本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

乙型

伊号第二十六潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の7番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した

次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。

乙型はマル三(○の中に三)計画の6隻が開戦までに完成、マル四(○の中に四)計画の14隻のうち1隻が開戦までに完成、13隻が建造中であった。 開戦後のマル急(○の中に急)計画で6隻計画されたが、この6隻は乙型の改型で量産のため主機を巡潜三型と同じ艦本式一号甲十型ディーゼル2基とした。 機関出力が若干低下したが、水上速力は0.1ノットの低下にとどまっている。 なお、兵装は変化していない。

当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長駆ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。(1)

要目(2)(3)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型乙型(伊十五型)
水上排水量 ※12,198トン(基準)/2,584トン(常備)
水中排水量 ※13,654トン
垂線間長102.40m
全長108.70m
最大幅9.30m
喫水5.14m
主機艦本式二号十型ディーゼル2基、2軸
主電動機特五型2基
蓄電池二号五型×240個
出力12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中)
速力23.6ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:774トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中)
乗員94名
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷17本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)

年月日履歴
1939年(昭和14年)6月7日起工。
1940年(昭和15年)4月1日伊号第二十七潜水艦と命名。 
1940年(昭和15年)4月10日進水。 本籍を横須賀鎮守府と定める。 
1941年(昭和16年)11月1日伊号第二十六潜水艦と改名。 
1941年(昭和16年)11月6日竣工。 第四潜水隊(第一潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 戦時編制。 艦は、先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、横須賀に回航、出撃準備を下令される。 艦は呉発、横須賀に向かう。 就役訓練。 九五式魚雷の在庫がないため、八九式魚雷を希望したが、在庫がないため、六年式魚雷で出撃になる。 
1941年(昭和16年)11月8日横須賀着。 出撃準備。 
1941年(昭和16年)11月10日先遣部隊(第六艦隊)要地偵察隊(当潜水艦長指揮)に部署され、北太平洋方面の要地偵察ほかを下令される。 
1941年(昭和16年)11月19日アリューシャン列島方面の偵察および、ハワイ・アメリカ本土間に配備を下令される。 横須賀発、訓練をしながら、アリューシャン列島へ。 
1941年(昭和16年)11月27日アリューシャン列島線に到着、以後、アッツ島を北方から偵察したのち、キスカ島に向かう。 
1941年(昭和16年)11月28日キスカ島を潜航偵察したのち、アダック島に向かう。 
1941年(昭和16年)11月29日アダック島を潜航偵察したのち、ダッチハーバーに向かう。 
1941年(昭和16年)12月2日対米開戦は8日と下令される。 ダッチハーバーを潜航偵察したのち、ハワイ・アメリカ本土間に向かう。
1941年(昭和16年)12月7日ハワイ東方700浬に進出、アメリカ貨物船を追跡。 
1941年(昭和16年)12月8日3:35、北緯33度42分 西経145度29分において、アメリカ貨物船「シンシア・オルソン(Cynthia Olson、2,140トン)」を雷撃(1本)。 命中せず、砲撃により撃沈。 
1941年(昭和16年)12月10日伊号第十潜水艦とともに、16:50、ハワイからアメリカ本土に向かうアメリカ航空母艦の前程に進出するよう下令される。 
1941年(昭和16年)12月13日先遣部隊先遣支隊(第一潜水戦隊)に編入、アメリカ西岸において敵海上交通破壊を下令される。 艦はシアトル西方、フラッタリー岬方面に配備を下令される。 
1941年(昭和16年)12月20日フラッタリー岬沖に到着、索敵哨戒。 
1941年(昭和16年)12月27日シアトル付近を撤収、クェゼリンに向かう。 
