幌筵からアッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月15日 | アッツ島着、弾薬を搭載して、同日キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月17日 | キスカ島東方10粁においてアメリカ潜水艦の雷撃を受けたが、回避。 |
1943年(昭和18年)3月18日 | キスカ島着、弾薬を揚陸、同日アムチトカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)3月20日 | アムチトカ島南方に進出。 索敵哨戒。 |
1943年(昭和18年)3月30日 | アムチトカ島南方を撒哨、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月1日 | キスカ島に帰着、自艦用糧食6トンを揚陸、便乗者を収容して、同日幌筵に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月5日 | 幌筵に着。 補給待機。 |
4月10日 | 幌筵からアッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月13日 | アッツ島着、弾薬を搭載、同日キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月15日 | キスカ島着、弾薬を揚陸したのち、陸軍北海守備隊司令官を収容してアッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月17日 | アッツ島着、陸軍北海守備隊司令官が上陸したのち、糧食5トンおよび弾薬を搭載、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月19日 | キスカ島着、弾薬等を揚陸したのち、アッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月21日 | アッツ島への入港を取り止め、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月23日 | キスカ島着。 待機。 |
1943年(昭和18年)4月25日 | 航空基地員および物件を収容、キスカ島からアッツ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)4月27日 | アッツ島着、揚陸ののち、陸軍北海守備隊司令官を収容して、キスカ島に向かう。 |
1943年(昭和18年)5月1日 | キスカ島着、陸軍北海守備隊司令官を上陸させたのち、同日、キスカ島から横須賀に向かう。 |
1943年(昭和18年)5月7日 | 北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第三潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入 |
1943年(昭和18年)5月9日 | 横須賀着。 |
1943年(昭和18年)5月11日〜12日 | 横須賀から呉に回航。 |
1943年(昭和18年)7月12日 | 呉からトラックに向かう。 |
1943年(昭和18年)7月20日 | 先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦輸送を下令される。 |
1943年(昭和18年)7月22日 | トラック着。 補給待機。 |
1943年(昭和18年)7月25日 | トラックからラバウルに向かう。 |
1943年(昭和18年)7月27日 | イザベル海峡での位置報告後、消息不明。 ニューハノーバー沖でアメリカ潜水艦「スキャンプ (Scamp)」 の雷撃を受け沈没。 |
1943年(昭和18年)9月10日 | ラバウル北方で亡失認定。 |
1943年(昭和18年)10月15日 | 除籍。 |
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