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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

甲型

伊号第九潜水艦は巡潜甲型(伊九型)潜水艦の1番艦である。

日本の潜水艦は大正末期から、艦隊に随伴して敵艦隊の索敵、追躡(ついじょう:後から追うこと。追跡。)、漸減にあたる高速力の海大型(海軍式大型)潜水艦と、長駆敵泊地近くに進出し敵艦隊の動向見張り、追躡にあたる巡潜型(巡洋潜水艦)とに分かれて発達してきた。 巡洋潜水艦として最初に建造された巡潜一型は、ドイツの潜水艦技術を取り入れるため、ドイツのゲルマニア社の元潜水艦開発部長テッヘル博士他の技術者を招聘し、その指導下で建造された。 兵装を日本式に改めた以外はドイツのU142型の設計を踏襲し、燃料搭載量を増加し航続力をオリジナルの10ノットで18,000浬から24,400浬に延伸している。 また、最終艦の伊号第五潜水艦では小型水上偵察機1機を搭載した。

次級の巡潜二型では、機関出力の増大により水上速力を21ノットに引き上げた。 航空兵装は射出機と小型水上偵察機1機を搭載した。 巡潜三型は潜水戦隊旗艦とするため居住性と通信能力の強化などがなされ、10,000馬力の機関により、海大型に匹敵する水上速力23ノットを得た。 魚雷発射管は艦尾装備を廃止し艦首に6門装備、航空兵装は後甲板に格納筒2基、射出機1機を装備し、水上偵察機1機を搭載した。

無条約時代に突入した1937年(昭和12年)度の第三次補充計画では巡潜三型の発展型として3種類の巡潜型潜水艦が計画された。 甲型は潜水戦隊司令部設備を持ち、水上偵察機を搭載したもっとも大型の巡潜である。 航空兵装は射出機1機を前甲板に装備し、水上偵察機1機を搭載した。 乙型は甲型から潜水戦隊旗艦設備を除いた形式で、若干小形となっている。 航空兵装は甲型と同一である。 丙型航空兵装を持たず、魚雷発射管の数を2門増やし8門とし、魚雷搭載数を20本に増やし魚雷兵装を強化した形式である 丙型は建造を急ぐため巡潜三型の線図を流用した。 これら3種類の巡潜は水上速力23ノットを超え、海大型に匹敵する機動力を得て、ここに海大型は巡潜型に統合されることとなった。

甲型はマル三(○の中に三)計画の2隻が開戦までに完成、マル四(○の中に四)計画の1隻が建造中であった。 1942年(昭和17年)のマル追(○の中に追)計画では2隻の建造を計画したが、戦時急造のための低出力の主機が搭載され1番艦は伊号第十二潜水艦として完成。 マル追計画の2番艦と改マル五(○の中に五)計画の6隻中3隻は、水上攻撃機「晴嵐」2機を搭載するように変更され、伊号第十三型潜水艦(甲型改二)として完成した。

当初の計画では、艦隊決戦において、甲型が子隊の乙型、丙型、海大型を率いて長駆ハワイ近海まで進出し、出撃してくるアメリカ艦隊の索敵、追躡、漸減にあたることになっていたが、開戦後にそのような状況は生起しなかった。(1)

要目(2)(3)(4)

新造時
艦種一等潜水艦
艦型甲型(伊九型)
水上排水量 ※12,434トン(基準)/2,919トン(常備)
水中排水量 ※14,130トン
垂線間長108.40m
全長113.70m
最大幅9.55m
喫水5.36m
主機艦本式二号十型ディーゼル2基、2軸
主電動機特六型2基
蓄電池二号六型×480個
出力12,400馬力(水上)/2,400馬力(水中)
速力23.5ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:928トン
航続力16ノットで16,000浬(水上)/3ノットで90浬(水中)
乗員100名(旗艦時は114名)
兵装40口径十一年式14cm単装砲1基
九六式25mm連装機銃2基
九五式53cm魚雷発射管6門(艦首)
九五式魚雷18本
射出機呉式一号四型1基
航空機水上偵察機1機
安全潜航深度100m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(5)(6)

