本文へ

三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

伊号第七潜水艦は巡潜三型(伊号第七型)潜水艦の1番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した。 次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。

巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。 本型は1934年(昭和9年)のマル二(○の中に二)計画で2隻建造された。 2隻とも戦没したが、2番艦の伊号第八潜水艦は日本海軍の潜水艦としては、唯一ドイツとの連絡任務に成功している。(1)

(2)

要目(2)(3)(4)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型巡潜三型(伊七型)
水上排水量 ※12,231トン(基準)/2,525トン(常備)
水中排水量 ※13,583トン
垂線間長103.80m
全長109.30m
最大幅9.10m
喫水5.26m
主機艦本式一号甲十型ディーゼル2基、2軸
主電動機特B型2基
蓄電池二号六型×480個
出力11,200馬力(水上)/2,800馬力(水中)
速力23ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:806トン
航続力16ノットで14,000浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員80名
兵装40口径十一年式14cm連装砲1基
九三式13mm連装機銃2基
八九式53cm魚雷発射管6門(艦首)
八九式魚雷20本
射出機呉式一号三型改1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(5)(6)(7)(8)

年月日履歴
1934年(昭和9年)9月12日起工。
1934年(昭和9年)9月25日伊号第七潜水艦と命名。
1935年(昭和10年)7月3日進水。
1937年(昭和12年)3月31日竣工。 本籍を横須賀鎮守府籍と定める。 横須賀防備戦隊(横須賀鎮守府部隊)に編入。
1938年(昭和13年)2月1日横須賀防備戦隊(横須賀鎮守府部隊)から除かれ、第一潜水戦隊(第一艦隊)に編入。
1938年(昭和13年)4月9〜14日第一潜水戦隊(以下:隊)寺島水道から南支方面に向かい、高雄着。
1938年(昭和13年)10月17〜23日戦隊と寺島水道から南支方面に向かい、馬公着。
1939年(昭和14年)3月22日〜4月2日戦隊と鹿児島から北支方面に向かい、寺島水道に帰着。
1939年(昭和14年)8月6日〜8月27日戦隊と宿毛湾から南洋方面に向かい、岸和田沖に帰着。
1940年(昭和15年)3月26日〜4月1日戦隊と有明湾から南支方面に向かい、基隆着。
1940年(昭和15年)8月25日戦隊と横須賀から南洋方面に向かう。
1940年(昭和15年)9月22日戦隊と横須賀に帰着。
1940年(昭和15年)11月15日第四潜水戦隊から除かれる。 第二潜水戦隊(第六艦隊)に編入。
1941年(昭和16年)2月15日第二潜水戦隊司令官は旗艦を「長鯨」から当艦に変更。
1941年(昭和16年)2月23日戦隊主力(当艦)は横須賀から南支方面に向かう。
1941年(昭和16年)4月23日戦隊主力(当艦)は横須賀着。
1941年(昭和16年)5月3日第二潜水戦隊司令官は旗艦を当艦から「大鯨」に変更。
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。艦の飛行機定数は九六式小型水上偵察機1機。
1941年(昭和16年)10月21日佐伯錨地において、伊号第六十六潜水艦と触衝。 メインタンクを損傷。
1941年(昭和16年)10月横須賀着。 入渠修理。
1941年(昭和16年)11月5日第二潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面アメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。
1941年(昭和16年)11月10日第二潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊(第二潜水戦隊に編入。 ハワイ方面において敵艦船攻撃、監視を下令される。
1941年(昭和16年)11月16日第二潜水戦隊司令官は将旗を「さんとす丸(特設潜水母艦)」から当艦に移揚。 戦隊主力(当艦)は14:00、横須賀発、ミッドウェー北方を経てハワイに向かう。
1941年(昭和16年)12月2日対米開戦は12月8日と下令される。 オアフ島の300浬圏内に入り、穏密裡に進航。
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島北方の哨区に到着。 待機。
