伊号第三十七潜水艦は巡潜乙型(伊十五型)潜水艦の17番艦である。
日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した
次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。
無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。
乙型はマル三(○の中に三)計画の6隻が開戦までに完成、マル四(○の中に四)計画の14隻のうち1隻が開戦までに完成、13隻が建造中であった。 開戦後のマル急(○の中に急)計画で6隻計画されたが、この6隻は乙型の改型で量産のため主機を巡潜三型と同じ艦本式一号甲十型ディーゼル2基とした。 機関出力が若干低下したが、水上速力は0.1ノットの低下にとどまっている。 なお、兵装は変化していない。
当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長駆ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。(1)
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 乙型(伊十五型) |
水上排水量 ※1 | 2,198トン(基準)/2,584トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 3,654トン |
垂線間長 | 102.40m |
全長 | 108.70m |
最大幅 | 9.30m |
喫水 | 5.14m |
主機 | 艦本式二号十型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 特五型2基 |
蓄電池 | 二号五型×240個 |
出力 | 12,400馬力(水上)/2,000馬力(水中) |
速力 | 23.6ノット(水上)/8ノット(水中) |
燃料 | 重油:774トン |
航続力 | 16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで96浬(水中) |
乗員 | 94名 |
兵装 | 40口径十一年式14cm単装砲1基 九六式25mm連装機銃1基 九五式53cm魚雷発射管6門(艦首) 九五式魚雷17本 |
射出機 | 呉式一号四型1基 |
航空機 | 水上偵察機1機 |
安全潜航深度 | 100m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1940年(昭和15年)12月7日 | 起工。 |
1941年(昭和16年)9月10日 | 伊号第四十九潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定。 |
1941年(昭和16年)10月22日 | 進水。 本籍を呉鎮守府と定める。 |
1941年(昭和16年)11月1日 | 伊号第三十七潜水艦と改名。 |
1943年(昭和18年)3月10日 | 竣工。 警備潜水艦に定める。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入。 内海西部において就役訓練に従事。 呉発。 内海西部で訓練。 |
1943年(昭和18年)3月26日 | 呉潜水戦隊司令官は将旗を「さんとす丸」から当艦に移揚。 |
1943年(昭和18年)3月27日 | 呉潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「筑紫丸」に移揚。 |
1943年(昭和18年)4月1日 | 呉潜水戦隊は解隊。 第十一潜水戦隊(第一艦隊)に編入。 戦時編制。訓練部隊(第一艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入。 引き続き内海西部において就役訓練に従事。 |
1943年(昭和18年)4月2日 | 佐伯着。 |
1943年(昭和18年)5月23日 | 第十一潜水戦隊から除かれ、第十四潜水隊(第八潜水戦隊・第六艦隊)に編入。 訓練部隊から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第八潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入。 インド洋方面作戦を下令される。 |
1943年(昭和18年)5月25日 | 呉発。 佐伯着。 待機。 |
1943年(昭和18年)5月26日 | 佐伯発。 ペナンに向かう。 |
1943年(昭和18年)6月4日 | ペナン着。 待機。 |
1943年(昭和18年)6月6日 | ペナン発。 マダガスカル島北東からペルシャ湾に向かう。 |
1943年(昭和18年)6月16日 | チャゴス諸島南東沖の南緯09度18分、東経80度20分でイギリス油槽船「サン・エルネスト(San Ernesto、8,078トン)」を砲雷撃で撃沈。 |
1943年(昭和18年)6月19日 | モルディブ諸島南西の北緯01度、東経71度15分においてアメリカ貨物船「ヘンリー・ノックス(Henry Knox、7,176トン)」を雷撃により撃沈。 |
1943年(昭和18年)7月1日 | アラビア半島東岸に進出。 索敵。 |
1943年(昭和18年)7月9日 | ペルシャ湾に進出。 索敵。 |
1943年(昭和18年)8月17日 | ペナン着。 待機。 |
1943年(昭和18年)8月22日 | ペナン発。 シンガポールに向かう。 |
1943年(昭和18年)8月24日 | シンガポール着。 整備休養。 |
1943年(昭和18年)9月5日 | シンガポール発。 ペナンに向かう。 |
1943年(昭和18年)9月7日 | ペナン着。 出撃準備。 |
1943年(昭和18年)9月10日 | ペナン発。 コロンボ偵察を兼ね、敵海上交通破壊に向かう。 |
1943年(昭和18年)9月12日 | 第八潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、南西方面部隊(南西方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に部署され、インド洋方面の敵艦隊攻撃および敵海上交通破壊を下令される。 艦内で盲腸炎患者発生のため引き返す。 |
1943年(昭和18年)9月15日 | ペナン着。 盲腸炎患者を揚陸。 補給待機。 第十四潜水隊司令は司令潜水艦を伊号第二十九潜水艦から当艦に変更。 |
