朝鮮戦争の推移と韓国の歴史教科書
                                            2013年11月
T.朝鮮戦争の推移
北朝鮮軍の韓国奇襲攻撃

1950年6月25日早朝、北緯38度線で、突如、轟音がとどろいた。
北朝鮮軍が韓国に向けて砲撃を開始したのである。砲撃が終わると、
300両の最新鋭のソ連製戦車部隊を先頭に、10万人を超える
勇猛果敢な金日成の北朝鮮軍が北緯38度線を突破して韓国に雪崩れ込んだ。

北朝鮮のピョンヤン放送は、「我々は、アメリカ帝国主義の傀儡、
李承晩政権から、韓国人民を解放する」と、世界中に、高らかに告げた。

原因・理由は何であるにせよ、平和に暮らしている国に、一方的な奇襲攻撃で
戦争を仕掛けるということは、最高に極悪非道な犯罪行為である。

平和であった韓国に、突如、奇襲攻撃で侵略戦争を仕掛けた金日成は、
一点の疑いもなく、極悪非道な戦争犯罪者である。







この電光石火の北朝鮮の奇襲攻撃に対し、李承晩の韓国はなすすべがなかった。

対日憎悪感の権化・李承晩は、いかに日本に報復するかに没頭しており、
北朝鮮が侵攻するなどとは、まったく考えていなかった。

勘違い、誤報、意図的な偽情報が韓国中を飛びかった。

何が事実なのか誰も分からなかった。さらに、驚くべきことに、この北朝鮮
奇襲攻撃の事実が、大統領の李承晩に知らされたのは、砲撃開始・戦車隊の
北緯38度線突破から数時間たった後であった。

対日報復の鬼・李承晩の韓国は、金日成の北朝鮮に対する警戒心は
まったくなかった。それほど、金日成を信用していたのである。

2.北朝鮮軍の快進撃

無知・無能・無策・無責任な李承晩を筆頭に、当時の韓国政府が、うろたえて、
右往左往している間に、北朝鮮軍は恐ろしいスピードで南下してきた。

開城(ケソン)はたった数時間で陥落。その60km南の首都ソウルの
防衛ラインは、次々と、楽々に突破され、韓国軍はひたすら敗走を続けた。

このようなワンサイドな戦いとなったのは、奇襲にもよるが、軍事力でも、
北朝鮮軍と韓国軍とでは、圧倒的な差があったからである。

韓国軍は、総兵力10万人。戦車はゼロ。大砲もわずか91門。

これに対して、北朝鮮軍は、総兵力20万人、ソ連製最新鋭T−34戦車など300両、
大砲も最新鋭のSU−76M自走砲など552門と、圧倒的に優勢な戦力であった。



北朝鮮の主力戦車は第2次世界大戦のソ連の傑作、最新鋭のT−34戦車である。
韓国軍の火砲は、T−34戦車の分厚い装甲を撃ち抜くことができなかった。
陸上の戦闘を制するのは、火力と機動力である。つまり、重火器と戦車である。

この2つにおいて、北朝鮮軍は韓国軍を圧倒した。加えて、北朝鮮軍は、
この日に備えて、猛訓練を重ねていた。一方の李承晩の韓国軍は、
戦争が起こるなど夢にも思っていなかった。
つまり、練度と戦意においても、北朝鮮と韓国では天地の差があった。

1950年6月27日、トルーマン米国大統領が主導し、国連安保理が開催され、
北朝鮮非難決議が採択された。

しかし、その間にも、北朝鮮軍の侵攻はつづいた。北朝鮮軍のT−34戦車が
戦場に現れると、韓国軍は、一戦も交わさず、ひたすら逃げた。

戦況は絶望的だった。重戦車と軽歩兵の戦いは、針でバターを刺すようなもの。
李承晩の韓国政府はいち早くソウルを捨て、33km南方の水原に首都を移した。

3.米国の朝鮮戦争参戦

トルーマン大統領は、矢継ぎ早に命令を発した。在日米軍を釜山(プサン)
派遣し、海軍を韓国海域に出動させた。さらに、台湾を中国から守るため、
第7艦隊を極東に派遣した。そして、この作戦のすべての指揮権を、東京にいた
マッカーサー元帥に与えた。トルーマン大統領は、前任のルーズベルト大統領とは
違って、反共意識が強く、決断も行動も迅速だった。

マッカーサー元帥は、最年少で少将に昇進、50才で米国陸軍参謀総長になる。
太平洋戦争では日本軍と戦い勝利した。日本敗戦後は、SCAP/GHQの
最高司令官として日本占領業務にあたっていた。

極東で突然勃発した事件の解決は、この70歳の老将軍に委ねられた。

1950年6月28日、韓国軍の将兵とソウル市民が、首都ソウルを脱出し、
漢江の橋に殺到した。このとき、韓国軍は北朝鮮軍の追撃を防ぐため橋を爆破した。

ところが、ソウル市民の渡橋は、まだ終わっておらず、数百人が犠牲になった。
さらに、漢江の橋が爆破されたため、多くの市民がソウルに取り残された。この日の
夕方、北朝鮮軍はソウルを完全制圧した。






占領したソウルで行った北朝鮮軍の悪行



徴兵された韓国の一般市民は、まともな武器は持たされず、「弾丸避け(タマヨケ))」に使われた。

4.韓国政府降伏で戦争終了の事態に

6月29日、マッカーサー元帥は東京から朝鮮半島に飛んだ。自分の目で、
状況を確認するためである。前線を視察したマッカーサー元帥は、

韓国軍主導では、勝ち目は100%ないと判断した。

そして、直ちに、トルーマン大統領に米国地上軍の派遣を要請した。ところが、
スターリンのソ連が、「朝鮮の内政問題に外国が介入すべきではない」と
主張したため、トルーマン大統領は米地上軍の派遣を躊躇した。