1941年(昭和16年)12月8日開戦により、索敵哨戒。
1941年(昭和16年)12月12日第二潜水部隊は18日、第三潜水部隊と交代し、1月12日までハワイ方面における監視を下令される。真珠湾の飛行偵察を下令され、ニイハウ島南方において実施を図ったが、敵の警戒が厳重で、天候不良も重なり、断念して待機。
1941年(昭和16年)12月13日カウアイ島の影に入ったが、飛行機発進に適当な海面でなく、以後は味方の哨戒線を避け、北方に迂回して、ハワイ島南方に向かう。
1941年(昭和16年)12月16日同夜、ハワイ島西側に到着。 待機。
1941年(昭和16年)12月17日2:10、ハワイ島カイルア沖30浬において、水偵を発進させ、真珠湾の主要在泊艦船と、機動部隊の戦果を偵察。 イーストロック泊地に戦艦4隻(うち3隻は檣楼など上部構造物大破)と空母1隻。 フォード島南方泊地に巡洋艦5隻、駆逐艦その他小艦艇約30隻、沈没艦らしきものあり。湾口5浬付近に駆逐艦2隻、同10浬付近に哨戒艦数隻と報告。 水偵は無事に帰艦、揚収された。
1941年(昭和16年)12月18日ニイハウ島南方100浬に配備を移動。
1942年(昭和17年)1月2日第二潜水部隊は、オアフ島の230度100浬において、伊号第三潜水艦が攻撃した敵航空母艦を追撃するため、北緯20度20分を中心とした散開線で掃航西進を下令された。 移動中の20:10、オアフ島南方100浬付近において、北上するアメリカ巡洋艦1隻、駆逐艦2隻を発見、追跡。雷撃(3本)したが命中しなかった。 爆雷攻撃を2回受けたが、被書なく離脱。 引き続き進航した。
1942年(昭和17年)1月3日第二潜水部隊と散開線から西進掃航したが、20:00反転。
1942年(昭和17年)1月4日マウイ島南方のY散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月5日Y散開線から、再びニイハウ島南方に向かう。
1942年(昭和17年)1月6日ニイハウ島南方の哨区に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)1月10日第二潜水部隊はジョンストン島東方において南北に散開、250度方向に向かい、11日20:00以降、アメリカ航空母艦「レキシントン(Lexington)」の索敵掃航を下令される。
1942年(昭和17年)1月11日散開線に到着。 待機ののち20:00、索敵掃航を開始。
1942年(昭和17年)1月13日第二潜水部隊は2:00反転、東方160度の掃航を下令される。 反転後、敵機の警戒が厳重となり、艦は敵機の爆撃を受け、燃料漏洩の疑いが生じた。 1800部隊は撤収してヽクェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)1月21日クェゼリン着。 補給待機。
1942年(昭和17年)1月24日クェゼリンから横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)2月1日横須賀着。 入渠修理。 第二潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「さんとす丸」に移揚。
1942年(昭和17年)2月8日第二潜水戦隊は先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、南方部隊(第二部隊)に編入、インド洋方面の作戦を下令される。
1942年(昭和17年)2月9日第二潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)丙潜水部隊(第二潜水戦隊)に編入、2月23日頃スターリング湾発、インド洋に出撃、ジャワ攻略作戦に策応して、敵艦船攻撃を下令される。 第二潜水戦隊司令官は将旗を「さんとす丸」から当艦に移揚。
1942年(昭和17年)2月11日横須賀からパラオに向かう。
1942年(昭和17年)2月16日第二潜水戦隊はスターリング湾に回航を下令される。 パラオに寄港、補給。
1942年(昭和17年)2月17日パラオからスターリング湾に向かう。
1942年(昭和17年)2月21日スターリング湾着。 部隊と合同、補給待機。
1942年(昭和17年)2月23日スターリング湾からジャワ南方400浬を経てココス島に向かう。
1942年(昭和17年)3月1日パレンバン南方600浬付近に到着、索敵。
1942年(昭和17年)3月4日チラチャップ−オーストラリア航路上、ココス島の330度250浬付近において、13:00オランダ貨物船「Le Maire(3271トン)」を砲撃、撃沈。
1942年(昭和17年)3月5日Q散開線を経て、ペナンに向かう。
1942年(昭和17年)3月9日ペナン到着。 補給待機。
1942年(昭和17年)3月14日丙潜水部隊はベンガル湾機動作戦に協力し、セイロン方面の偵察および気象通報を下令される。