1943年(昭和18年)9月20日 | ペナン発。 モザンビーク海峡方面に向かう。 |
1943年(昭和18年)10月11日 | ディエゴ・スアレスを飛行偵察。 |
1943年(昭和18年)10月23日 | モザンビーク海峡の北緯16度21分、東経40度04分において、ギリシャ貨物船「ファネロメニ(Faneromeni、3,404トン)」を雷撃により撃沈。 |
1943年(昭和18年)11月4日 | モザンビーク海峡東方15浬付近で、ノルウェー貨物船エルボーグ(Hallby?rg、2,850トン)を雷撃したが効果なし。 |
1943年(昭和18年)11月17日 | モンサバを飛行偵察。 |
1943年(昭和18年)11月27日 | モルディブ諸島東方の南緯03度00分、東経69度08分においてノルウェー油槽船「スコティア(Scotia、9,972トン)」を雷撃により撃沈。 |
1943年(昭和18年)12月5日 | ペナン着。 補給待機。 |
1943年(昭和18年)12月12日 | ペナン発。 シンガポールに向かう。 |
1943年(昭和18年)12月14日 | シンガポール着。 整備休養。 |
1943年(昭和18年)12月15日 | 第十四潜水隊は解隊。 第八潜水戦隊(第六艦隊)に編入。 |
1944年(昭和19年)2月10日 | ペナン発。 インド南方を経てアラビア海方面に向かう。 |
1944年(昭和19年)2月22日 | モルディブ諸島南西方の南緯00度50分、東経68度00分において、イギリス貨物船「ブリティッシュ・シバルリー(British Chivalry、7,118トン)」を雷撃により撃沈。 |
1944年(昭和19年)2月26日 | チャゴス諸島南西方の南緯08度00分 東経70度00分において、イギリス商船「サトレジ(Sutlej、5,189トン)」を雷撃により撃沈。 |
1944年(昭和19年)2月29日 | アラビア海南方の南緯05度00分 東経63度00分において、イギリス貨物船「アスコット(Ascot、7,005トン)」を雷撃により撃沈。 |
1944年(昭和19年)3月10日 | アラビア海西方の南緯00度24分 東経59度05分において、イギリス船「ブリティッシュ・ユニティ(British Unity)」を雷撃したが効果なし。 |
1944年(昭和19年)4月28日 | ペナン着。 待機。 呂号第五百一潜水艦の日本回航時の補給任務を下令される。 |
1944年(昭和19年)4月30日 | ペナン発。 シンガポールに向かったが、ペナン付近で触雷したためペナンに引き返し、応急修理にあたる。 |
1944年(昭和19年)5月3日 | ペナン発。 シンガポールに回航。 |
1944年(昭和19年)5月5日 | シンガポール着。 入渠修理。 休養。 |
1944年(昭和19年)8月20日 | 南東方面部隊から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)に編入。 内地に帰投、修理整備を下令される。 |
1944年(昭和19年)8月24日 | シンガポール発。 呉に向かう。 |
1944年(昭和19年)9月9日 | 呉着。 入渠修理。 休養。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入。 引き続き内地において修理整備に従事。 |
1944年(昭和19年)9月12日 | 第八潜水戦隊から除かれ第十五潜水隊(第六艦隊)に編入。 |
1944年(昭和19年)9月20日 | 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)から除かれ、同第一潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入。 出撃準備。 呉発。 佐世保に向かう。 |
1944年(昭和19年)9月22日 | 佐世保着。 出撃準備。 |
1944年(昭和19年)10月10日 | 玄作戦以外の潜水艦は出撃準備を急ぐよう下令される。 |
1944年(昭和19年)10月12日 | 15日出撃。 沖縄方面に来襲したアメリカ機動部隊を邀撃するため、第四散開配備(基点:北緯23度20分 東経131度20分、基線方向:230度、距離:80浬)に配備を下令される。 |
1944年(昭和19年)10月15日 | 佐世保から呉に回航を下令される。 |
1944年(昭和19年)10月17日 | 佐世保発。 呉に向かう。 |
1944年(昭和19年)10月18日 | 呉着。 待機。 玄作戦に参加を下令される。 |
1944年(昭和19年)10月21日 | 回天を搭載して、比島方面敵上陸点攻撃の企図を指示される。 |
1944年(昭和19年)11月5日 | 回天特別攻撃隊菊水隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入。西カロリン諸島方面の敵艦船攻撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)11月6日 | 呉発。 大津島基地において回天4基(搭乗員:上別府宜紀大尉、村上克巳大尉、宇都宮秀一少尉、近藤和彦少尉)を搭載。 出撃準備。 |
1944年(昭和19年)11月8日 | 大津島基地発。 パラオに向かう。 |
1944年(昭和19年)11月15日 | パラオのコッスル水道の敵艦船攻撃を下令される。 |
1944年(昭和19年)11月19日 | アメリカ軍記録によれば、8:58 コッスル水道西口においてアメリカ設網艦「ウィンターベリー(Winterberry)」に潜望鏡を発見されアメリカ護衛駆逐艦「コンクリン(Conklin)」、「マッコイ・レイノルズ(McCoy Reynolds)」が出動。 10:15から索敵に入り、15:00 パラオ北方30浬においてソナー探知、爆雷攻撃とヘッジホッグによる6回目の攻撃により大爆発。 重油、船体の破片、遺体の断片が浮上した。 |
1944年(昭和19年)11月20日 | 所在の第三十根拠地隊から伊三十七潜がコッスル水道を攻撃した模様はない旨が報告され、消息不明となる。 搭載の回天搭乗員上別府大尉、村上大尉、宇都宮少尉、近藤彦少尉の4名は戦死と認定され、各2階級特進。 |
1944年(昭和19年)11月23日 | 23日未明までに好機が得られなければ、攻撃を中止して帰投を下令される。 |
1944年(昭和19年)12月6日 | パラオ方面で亡失認定。 |
1945年(昭和20年)3月10日 | 除籍。 |
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