いずれ、国連軍は出動するだろうが、それまで韓国はもたない。
マッカーサー元帥はそう確信した。

すでに、首都ソウルが占領されている。マッカーサー元帥は、トルーマン大統領に
爆撃の許可を申請し、回答を待たず爆撃を敢行した。

もし、当時、米軍の最高司令官がマッカーサー元帥でなかったら、1950年8月末に
北朝鮮軍が朝鮮全土を制圧し、韓国政府が降伏して、朝鮮戦争が終わっていた
可能性が高い。

6月30日、北朝鮮軍は、漢江を渡河し、南進を再開した。朝鮮半島最南端の
釜山(プサン)までわずか330km。「東京〜大阪」の距離である。

釜山が陥落すれば、戦争は終わる。北朝鮮軍は、韓国の臨時首都、水原に
猛攻撃を加えた。韓国軍の指揮系統・連絡網はズタズタになり、水原の陥落は
時間の問題だった。マッカーサー元帥は、再びトルーマン大統領に米地上軍
投入を迫り、ついに認めさせた。

7月1日、臨時首都の水原は陥落。李承晩は釜山に逃げ込んだ。

このとき、敗走する李承晩は、自国を守れず遁走しながら、武器を持たない
一般市民を、共産党関係者だと決めつけ、20万人以上の一般市民を
虐殺した。武器を持った北朝鮮軍の前では、味方を見捨てて、ひたすら
逃げ隠れした李承晩は、武器を持たない自国の一般市民を、平気で虐殺
したのである。李承晩は本当に悪い奴であった。




朝鮮戦争以前においても、反共の闘士と自称する李承晩は、赤狩りと称して、済州島等の
自分に反対する南朝鮮労働党と人民委員会を徹底的に弾圧した。軍隊を投入して、反対する
一般市民6万人以上を虐殺した。済州島の村々の70%を焼き尽くした。





一方、北朝鮮の金日成は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、
地主やその家族などの一般市民・数十万人を、「反共産主義の反動分子」との手前勝手な
罪名をつけて、大量虐殺した。







南の李承晩、北の金日成の二人は、いずれも、良心を欠く極悪非道な殺人鬼で、
武器を持たない一般市民を虐殺しあっていた。



パブロ・ピカソ 1951年作 『朝鮮の虐殺』 パリ・国立ピカソ美術館所蔵

同日、7月1日、在日米軍が釜山に上陸した。同時に、沖縄基地から爆撃機B29が発進、
北朝鮮軍を爆撃した。

7月2日、在日米軍は北上して大田(テジョン)に到着した。大田は、ソウルと
釜山をむすぶ要衝である。在日米軍はここに強固な防衛線を築き、北朝鮮軍を
食い止める作戦だった。

7月3日、漢江の橋の修復が終わると、北朝鮮軍の戦車が漢江南岸に殺到した。
韓国の防衛線は一瞬にして崩壊した。小火器で重戦車に挑むのは、どだい、
ムリな話なのである。

ところで、なぜ韓国軍は戦車を持っていなかったのか? じつは、1年後に、
米国からM26戦車を受領する予定だった。 北朝鮮の奇襲が1年後であった
ならば、状況は変わっていたかもしれない。

7月7日、米国を中心に、16ヵ国が参加して国連軍が編成された。しかし、
こうしている間にも、北朝鮮軍の南進は続いていた。在日米軍は、大田から
北上を試みたが失敗、逆に押し返されてしまう。その後、国連軍も合流したが、
7月中頃までに、兵数は半減、大田の維持すら困難になった。そこで、
韓国政府は大邱に逃げ込んだ。

7月20日、北朝鮮軍の猛攻で大田が陥落した。



さらに、8月末までに、国連軍は、大邱と釜山、朝鮮半島南部に押し込まれた。
このままでは、全軍が日本海に追い落とされる。

しかし、背水の陣となった国連軍は必死だった。米軍の将軍たちはこう宣言した。
「朝鮮半島からの撤退はありえない。我々は最後まで戦う」







You tube:
Re-enactment of the 1950 Nakdong River Battle



          

5.マッカーサー元帥の反撃

一方、北朝鮮軍にもアキレス腱があった。快進撃の結果、兵站線が伸びきっていた。
ピョンヤンから大邱まで、直線距離にして400km。

兵站とは、戦闘部隊の後方支援で、燃料・弾薬・食料の補給、兵員や兵器の
補充を行う。兵站線が長いほど補給は難しくなり、兵站線を途中で絶たれる可能性もある。
当然、兵站線を絶たれた先には補給は届かない。兵站線は軍隊の血管なのだ。

北朝鮮軍は優勢だったが、国連軍に対する最後の一撃が打ち込めなかった。

一方、国連軍は、防戦一方で、反撃する余力はなかった。

そこで、マッカーサー元帥は、戦況を一転させる奇襲を断行する。

兵站線の真ん中、仁川に強襲上陸し、北朝鮮軍を南北から挟撃するのである。
単純明快、鮮やかな作戦だが、包囲殲滅される可能性もある。奇策、どちらかと
いうとバクチに近い。これが歴史に残る「仁川上陸作戦(クロマイト作戦)」である。

9月15日、国連・韓国軍は仁川に奇襲上陸した。危険な敵前上陸を任務とする
米海兵隊を先頭に、7万人が上陸に成功した。このとき、M26重戦車をはじめ、
重火器も大量に送り込まれた。