1942年(昭和17年)3月20日セイロン沖に進出、気象通報および海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)3月26日ペナンからセイロン方面に向かう。
1942年(昭和17年)4月1日8:17、セイロン南端の140度180浬付近において、水上機の爆撃を受けたが被害はなく、同夜コロンボ港外に到着、偵察に当たり、敵の警戒が厳重なことを報告。
1942年(昭和17年)4月2日コロンボ港外で監視に当たり、飛行偵察を企図した。
1942年(昭和17年)4月3日7:40、南緯1度00分、東経78度11分において、イギリス貨物船「Clenshiel(9415トン)」を砲撃(20発)、雷撃(2本)で撃沈。 飛行偵察を取り止め、ツリンコマリ方面に移動。
1942年(昭和17年)4月9日丙潜水部隊は撤収して、シンガポールに帰投を下令される。 セイロン沖を撤収、シンガポールに向かう。
1942年(昭和17年)4月10日第二潜水戦隊は南方部隊(第二艦隊)から除かれる。 先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊(第二潜水戦隊)に編入、内地において次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)4月15日18:00シンガポール着。 補給待機。
1942年(昭和17年)4月21日シンガポールから横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)5月1日横須賀着。 整備休養。
1942年(昭和17年)6月6日第二潜水戦隊は10日以降、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン方面の作戦を下令される。
1942年(昭和17年)6月8日第二潜水戦隊は北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、敵艦隊の索敵攻撃、アリューシャン方面要地攻略作戦の支援を下令される。
1942年(昭和17年)6月10日第二潜水戦隊はK散開線(北緯50度西経178度〜北緯48度)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)6月11日横須賀からカナガ島南方のK散開線に向かう。
1942年(昭和17年)6月19日K散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月20日カナガ島南方のK散開線に配備の変更を下令される。 移動。
1942年(昭和17年)6月24日キスカ島南方のY2散開線に配備の変更を下令される。
1942年(昭和17年)6月26日再び、カナガ島南方のY散開線に配備の変更を下令される。
1942年(昭和17年)6月28日Y散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月29日30日18:00、Y散開線を撤哨、7月3日零時までに、K散開線に配備の変更を下令される。
1942年(昭和17年)6月30日北方部隊潜水部隊指揮官は第二潜水戦隊司令官となる。 18:00、Y散開線を撒哨、カナガ島南方のK散開線に向かう。
1942年(昭和17年)7月3日K散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)7月7日ウニマク水道南東方に進出、ダッチハーバー−シアトル間の航路上を機宜行動し、敵艦船攻撃を下令される。
1942年(昭和17年)7月8日K散開線を撒哨、ウニマク水道南東方に向かう。
1942年(昭和17年)7月13日ウニマク水道南東方に進出。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)7月15日17:03、北緯54度、西経157度30分において、アメリカ貨物船「Arcata(2722トン)」を砲雷撃により撃沈。
1942年(昭和17年)7月20日第二潜水戦隊は北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊(第二潜水戦隊)に復帰。 内地に帰投、次期作戦準備を下令される。 ウニマク水道南東方から撤収して横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)8月1日横須賀着。 整備休養。
1942年(昭和17年)8月20日第二潜水戦隊は解隊。 第六艦隊付属に編入。 先遣部隊(第六艦隊)第二潜水部隊(第七潜水戦隊)に編入。  次期作戦準備を下令される。 
1942年(昭和17年)8月31日第六艦隊付属から除かれ、第七潜水隊(第六艦隊付属)に加えられる。
1942年(昭和17年)9月1日司令潜水艦を伊号第一潜水艦から当艦に変更。