1942年(昭和17年)1月1日先遣支隊とハワイ東方に到達していたが、アメリカ航空母艦発見の報告により、ジョンストン島南方を索敵掃航するよう下令される。
1942年(昭和17年)1月11日クェゼリン着。 整備休養。 先遣部隊先遣支隊は編成を解かれる。 艦は先遣部隊第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)1月27日クェゼリンにおいて飛行艇に対する給油装置の設備工事を実施したのち、K作戦(飛行艇によるハワイ攻撃)の二式飛行艇との連合訓練を下令される。 
1942年(昭和17年)2月1日アメリカ機動部隊がクェゼリンに来襲、艦は錨泊沈座して回避ののち、急速出撃してウォッゼの方向に索敵掃航。 
1942年(昭和17年)2月2日先遣部隊と、ハワイ方面に向かい、アメリカ機動部隊の追撃を下令される。 
1942年(昭和17年)2月3日クェゼリンに帰投を下令され、反転帰航。 
1942年(昭和17年)2月5日クェゼリン着。 既令の改装工事に当たる。 
1942年(昭和17年)2月14日改装工事を終わり、出撃準備。 
1942年(昭和17年)2月15日K作戦発動を下令される。 クェゼリンにおいて二式飛行艇との連合訓練を行う。
1942年(昭和17年)2月20日アメリカ機動部隊がラバウル東方に出現。 僚艦2隻とクェゼリン発、邀撃に向かう。 K作戦の予定に拘りなく行動をと指示される。
1942年(昭和17年)2月21日第一潜水戦隊司令官は、当艦ほかを速やかにハワイ方面に進出せしめるを可とする旨、意見を具申。
1942年(昭和17年)2月22日第二潜水隊主力と、15:30、ヤルート南方からマーシャル諸島東方を経て、K作戦に応じられるように下令され、転針進航。
1942年(昭和17年)2月24日アメリカ機動部隊のウェーク島来襲により、第二潜水隊主力とフレンチフリゲート礁西方に配備を下令される。 第二潜水隊司令の意見具申により、K作戦は3月4日に延期される。 
1942年(昭和17年)3月3日第二潜水隊主力と、フレンチフリゲート礁外方に到着、待機。 
1942年(昭和17年)3月4日13:50、フレンチフリゲート礁内に入り、二式飛行艇に給油をおこなったのち、離脱西進、横須賀に向かう。 第二潜水隊主力と、南鳥島に来襲したアメリカ機動部隊を索敵掃航して帰投を下令される。 
1942年(昭和17年)3月13日艦は、先遣部隊哨戒潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、アメリカ機動部隊を警戒のため、M散開線(東経160度付近)に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月16日部隊と、M散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)3月17日6:00、M散開線から撤収、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)3月18日先遣部隊哨戒潜水部隊は編成を解かれる。 先遣部隊第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に復帰、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)3月21日横須賀着。 整備休巷。 
1942年(昭和17年)4月18日アメリカ機動部隊が本土に来襲。 第一潜水戦隊は、急速出撃準備を下令される。 準備の完成は23日の予定。 
1942年(昭和17年)4月19日第一潜水戦隊の急速出撃準備は、取り止めを下令される。 
1942年(昭和17年)5月8日連合艦隊第二期兵力部署を下令される。 第一潜水戦隊は、5月8日付けで、先遣部隊から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン方面の要地攻略支援を下令される。 
1942年(昭和17年)5月11日艦は横須賀発、コジアク島に向かう。 
1942年(昭和17年)5月20日北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、アリューシャン方面の要地攻略支援を下令される。 5月末まで、コジアク、シアトル方面を偵察、以後、シアトル方面の敵艦船を下令される。 
1942年(昭和17年)5月21日艦はコジアク島付近に進出、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)5月27日コジアク島南方のトリニティ諸島付近を偵察したのち、シアトル方面に向かう。
1942年(昭和17年)5月31日バンクーバー沖に進出、敵海上交通破壊に当たる。 
1942年(昭和17年)6月5日第一潜水戦隊は、先遣部隊に復帰を下令される。 第一潜水戦隊は14:30、再び北方部隊に編入を下令される。
1942年(昭和17年)6月6日戦隊の先遣部隊への復帰は、6月30日と下令される。