北朝鮮軍は、国連・韓国軍に挟撃され、算を乱して逃走し始めた。戦局は一変した。



6.中国軍参戦を招いた李承晩の北進決定



9月28日、国連・韓国軍はソウルを奪還した。翌日、韓国政府もソウルに戻った。
かねてより、南北統一をもくろんでいた李承晩にとって、棚からぼた餅のいチャンス
だった。

無知・無能・無策・無責任な、対日憎悪感の権化・対日報復の鬼・李承晩は、
はやる気持ちを抑えきれず、韓国軍単独で北緯38度線を突破させた。
韓国軍は北進した。続いて、国連軍も北進した。

危機感をつのらせた毛沢東の中国は、ここで朝鮮戦争参戦を決定する。
志願兵による義勇軍との名目で、100万人もの正規軍兵力を投入した。





10月20日、中国軍100万人参戦について何も知らない国連・韓国軍は、
北朝鮮の平壌を占領した。さらに、逃げる北朝鮮軍を追った。

先鋒の韓国軍は、中国との国境、鴨緑江に達した。ここで、中国軍の猛反撃が
始まった。100万人による圧倒的な人海戦術、加えるに、名将・彭徳懐将軍が指揮し、
ゲリラ戦に熟達した中国正規軍が国連・韓国軍に襲いかかった。

中国軍は、国連・韓国軍が、まったく思いもつかなかった、冬山を夜間に踏破して、
国連・韓国軍の背後の高地に陣取り、突然、背後から国連・韓国軍に襲いかかった。
中国軍の夜間山地移動を米軍の偵察機は発見することができなかった。

突然、大地からわき出るような無数の中国兵に襲われて、米国軍の兵士は
パニックに陥った。凄まじい恐怖に駆られた。







国連・韓国軍は北朝鮮各地で大敗北を喫し、敗走に次ぐ敗走で、北緯38度線の
南へ逃げ帰った。これがトラウマになり、以後、米国軍の現地指揮官たちは、
中国軍とは戦いたくないと考えるようになった。

中国軍は、津波のように国連・韓国軍を呑み込んだ。

12月5日には、中国軍は平壌を奪回した。さらに、ソウルも再占領した。

あまりにもの大敗北に怒り狂ったマッカーサー元帥は、中国に原爆を投下せよと
トルーマン大統領に迫ったが、あっさり、国連軍最高司令官と日本占領軍
最高司令官を解任されてしまう。

6.北朝鮮軍、韓国軍、中国軍と国連軍の人的損害

北朝鮮軍の、戦死者数、約52万人、負傷者数、約41万人といわれる。

韓国軍の、戦死者数・負傷者数は、合わせて約99万人といわれる。

中国軍の、戦死者数は18万4,000人、負傷者数は71万5,900人、
捕虜になった者は2万5,600人といわれている。

国連軍の、戦死者数は3万6,813名、負傷者数は11万4,816名、
行方不明者は6,198名、捕虜になった者は4,439名といわれている。



7.一般市民、約400万人が死亡
     −金日成と李承晩の戦争犯罪


朝鮮戦争の死亡者の数は、韓国約150万人、北朝鮮約250万人、南北朝鮮合わせて
約400万人といわれている。、総人口の20%にあたる。
つまり、国民の5人に1人が死亡したことになる。

第2次世界大戦の日本の死亡者は約300万人である。総人口の4%である。
朝鮮戦争は、南北殺し合いの、凄まじい戦争であった。

You tube : The Korean War

        
        


出典:
金学俊(キム・ハクジュン)著 Hosaka Yuji訳
『朝鮮戦争 −原因・過程・休戦・影響』--抜粋

中国の朝鮮戦争参戦と5回にわたる攻勢


1. 北朝鮮軍の敗退と中国の参戦決定

(1) 国連軍の仁川上陵作戦成功以前の中国

中華人民共和国は、1965年6月25日に朝鮮半島で戦争が起こった時から
約7週間位の間は、自国に非常に深刻な問題とは思わなかった。

しかし、8月初旬に入って、韓国軍と国連軍が北朝鮮軍に対して反撃を加える
ことができる確かな足場を固めるようになると、自国の一次的関心を
この問題に集中し始めた。

中国共産党主席毛沢東は、国連軍が仁川や群山のような所で奇襲的上陸作戦を
敢行するようになれば、戦況が引っ繰り返るかもしれないと中国共産党指導層内で
言い、8月23日には、遂に、平壌に中国の初代大使として倪志亮将軍を
赴任させた。彼は1900年生まれで、八路軍129師団参謀長を勤めた後に、
満州の第1軍区司令官を勤めた。彼は病気で湖北省武漢で療養するようになり、
赴任が遅れた。

これと同時に、中国は、北朝鮮と中国の国境地帯の軍隊を大きく増強させた。
参戦する可能性に備えて、軍隊の訓練と作戦準備を8月末まで完了するように
東北軍区司令官高崗に指示した。時限は9月末まで延期されるが、これは
中国が、既にこの時点で、参戦を考慮し始めていたことを見せてくれる。

もう一方で、中国はソ連との協議に入って行くようになった。予想できなかった
米軍の大規模介入と、それによる戦況の逆転可能性に当惑するようになったソ連は、
中国に対して、北朝鮮を軍事的に積極支援するよう圧力をかけ始めたからだった。

このように、中国がソ連と難交渉を続けていた頃、朝鮮半島の情勢は、確かに
逆転する可能性を見せていた。

8月中旬以降、国連軍の反撃はだんだん激しくなりつつあった。国連軍の反撃が
成功すれば、彼らは38度線を超えて北朝鮮を完全に占領するだけでなく、
北朝鮮と中国の国境線を越えて満州に、そして、中国本土に攻撃して来るかも
しれなかった。

