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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第二百一潜水艦は潜高大型(伊二百一型)潜水艦の1番艦である。

1943年(昭和18年)に入ると、連合国側の対潜兵器の発達により潜水艦の行動が制限を受けるようになり、その損害も増大した。 このため、水中行動力を高めて攻撃からの回避・離脱をはかり、なおかつ襲撃の機会を増そうとする発想から同年10月に水中高速潜水艦の要求が出された。 艦政本部では、1933年(昭和13年)の試作水中高速潜水艦「仮称艦七一号艦」や甲標的の技術を生かして短期間で潜高型の設計を実施し、1番艦は1944年(昭和19年)3月に起工された。 水中速力は25ノットを要求されたが、減速ギアのノイズ発生が解決できず、電動機と推進器を直結したため、20ノットに引き下げられた。 しかしながら、後に水中充電装置や電探の装備が実施されると水中抵抗は増加し、最終的に水中速力は19ノットとされた。

船体は水中抵抗の減少をはかるため、単穀構造にちかい構造とし、小型のメイン・タンクを水線付近の外殻部に設け、艦橋は流線型セイル状とされた。 主機は駆潜特務艇五十一号型の主機に使用されていた1,375馬力のマ式一号ディーゼル2基を搭載した。 電動機は1,250馬力特E型4基で、巡航用電動機は搭載していない。 蓄電池は甲標的に使用した特D型電池を2,088個搭載したが、取扱性、耐久力などに問題があった。 

急速建造のため全溶接、ブロック建造方式を採用し、1番艦の伊号第二百一潜水艦は1944年(昭和19年)3月に起工、7月に進水1945年(昭和20年)2月に竣工と約1年間の工期で完成している。 

潜高大型は昭和18年度計画で3隻、昭和19年度計画で20隻の建造を予定されたが、終戦までに完成したのは3隻にすぎなかった。  竣工した3隻は、主機の故障、水中航走時の安定性などに問題があり、また水中速力も17ノットにとどまり、実戦にも参加していない。(1)(2)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型潜高型
水上排水量 ※11,070トン(基準)/1,291トン(常備)
水中排水量 ※11,450トン
垂線間長76.00m
全長79.00m
最大幅5.80m
喫水5.46m
主機マ式一号ディーゼル機関2基、2軸
主電動機特E型×4基
蓄電池特D型×2,088個
出力2,750馬力(水上)/5,000馬力(水中)
速力15.8ノット(水上)/19ノット(水中)
燃料重油:146トン
航続力14ノットで5,800浬(海上)/3ノットで135浬(水中)
乗員31人
兵装九六式25mm単装機銃2基
九五式3型53cm魚雷発射管4門(艦首)
九五式魚雷10本
安全潜航深度110m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1944年(昭和19年)6月1日起工。
1944年(昭和19年)8月25日伊号第二百三潜水艦と命名。
1944年(昭和19年)10月20日進水。
1945年(昭和20年)5月29日竣工。 一等潜水艦に類別。 第六艦隊第十一潜水戦隊に編入。 内海西部において就役訓練に従事。
1945年(昭和20年)6月25日呉発。 伊予灘において訓練。
1945年(昭和20年)8月11日呉着。 補給整備。
1945年(昭和20年)8月15日呉において終戦を迎える。
1945年(昭和20年)8月22日武装解除と乗員の復員を開始。
1945年(昭和20年)9月2日第十一潜水戦隊は解隊。
1945年(昭和20年)10月アメリカ軍の指示により、呉から佐世保に回航。
1945年(昭和20年)11月30日除籍。 
1946年(昭和21年)1月アメリカに回航。 調査実験後、海没処分。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.東京,光人社,1997,p74-75
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p86,141,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  4. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p931-933
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p21