1942年(昭和17年)6月8日引き続き、シアトル方面に配備を下令される。 ファンデフスカ海峡沖の北緯48度15分、東経125度40分において、アメリカ貨物船「コースト・トレーダー(Coast Trader、3,286トン)」を、砲雷撃により撃沈。 
1942年(昭和17年)6月18日バンクーバー無線局を砲撃したのち、ウニマク水道方面に配備を下令される。 
1942年(昭和17年)6月21日バンクーバー無線羅針局を砲撃(17発)したが、効果不明。 
1942年(昭和17年)6月23日シアトル沖から撤収、ウニマク水道に向かう。 
1942年(昭和17年)6月28日ウニマク水道南東方に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)6月29日撤収して、アダック島南方(北緯42〜43度)に配備の移動を下令され、ウニマタ水道から移動。 
1942年(昭和17年)6月30日北方部隊(第五艦隊)から除かれる。 先遣部隊第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)7月3日艦は、部隊とアダック島南方に到達、引き続き索敵掃航に当たりながら横須賀に向かい帰航。 
1942年(昭和17年)7月11日横須賀着。 整備休養。 第一潜水部隊は、8月中旬頃、インド洋方面作戦を下令される。 
1942年(昭和17年)8月8日アメリカ軍のソロモン反攻により、第一潜水部隊は、15日までに急速出撃準備を完了し、南東方面部隊の作戦支援を下令される。 
1942年(昭和17年)8月10日第四潜水隊は解隊。 艦は第二潜水隊(第一潜水戦隊)に編入。 
1942年(昭和17年)8月12日元山航空隊機が本州東方洋上で、アメリカ軍不時着水偵を発見。 第一潜水部隊はアメリカ機動部隊を警戒、急速出撃、東方海面に進出を下令される。
1942年(昭和17年)8月15日第一潜水部隊と横須賀発、東京湾東方に向かい索敵掃航。 夕刻、部隊の東進は中止を下令され、ソロモン諸島方面に向かう。 
1942年(昭和17年)8月20日第一潜水部隊と、A散開線(南緯7度40分、東経165度〜南緯9度40分、東経163度20分)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)8月23日艦は、第一潜水部隊と、C散開線(南緯10度40分、東経164度〜南緯12度40分、東経162度20分)に配備を下令され、次いで24日黎明までに、D散開線(南緯12度20分、東経164度40分〜東経162度20分)に配備の移動を下令される。
1942年(昭和17年)8月24日第一潜水部隊と、D散開線に向かい掃航南下中、16:50、E散開線(南緯9度20分、東経164度40分〜南緯10度20分、東経163度20分)に配備の移動を下令される。 僚艦が敵部隊を発見したため、部隊と同夜、進路180度、最大速力により追跡を下令される。
1942年(昭和17年)8月25日艦は、第一潜水部隊と、17:20、戦場整理のため、日没に至るも敵情を得ない場合、E2散開線(南緯10度10分、東経164度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。 
1942年(昭和17年)8月26日旗艦潜水艦が被爆損傷のため、南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 敵損傷空母が、ショートランドの110度514浬にあるとの情報により、伊号第十九潜水艦と、ヌデニ島、バニコロ島の南方の捜索を下令され、捜索に向かったが、発見できなかった。 
1942年(昭和17年)8月29日敵損傷空母の捜索を中止し、E2散開線に復帰を下令される。
1942年(昭和17年)8月31日3:53、アメリカ航空母艦を発見、4:46、サンクリストバル島東方140浬の南緯10度35分、東経164度8分において雷撃。 アメリカ航空母艦「サラトガ(Saratoga、33,000トン)」に魚雷1本を命中させ、缶室一箇所に浸水、衝撃により電機回路に故障を生じ、修理のため離脱帰航させた。 命中音を聴取したが、護衛のアメリカ駆逐艦の反撃で、約4時間にわたり制圧されたが、被害なく離脱。 第一潜水部隊と、G散開線(南緯10度08分、東経164度52分〜南緯10度40分、東経164度)に配備を下令され、移動。
1942年(昭和17年)9月4日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、G1散開線に配備を下令され、60浬南下、移動。 
1942年(昭和17年)9月6日南東方面海域の現地潜水部隊の統一指揮官は、第三潜水戦隊司令官から第一潜水戦隊司令官となる。 旗艦潜水艦を変更して再進出。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、G2散開線に配備を下令され、更に60浬南下、移動。 
1942年(昭和17年)9月8日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、T散開線(南緯11度10分、東経164度25分〜南緯12度20、東経162度)に配備を下令され、移動。 
