伊号第四百潜水艦は潜特型(伊四百型)潜水艦の1番艦である。
開戦直後の作戦において巡潜に搭載した水上偵察機により、敵港湾の偵察や爆撃が実施され、ただ一回ではあったが、アメリカ本土空襲も実施された。 この緒戦の水上偵察機の活躍により、水上攻撃機を数機搭載し、アメリカ東岸の主要都市を攻撃可能な能力をもつ超大型潜水艦の潜特型が計画された。
本型はミッドウェー海戦後の改マル五(○の中に五)計画において18隻の建造が決定され、1番艦の伊号第四百潜水艦が1943年(昭和18年)1月に呉工廠で起工された。 しかしながら、同年7月には通常型の潜水艦優先建造のため、計画数が10隻に減少され、さらに同年10月に至って潜水艦被害の激増による潜水艦建造計画の抜本的な改訂により、潜特型の計画数は5隻にまで減少した。 当初より建造数が減少したため、1944年(昭和19年)初めに、軍令部は搭載機2機を3機に増加するよう要求し、このため設計が一部変更された。 また、巡潜甲型として建造中であった伊十三型潜水艦3隻を攻撃機2機搭載の潜特型に準じた艦型に変更することが要求され、急遽改装されることとなった。
潜特型の航空艤装は、上甲板に直径4.1m、長さ30.5mの円筒状格納庫を船体中心線より右舷側に設置している。 これに対して、艦橋構造物は左舷側に寄せられバランスをとっている。 格納庫と内殻間には交通筒があり、発動機暖機用の温水管、潤滑油用管などが配管されていた。 これにより、潜航中でも格納庫内での整備、暖機が可能であった。 射出機は、本型用に設計された四式一号射出機で、全長26m、圧縮空気を動力として射出速度68ノット、射出重量5トン、発射間隔4分の性能であった。 船体は航空艤装により船体が大型化したため、伊号第五十一潜水艦と同じメガネ型断面の船殻構造を採用し、内殻径を甲型の5.8mから6mにしている。 主機は、1,925馬力の艦本式22号10型ディーゼル機関4基を流体継手で2基を1軸にまとめて2軸推進とした。 電動機は1,200馬力の特6型2基、蓄電池は1号4型240個である。 兵装は艦首に53cm発射管を8門装備し、魚雷は20本を搭載した。 砲熕兵器は14cm単装砲1門、25mm3連装機銃3基、同単装1基を装備した。
潜特型は1944年(昭和19年)12月30日に一番艦の伊号第四百潜水艦が完成、翌年1月8日に佐世保工廠で伊号第四百一潜水艦が竣工、さらに伊号第十三潜水艦が1944年(昭和19年)12月16日、伊号第十三潜水艦が翌年3月14日に川崎重工で竣工し、1945年(昭和20年)2月に潜水艦4隻、搭載機10機の第一潜水隊が編成された。 第一潜水隊は、パナマ運河の閘門破壊を目標に、内海西部や日本海で訓練を行っていたが、戦局悪化により、攻撃目標がウルシー環礁のアメリカ機動部隊に変更された。 神龍特別攻撃隊に編入された伊号第四百潜水艦は、7月24日に大湊を出撃し、ウルシー泊地に向かったが、進出中にトラック南方で終戦を迎えた。 内地に帰投を下令され、横須賀に向かう途中に魚雷と晴嵐を海中投棄した。 アメリカ軍に接収された伊号第四百潜水艦は、1946年(昭和21年)1月にアメリカに回航され、調査実験後の1946年(昭和21年)5月31日、ハワイ近海で海没処分された。(1)(2)
新造時 | |
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艦種 | 一等潜水艦 |
艦型 | 潜特型 |
水上排水量 ※1 | 3,530トン(基準)/5,223トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 6,560トン |
垂線間長 | 116.00m |
全長 | 122.00m |
最大幅 | 12.00m |
喫水 | 7.02m |
主機 | 艦本式二十二号十型ディーゼル機関2基、2軸 |
主電動機 | 特六型×2基 |
蓄電池 | 一号四型×240個 |
出力 | 7,700馬力(水上)/2,400馬力(水中) |
速力 | 18.7ノット(水上)/6.5ノット(水中) |
燃料 | 重油:1,750トン |
航続力 | 14ノットで37,500浬(水上)/3ノットで60浬(水中) |