ここで、中国の関心は、次第に、自己の安全に向けられるようになった。

9月1日、総理兼外交部長の周恩来は、北朝鮮駐在中国大使館の核心的人物として
自分が配置した柴成文を北京に呼んだ。柴成文は1915年生まれで、
1937年に八路軍に参加し、情報系統で仕事をしてきた。当時、北朝鮮大使館の
政務参事官だった。

周恩来は、柴成文に、朝鮮戦争に中国が派兵する場合、いかなる困難が予想
されるかを問うた。

柴成文は、北朝鮮は道路と鉄道の状況が悪く、通訳要員が足りないので、
効果的な戦闘遂行は難しいと答えた。

この事実から推察すると、この時点で、中国は、参戦を真剣に、そして、
具体的に検討していたと考えられる。

(2) 国連軍の仁川上陸直後の中国の決定

1950年9月15日に、国連軍が仁川上陸作戦に成功するのを見て、
中華人民共和国の指指導部は、中国の参戦は避けられなくなったという結論に
到達した。

そして毛沢東は、まず、満州最高の実力者である高崗に、朝鮮に派兵する
ことは避けられなくなったため、派兵の準備を急げという手紙を送った。

これと同時に、中国政府は、現地の状況を詳細に観察するため、
5人の武官を北朝鮮駐在中国大使館に派遣した。

北朝鮮駐在中国大使館の柴成文政務参事官は、直ちに、金日成と会談して、
中国政府の決定を通告した。

金日成は大変喜び、秘書の何仰天を呼んで、中国の武官・朱光、副武官・王大剛、
副武官・劉向文ら5人の中国の武官たちに渡す、党と政府、軍隊などの、
すべての北朝鮮の機関が支援することを保証する金日成名義の信任状を作るよう
指示した。

なこの信任状を持って、5人の中国の武官たちは、9月下旬から1ヵ月近く
戦線の各地域を徹底的に調査した。

このような事前対策を行った後に、9月20日、周恩来は、総理の資格で
朝鮮で中国軍が取る軍事作戦上の基本原則を確定した。

ここで、彼は、朝鮮での戦争は持久戦になるはずであり、
中国軍は、自力による戦争を続ける準備を整えなければならないと強調した。

毛沢東はすぐに同意した。

10月1日〜2日は歴史的な日だった。

10月1日、大韓民国国軍は38度線を越えた。
10月2日、国連軍も38度線を越えた。

この日、この日、マッカーサー国連軍総司令官は、北朝鮮政権の無条件降伏を
要求する最後通牒を発表した。

これと同時に、アメリカを含む西側8ヵ国は、国連軍の38度線以北への進撃を
承認して、国連軍の北朝鮮征服に基いた南北統一案を支持することを要請する
共同決議案を提出した。

一番焦った人物は金日成だった。

彼は10月1日の夜、北朝鮮駐在の倪中国大使を呼んで、
「マッカーサーは、私が両手をあげて降参することを願っているが、
私はそんな事はした事がない」と冗談まじりに言って、二つの拳を振り回しながら、
降伏する気持ちはまったくないことを力説した後に、満州の中国軍が、1日も早く、
鴨緑江を渡って来てほしいと要請した。

同時に、副首相兼外務相の朴憲永を秘密裡に中国に送り、毛沢東に会って、
軍事的介入を要求するようにさせた。この時、朴憲永に随行した人間が、後日、
休戦会談時に北朝鮮代表として出る延安派の李相朝であった。



明くる日、毛沢東は遂に重大な決断を下した。

抗美援朝、すなわち、アメリカに対抗して朝鮮を支援するという名分と、
保家衛国、すなわち、家を守って国を防衛するという名分の下に、
中国人民支援軍の名で朝鮮へ派兵すると決定したのである。

ここで、支援軍と言う言葉の代りに、志願軍という言葉を使うという決定も下した。
中国人民たちの自発的な参加という意味を強調したかったからだ。

毛沢東は、中国の参戦決定を、電報でスターリンに直ちに知らせた。

彼の秘書たちは、朝鮮半島での戦争に中国軍を参戦させる事にした決定は、
毛沢東の生涯で、一番困難だが優れた決定だったと主張した。

もちろん、秘書たちのこのような主張に対して反論することはできる。

しかし、毛沢東がこの決断を下すまで、何日間もまともに寝られずに、
睡眠薬を飲まなければならなかったという秘書たちの回顧録を信じるならば、
毛沢東の苦悩が大きかったことを知ることができる。

しかしながら、中国は、国連軍の38度線北上を公式裁可した西側決議案が
国連総会で可決されるのを阻むため最後の努力をして見せた。








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(3)スターリンの裏切り

この時点で周恩来は、秘密裡にモスクワを訪問して、10月9日早朝に
スターリンと会談した。周恩来はスターリンに中国の決定を通告した。
そして、スターリンに、約束した通りの軍事的援助を実行してほしいと要請した。

ところが、スターリンは首を横に振った。以前に約束した空軍支援は
不可能になったと冷淡に答えた。

スターリンは、中国の参戦がアメリカを挑発し、朝鮮戦争が第3次世界大戦に
発展するのが恐ろしい。無理に、金日成政権を北朝鮮の地に維持させようと
するよりは、金日成に、満州に亡命政府を作るように勧告してはどうかと提議した。

外交の天才という周恩来の訴えも無駄だった。
仕方なく、周恩来はこの事実を毛沢東に電報で知らせ、ソ連空軍の支援なしで
中国がアメリカとの戦争に入るのかを、中国指導部が決定しなければならない
時点に来たと力説した。