年月日履歴
1938年(昭和13年)1月25日起工。
1939年(昭和14年)5月1日伊号第九潜水艦と命名。
1940年(昭和15年)5月20日進水。 本籍を横須賀鎮守府籍と定める。
1941年(昭和16年)2月13日竣工。 第一潜水戦隊(第六艦隊.連合艦隊)に編入。 呉発。 内海西部で訓練。
1941年(昭和16年)5月16日第一潜水戦隊司令官は、旗艦を「さんとす丸」から当艦に変更。
1941年(昭和16年)5月24日第一潜水戦隊は知多湾発、南洋方面に向かう。 訓練。
1941年(昭和16年)6月25日第一潜水戦隊は有明湾着。
1941年(昭和16年)7月横須賀着。 整備休養。
1941年(昭和16年)8月14日第一潜水戦隊司令官は旗艦を当艦から「さんとす丸」に変更。
1941年(昭和16年)9月1日連合艦隊は戦時編制。 艦の飛行機定数は零式小型水上機1機。 第一潜水戦隊司令官は、旗艦を「さんとす丸」から当艦に変更。
1941年(昭和16年)11月5日第一潜水戦隊は、先遣部隊(第六艦隊)に編入、ハワイ方面のアメリカ艦隊の監視、攻撃を下令される。 
1941年(昭和16年)11月10日第一潜水戦隊主力は、先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。  ハワイ諸島オアフ島北東海面に配備、機動部隊の掩護および、敵出撃部隊の邀撃を下令される。
1941年(昭和16年)11月15日先遣部隊は、横須賀在泊の旗艦香取において、先遣部隊指揮官から作戦命令の下達および、作戦打合せに当たる。
1941年(昭和16年)11月16日戦隊主力は、横須賀において、第一潜水部隊の作戦打合せに当たる。
1941年(昭和16年)11月21日第一潜水戦隊司令官は旗艦を「靖国丸」から当艦に変更。  横須賀発。 ミッドウェー北方を経て、ハワイ方面に向かう。
1941年(昭和16年)11月27日第一潜水部隊は、ハワイの600浬圏内に入る。 
1941年(昭和16年)12月2日対アメリカ開戦は8日と下令される。
1941年(昭和16年)12月7日オアフ島北東型の哨区に到着。 待機。
1941年(昭和16年)12月8日開戦により、監視配備につく。
1941年(昭和16年)12月10日第一潜水部隊は、機動部隊のミッドウェー攻撃に伴い、敵出撃部隊を警戒のため、11日朝までにカウアイ島南方に移動、散開を下令されたが、その直後、オアフ島東方からアメリカ本土に向かうアメリカ空母レキシントンが発見され、その追撃を下令された。部隊と東進。
1941年(昭和16年)12月12日8:30、ハワイ北東600浬付近の北緯27度42分、西経147度38分において、アメリカ貨物船「Lahaina」(5645トン)を、砲撃により撃沈。  
1941年(昭和16年)12月13日先遣部隊(第六艦隊)先遣支隊(第一潜水戦隊)に編入、アメリカ西岸において、敵海上交通破壊を下令される。 部隊とアメリカ空母を追って、アメリカ西岸に向かう。 
1941年(昭和16年)12月20日ブランコ岬付近に到着、索敵哨戒。 
1941年(昭和16年)12月22日支隊と、パナマ運河から回航のアメリカ戦艦群を捕捉のため、南下を下令され、ブランコ岬付近からグアダループ島付近に向かう。
1941年(昭和16年)12月24日グアダループ島付近に進出、索敵哨戒。 
1941年(昭和16年)12月27日支隊と、アメリカ西岸を撤収し、クェゼリンに帰投を下令され、撤収してクェゼリンに向かう。
1942年(昭和17年)1月1日支隊とハワイ東方に到達していたが、アメリカ空母発見の報告によりジョンストン島南方の索敵、掃航を下令される。
1942年(昭和17年)1月11日クェゼリン着。 整備休養。
1942年(昭和17年)1月27日2月2日クェゼリン発。 第一潜水部隊と、ハワイ方面監視および敵海上交通破壊を下令される。
1942年(昭和17年)2月1日アメリカ機動部隊のクェゼリン来襲により、錨泊沈座して回避ののち、 急遽出撃し、ウォッゼ方面に向かい掃航索敵。
1942年(昭和17年)2月2日第一潜水部隊とハワイ方面に向かい、アメリカ機動部隊の追撃を下令される。
1942年(昭和17年)2月3日引き続き、ハワイ方面に向かい、掃航索敵。
1942年(昭和17年)2月8日オアフ島南方200浬に到達し、搭載水上偵察機により、パールハーバーの偵察を図ったが、天候不良のため延期となる。
