ホランド型改(第六型)潜水艇の1番艦である。
日露戦争中の1904年(明治37年)5月15日、旅順封鎖作戦で行動中の戦艦「八島」、「初瀬」が触雷沈没、主力戦艦6隻中2隻を喪失した。この補填のための緊急対策の一環として、潜水艇を導入することとなり、同年6月30日、アメリカのエレクトリック・ボート社にホランド型潜水艇(第一型)5隻を発注した。 5隻ともアメリカで組立後、分解されて「神奈川丸」で日本に運ばれ、同年11月に横須賀に到着した。 横須賀工廠で1905年(明治37年)7月から10月にかけて竣工したが、10月16日に日露戦争が終結したため、戦局に寄与することはなかった。 このホランド型潜水艇の葉巻型船体は波の影響を受けやすく、また潜舵を持っていなかったため水中性能も不良で、外洋での作戦能力を備えていなかった。(1)
アメリカからの潜水艇輸入と並行して、川崎造船所が開発者であるホランド(John Philip Holland)氏から入手した図面を基にして国内建造したのがホランド型改(第六型)2隻である。 「第六型」は「第一型」より小型化されているが、これは潜水艇の行動力の貧弱さを補うため、母艦に搭載して攻撃地点付近まで運搬しようという構想があったためだといわれる。 「第六型」は、機関の信頼性が低い、水中航続力が短い、潜航深度は20メートルに制限されるなど、性能上の問題が多かった。(1)
1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇は艇長佐久間勉海軍大尉の指揮により、山口県新湊沖でガソリン潜航の訓練中沈没し、乗員14名全員が殉職した。 ガソリン潜航実験とは、水中航続力を延伸するため半潜航の状態で、通風筒から空気を取り入れながらガソリン機関により航行するものである。 このとき、過度に潜航したため通風筒からの浸水により沈没した。(1)
新造時 | |
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艦種 | 潜水艇→二等潜水艇→三等潜水艦 |
艦型 | ホランド型改(第六型) |
水上排水量 | 57トン(常備) |
水中排水量 | 63トン |
全長 | 22.25m |
最大幅 | 2.13m |
喫水 | 2.04m |
主機 | スタンダード式ガソリン機関1基、1軸 |
主電動機 | 開放型6P×1 |
蓄電池 | クロライド式×60 |
出力 | 250馬力(水上)/22馬力(水中) |
速力 | 8.5ノット(水上)/4ノット(水中) |
燃料 | ガソリン:1.4トン |
航続力 | 8ノットで184浬(水上)/4ノットで12浬(水中) |
乗員 | 16人 |
兵装 | 45cm魚雷発射管1門(艦首) 三八式1号魚雷1本 |
安全潜航深度 | 30.5m |
その他 | - |
年月日 | 履歴 |
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1904年(明治37年)11月24日 | 神戸川崎造船所において起工。 |
1905年(明治38年)1月13日 | 第六潜水艇と命名。 第二潜水艇隊に編入。 本籍を呉鎮守府と定める。 |
1905年(明治38年)9月28日 | 進水。 |
1906年(明治39年)3月30日 | 竣工。 神戸から呉に回航。 |
1908年(明治41年)11月12日 | 第七潜水艇と神戸で挙行される観艦式に参加のため、呉から大阪湾に向かうが、途中から悪天候のため航行不能となり、淡路島北西岸に漂着を図って沈座したが、約120フィートで着底。 浮上に努力を重ねたが、浅瀬に再び着底。 |
1908年(明治41年)11月13日 | 9:20に浮上したが、司令塔のハッチが船体の歪みにより開かず、「淀」の救難で救出された。 第六潜水艇は神戸川崎造船所に入渠、修理にあたる。 |
1908年(明治41年)11月18日 | 他の6隻と神戸の観艦式に参加。 |
1909年(明治42年)4月17日 | 第二潜水艇隊から除かれ、第一潜水艇隊に編入。 |
1910年(明治43年)4月15日 | 佐久間艇長の指揮の下、山口県新湊沖で訓練中に浸水事故により沈没。 14名が殉職。 |
1910年(明治43年)4月16日 | 引き揚げられ、呉に曳航。 |
1910年(明治43年)4月17日 | 艇内の調査が行なわれ、佐久間艇長の遺書により沈没原因が判明。 |
1911年(明治44年)4月17日 | 第一潜水艇隊は呉水雷団に編入。 |
1913年(大正2年)4月1日 | 第一潜水艇隊は呉防備隊に編入。 |
1916年(大正5年)8月4日 | 二等の等級を付与。 |
1918年(大正7年)11月2日 | 第一潜水艇隊は解隊、第十一潜水艇隊(呉防備隊所属)に加える。 |
1919年(大正8年)3月20日 | 第六潜水艇は第六潜水艦と改名。 三等潜水艦に類別。 |
1919年(大正8年)4月1日 | 第一潜水艇隊は第一潜水隊に改称。 |
1921年(大正10年)4月30日 | 除籍。 船体は記念艦として終戦まで呉の潜水学校に保存。 |