毛沢東は10月13日に、党政治局非常会議を招集した。

毛沢東は、悲壮な口調で、ソ連空軍の支援なしでも、中国は朝鮮半島で
戦わなければならないと強硬に宣言した。今になって、参戦決定を撤回する
ことはできないというのだった。

毛沢東は、金日成政権が崩れれば、米軍は、満州へ、更に、中国大陸へと、
戦争を拡大させるのは確実で、そのようになれば、
中国の杜会主義革命が、更に一歩進んで、東アジア全域の社会主義革命が
危くなると判断したからである。

それで、スターリンの裏切りの衝撃を甘受しなから、毛沢東は、10月13日、
もう一度出兵の不可避性を強調して、北朝鮮駐在の倪志亮中国大使に、
派兵決定を金日成に公式通告せよと指示した。

10月13日夜、倪大使は金日成の地下防空壕執務室を訪問した。
毛沢東の言葉を伝え聞くや、金日成は、踊り上がって手の平を打ち、
「本当に助かった」と叫んだという。

2.中国軍の朝鮮戦争参戦

1950年10月19日、中華人民共和国が、中国人民支援軍の名の下に
派遣した中国軍が鴨緑江を渡った。

この事実を確認したスターリンは、すぐに、ソ連航空部隊の朝鮮戦争参加を
許諾。第64戦闘航空団が1950年1月に創設された。この航空団に属する
戦闘機は、北朝鮮北部上空から、中国軍と北朝鮮軍を保護した。

スターリンは、ソ連軍の参戦を隠蔽するため、操縦士に中国服を着るよう指示した。

(1)国連軍を敗退させることが目標

中国軍が秘密裡に鴨緑江を渡った直後の10月20日、中国人民支援軍総司令官・
彭徳懐は、北朝鮮で金日成と朴憲永に会った。この場で彭徳懐は、中国軍の
軍事作戦と関連して三つの可能性を提示した。



第一は、国連軍を除去し、共産側の主導の下に朝鮮問題を合理的に解決する。

第二は、国連軍を除去することはできないか、共産軍はそれなりに基盤を確保
することで戦況を膠着させる。

第三は、国連軍を除去することも、共産軍なりの基盤を確保することもできない
まま、中国に帰るようになる。

彭徳懐は、もちろん自分は第一の目標の達成のために最善をつくすと念をおした。

これは毛沢東の意見とも一致した。この点に照らして、中国は一次的には、
自らの安保のために参戦したのは事実だが、革命主義に即して参戦したことも
事実である。前述したように、毛沢東は、朝鮮の社会主義革命と、中国の社会
主義革命、そして東アジア全域の社会主義革命を成功させるためには、
朝鮮から国連軍を追い出して、北朝鮮路線による統一が成立しなければならない
という気持ちを持っていたのである。

このように非常に野心的な目標を設定したと言っても、中国軍は、はじめは
攻撃的な姿勢を取らなかった。国連軍の、特に米国の空軍力に対する恐怖心が
兵士たちの間に広がっていたために、防御的な姿勢を取った。



しかし、実際に北朝鮮に入った後に、彭徳懐は考えを変えた。国連軍・
韓国軍の北進があまりにも速くて、防御体制を固める時間も空間もなかったと
判断したのである。

それで、彭徳懐は、国連軍・韓国軍が中国軍の参戦に気づいていない
ことに着眼し、奇襲攻撃を行うことを決定した。毛沢東も同意した。

そして、10月25日、第1次攻勢を開始した。

彭徳懐の中国軍は、当初、国連軍・韓国軍との接触を避けながら、
方々に、奇襲攻撃に有利な陣地を確保した。

その後、国連軍・韓国軍を巧みに誘き寄せ、果敢な奇襲攻撃を行った。

11月8日まで続いた第1次攻勢は大成功だった。

この第1次攻勢によって、韓国軍は1万5,000人が戦死した。

鴨緑江まで進撃していた韓国軍は、平安北道から平安南道を超え
黄海に至る清川江まで敗退せざるを得なかった。

中国軍の士気は大きく上がった。

(2)米軍史上「最も恥ずべき敗退」

中国軍が第1次攻勢で大勝利をおさめ、朝鮮半島で「全く新しい戦争」が
始まったとの報告を受けても、マッカーサーは、中国軍の戦争遂行能力をまともに
評価していなかった。仁川上陸作戦の大成功で、そして破竹の勢いの快速北進で
つくられた自信感に満ちあふれていた。

マッカーサーが、「中国軍は私の手の内にある」と言った。中国軍を過小評価
してはいけないという忠告を一.蹴した。マッカーサーは、相変わらず、
過去の実績、独特の自信感にどっぶり浸っていた。

老練な彭徳懐は、マッカーサーの自信および傲慢さを逆手に取ろうと考えた。

それで、第2次攻勢を開始するのに先立って、彭徳懐は全軍に、意図的に、
大変軟弱に見せよと命令した。すべての部隊は30キロメーターずつ後退し、
非常に有利な位置を掌握して、国連軍・韓国軍に打繋を与える
一番良い機会を、注意深く待てと指示した。毛沢東もこの作戦を支持した。

1950年11月25日から第2次攻勢が開始された。

同日、毛沢東の長男・毛岸英が米軍爆撃機か投下したナパーム弾を浴びて、
平安北道朔州郡にあった中国人民志願軍の司令部で戦死した。当時、
彼は28歳で結婚したばかりだった。彼はロシアに留学した経歴を認められ、
彭徳懐の秘書兼ロシア語通訳官として勤務していた。そのため、彼は銃も
携帯していなかった。