1942年(昭和17年)9月9日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊とT散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)9月13日索敵機がツラギの123度345浬に敵機動部隊を発見。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、K散開線(南緯11度40分、東経165度40分〜南緯13度、東経163度20分)に、配備の移動を下令される。 
1942年(昭和17年)9月14日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊とK散開線に到着、索敵哨戒。 
1942年(昭和17年)9月15日索敵機が敵輸送船団を、南緯12度5分、東経161度25分において発見。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と攻撃のため300度方向に進撃を下令され、移動。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、先遣部隊第二監視部隊、(第一潜水戦隊)に編入、インディスペンサブル海峡南方に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。 
1942年(昭和17年)9月16日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、インディスペンサブル海峡南方の配備につき、索敵哨戒。 隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、Y日(19日の予定)航空撃滅戦に策応し、ソロモン諸島南東海面の索敵掃航を下令される。 
1942年(昭和17年)9月18日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、部隊と南下、索敵掃航。 
1942年(昭和17年)9月20日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、日進による輸送作戦の中止により、約一週間の予定で、トラックに帰投を下令される。 第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、第一潜水部隊と、インディスペンサブル海峡南方の配備に復帰したのち、解列して、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)9月25日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、トラック着。 整備休養。 
1942年(昭和17年)10月4日第二潜水隊(伊号第二十五潜水艦欠)は、先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、甲標的の補給任務ほかを下令される。 甲標的を搭載して、トラック発、ガダルカナル島に向かう。 
1942年(昭和17年)10月8日11日までに、ガダルカナル島カミンボ沖に達し、甲標的の補給に任じ、X+2日以後、任務を伊号第百七十二潜水艦に引き継ぎ、Y−2日からY+3日まで、インディスペンサブル礁において、水偵基地任務につくよう下令される。 
1942年(昭和17年)10月10日ガダルカナル島カミンボ沖着、甲標的を補給ののち、索敵。 
1942年(昭和17年)10月11日ガダルカナル島沖において、19:27、近距離に敵艦影を認め、潜航避退したのち、インディスペンサブル礁に向かう。 
1942年(昭和17年)10月13日進航中、索敵機が南緯11度58分、東経162度5分において敵機動部隊を発見。 南緯9度48分、東経161度28分付近に配備。 敵情報告、索敵を下令される。 配備点において敵駆逐艦を発見。 
1942年(昭和17年)10月16日撤収して、インディスペンサブル礁に向かう。 
1942年(昭和17年)10月17日18:20、18日日出後、中央礁に到着の予定、主機械故障復旧。 伊号第十五潜水艦と交替して任務につき、補給は一日2〜3トンを消費と報告。 
1942年(昭和17年)10月18日インディスペンサブル礁に到着、伊号第十五潜水艦と交替して補給任務につく。 リーフに座礁、黎明時に負浮力タンクを排水して離脱に成功したが、発射管3本は使用不能となる。 
1942年(昭和17年)10月21日以降、水偵3機に対し補給に当たる。 8:49、浮上して水偵3機に補給。 その後、B17型機1機に発見され、潜航避退。 水偵はショートランドから、レカタを中継して飛来。 
1942年(昭和17年)10月23日千歳機は、敵機のため触接を止めると、当艦に連絡。 
