伊号第五十二潜水艦は巡潜丙型改(伊五十二型)潜水艦の1番艦である。
日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した
次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。
無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画(マル三計画:○の中に三)では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。
丙型はマル三計画の5隻が開戦までに完成、続いてマル急(○の中に急)計画で6隻、マル追(○の中に追)計画で6隻、改マル五(○の中に五)計画で40隻の建造が計画されたが、完成したのはマル急計画の3隻、マル追計画の3隻のみであった。 マル急計画の3隻はマル三計画の建造艦と変わるところはないが、マル追計画の3隻は巡潜乙型の線図を使用し、航空兵装を撤去した艦型となった。 機関を製造容易な艦本式二十二号十型に変更したため、出力が低下し速力は17.7ノットに低下した。 また、主電動機も従来の約半分の出力とされたため、水中速力も8.5ノットから6.5ノットに低下した。 しかしながら機関重量の低減と燃料搭載量の増加にわり航続距離は増大している。 また内殻板をDS鋼からMS鋼(軟鋼)に変更したが、板厚を厚くすることで耐圧深度を維持している。 魚雷発射管は乙型と同じく6門(艦首)であったが、魚雷本数は17本となった。(1)
艦種 | 一等潜水艦 |
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艦型 | 丙型改(伊五十二型) |
水上排水量 ※1 | 2,095トン(基準)/2,564トン(常備) |
水中排水量 ※1 | 2,644トン |
垂線間長 | 102.40m |
全長 | 108.70m |
最大幅 | 9.30m |
喫水 | 5.12m |
主機 | 艦本式二十二号十型ディーゼル2基、2軸 |
主電動機 | 特八型2基 |
蓄電池 | 一号十三型×240個 |
出力 | 4,700馬力(水上)/1,200馬力(水中) |
速力 | 17.7ノット(水上)/6.5ノット(水中) |
燃料 | 重油:842.8トン |
航続力 | 16ノットで21,000浬(水上)/3ノットで105浬(水中) |
乗員 | 94名 |
兵装 | 40口径十一年式14cm単装砲2基 九六式25mm連装機銃1基 九五式53cm魚雷発射管6門(艦首) 九五式魚雷17本 |
安全潜航深度 | 100m |
その他 |
※1:英トン(1.016メートルトン)
年月日 | 履歴 |
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1942年(昭和17年)3月18日 | 起工。 |
1942年(昭和17年)8月20日 | 伊号第五十二潜水艦と命名。 本籍地を呉鎮守府籍と仮定。 |
1942年(昭和17年)11月10日 | 進水。 本籍地を呉鎮守府籍と定める。 |
1943年(昭和18年)12月28日 | 竣工。 先遣部隊(第六艦隊)第十一潜水部隊(第十一潜水戦隊)に編入。 呉発。 伊予灘で訓練。 |
1944年(昭和19年)1月13日 | 別府着。 休養待機。 |
1944年(昭和19年)1月15日 | 別府発。 伊予灘で訓練。 |
1944年(昭和19年)1月22日 | 呉着。 補給整備。 |
1944年(昭和19年)1月24日 | 遣独連絡艦に指定される。 |
1944年(昭和19年)1月31日 | 呉発。 江田内着。 待機。 |
1944年(昭和19年)2月1日 | 江田内発。 伊予灘で訓練。 |
1944年(昭和19年)2月9日 | 別府着。 休養待機。 |
1944年(昭和19年)2月11日 | 別府発。 伊予灘で訓練。 |
1944年(昭和19年)2月22日 | 呉着。 遣独準備。 |
1944年(昭和19年)3月 | 金塊2トン他を大阪造幣局から運び、積み込む。 |
1944年(昭和19年)3月10日 | 先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊(第八潜水戦隊)に編入。 インド洋を経由して、遣独任務の実施を下令される。 呉発。 シンガポールへ向かう。 |
1944年(昭和19年)3月23日 | シンガポール着。 補給。 遣独準備。 |
1944年(昭和19年)4月28日 | シンガポール発。 インド洋を経てフランス北岸へ向かう。 |
1944年(昭和19年)6月10日 | 北大西洋に到達したが、連合軍のノルマンディ上陸が開始され、入港予定先のロリアンは危険となったため、離脱南下し、ベルリンと入港先の連絡にあたる。 |
1944年(昭和19年)6月21日 | ドイツ潜水艦との会合を指定される。 |
1944年(昭和19年)6月23日 | アゾレス諸島西方の指定水域において、ドイツ潜水艦「U-530」と会合。 ドイツ側連絡士官「シェーファー大尉」と電探操作員2名を収容。 |
1944年(昭和19年)6月24日 | ドイツ潜水艦と離別し、ビスケー湾に向かうが、以後消息不明。 |
1944年(昭和19年)6月24日 | ビスケー湾(北緯15度16分、西経39度55分)でアメリカ護衛空母「ボーグ(Bogue)」艦載機の爆撃を受け沈没。 |
1944年(昭和19年)8月2日 | ビスケー湾で亡失認定。 |
1944年(昭和19年)12月10日 | 除籍。 |
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