1936年(昭和11年)2月26日、皇道派の急進将校らによるクーデターが勃発した。 1,500名近くの兵を率いた皇道派将校は、首相官邸、蔵相私邸、内大臣私邸、教育総監私邸、侍従長公邸、警視庁などを襲撃し、高橋是清蔵相、斎藤實内大臣、渡辺錠太郎教育総監らを殺害、永田町一帯を占拠した(二・二六事件)。 陸軍は事件処理に苦慮していたが、海軍の強硬な鎮圧方針や昭和天皇の強い意向により鎮圧に乗り出し29日には終結した。(1)
1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋で日中両軍が衝突した(盧溝橋事件)。 近衛文麿内閣は、初め不拡大方針をとっていたが、強硬派に押されて強硬方針を打ち出したため、戦闘は北支(現・中国の華北地方)へと拡大。 8月には第2次上海事変が勃発し、中支(現中国の華中地方)へ拡大、日本と中華民国との全面戦争となった。(2)
日中戦争が長期化すると総力戦に対応できる国家総動員体制を樹立することが必要となり、企画院を中心に立案された国家総動員法が1938年(昭和13年)4月に公布された。(3)
1939年(昭和14年)9月1日にドイツがポーランドに侵入、9月3日にはイギリスおよびフランスがドイツに宣戦を布告して第二次世界大戦が勃発した。 阿部信行内閣は大戦不介入を声明、後継の米内光政内閣も大戦不介入方針をとり続けた。 1940年(昭和15年)4月頃から西ヨーロッパにおけるドイツ軍の優勢が伝えられると、ドイツと同盟しての南方進出論が強くなり、親米的と見なされた米内内閣は7月に退陣させられ、第2次近衛内閣が成立した。 近衛内閣は、南方進出の足かがりを作るためと、中華民国への軍事援助ルート(援蒋ルート)を、インドシナ半島において遮断する目的で、1940年(昭和15年)9月に北部仏印へ進駐した。 さらに、9月27日には、日本、ドイツ、イタリアの間に日独伊三国同盟を締結した。 これに対し、アメリカは航空機用ガソリンの対日禁輸を決定するなど、対日経済封鎖を強化した。(4)
盧溝橋事件発生直後の1937年(昭和12年)7月15日、二河公園に5万名の市民を集めて「北支事変」呉市民大会が開催された。 8月14日には「呉軍港防諜規程」が制定され、呉市の情勢は軍事色を深めていく。 また11月4日には呉工廠で「1号艦(戦艦大和)」が起工された。 日中戦争の拡大と「大和」建造などによる軍需産業の拡充は、呉市の経済に1940年(昭和15年)頃まで続く好況をもたらした。(5)
1940年(昭和15年)頃から、準軍事態勢ともいえる状況にあったが、鉄道需要は旺盛で、大陸往来客および軍需工場への通勤客増大に対応し、急行列車、通勤列車の増発が行われた。 同年10月の時点では、東京−下関間に、特急2往復、急行8往復(不定期3往復)、直通(普通)下り2本、上り4本が設定されている。 また、京都・大阪−下関間に、急行1往復、直通(普通)下り7本、上り6本が設定されている。
1937年(昭和12年)6月、防諜のため呉線新宮トンネル出口付近から約800mの区間に目隠し板が設置された。 沿線に突き出したコンクリート支柱を設置し、車窓の高さにトタン板を張り巡らせたものであった(6)。 設置が8月14日の「呉軍港防諜規程」制定より早く、これは「1号艦(戦艦大和)」建造に対応したものと考えられる。
図1に1940年(昭和15年)10月時点の呉線時刻表を示す(7)。
呉−広島間には下り42本、上り41本(不定期各1本)が運転され、糸崎→竹原、忠海→三津内海(現・安浦)の区間列車も設定されていた。
呉線全通前(呉−広島間32往復、坂−広島間1往復)と比べて、運転本数が増加しているのに対し、気動車列車は18往復から9往復に減少している。 これはガソリン統制令による気動車列車の削減のためである。 この後、11月1日に広島鉄道局管内でガソリンカーが廃止となったため、川原石駅が一時休止となった。(8)
図1 呉線時刻表1940年(昭和15年)10月
図2 急行7列車編成表
