伊号第百八十一潜水艦は海大七型(伊七十六→百七十六型型)潜水艦の6番艦である。
日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長躯敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 大正7年(1918年)の八六艦隊計画で海大型潜水艦として最初に建造された海大1型は、水上速力20ノットを要求されたが、大出力のディーゼルが無かったため、海中型で採用した機関(1,300馬力)を4基搭載、推進器は4軸とした。 そのために内殻は円筒を2つ横に並べたような特異な形となった。 非常な努力により完成した海大1型(伊号第五十一)潜水艦であったが、実際の水上速力は18.4ノットにとどまった。 つづく海大2型(伊号第五十二)では水上速力22ノットをねらい、ズルツァー式3号ディーゼル機関(3,400馬力)を搭載し、主機を2基としたため、船殻構造は円筒形となった。 公試では水上速力21.5ノットを記録したが、大出力ディーゼル機関は故障が多く、実用上は19.5ノットが限界であった。
1922年(大正11年)のワシントン軍縮条約により八八艦隊案を廃棄した日本海軍は、大正12年(1923年)度計画で改めて海大型潜水艦12隻を建造した。 その最初の4隻が海大3型aで、確実性を考慮して機関出力を3,000馬力とし、水上速力20ノットとした。 次の5隻は、凌波性改善等の若干の変更を加えたもので、海大3型bと称された。 海大3型9隻が建造されたのは、このタイプが高速潜水艦として一応の水準に達したことを示している。 大正12年(1923年)度計画の最後の3隻は、海大4型として機関をズルツァー式からマン社設計によるラウシェンバッハ式2号ディーゼルに変更した。 艦型的には海大3型bと同じであったが、寸法的には若干小さくなり、魚雷発射管は艦首6門艦尾2門から艦首4門艦尾2門となり2門減少している。 尚、水上速力は20ノットのままであった。 昭和2年(1927年)度計画で3隻が建造された海大5型は、機関を徹底的に改良を加えたズルツァー式3号ディーゼル機関とし、船体線図も刷新して、水上速力を20.5ノットに向上している。
ロンドン軍縮会議後の昭和5年(1930年)度の第一次補充計画(マル一計画:マルの中に一)において6隻が建造された海大6型aは、基準排水量を1,400トンに抑えられたが、艦本式1号甲8号ディーゼル(4,500馬力)を搭載し、水上速力23ノットを発揮した。 次の海大7型で水上速力23ノットにとどまっているのは、用兵上の要求がすでに満たされていることを示している。 昭和8年(1933年)度の第二次補充計画(マル二計画:マルの中に二)において2隻が建造された海大6型bは、基本的に海大6型aと主要性能は同一であるが、船殻の板厚を増し安全潜航深度が85mに増大している。 また燃料搭載量を増加し航続距離を伸ばした。
昭和14年(1939年)度の第四次補充計画(マル四計画:マルの中に四)において10隻が建造された海大7型は、艦型的には海大6型に準じたものであるが、潜航秒時の短縮と操縦性の容易さを企図したといわれる。 寸法的には海大6型bと大差ないが、基準排水量で230トンほど増加している。 機関は艦本式1号乙8号ディーゼル(4,000馬力)を搭載し、出力は減少しているが水上速力23ノットを維持している。 魚雷発射管は艦首6門とされ、艦尾発射管は廃止された。(1)
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 海大七型(伊七十六→百七十六型) |
水上排水量 ※1 | 1,630トン(基準)/1,833トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 2,602トン |
垂線間長 | 98.60m |
全長 | 105.50m |
最大幅 | 8.25m |
喫水 | 4.60m |
主機 | 艦本式一号乙八型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 特七型2基 |
蓄電池 | 一号十四型×236個 |
出力 | 8,000馬力(水上)/1,800馬力(水中) |
速力 | 23.1ノット(水上)/8.0ノット(水中) |
燃料 | 重油:355トン |
航続力 | 16ノットで8,000浬(水上)/5ノットで50浬(水中) |
乗員 | 86名 |
兵装 | 45口径十一年式12cm単装砲1基 九六式25mm連装機銃1基 九五式53cm魚雷発射管6門(艦首) 九五式魚雷12本 |