乗員 | 157名 |
兵装 | 40口径十一年式14cm単装砲1基 九六式25mm3連装機銃3基 九六式25mm単装機銃1基 九五式3型53cm魚雷発射管8門(艦首) 九五式魚雷20本 |
射出機 | 四式1号10型1基 |
航空機 | 水上攻撃機3機 |
安全潜航深度 | 100m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1943年(昭和18年)1月18日 | 起工。 |
1943年(昭和18年)12月22日 | 伊号第四百潜水艦と命名。 |
1944年(昭和19年)1月8日 | 進水。 |
1944年(昭和19年)12月30日 | 竣工。 一等潜水艦に類別。 第六艦隊第一潜水隊に編入。 呉において整備訓練。 |
1944年(昭和19年)12月31日 | 第一潜水隊は先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入。 呉発。 伊予灘において訓練。 |
1945年(昭和20年)1月7日 | 呉着。 補給整備。 |
1945年(昭和20年)1月11日 | 呉発。 伊予灘において訓練。 |
1945年(昭和20年)1月12日 | 呉着。 補給整備。 |
1945年(昭和20年)1月24日 | 呉発。 日本海に向かい訓練。 |
1945年(昭和20年)2月3日 | 日本海から伊予灘に戻り、訓練。 |
1945年(昭和20年)2月4日 | 呉着。 補給整備。 |
1945年(昭和20年)2月11日 | 呉発。 伊予灘において訓練。 |
1945年(昭和20年)2月17日 | 呉で搭載の飛行機を収容。 |
1945年(昭和20年)2月18日 | 呉発。 伊予灘において訓練。 |
1945年(昭和20年)3月3日 | 呉着。 補給整備。 |
1945年(昭和20年)3月5日 | 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)から除かれ、先遣部隊第一潜水部隊に編入。 |
1945年(昭和20年)4月13日 | 呉発、大連に向かう。 |
1945年(昭和20年)4月15日 | 門司着。 待機。 |
1945年(昭和20年)4月16日 | 門司発、大連に向かう。 |
1945年(昭和20年)4月20日 | 大連着。 燃料搭載。 |
1945年(昭和20年)4月23日 | 大連発。 呉に向かう。 |
1945年(昭和20年)4月27日 | 呉着。 待機。 |
1945年(昭和20年)5月16日 | 呉発。 内海西部において、搭載の第六三一航空隊と訓練。 |
1945年(昭和20年)5月20日 | 呉着。 晴嵐3機を搭載。 戦備作業に当たる。 |
1945年(昭和20年)6月1日 | 呉発、七尾湾に向かう。 |
1945年(昭和20年)6月5日 | 七尾沖着。 訓練待機。 |
1945年(昭和20年)7月13日 | 七尾沖発。 舞鶴着。 補給、出撃準備。 |
1945年(昭和20年)7月20日 | 神龍特別攻撃隊に編入。 ウルシー泊地に対し、晴嵐による特攻作戦を下令される。 舞鶴発。 大湊に向かう。 |
1945年(昭和20年)7月21日 | 大湊着。 待機。 |
1945年(昭和20年)7月24日 | 大湊発。 ウルシー泊地に向かう。 |
1945年(昭和20年)8月5日 | 潜航中、記電盤に火災を生じる。 |
1945年(昭和20年)8月15日 | トラック南方において終戦を迎え、内地に帰投を下令され、横須賀に向かう。 |
1945年(昭和20年)8月20日 | 兵器の処分を下命され、魚雷と晴嵐を海中投棄。 |
1945年(昭和20年)8月30日 | 横須賀着。 アメリカ軍に接収される。 |
1945年(昭和20年)9月2日 | 第一潜水隊は解隊。 以後、乗点は復員に入る。 |
1945年(昭和20年)9月15日 | 除籍。 |
1946年(昭和21年)1月 | アメリカに回航。 |
1946年(昭和21年)5月31日 | アメリカ軍により調査実験後、ハワイ近海で海没処分。 |
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