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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

呂号第百三潜水艦は小型(呂百型)潜水艦の4番艦である。

呂百型(小型)潜水艦は、太平洋の離島防御用として計画された局地防衛用の小型の潜水艦である。 急速建造も考慮されており、川崎造船所泉州工場ではブロック建造方式により、工期1年ほどで完成させている。 本型は離島防御用のため小型で居住性が悪く、航続力も短いため外洋作戦には向かなかったが、北方方面や中部太平洋方面の作戦に投入され、全艦が戦没した。 (1)

要目(2)(3)

新造時
艦種二等潜水艦
艦型小型(呂百型)
水上排水量 ※1525トン(基準)/601トン(常備)
水中排水量 ※1782トン
垂線間長57.40m
全長60.90m
最大幅6.00m
喫水3.51m
主機艦本式二十四号六型ディーゼル機関2基、2軸
主電動機特九型×2
蓄電池一号十五5型×120
出力1,000馬力(水上)/760馬力(水中)
速力14.2ノット(水上)/8ノット(水中)
燃料重油:50トン
航続力12ノットで3,500浬(水上)/3ノットで60浬(水中)
乗員38人
兵装九六式25mm連装機銃1基
九五式53cm魚雷発射管4門(艦首)
九五式魚雷8本
安全潜航深度75m
その他-

※1:英トン(1.016メートルトン)

履歴(4)(5)(6)

年月日履歴
1941年(昭和16年)9月30日昭和十六年度計画の第二百十三号艦として、呉海軍工廠で起工。
1941年(昭和16年)11月25日呂号第百三潜水艦と命名。 本籍を呉鎮守府と仮定する。
1941年(昭和16年)12月6日進水。 本籍を呉鎮守府と定める。
1942年(昭和17年)10月21日竣工。 警備潜水艦と定める。 呉潜水戦隊(呉鎮守府部隊)に編入。 呉鎮守府部隊(呉鎮守府司令長官)潜水部隊(呉潜水戦隊)に編入、内海西部において就役訓練に従事。
1943年(昭和18年)1月5日呉潜水戦隊から除かれる。 第七潜水戦隊(第八艦隊、南東方面艦隊)に編入。 戦時編制。 先遣部隊(第六艦隊)丁潜水戦隊(第七潜水戦隊司令官指揮)に編入、東部ニューギニアに対する敵増援の遮断を下令される。 9:00、呉発、トラックに向かう。
1943年(昭和18年)1月6日先遣部隊丁潜水部隊指揮官は、第六艦隊司令長官となる。
1943年(昭和18年)1月14日14:00、トラックに進出、補給待機。
1943年(昭和18年)1月26日6先遣部隊丁潜水戦隊指揮官は、第七潜水戦隊司令官となる。
1943年(昭和18年)2月4日トラック発、ラバウルに向かう。
1943年(昭和18年)2月8日8:30、ラバウルに進出、補給待機。 東部ニューギニ了に対する敵増援の遮断を下令される。
1943年(昭和18年)2月9日ラバウル発、ニューギニア南東方に向かう。
1943年(昭和18年)2月27日先遣部隊(第六艦隊)から除かれる。 南東方面部隊(南東方面艦隊)潜水部隊,(第七潜水戦隊)に編入、南東方面の作戦に従事。
1943年(昭和18年)2月28日ラバウルに帰着、整備休養。
1943年(昭和18年)3月3日第八十一号作戦の船団遭難者救助を下令される。 ラバウル発、ダンピール海峡南東方に向かう。
1943年(昭和18年)3月4日ダンピール海峡南東方に進出、捜索に当たる。
1943年(昭和18年)3月15日南緯8度20分、東経150度54分において座礁。
1943年(昭和18年)3月16日手段を尽くして離礁。 ラバウルに向かい帰航。
1943年(昭和18年)3月17日ラバウルに帰着、修理休養。
1943年(昭和18年)3月い号作戦に策応して、天候偵察、不時着搭乗員の救助を兼ね、敵艦船攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)3月20日ラバウル発、ガダルカナル島南方に向かう。
1943年(昭和18年)4月15日第七潜水戦隊は」第八艦隊から除かれ、南東方面艦隊に編入。
1943年(昭和18年)4月20日ラバウルに帰着、補給休養。
1943年(昭和18年)5月サンクリストバル島方面に進出、敵増援遮断を下令される。
1943年(昭和18年)5月9日ラバウル発、ガダルカナル島南方に向かう。
1943年(昭和18年)5月ソロモン諸島南方において、敵機動部隊の攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)6月1日ラバウルに帰着、補給休養。
1943年(昭和18年)6月12日ラバウル発、ソロモン諸島南方に向かう。
1943年(昭和18年)6月23日サンクリストバル島東端の南20浬において、敵輸送船団(3隻、護衛3隻)を雷撃。 南緯11度20分、東経162度00分において、アメリ「アルドラ(Aludra、7,440トン)」、同「ダイモス(Deimos、7,440トン)を撃沈。
1943年(昭和18年)6月27日ガツカイ島南方において、敵輸送船団7隻を発見したが、攻撃の機会がなかった。
1943年(昭和18年)6月30日アメリカ軍のレンドバ来攻により、撤収して帰投を下令される。 ガツカイ島南方を撤収、ラバウルに向かう。
1943年(昭和18年)7月4日ラバウルに帰着、補給休養。 整備ののち、レンドバ付近の敵艦船攻撃を下令される。
1943年(昭和18年)7月11日ラバウル発、レンドバ方面に向かう。
1943年(昭和18年)7月13日バングヌ島南方のバンガ湾に到着。 索敵。
1943年(昭和18年)7月15日敵艦艇を発見したが、攻撃の機会がなかった。
1943年(昭和18年)7月敵艦艇を発見したが、攻撃の機会がなかった。
1943年(昭和18年)7月24日敵艦艇を発見したが、攻撃の機会がなかった。
1943年(昭和18年)7月28日以降連絡がなく、消息を絶つ。
1943年(昭和18年)8月10日ソロモン群島方面で亡失認定。
1943年(昭和18年)11月1日除籍。

参考資料

  1. 雑誌「丸」編集部編.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.東京,光人社,1997,p73
  2. 日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p76,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 福井静夫.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.東京,ベストセラーズ,1994,p53
  4. 前掲.日本海軍艦艇写真集:ハンディ判 20巻 潜水艦伊号 伊400型 改甲型 潜高大 潜補 丁型 呂号 波号 特殊潜航艇他.p96
  5. 前掲.(写真)日本海軍全艦艇史資料篇.p18
  6. 渡辺博史.鉄の棺 日本海軍潜水艦部隊の記録 資料編 3下.名古屋,ニュータイプ,2005,p700-702