1942年(昭和17年)10月24日5:15補給終了後、10:29補給中、いずれも敵飛行艇1機が来襲。 急速潜航により回避。 補給は次第に困難になると報告。
1942年(昭和17年)10月25日B17型機の制圧を受け、浮上できず、補給ができなかった。 
1942年(昭和17年)10月27日乙潜水部隊は、0:50、南緯15度05分、東経159度45分において、敵大部隊を発見、ヌーメア方向に向かう。 部隊と追跡に当たったが、触礁のため魚雷発射管2門が使用不能となる。 28日以後の行動は不詳。 
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。 サンクリストバル島南西方において、散開待機、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。 
1942年(昭和17年)11月13日8:59、ガダルカナル島南東方の南緯10度27分、東経161度5分において、アメリカ軽巡洋艦「ジュノー (Juneau、6,000トン)を雷撃、命中音2を聴取。 同瞬時に沈没。 護衛の駆逐艦により2時間半、制圧され、戦果は確認できなかった。 
1942年(昭和17年)11月22日ガダルカナル島南東方から撤収、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)11月29日トラック着。 補給待機。 
1942年(昭和17年)12月1日先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、内地に帰投、整備を下令される。 
1942年(昭和17年)12月3日トラック発、横須賀に向かう。 
1942年(昭和17年)12月9日横須賀着。 入渠修理、休養。 
1943年(昭和18年)1月15日横須賀発、トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)1月18日ガダルカナル島に対する糧食輸送1回終了と同時に、甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、ケ号作戦を支援して、ガダルカナル島南東海面において敵増援の阻止に当たり、28日黎明時までに甲散開線に配備、友軍航空部隊と協同、敵艦船の捕捉撃滅を下令される。
1943年(昭和18年)1月21日トラックに進出、補給、輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月23日トラック発、ガダルカナル島に向かう。 先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する補給輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)1月28日ガダルカナル島エスペランス岬着、運貨筒を揚陸したのち、同島南東方の甲散開線に向かう。 甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入。 
1943年(昭和18年)1月29日甲散開線につき、索敵哨戒。 
1943年(昭和18年)2月3日配備点において、敵駆逐艦1隻を発見。 
1943年(昭和18年)2月7日ケ号作戦の終了により、乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、トラックに帰投を下令され、撤収してトラックに向かう。 
1943年(昭和18年)2月12日トラック着。 補給休養。 
1943年(昭和18年)2月27日オーストラリア東岸における敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)3月1日トラック発、オーストラリア東岸に向かう。 
1943年(昭和18年)3月3日第八十一号作戦輸送船団の遭難者救助のため、ダンピール海峡南方に急行を下令され、転針急航。
1943年(昭和18年)3月6日ダンピール海峡南方に到着、遭難者20名を救助、ラエに向かう。 
1943年(昭和18年)3月7日ラエ着。 救助人見を揚陸、グッドイナフ島に向かう。 
1943年(昭和18年)3月8日グッドイナフ島付近の小島で、陸兵45名を救助、ラバウルへ。 
1943年(昭和18年)3月9日スルミ南方の南緯8度26分、東経149度57分において、凛流中の10名を救助。 
1943年(昭和18年)3月10日ラバウル着、救助人員を揚陸、同日発、オーストラリア東岸に向かう。 
1943年(昭和18年)4月11日シドニー付近の南緯37度24分、東経150度19分において、ユーゴスラビア貨物船」レシナ(Recina、4,732トン)を、雷撃により撃沈。 
1943年(昭和18年)4月24日ブリスベーン北東の南緯24度26分、東経153度44分において、オーストラリア貨物船「コワーラ(Kowarra、2,125トン)を、雷撃により撃沈。 
1943年(昭和18年)5月5日トラック着。 整備休養。 