急行7/8列車は、編成内に各等寝台車、洋食堂車および展望車をもつ、豪華列車であった。 図2に急行7列車の編成表を示す。 「昭和前期篇(呉線全通)」で示した編成表と比較すると、3等寝台車が1輌増結されている。なお参考とした[特殊仕様車両「食堂車」]の編成表では展望車の表記がなかった。 よって最後尾に展望車が連結されたものしている。(9)。 当時、一等寝台車および洋食堂車を連結した列車は本列車以外では、東京-下関間特急1/2列車「富士」、東京−神戸間急行17/18列車の2本であり、展望車を連結した急行列車は、本列車のみであった(10)。
本列車の展望車は木製のオイテ27000形であったが、1938年(昭和13年)3月に特別急行「富士」用の展望車スイテ37040〜37041が新製されたため、それまで「富士」に使用されていた鋼製展望車のスイテ37000〜37001が京都へ転属した。 これにより既存のオイテ27002・27004とともに、急行7/8列車の展望車に充当された。(11)
スイテ37000形は鋼製展望車で、車内は1等室(13名)と展望室(11名)から構成されていた。 1等室には一人掛けの回転椅子9席とクロスシート4席が設置されていた。 展望室のデザインは洋風で、当時東京日本橋にあった百貨店「白木屋(後の東急百貨店日本橋店)」に内装が似ていたことから白木屋式と呼ばれていた。 また、1等室と展望室との間にはカウンターが設置され簡単な飲物のサービスを行えるようになっていた。 1934年(昭和9年)にはカウンターが撤去され、回転椅子1席とソファーを増設し定員が17名に変更されている。(12)
1941年(昭和16年)11月4日、車輪称号規程が改正され、37000〜37001はスイテ381〜2となった。 このうち、スイテ381は戦後に中国地方へ進駐した英連邦軍の司令官用として連合軍に接収され、寝室、調理室、ダイニングテーブル、シャワーなどを設置し大改造されて軍番号1706、軍名称「CLYDE」となり呉に配属されている。(12)
図3 23/39列車編成表
23/39列車は東京発の長距離普通列車である。 このような列車は他にも見られ、1940年(昭和15年)10月時点で、東京から姫路、岡山、大阪、鳥羽間に設定されていた。 このうち、東京―鳥羽間241/242列車、東京―大阪37/36列車は二三等寝台車を連結していた。 これは、当時の長距離移動の手段が鉄道が主力で、普通列車においても、寝台車や食堂車の需要があったためである。
39列車は毎週金曜日に荷物車を増結しているが、これは週末発売の週刊誌を輸送していたようである。 この他にも、月刊誌の発売日にあわせて、東京―大阪間に荷物車を増結する列車が存在した。(13)
図4 日・鮮・満・支方面連絡時刻表 1940年(昭和15年)10月
急行7/8列車が豪華な編成となっていたのは、この列車が東京-下関間特急1/2列車「富士」とともに、下関および長崎を介して大陸方面との連絡を担っていたためである。 図4に、呉を起点とした、急行7列車による日・鮮・満・支方面連絡時刻表を示す(14)。
下関で関釜連絡線に乗り換えれば、翌日早朝に釜山着、特急17列車「あかつき」に乗車すれば午後2時5分に京城(現・ソウル)、急行9列車「大陸」に乗車すれば翌々日(呉発3日目)の午後10時50分に北京、急行7列車「のぞみ」に乗車すれば翌々日(呉発3日目)の午後1時50分に新京(現・長春)に到着することができた。
以前は、新京から哈爾浜、満州里を経てソビエト連邦(当時)の知多(チタ)に至り、知多からシベリア鉄道を経由して、ベルリン、パリ、ローマ、ロンドンへ至る欧州連絡が設定されていたが、第2次世界大戦の影響か、1940年(昭和15年)10月の時刻表では欧州方面への連絡時刻は掲載されていない。(14)。
図5 特急「あかつき」編成表
図4に示した時刻表に示されている「あかつき」は、1936年(昭和11年)12月1日に設定された朝鮮鉄道唯一の特急列車であり、食堂車、展望車を連結した看板列車であった。 図5に特急「あかつき」編成表を示す(15)。
尚、朝鮮鉄道の優等列車で特急「あかつき」、急行「のぞみ」と日本で使われた列車名があったが、その他にも釜山桟橋−新京間急行「ひかり」、羅津−新京間急行「あさひ」も存在した。 また、南満州鉄道では、大連−新京間急行に「はと」の名称を使用していた。
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