1942年(昭和17年)2月17日K作戦(飛行艇によるハワイ攻撃)に協力し、M点(北緯19度、西経174度20分)で無線誘導を下令される。
1942年(昭和17年)2月24日ニイハウ島西方から、16:40水上偵察機を発進させ、夜間、真珠湾内の在泊艦船を偵察。月齢の関係で視認困難な状況であり、偵察の結果は以後の作戦に寄与しなかった。水偵は帰艦、揚収時に破損。以後は使用不能。16:30、フレンチフリゲート礁西方に配備を下令される。
1942年(昭和17年)3月1日オアフ島付近を撤収してM点に向かう。
1942年(昭和17年)3月3日M点に進出。 気象通報にあたる。
1942年(昭和17年)3月4日M点において長波を輻射して、K作戦の飛行艇の誘導にあたったのち、第一潜水戦隊と撤収して内地に向かう。
1942年(昭和17年)3月5日第一潜水戦隊と南鳥島に来襲したアメリカ機動部隊を索敵掃航して、 帰航するように下令される。
1942年(昭和17年)3月13日先遣部隊哨戒潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入。 アメリカ機動部隊を警戒のため、M散開線(東経160度)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)3月16日部隊とM散開線に到着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)3月17日6:00、M散開線を撤収、横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)3月18日先遣部隊哨戒潜水部隊の編成を解かれる。 同第一潜水部隊(第一 潜水戦隊)に編入。 内地に帰投、次期作戦準備を下令される。
1942年(昭和17年)3月21日横須賀着。 整備休養。
1942年(昭和17年)4月15日第一潜水戦隊司令官は旗艦を「平安丸」から当艦に変更。
1942年(昭和17年)4月18日第一潜水戦隊はアメリカ機動部隊の本土来襲により、急速出撃準備を下令される。
1942年(昭和17年)4月19日第一潜水戦隊の急速出撃準備は取り止めを下令される。
1942年(昭和17年)5月8日連合艦隊第二期兵力部署を下令される。 第一潜水戦戦隊は、5月5日付けで、先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 北方部隊(第五艦隊)に編入。 アリューシャン列島方面の要地攻略作戦の支援を下令される。
1942年(昭和17年)5月15日横須賀発。 大湊に向かう。
1942年(昭和17年)5月17日第一潜水部隊と、大湊着、第五艦隊司令部と作戦打合せ。
1942年(昭和17年)5月19日第一潜水部隊と、大湊発。 アリューシャン方面に向かう。
1942年(昭和17年)5月20日北方部隊(第五艦隊)潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、アリューシャン方面要地偵察、敵艦船攻撃を下令される。 5月末まで、西部アリューシャン方面の要地偵察に当たり、以後 は敵艦船攻撃を下令される。
1942年(昭和17年)5月25日キスカ、アムチトカ両島を飛行偵察。
1942年(昭和17年)5月26日アダック、カナガ両島を飛行偵察。
1942年(昭和17年)5月27日D散開線(北緯43〜46度、東経177度)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)5月29日潜水部隊とD散開線に到着、第二機動部隊の東方300浬付近の前路および側方の警戒に当たる。
1942年(昭和17年)5月31日潜水部隊と、D散開線からE散開線(西経162度)に向かう。
1942年(昭和17年)6月3日潜水部隊と、E散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月3日潜水部隊と、E散開線から北東方のF散開線(北緯50〜53度、西経165度)に配備を下令され、移動。
1942年(昭和17年)6月4日潜水部隊と、F散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月5日第一潜水戦隊は、先遣部隊に復帰を下令される。 戦隊は14:30、再び北方部隊に編入を下令される。