1943年(昭和18年)6月13日先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、南太平洋方面における作戦を下令される。 
1943年(昭和18年)6月14日トラック発、フィジー諸島に向かう。 
1943年(昭和18年)7月12日フィジー諸島から、エスピリットサント島方面に向かう。 
1943年(昭和18年)8月7日トラック着。 補給待機。 内地に帰投、整備を下令される。
1943年(昭和18年)8月17日トラック発、横須賀に向かう。 
1943年(昭和18年)8月23日横須賀着。 整備休養。 
1943年(昭和18年)11月20日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入、インド洋方面の作戦に従事するため、ペナンに進出を下令される。
1943年(昭和18年)11月22日横須賀発、ペナンに向かう。 
1943年(昭和18年)11月25日第二潜水隊から除かれ、第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 第八五二航空隊の二式飛行艇と協同して、インド西岸の要地コチンの偵察、インド要人の輸送および、敵海上交通破壊を下令される。 
1943年(昭和18年)12月8日ペナン発、マルデイブ諸島ミラムズマル礁に向かう。 
1943年(昭和18年)12月16日ミラムズマル礁に到着、1700、飛行艇に給油したが、飛行艇は長涛のため離水できず、転覆故損。 搭乗員を収容したのち、飛行艇を銃撃処分。 ミラムズマル礁から、カラチ沖に向かう。 
1943年(昭和18年)12月21日カラチ飛行場南東20浬付近に穏密裡に接近、夜間、コム浮舟により、電信機、小型兵器、インド要人12名を揚陸。 オマーン方面に向かう。 
1943年(昭和18年)12月26日オマーン沖に進出、索敵。 
1943年(昭和18年)12月28日マスカット南方の北緯20度00分、東経59度25分において、アメリカ貨物船「ロバート・E・ホーク(Robert E.Hoke(7,176トン)」を雷撃(3本)、大破欄座させた。 
1943年(昭和18年)12月31日マスカット南方の北緯19度45分、東経59度10分において、イギリス油槽船「トーナス(Ttornus、8,054トン)を雷撃(5本)、砲撃を加えて撃沈。
1944年(昭和19年)1月2日マスカット南方の北緯21度21分、東経59度58分において、アメリカ貨物船「アルバート・ギャランチン(Albert Gallatin(7176トン)を雷撃(4本)、砲撃を加えて撃沈したが、敵哨戒機の爆撃を受け、急速潜航避退したが、至近弾により艦内に若干の損傷。 
1944年(昭和19年)1月5日沿岸100浬圏内を漸く離脱、ペナンに向かう。 
1944年(昭和19年)1月15日ペナン着。 整備休養。 
1944年(昭和19年)2月25日ペナン発、アラビア海北部に向かう。 
1944年(昭和19年)3月13日アラビア海北部の北緯21度30分、東経66度11分において、アメリカ油槽船「H・D・コリアー(H.D.Collier、8,298トン)を、砲雷撃により大破(16日沈没)。 
1944年(昭和19年)3月21日マスカット南方の北緯20度48分、東経59度38分において、ノルウェー油槽「グレナ(Grena、8,117トン)」を、砲雷撃により撃沈。 
1944年(昭和19年)3月29日アラビア海中央の北緯16度40、東経64度30分において、アメリカ貨物船「リチャード・ホベイ(Richard Hovey、7,176トン)」を、砲雷撃により撃沈。 
1944年(昭和19年)4月18日ペナン着。 補給休養。 
1944年(昭和19年)4月20日南西方面部隊(南西方面艦隊)から除かれ、先遣部隊第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指挿)に編入、内地に帰投、整備を下令される。 
1944年(昭和19年)5月3日ペナン発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)5月15日呉着。 整備休養。 
1944年(昭和19年)6月15日アメリカ軍はサイパン島に上陸。 あ号作戦決戦発動が下令される。 
1944年(昭和19年)6月16日先遣部隊第一潜水部隊の指揮は、第七潜水戦隊司令官がとる。 
1944年(昭和19年)6月20日第八潜水戦隊(第六艦隊)から除かれる。 第十五潜水隊(第六艦隊)に編入。 内海西部において、運砲筒の曳航訓練。 
1944年(昭和19年)6月27日サイパン方面に運砲筒を揚陸、搭乗員の収容輸送を下令され、呉発、サイパン方面に向かう。 
1944年(昭和19年)7月2日運砲筒をグァム島に揚陸ののち、テニアン島から搭乗員を収容、帰投を下令される。
1944年(昭和19年)7月9日グァム島に接近、運砲筒を揚陸ののち、テニアン島に向かう。 
1944年(昭和19年)7月10日テニアン島に接近を試みたが、敵の警戒が厳重で成功せず、同島沖において待機。 先遣部隊第一潜水部隊の指揮は、第六艦隊司令長官がとる。 新任。 
