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三十糎艦船連合呉支部

三十糎艦船連合呉支部

1935年(昭和10年)西村一松氏の設計により珊瑚採取用の小型潜水艇2隻が横浜船渠で建造された。 これが西村式潜水艇で、350メートルの深海まで潜航可能な優れた性能を持っていた。

1939年(昭和14年)2月、伊号第六十三潜水艦が僚艦と衝突し、豊後水道の水深97メートルの海底に沈没した。 潜水員を入れたが、水圧と潮流により困難を極めたので、西村式潜水艇2号艇をチャーターして使用したが、予備浮力の小さいこと、沈潜の索具等に引掛り易いこと等から、十分に活用できなかった。 そこで呉工廠において、西村式潜水艇に改善を加えた潜水作業船を建造した。 排水量23トン、全長12.6m、内殻径1.95mで船体は西村式潜水艇と大差はないが、以下のような改良を加えたものであった。

  • 上部に空気排水可能の浮力タンクの新設
  • 救難ブイと山高シャックル(吊上げ索自動取付金物)の設置
  • マンホールの覗き穴にワイヤ等が引っかからないように考慮
  • 後部の排気筒を着脱指揮とした。
  • 綱の掛る恐れのある潜舵の廃止
  • 舵のガード内への設置
  • 浮力確保と水上航行時の耐波性改善のため、前部フェンダーを山型鋼から鋼管製に変更
  • 沈船の下に穴を掘るための海水ジェット及びサクションポンプによる砂掘り装置新設
  • 両舷にバラストタンクを設置
  • 蓄電池位置を中央下部として、乗員の移動を容易にした。

使用効率上から2隻が建造され、1939年(昭和14年)8月17日付で、公称三七四六号および三七四七号として採用された。 三七四六号は呉海軍工廠に、三七四七号は沼津の海軍技術研究所音響研究部に配備された。

沼津の三七四七号は、戦時中の行動は不明である。 終戦後、アメリカ軍の指示により海没処分されたが、1950年(昭和30年)9月頃、土佐谷鉄工に引き揚げられ、しばらく付近の神社空地に置かれていたが、その後、横須賀方面に運ばれ解体されたとのことである。(1)(2)(3)

要目(2)

新造時
艦種潜水作業船
排水量23トン
全長10.78m
最大幅1.83m
喫水
主機ディーゼル機関1基、1軸
主電動機
蓄電池
出力
速力5ノット(水中)
燃料
航続力3ノットで9浬(水中)
乗員4名
安全潜航深度350m
その他

※1:英トン(1.016メートルトン)

参考資料

  1. 西村式潜水作業艇、1.戦前船舶 Val.18.横浜,戦前船舶研究会,2001,p166-177
  2. ab日本潜水艦史.東京,海人社,1993,p111,133,世界の艦船.No469 1993/3増刊号 増刊第37集
  3. 日本造船学会編.昭和造船史第1巻.東京,原書房,1978,p604,明治百年史叢書、第207巻