1942年(昭和17年)6月6日第一潜水戦隊は6月30日、先遣部隊復帰を下令される。 潜水部隊と、J散開線(カナガ島南方の西経177度付近)に、配備の変更を下令され、F散開線から移動。
1942年(昭和17年)6月7日潜水部隊と、J散開線に到着、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)6月10日コジアク島方面の監視配備を下令される。
1942年(昭和17年)6月11日J散開線からコジアク島方面に向かう。
1942年(昭和17年)6月14日コジアク島南西沖に進出、監視配備につく。
1942年(昭和17年)6月16日コジアク島沖において、敵輸送船2隻を雷撃したが、効果がなかった。 夜半に、コジアク島を飛行偵察。 
1942年(昭和17年)6月29日撤収してアダック島南方(北緯42〜43度)に配備の移動を下令され、コジアク島付近から移動。
1942年(昭和17年)6月30日北方部隊(第五艦隊)から除かれ、先遣部隊(第六艦隊)第一潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、内地に帰投、次期作戦準備。
1942年(昭和17年)7月3日部隊とアダック島南方に到達。 引き続き、横須賀に向かう。
1942年(昭和17年)7月11日横須賀着。 整備休養。 第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「平安丸」に移揚。 第一潜水部隊は、8月中旬以降、インド洋方面作戦を予定される。
1942年(昭和17年)8月8日アメリカ軍のソロモン反攻により、第一潜水部隊は15日までに急速出撃準備を完成し、南東方面部隊の作戦支援を下令される。 
1942年(昭和17年)8月12日元山航空隊機が発見したアメリカ軍の不時着水偵の出現により、第一潜水部隊は、アメリカ機動部隊を警戒のため急遽出撃、本州東方に進出を下令される
1942年(昭和17年)8月15日第一潜水部隊と横須賀発。 東京湾東方に向かい索敵掃航したのち、夕刻、東進の中止を下令され、ソロモン諸島方面に向かう。
1942年(昭和17年)8月20日第一潜水部隊と、A散開線(南緯7度40分、東経165度〜南緯9度40分、東経163度20分)に配備を下令される。
1942年(昭和17年)8月23日第一潜水部隊と、C散開線(南緯10度40分、東経164度〜南緯12度40分、東経162度20分)に配備を下令され、次いで、21日黎明時までに、散開線(南緯12度20分、東経164度40分〜東経162度20分)に配備の移動を下令される。
1942年(昭和17年)8月24日第一潜水部隊と、D散開線に向かい南下中、16:50、E散開線(南緯9度20分、東経165度6分〜南緯10度20分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。
1942年(昭和17年)8月25日第一潜水部隊と、17:20、E2散開線(南緯10度10分、東経164度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備の変更を下命される。 戦艦2、駆逐艦2を発見、追跡中に敵駆逐艦の爆雷攻撃を受け損傷、トラックに向かう。
1942年(昭和17年)8月26日南東方面現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 旗艦が被爆損傷のため帰投。
1942年(昭和17年)8月30日トラック着。 損傷修理。 潜望鏡2本が使用不能。 無線故障、後部主排水ポンプ使用不能、漏油の損傷であった。
1942年(昭和17年)8月23日第一潜水部隊と、C散開線(南緯10度40分、東経164度〜南緯12度40分、東経162度20分)に配備を下令され、次いで、21日黎明時までに、D散開線(南緯12度20分東経164度40分〜162度20分)に配備の移動を下令される。
1942年(昭和17年)8月24日第一潜水部隊と、D散開線に向かい南下中、16:50、E散開線(南緯9度20分、東経165度6分〜南緯10度20分、東経163度20分)に配備の変更を下令される。
1942年(昭和17年)8月25日第一潜水部隊と、17:20、E2散開線(南緯10度10分、東経164度40分〜南緯12度40分、東経163度20分)に配備の変更を下命される。 戦艦2、駆逐艦2を発見、追跡中に敵駆逐艦の爆雷攻撃を受け損傷、トラックに向かう。