1944年(昭和19年)7月22日横須賀着。 整備休養。 
1944年(昭和19年)9月横須賀工廠に入渠、回天搭載の設備工事。 
1944年(昭和19年)9月29日改装を終わり、内海西部に回航、訓練待機を下令される。 
1944年(昭和19年)10月9日横須賀発、呉に向かう。 
1944年(昭和19年)10月10日呉着。 待機。 玄作戦以外の潜水出撃準備を急ぐように下令される。 
1944年(昭和19年)10月12日敵機動部隊は台湾、沖縄方面に来襲。 先遣部隊指揮官は玄作戦参加以外の第一潜水部隊を以て、邀撃を下令される。  13日出撃。 第四散開配備(基点:北緯23度20分、東経131度20分、基線方向230度、距離80浬)に配備を下令される。
1944年(昭和19年)10月13日呉発、宮古島東方の北緯21度、東経129度付近に向かう。 
1944年(昭和19年)10月14日先遣部隊甲潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入、所定の配備に強行進撃、南西諸島南東海面の残敵掃蕩を下令される。 
1944年(昭和19年)10月15日甲潜水部隊と、イ散開配備(第四散開配備の150度300浬)に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)10月16日甲潜水部隊と、第三散開配備(基点:北緯19度40分、東経130度20分、基線方向305度、距離60浬)に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)10月17日捷一号作戦警戒を下令される。 陸軍機の偵察によれば、17日9:15、西表島の130度200浬に、敵残存機動部隊があり、針路概ね90度、速力約10節で、南東に避退するものと判断され、甲潜水部隊はこれの捕捉撃滅を下令される。
1944年(昭和19年)10月18日捷一号作戦発動を下令される。 アメリカ軍がレイテ島に上陸。 敵機動部隊は、18日4:00、北緯18度58分、東経127度52分を中心とする20浬圏内にあり、針路概ね約150度、速力9節と推定され、極力前程に出て、これを攻撃するよう下令される。 17:00、ルソン島東北端末方から、引き続き南下した。
1944年(昭和19年)10月19日甲潜水部隊と、第四散開配備(基点:北緯14度20分、東経132度40分、基線方向245度、距離50浬)に配備を下令される。
1944年(昭和19年)10月20日甲潜水部隊と、サマール島東方の方形散開配備(基点:北緯10度、東経130、基線方向350度、距離50浬)に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月20日先遣部隊指揮官は、「捷号作戦の神機は目捷の間にあり、皇国の興廃は 将に此の一戦に決せんとす。 先遣部隊は友軍と協力、死力を傾倒して勇 戦敢闘し、其の真価を発挿すべし」と、訓示した。 
1944年(昭和19年)10月24日先遣部隊は、全軍突撃に転じ、レイテ島東方ヤカア55に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月25日サマール島東方のヤカセ55に配備の変更を下令される。 
1944年(昭和19年)10月27日甲潜水部隊と、第一散開配備(基点スルアン島基線方向100度  開角度50度、距離60浬)に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)10月31日E散開配備(扇形、第一散開配備の距離100浬)のホ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)11月4日E散開配備(扇形)のニ哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)11月5日ルソン島ラモン湾東方のD散開配備(方形、基点ヘカヌ00、基線方向350度、距離50浬)への哨区に配備を下令される。 
1944年(昭和19年)11月7日撤哨して、内海西部に帰投を下令される。 
1944年(昭和19年)11月18日内地帰投予定日を過ぎ、未帰還となる。 
1944年(昭和19年)11月21日レイテ島東方で亡失認定。
1945年(昭和20年)3月10日除籍。

謝辞

アイコンはsinn様の「アイコン工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. 日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p8-12,120-124
  2. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p64,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p132
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p630-639