周恩来を通じて長男の戦死の報告を受けた毛沢東は、しばし息を殺した。
しかし、毛沢東は、すぐ、「戦争中には、誰でも死ぬ可能性があるさ」と短く言った。



中国軍の第2次攻勢に直面し、国連軍は敗退を続けなければならなかった。
この敗退は、G.ボーラック教授の表現では、アメリカの軍史上、
「最も恥ずべき敗退」だった。

その結果、中国軍は、1950年12月4日に平壌を奪還した。

1950年12月中旬までに、北朝鮮のほとんど全地域を掌握した。

この中国軍の第2次攻勢は、1950年12月24日に終わった。



この過程で、二つの有名な戦闘があった。

一つは、11月25日から30日まで続いた清川江戦闘である。この戦闘で
中国軍は、米第8軍を南方に敗退させた。




              




長津湖の戦闘






冬山で、中国軍と、何のために、戦うのか?





もう一つは、長津湖の戦闘である。長津湖は、成鏡南道長津郡に位置した貯水池
であった。米海兵隊は、11月27日から12月11日まで、厳寒の中で、
長津湖一帯を包囲した中国軍を相手に死闘を繰り返し、脱出路を開くのに
成功した。この戦闘での勝利で、米軍は、南への避難を願う北朝鮮の住民たちと
共に、成鏡南道の湾口都市である興南から撤収することができた。

1950年12月9日から24日まで続いたこの撤収は興南撤収と呼ばれている。





2度の攻勢はすべて中国軍の大勝利に終わった。

毛沢東は、国連軍を解散させ、米軍を朝鮮半島から撤退させ、ソ連・中国・
北朝鮮の立場での合理的な枠組みの中で朝鮮半島問題を解決するという、
最初の目標が達成できるだろうという楽観的見解を持つようになった。

現地情勢明るい彭徳懐は、毛沢東と違って、慎重な評価を下した。

彭徳懐は国連軍の主力が敗れたのではないことに注目していた。

中国軍は、38度線で停止し、朝鮮戦争開戦以前の原状を回復することで
満足しなければならないと主張した。

しかし、結局、彭徳懐は、「軍事でも天才」であり、最高権力者でもある
毛沢東に従うことにした。

(3)彭徳懐の慎重な作戦

このように、中国軍が軍事的な大勝利を繰り返し、38度線に接近するや、
国連では、さまざまな休戦案が提出された。

特に英国をはじめとした西側の参戦国が主導して、中華人民共和国を
国連安全保障理事会に出席させ、朝鮮半島問題と台湾問題を討論するという
決議案を通過させた。

中国は、外交部のソ連・東欧局長・伍修権を、大使兼特派代表に任命して、
国連へ派遣した。

伍修権は、11月27日に国連政治委員会に、翌日に国連安全保障理事会に
それぞれ参加した。

中国代表が国連の会議に参加したのは、その時が初めてであった。
これは国際社会の大きな関心を集めた。

伍修権の態度は、戦場での優勢を反映するように非常に強硬だった。

休戦に対しては関心を見せず、朝鮮半島から、米軍をはじめとした
すべての外国軍の撤退を実現させるために、効果的な措置を取らなければ
ならないというところに力点を置いたのである。

米国の態度も強硬だった。英国との葛藤を深くしないよう、休戦の原則に
同意するという米・英共同声明を発表したが、基本的には、戦争継続を
主張し、1951年2月1日、国連総会で、中国を侵略者として規定する
決議案を通過させることに成功した。

一方、中国は、第3次攻勢を開始することを決定した。

毛沢東は、周恩来と共に、1950年12月初めに、金日成と北京で会談し、
彭徳懐を総司令官にして、朝中合同軍事本部を発足せることに合意した。

1950年12月31日から、第3次攻勢が始まった。

1951年1月4日、中国軍は、ソウルを占領した。




第3次攻勢の最後の日である1月8日までに37度線まで下がっていった。

この時点で、彭徳懐は作戦を停止した。

老練で慎重な彭徳懐は、戦勝に酔わず、状況を綿密に分析していた。

国連軍が、相変らず、軍事技術で優位を占めている。中国軍の背後から
上陸作戦を敢行することがあり得ると判断したからである。そうなった場合、
中国軍は、軍需品と食糧補給が不足するうえ、通信が円滑でないため、
効果的に抵抗することができないだろうと正確に読んだ。

それで、彭徳懐は、国連軍の継続的な敗退は、中国軍を深く誘引しながら、
疲労させる戦略ではないかと疑っていた。

中国人民志願軍・総司令官・彭徳懐の判断は、ほぼ正確だった。

国連軍、特に米軍は、敗退を繰返しながらも、中国軍が、武器と弾薬を含む
軍需品の不足に苦しんでいるという事実を見逃さなかった。

国連軍は大規模な反撃を準備していた。

3.中国軍の後退と休戦

(1)中国軍の第4次攻勢

彭徳懐は、中国軍のソウル占領後の状況と米軍の戦力を慎重に分析した。
その結果、ソウルを放棄して、漢江以南を国連軍に渡して、ある時点で、
名誉ある休戦を成立させることが望ましいと判断した。

しかし、毛沢東は、彭徳懐とは異なった判断であった。毛沢東は、戦況は中国軍に
有利に推移していると判断していた。

1951年1月28日、毛沢東は、彭徳懐に電報を打って、第4次攻勢を準備せよと
命令した。第4次攻勢が成功すれば、米国は、中国と北朝鮮に有利な条件で、
休戦に応じるようになると判断したのである。