1942年(昭和17年)8月26日南東方面現地潜水部隊の統一指揮官は、第一潜水戦隊司令官から第三潜水戦隊司令官となる。 旗艦が被爆損傷のため帰投。
1942年(昭和17年)8月30日トラック着。 損傷修理。 潜望鏡2本が使用不能。 無線故障、後部主排水ポンプ使用不能、漏油の損傷であった。
1942年(昭和17年)9月6日南東方面現地潜水部隊の統一指揮官は、再び第一潜水戦隊司令官となった。 旗艦を変更して再進出。 
1942年(昭和17年)9月8日潜水部隊の全力をレ号(ニューギニア方面)作戦海面に集中を下令される。 12日天明後、I散開線(南緯11度10分、東経164度25分〜南緯12度20分、東経162度)に配備を下令される。 トラック発、南下。 
1942年(昭和17年)9月12日I散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)9月13日7:30、バニコロ島および同付近の敵機動部隊の飛行偵察を下令されたが、基地航空隊の索敵の成功により、取り止めとなる。 ツラギの123度345浬に急行、敵部隊の攻撃を下令される。 第一潜水部隊と、14日2:00までに、K散開線(南緯11度40分、東経165度40分〜南緯13度、東経163度20分)に、配備の移動を下令される。 
1942年(昭和17年)9月14日第一潜水部隊と、K散開線着。 索敵哨戒。
1942年(昭和17年)9月15日第一潜水部隊と、敵輸送船団を捕捉攻撃のため、300度方向に進撃を下令され、K散開線から移動。 第一潜水部隊は、先遣部隊第二監視部隊(第一潜水戦隊)に編入、インディスペンサブル海峡南方に配備、ガダルカナル島に対する敵増援の遮断を下令される。
1942年(昭和17年)9月18日第一潜水部隊と、南下。 索敵掃航。
1942年(昭和17年)9月20日第一潜水部隊と、再び海峡南方の配備に戻り、索敵哨戒。
1942年(昭和17年)9月23日ガダルカナル島の南東200浬において、敵輸送船1、駆逐艦1を発見と報告。 
1942年(昭和17年)9月30日10月1日以降、撤収してトラックに帰投を下令される。
1942年(昭和17年)10月1日ガダルカナル島東方から、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)10月4日先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、トラックにおいて整備を下令される。 
1942年(昭和17年)10月6日トラック着。 整備休養。 
1942年(昭和17年)10月12日第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「平安丸」に移揚。 
1942年(昭和17年)10月15日トラック発、インディスペンサブル礁南西方のK散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)10月19日乙潜水部隊は、Y日(22日と予定)ガダルカナル島総攻撃に策応し、サンスピリット島南西方の戊散開線に南下を下令される。 K散開線に到着、索敵哨戒。 Y日は22日の予定と下令される。 
1942年(昭和17年)10月21日乙潜水部隊と零時、K散開線から戊散開線に向かい南下を開始したが、途中、Y日を23日と下令され、L散開線において待機を下令される。
1942年(昭和17年)10月22日R方面航空部隊の哨戒機が、南緯12度55分、東経161度12分において、戦艦を基幹とする敵部隊の発見を報告。 12:30、乙潜水部隊とこの敵を掃捉のため、M散開線においてY日黎明時まで待敵を下令される。
1942年(昭和17年)10月23日Y日は更に一日、延期を下令される。 乙潜水部隊と黎明時から南下を開始したが、Y日の再延期により、南下を遅らせた。
1942年(昭和17年)10月24日乙潜水部隊と黎明時から南下、戊散開線に向かう。 
1942年(昭和17年)10月25日乙潜水部隊と南下中、26日敵艦隊がガダルカナル島南東海面に出現する算大として、Y散開線において待敵を下令される。
1942年(昭和17年)10月26日南太平洋海戦が起こり、味方機がレンネル島西方に敵戦艦部隊の発見を報告したため、乙潜水部隊は、230度方向に水上進撃、インディスペンサブル礁西方の敵戦艦の攻撃を下令される。
