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三十糎艦船連合呉支部

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鶴岡一人について

鶴岡一人(つるおか かずんど)は1916年(大正5年)7月27日山口県大島郡に生まれた。 呉市五番町(現・西中央)で育ち、五番町小学校(現・呉中央小学校)で野球をはじめた。 旧制広島商業に進学し、1931年(昭和6年)に遊撃手として出場した第8回選抜中等野球大会で全国制覇、エースとして出場した1933年(昭和8年)の第10回選抜大会ではベスト4に進んだ。

旧制法政大学に進学し、1年からレギュラーの座を獲得、最初は二塁手で、後に三塁手としてプレーした。 「鶴岡地獄」とまで呼ばれたその三塁守備は六大学史上最高と言われている。 大学通算通算成績は、88試合出場、331打数99安打、打率.299、2本塁打、56打点。 獲得したタイトルは首位打者1回であった。

1939年(昭和14年)南海軍に入団し、背番号は5。 1年目にして主将に抜擢され、3番・三塁手として92試合に出場、330打数94安打、打率2割8分5厘(打撃ベストテン7位)、10本塁打、55打点、21盗塁で本塁打王を獲得した。 尚、シーズン10本塁打は戦前の最多記録である。

翌1940年(昭和15年)に召集され、陸軍に入隊。 終戦時には、鹿児島県の知覧航空隊で陸軍中尉として機関砲中隊長を務めていた。

1946年(昭和21年)に復員すると、南海軍の後身である近畿グレートリンク(後の南海ホークス→福岡ダイエーホークス→福岡ソフトバンクホークス)の監督(選手兼任)に29歳で就任。 その年のペナントレースを制し、自身は四番三塁手として104試合に出場、打率3割1分4厘(打撃ベストテン6位)、4本塁打、95打点、32盗塁の成績をあげ、打点王とMVPを獲得した。

1952年(昭和27年)に現役を引退。 選手としての成績は実働8年、754試合出場、2681打数790安打、打率2割9分6厘、61本塁打、467打点、143盗塁、19四死球、146三振。 獲得したタイトルは本塁打王1回、打点王1回、MVP3回 、ベストナイン1回。 オールスターには2回出場した。

1953年(昭和28年)から監督専任となり、1968年(昭和43年)まで兼任期間を含め通算23年間に渡って南海ホークスの指揮を執った。 この間、1965年に野球殿堂入りした。 監督としての通算成績は、2994試合、1773勝1140敗81分、勝率6割9厘。 リーグ優勝11回、日本一2回。 1位11回、2位9回、3位1回、4位2回。

監督辞任後は、1969年(昭和44年)から死去するまでNHKの野球解説者、スポーツニッポンの野球評論家を務めた。 1971年(昭和46年)10月29日に、日本少年野球連盟の理事長に就任し、ボーイズリーグの発展に尽力した。 1991年(平成3年)には勲四等旭日小綬章を授与された。 2000年(平成12年)3月7日、動脈血栓症により逝去した。 享年85。

参考資料

  • 新宮 正春,米田厚彦.プロ野球を創った名選手・異色選手400人.東京,講談社,1999,p246-247 p400-401.(ISBN4 -06-264521-1)
  • ベースボール・マガジン社編.プロ野球人国記:完全版 中国編.東京,ベースボール・マガジン社,2004,p132-134,中国編,鳥取県島根県岡山県広島県山口県.(ISBN -583-03789-9)