毛沢東は、第4次攻勢が満足に展開され、忠清南道大田市と、慶尚北道
安東郡以北の占領に成功すれば、2〜3ヵ月間の休息と準備期間を経た後に、
最後の攻勢である第5次攻勢を開始せねばならないと提議し、
「そうすることが、われわれが、すべての面で、さらに有利になる」のだと結論した。

彭徳懐は毛沢東の命令を受け入れて、1951年1月29日に、中朝合同本部の
会議で、毛沢東の命令と提議を、そのまま報告した。

1月30日、第4次攻勢が始まった。

第4次攻勢開始後、彭徳懐は、毛沢東は、前線の状況を正確に把握していないと
思うようになった。中国軍兵士たちは、軍需品と食糧の欠乏に苦しんでいた。
軍靴が支給されず、厳寒の雪道を裸足で歩かなければならなかった。

彭徳懐は、毛沢東に、軍需品と食糧の欠乏の事実を文書で報告しながら、
第4次攻勢が挫折する可能性に備えることを建議した。

第4次攻勢は2月16日まで続いた。

しかし、彭徳懐が憂慮したとおり、中国軍は、国連軍の強力な軍事力の前に
相当な犠牲者を出さざるを得なかった。

そこで、彭徳懐は、2月17日を期して、第4次攻勢を、機動的防衛戦に切り替える
ように命令した。

同時に、ソウルを放棄して、国連軍の主力を38度線近郊に誘い出して、
そこで国連軍を潰滅させるという計画を立てた。

その計画を執行するためには、毛沢東の同意が必要だった。

3日後、彭徳懐は、北京に飛び、疲労とひもじさをかえりみず、まず毛沢東の宿所を
訪ねた。寝ているので、起すことができないという秘書に、彼は「今すぐ会わなければ
いけない」と、大きく叫んだ。

席はすぐに用意された。ここで彭徳懐は、中国軍がどれほど困難な境遇で戦って
いるのかを、毛沢東に、率直に詳しく知らせ、続いて戦争が早く終わらない理由を説明した。

現地司令官である彭徳懐の力強い建議に、毛沢東も妥協するしかなかった。
そこで、「可能ならば速く勝利をおさめるようにせよ。しかし可能でなかったら、
ゆっくり勝利をおさめるようにせよ」とあやふやな言い方で、彭徳懐に指示した。

これは、事実上、毛沢東が、戦争は早くは終わらないという厳然な事実を、
受け入れたことであった。

毛沢東は、1951年3月1日、スターリンに、この戦争は早く終わらずに、
長引くかもしれないと電報で知らせた。この戦争の長期化を文章で認めたのは、
これが初めてだった。

確かに、戦況は逆転していた。国連軍は、3月初旬以降、戦線のイニシアチブを
掌握し、3月15日にはソウルを奪還した。

3月30日頃までには、38度線近くまで北進した。

この時点で、西側国家は休戦案を提議した。

戦争以前の原状が回復するようになったので、38度線を境界に休戦しようという
動きが広がった。米国政府も、遂に、休戦を決意するようになった。

中国大陸への戦争拡大を主張して来たマッカーサー国連軍総司令官を解任した。

しかし、毛沢東の中国は、休戦には極めて消極的であった。

毛沢東は、第4次攻勢の挫折と敗退の苦みを味わわねばならなかったが、
第4次攻勢で得たものは所得は少なくなかったと計算した。

1988年に北京で出版された人民解放軍軍事科学院の公式戦史によれば、
国連軍は、中国軍の頑強な抵抗のため、1日にやっ1.3キロメートル進撃しながら、
おおよそ900人の死傷者を出した。それほど国連軍の進撃は遅かった。

その間、中国軍は、年間60万人を新たに徴兵する計画を執行することができた。
多くの方面で、第5次攻勢に有利な条件を造ることができた。

中国軍は占領した空間を国連軍に渡す代りに、第5次攻勢のための時間を得た。

(2)第5次攻勢失敗で休戦に転換

1951年4月22日、中国軍は第5次攻勢を開始した。

戦力増加に鼓舞された彭徳懐は、「この第5次攻勢は非常に重要である。
我々は、この第5次攻勢を通じて、戦場でのイニシアチブを取り戻さなければならない。
この攻勢に勝利して、戦争期間を短縮させなければならない」と宣言した。

しかし、第5次攻勢は失敗に終わった。

国連軍が頑強に抵抗したからである。

5月16日からは、集中的に国連軍を攻撃したが、5月23日には、
中国が自ら認めたように、
朝鮮戦争参戦以降、最大の人命損失を経験しなければならなかった。


第5次攻勢の失敗を通じて、中国軍は、初めて、国連軍の、特に米軍の、
軍事装備と空軍力、及び兵姑がどれほど強大であるのかを切実に悟った。

中国国民党との内戦に使われた、毛沢東の戦略戦術も、米軍の現代的な戦略と
最新武器の前では、威力を発揮することができないことを知ったのである。

第5次攻勢失敗を受けて、毛沢東は、休戦を受け入れる方向に転換した。

朝鮮戦争が南北朝鮮に与えた影響

朝鮮戦争が朝鮮民族に与えた影響

極悪非道な戦争犯罪者・金日成の引き起こした朝鮮戦争は、朝鮮民族
全体に、歴史上かってなかった最大の災害を与えた。人的・物的・精神的と
あらゆる面において、朝鮮戦争災害はあまりにも大きく、その深刻な後遺症は、
休戦後、半世紀以上の歳月が流れ去った、今日の時点に至るも、
癒されることなく残っている。