1942年(昭和17年)10月27日乙潜水部隊は、0:50、南緯15度5分、東経159度45分において、敵大部隊を発見。 ヌーメア方向に向かい追跡した。
1942年(昭和17年)10月29日ヌーメア東水道に到着、監視配備につく。
1942年(昭和17年)10月31日先遣部隊戊潜水部隊(第三潜水隊司令指揮)に編入。 引き続き、ヌーメアの監視と飛行偵察を下令される。
1942年(昭和17年)11月4日搭載水上偵察機によりヌーメアを飛行偵察。 空母1、巡洋艦3ほかの在泊を報告した。
1942年(昭和17年)11月7日先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入され、エスピリットサント島の飛行偵察を下令される。 
1942年(昭和17年)11月11日エスピリットサント島の飛行偵察をおこなったが、密雲のため、在泊艦船を視認できなかった。
1942年(昭和17年)11月12日先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、ガダルカナル島に対する補給輸送を下令される。 エスピリットサント島付近から、ショートランドに向かう。 
1942年(昭和17年)11月16日ショートランドに回航、ガダルカナル島に対する補給輸送を一回実施後に、トラックに帰投を下令される。 
1942年(昭和17年)11月19日ショートランド着。 輸送準備。
1942年(昭和17年)11月24日ショートランド発、ガダルカナル島に向かう。
1942年(昭和17年)11月26日ガダルカナル島カミンボ着、糧食等32トンを揚陸ののち、ショートランドに向かう。
1942年(昭和17年)11月28日ショートランドに寄港ののち、トラックに向かう。 
1942年(昭和17年)12月1日トラック着。 整備休養。 
1942年(昭和17年)12月17日第一潜水戦隊司令官は将旗を伊第五潜水艦から当艦に移揚。 
1942年(昭和17年)12月24日第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦から「平安丸」に移揚。        ′
1942年(昭和17年)12月26日第一潜水戦隊司令官は将旗を「平安丸」から当艦に移揚。 トラック発、ショートランドに向かう。 
1942年(昭和17年)12月30日ラバウルに寄港ののち、31日ショートランドに向かう。 第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦からラバウルの第八潜水艦基地隊に移揚。
1943年(昭和18年)1月2日ショートランド着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月4日ショートランド発、ガダルカナル島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月6日ガダルカナル島カミンボ着、ゴム袋糧食等21トンを揚陸、帰航。 
1943年(昭和18年)1月8日ショートランド着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月10日ショートランド発。 ガダルカナル島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月12日ガダルカナル島カミンボ沖に到着したが、敵魚雷艇を認め、揚陸作業を中断して、ショートランドに向かう。
1943年(昭和18年)1月14日ショートランド着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月16日ショートランド発。 ガダルカナル島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月18日ガダルカナル島カミンボ沖に到着したが、糧食入りのドラム缶が浮揚せず、揚陸に失敗、ショートランドに向かう。 
1943年(昭和18年)1月20日ショートランド着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月22日ショートランド発、ガダルカナル島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月25日ガダルカナル島カミンボ沖に到着、糧食入りのドラム缶80個12トンを浮揚させたが、敵魚雷艇に妨害され、三分の一を残して帰航。 