1942年(昭和17年)9月8日潜水部隊の全力をレ号(ニューギニア方面)作戦海面に集中を下令される。 横須賀からトラックに向かう。
1942年(昭和17年)9月15日トラック着。 補給。
1942年(昭和17年)9月17日トラックからガダルカナル島方面に向かう。
1942年(昭和17年)9月23日先遣部隊(第六艦隊)第一監視部隊第二潜水部隊に編入。 第三潜水戦隊司令官の指揮下に、インディスペンサブル海峡に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。
1942年(昭和17年)10月4日先遣部隊(第六艦隊)甲潜水部隊(第三潜水戦隊)に編入、インディスペンサブル礁南西のA散開線に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。
1942年(昭和17年)10月5日甲潜水部隊とともに、A散開線から南方のB散開線の間を往復して掃航索敵を下令され、10日までに3往復したが、会敵しなかった。
1942年(昭和17年)10月10日C散開線(A、B散開線の中間)を撒哨、エスピリットサント島に向かう。
1942年(昭和17年)10月13日エスピリットサント島南部沖に到着、水上偵察機を発進させ黎明時に飛行偵察。 在泊艦船多数を確認と報告。
1942年(昭和17年)10月14日夜半、エスピリットサント島飛行場を砲撃(14発)したのち、離脱退避。
1942年(昭和17年)10月16日引き続き、エスピリットサント島付近に配備を下令される。
1942年(昭和17年)10月20日甲潜水部隊に編入され、第三潜水戦隊司令官の指揮下に、部隊とY日(22日と予定)のガダルカナル島総攻撃に応じて、サンスピリッツ島南西の巳散開線に配備を下令される。
1942年(昭和17年)10月22日Y日の一日延期を下令される。
1942年(昭和17年)10月23日Y日は更に、一日延期を下令される。 0:30、エスピリットサント島飛行場を砲撃(56発)したのち、巳散開線に向かう。
1942年(昭和17年)10月24日巳散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)10月25日甲潜水部隊と20:20、バンクス諸島北西方の]散開線に配備を下令され、北上。
1942年(昭和17年)10月26日南太平洋海戦が起こり、味方機がレンネル島西方に敵戦艦部隊の発見を報告したため、甲潜水部隊は45度方向に水上進撃を下令される。
1942年(昭和17年)10月27日甲潜水部隊とバンクス諸島東方のJ1散開線に配備、敵機動部隊の帰投時の攻撃を下令される。 J1散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)10月28日先遣部隊直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、エスピリットサント島方面において、哨戒を下令される。
1942年(昭和17年)10月31日エスピリットサント島の飛行偵察を下令される。
1942年(昭和17年)11月7日エスピリットサント島を潜航偵察。
1942年(昭和17年)11月9日エスピリットサント島沖からトラックに向かったが、帰途、ヌデニおよびバニコロ方面の敵飛行艇母艦の攻撃を下令され、ヌデニ島に向かう。
1942年(昭和17年)11月10日ヌデニ島を潜航偵察。
1942年(昭和17年)11月11日バニコロ島を飛行偵察。 乙潜水部隊に編入、第一潜水戦隊司令官の指揮下に、サンクリストバル島南西海面において、ガダルカナル島に対する敵増援の阻止を下令される。
1942年(昭和17年)11月16日サンクリストバル島南西方を撒哨、トラックに向かう。
1942年(昭和17年)11月22日トラック着。 補給待機。 内地に帰投し、修理整備を下令される。
1942年(昭和17年)11月26日第一潜水戦隊司令官は将旗を平安丸(特設潜水母艦)から当艦に移揚。 トラックから横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)12月1日横須賀着。 入渠修理、整備休養。 第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦から陸上に移転。
1942年(昭和17年)12月10日司令潜水艦を当艦から伊号第四潜水艦に変更。
1942年(昭和17年)12月18日先遣部隊(第六艦隊)直率潜水部隊に編入、第六艦隊司令長官の直率下に、内地において修理整備を下令される。
1943年(昭和18年)3月5日司令潜水艦を伊号第二潜水艦から当艦に変更。
1943年(昭和18年)4月1日第七潜水隊は第六艦隊付属から除かれ、第五艦隊付属に編入。
1943年(昭和18年)4月15日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第七潜水隊)に編入。 アリューシャン方面の防備、敵艦隊攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)4月21日横須賀からキスカ島へ向かう。