安全潜航深度 | 80m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1941年(昭和16年)11月11日 | 起工。 |
1942年(昭和17年)4月8日 | 伊号第八十一潜水艦と命名。 |
1942年(昭和17年)5月2日 | 進水。 本籍を佐世保鎮守府と定める。 |
1943年(昭和18年)5月24日 | 竣工。 第一艦隊第十一潜水戦隊に編入。 内海西部において就役訓練に従事。 |
1943年(昭和18年)5月25日 | 佐世保発、内海西部に向かい訓練。 |
1943年(昭和18年)8月20日 | 第十一潜水戦隊から除かれる。第六艦隊第三潜水戦隊第二十二潜水隊に編入。 内南洋方面に進出し、南太平洋方面の作戦を下命される。 |
1943年(昭和18年)8月25日 | 呉発、トラックに向かう。 |
1943年(昭和18年)9月1日 | トラックに進出、補給待機。 |
1943年(昭和18年)9月7日 | トラック発、エスピリッサント島方面に向かう。 |
1943年(昭和18年)9月15日 | 第三潜水戦隊は解隊。 第二十二潜水隊は、第六艦隊に編入。 先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、南太平洋方面において、敵艦船攻撃を下令される。 |
1943年(昭和18年)9月30日 | エスピリッサント島方面に敵を見ずと報告。 |
1943年(昭和18年)10月2日 | トレス諸島付近に進出、索敵。 |
1943年(昭和18年)10月20日 | トラック着。 整備休養。 |
1943年(昭和18年)11月11日 | トラック発、ブーゲンビル島に向かう。 |
1943年(昭和18年)11月12日 | 先遣部隊(第六艦隊)からのぞかれる。南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入、作戦輸送等を下令される。 |
1943年(昭和18年)11月25日 | セントジョージ岬の90度50浬に向かい、躯逐艦「夕霧」の遭難者救助を下令される。 ニューブリテン島東のセントジョージ海峡へ。 |
1943年(昭和18年)11月26日 | 夕霧の便乗者等11名を救助、引き続き捜索に当たる。 |
1943年(昭和18年)11月29日 | ラバウル着。 補給休養。 |
1943年(昭和18年)12月7日 | ラバウル発、ニューギニア北岸シオに向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)12月9日 | シオ着、兵器弾薬糧食44トンを揚陸、ラバウルに向かう。この間、敵機の爆撃を受け、爆弾15発を投下されたが、被害はなかった。 |
1943年(昭和18年)12月11日 | ラバウル着。 輸送準備。 |
1943年(昭和18年)12月14日 | ラバウル発、ブーゲンビル島北端ブカ島に向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)12月16日 | ブカ島着。 揚陸ののち、ラバウルに向かう。 |
1943年(昭和18年)12月18日 | ラバウル着。 輸送準備。 |
1943年(昭和18年)12月21日 | ラバウル発、ブーゲンビル島北端ブカ島に向かう。 作戦輸送。 |
1943年(昭和18年)12月22日 | ブカ島着。 揚陸ののち、ラバウルに向かう。 |
1943年(昭和18年)12月24日 | ラバウル着。 補給休養。 |
1944年(昭和19年)1月1日 | ラバウル発、味方哨戒機の索敵海面に向かい、不時着搭乗員の救助に従事。 |
1944年(昭和19年)1月3日 | ラバウル着。 輸送準備。 |
1944年(昭和19年)1月6日 | ラバウル発、ブーゲンビル島北端ブカ島に向かう。 作戦輸送。 |
1944年(昭和19年)1月7日 | ブカ島着。 揚陸ののち、ラバウルに向かう。 |
1944年(昭和19年)1月8日 | ラバウル着。 輸送準備。 |
1944年(昭和19年)1月13日 | ラバウル発、ニューギニア北岸ガリに向かう。作戦輸送。 |
1944年(昭和19年)1月16日 | 到着予定日にガリに到着せず、消息を絶つ。 |
1944年(昭和19年)3月1日 | ニューギニア島南東海域で亡失認定。 [ニューギニア島ガリ、ビティアズ海峡でアメリカ駆逐艦および魚雷艇と交戦沈没。] |
1944年(昭和19年)4月30日 | 除籍。 |
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