1943年(昭和18年)1月27日ショートランド着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)1月28日ショートランド発、ガダルカナル島に向かう。 
1943年(昭和18年)1月30日ガダルカナル島カミンボ沖に到着したが、敵魚雷艇が接近、糧食入りのドラム缶は揚収不能となり、ショートランドに向かう。 
1943年(昭和18年)2月1日ショートランド着。 同日トラックに向かう。 
1943年(昭和18年)2月4日トラック着。 補給待機。 先遣部隊直率潜水部隊(第六艦隊司令長官指揮)に編入。 内地に帰投、修理整備を下令される。 
1943年(昭和18年)2月5日トラック発。 横須賀に向かう。
1943年(昭和18年)2月12日横須賀着。 整備休養。
1943年(昭和18年)2月18日横須賀発。 神戸に向かう。
1943年(昭和18年)2月19日神戸着。 入渠修理。
1943年(昭和18年)3月14日先遣部隊乙潜水部隊(第一潜水戦隊)に部署され、引き続き内地において整備に従事。 
1943年(昭和18年)5月9日神戸発。 呉着。 補給待機。 
1943年(昭和18年)5月12日アメリカ軍がアッツ島に上陸。 先遣部隊は速やかに潜水艦を同島方面に集中、敵艦隊、輸送船の撃滅を下令される。 先遣部隊(第六艦隊)から除かれ、北方部隊(第五艦隊)に編入、アリューシャン方面の防備、敵艦隊撃滅を下令される。 
1943年(昭和18年)5月14日呉発。 横須賀に向かう。 
1943年(昭和18年)5月15日北方部隊潜水部隊(第一潜水戦隊)に編入、敵退路遮断、敵艦隊のうち空母の撃滅を下令される。
1943年(昭和18年)5月16日横須賀着。 補給待機。 第一潜水戦隊司令官は将旗を「平安丸」から当艦に移揚。 
1943年(昭和18年)5月23日横須賀発。 幌筵に向かう。 
1943年(昭和18年)5月27日幌筵着。 輸送準備。 
1943年(昭和18年)5月28日第一潜水戦隊司令官は将旗を当艦から千島方面特別根拠地隊に移揚。 
1943年(昭和18年)5月29日16:00、幌筵発、キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)6月1日キスカ・アッツ両島の中間において、敵艦艇に追跡され、約3時間にわたり攻撃を受けたが、被害なく離脱。 キスカ島到着の予定を繰り下げた。
1943年(昭和18年)6月3日キスカ島着。 兵器弾薬17トン、糧食11トンを揚陸。 帰還便乗者79名を収容。 同日キスカ島発、幌筵に向かう。 北方部隊潜水部隊は、ケ号作戦により、キスカ島守備隊の撤収輸送を下令される。 
1943年(昭和18年)6月8日幌筵着。 撤収員を揚陸。 補給待機。 
1943年(昭和18年)6月10日幌筵発。 キスカ島に向かう。 
1943年(昭和18年)6月13日キスカ島シリアス岬沖でアメリカ駆逐艦「フレイジャー (Frazier)」または駆潜艇PC-784のレーダー射撃および爆雷攻撃を受け沈没。
1943年(昭和18年)6月15日キスカ付近で亡失認定。
1943年(昭和18年)8月1日除籍。

謝辞

アイコンはkiyochan様の「アイコン&お絵描き工房」より、ご提供頂いた。

参考資料

  1. 日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.東京,光人社,1997,p8-12,120-124
  2. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p60,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p52
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p12,122
  5. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p573-580
  6. 前掲.日本海軍艦艇写真集 19巻:伊号 機雷潜・巡潜・海大型・甲型・乙型・丙型.p132