1943年(昭和18年)5月1日キスカ島着。 輸送物件を揚陸。 同日、アッツ島に向かう。
1943年(昭和18年)5月4日アッツ島着。 輸送物件を揚陸。 同日、幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)5月8日幌筵着。 連絡任務ののち、同日横須賀に向かう。
1943年(昭和18年)5月12日北方部隊潜水部隊指揮官は第一潜水戦隊司令官となる。  アメリカ軍がアッツ島に上陸。 部隊は速やかに潜水艦を同方面に集中、敵艦隊、輸送船の撃破を下令される。 横須賀着。 補給待機。
1943年(昭和18年)5月14日横須賀からアッツ島方面に向かう。
1943年(昭和18年)5月22日アッツ島方面に進出、索敵哨戚。
1943年(昭和18年)5月24日アッツ島沖から撤収、キスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)5月27日18:30、キスカ島に到着、兵器弾薬2トン、酒保品等6トンを揚陸、帰還便乗者60名(陸軍7、海軍49、軍属4)、遺骨28柱、打殻4トンを収容して、21:00幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)6月1日幌筵着。 撤収人員等を揚陸、待機。
1943年(昭和18年)6月3日北方部隊潜水部隊はケ号作戦により、キスカ島守備隊の撤収輪送を下令される。
1943年(昭和18年)6月4日幌延からキスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)6月9日19:00キスカ島着。 兵器弾薬19トン、糧食等15トンを揚陸、帰還撤収員101名(陸軍18、海軍42、軍属41)を収容。 21:00幌筵に向かう。
1943年(昭和18年)6月13日幌筵着。 撤収員を揚陸。 補給待機。
1943年(昭和18年)6月15日19:30、幌筵からキスカ島に向かう。
1943年(昭和18年)6月17日キスカ島付近において、潜水艦の被害続発のため、現位置において待機と下令される。
1943年(昭和18年)6月19日キスカ島輪送の続行を下令され、17:00浮上してキスカ島に接近。
1943年(昭和18年)6月20日濃霧のため、キスカ島への入港が難しく、待機。
1943年(昭和18年)6月21日1:00潜航してキスカ島に接近。 14:30浮上して七夕湾に向かったが、キスカ島ヒロ岬南方でアメリカ駆逐艦「モナハン (Monaghan)」のレーダー射撃を受け被弾大破。 旭崎南端付近に擱座、応急修理に当たる。
1943年(昭和18年)6月22日陸軍部隊の応援を受け、物件揚陸。 離礁成功。 七夕港に入港し応急修理の後、横須賀に向け出港。 七夕岬南方約10浬で敵艦3隻と交戦、大破。 南水道二子岩に擱座。
1943年(昭和18年)6月23日損傷がひどく放棄処分と決定。 喪失と認定される。 北方部隊潜水部隊によるケ号作戦は中止となる。
1943年(昭和18年)6月24日鹵獲防止のため第一回爆破(艦首)
1943年(昭和18年)6月27日第二回爆破(司令塔)
1943年(昭和18年)6月28日第三回爆破(発令所)
1943年(昭和18年)6月29日第四回爆破(第三ハッチ)
1943年(昭和18年)7月5日第五回爆破(士官室)
1943年(昭和18年)8月1日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 19巻 潜水艦伊号.東京,光人社,1997,p8-12
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p57,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p12,122
  5. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p15
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p310-319
  7. 昭和18年3月6日〜昭和18年6月1日 第7潜水隊戦時日誌戦闘詳報(5).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C08030131700 (第43〜53画像目).昭和18年3月6日〜昭和18年6月1日 第7潜水隊戦時日誌戦闘詳報,(防衛省防衛研究所)
  8. 昭和18年3月6日〜昭和18年6月1日 第7潜水隊戦時日誌戦闘詳報(6).アジア歴史資料センター,リファレンスコード:C08030131800 (第1〜2画像目).昭和18年3月6日〜昭和18年6月1日 第7潜水隊戦時日誌戦闘詳報,(防衛省防衛研究所)