(1)犠牲者数・被害者数

先ず指摘されなければならない点は、正確な統計数値の不足である。
各種機関や研究者によって、数値に相違がある。

@韓国側

韓国軍の犠牲者数・被害者数(死亡・負傷・行方不明)を、
国連軍側は、約25万7,000人、共産軍側は、約58万6,000人と発表している。
東京の『統一朝鮮新聞』は、1970年6月27日号で、98万8,403人と推定した。

数値に相違があることを前提として、先ず、韓国側から考察してみよう。
韓国政府資料を援用した『北韓30年史』は、韓国軍は、戦死
約14万7,000人、負傷約70万9,000人、行方不明約13万1,000人で、
犠牲者数・被害者数の合計は約98万7,000人としている。
この数字は『統一朝鮮新聞』の98万8,403人とほぼ一致する。

続いて、『北韓30年史』は、韓国側の民間人の犠牲者数・被害者数は、
北朝鮮軍に虐殺された者は12万3,936人、その他の死亡者は24万4,663人、
負傷者は22万9,625人、北朝鮮に拉致された者は8万4,532人、
行方不明者は33万312人、北朝鮮軍に強制徴兵された者は約40万人、
警察官の死傷者は1万6,816人など、合計約143万人と述べている。

このような資料をまとめると、韓国側の犠牲者数・被害者数は、
合計約240万人以上にのぼる。

A北朝鮮側

次に、北朝鮮側について考察してみよう。『北韓30年史』によると、
北朝鮮軍は、約52万人が死亡した。約40万6,000人が負傷した。
民間人の犠牲者数・被害者数は約200万人としているる。これらを合計すると
北朝鮮側の犠牲者数・被害者数は約292万人にのぼると推定される。

一方、『統一朝鮮新聞』は、北朝鮮軍の死亡者数は61万1,206人、
民間人の犠牲者数・被害者数は約268万人と集計している。
これを合計すると、北朝鮮の犠牲者数・被害者数は約329万人になる。

B国連軍側

他方、国連軍の犠牲者数・被害者数は、約15万人である。そのうち、
約14万人が米軍兵士である。『北韓30年史』は、国連軍の戦死者は
約3万5,000人、負傷者は、約11万5,000人、行方不明者は約1,500人で、
合計で、約15万1,500人であると述べている。『統一朝鮮新聞』は、
国連軍の戦死者は3万6,813人、負傷者は11万4,816人、行方不明者は
6,198人、合計15万7,827と集計している。

C中国側

中国軍の犠牲者数・被害者数は、『北韓30年史』は、約90万人と見ている。
『統一朝鮮新聞』は、戦死者18万4,128人、負傷者71万5,872人、
行方不明者2万1,836人、合計で92万1,836人と見ている。

両者の集計はほとんど一致している。

D南北あわせた犠牲者数・被害者数

これら資料を総括すると、南北朝鮮を合わせた朝鮮民族の
犠牲者数・被害者数は、何なんと、と532万人にのぼる。
当時の南北朝鮮の総人口を約3,000万人と推計するとき、
犠牲者数・被害者数は、5.6人当たり1人の割合である。

1950年の北朝鮮の人口は約974万人だったが、
1953年には849万人に減ってしまった。

北朝鮮の人口が減少した重要な原因の一つは、南に避難してきた
住民が多かったことである。

民間人の犠牲者数・被害者数は、朝鮮半島の歴史上、かつてないほど
大きかった。まさに、朝鮮戦争の悲劇であった。

E大規模な人口移動

さらに、朝鮮戦争の悲惨さとして指摘される点は、膨大な規模の
離散家族の発生である。南北に引き離された離散家族の数を
正確に集計することは不可能に近い。しかし、韓国の社会学者たちの
推計によると、南朝鮮から北朝鮮に移住または拉致された人数は
約30万人、北朝鮮から南に脱出してきた人数は45万人から
72万人の間と推計される。これを合計すると75万人から
100万人前後の人口が移動したことになる。

一般的には、北から南に移住した避難民は約300万人、
離散家族の数は約1,000万人にのぼるといわれる。
これは、朝鮮戦争によって、大がかりな人口移動が発生したことを
意味している。





(2)生産設備とインフラの破壊・国土の荒廃

韓国・北朝鮮の双方、つまり、朝鮮半島全体において、学校・教会・寺院・
病院・民家をはじめ、工場・道路・橋梁などの大半が破壊された。

つまり、南北を問わず、社会経済上の基盤、インフラストラクチャーの
大半が破壊された。

@北朝鮮の惨状


北朝鮮においては、朝鮮戦争開戦前年の1949年のレベルと比較して、
鉱業は80%、工業は60%、農業は78%の割合で、生産力が減少した。

金属製品・電気製品・建設製品・漁獲高では、生産は60%から90%落ちた。
鉄鋼・銅・アルミニウム・アルカリ化学肥料部門では、生産の減少は
より深刻であった。

約90万エーカーにのぼる農地が荒廃した。60万戸の民家と5,000に
のぼる学校、1,000に近い病院が破壊された。

飢餓が北朝鮮全域に蔓延した。

A韓国の惨状と米国の援助

韓国においては、休戦直後、家を失って路上をさまよう戦災民は200万人を
超えていた。総人口の20〜25%が飢餓に直面していた。朝鮮戦争開戦前年の
1949年の年間国民総生産と同等の、財産上の被害を蒙った。

各種の産業生産施設の大半が破壊された。一般住宅も約60万戸が破壊された。

鉄道、道路、及び橋梁などのインフラストラクチャーの大半が破壊された。

製造業の場合、ソウル〜仁川間の工業地帯と、江原道の三防工業地帯が
大きな被害を蒙った。紡織・印刷・出版業、さらには、皮革・製紙・化学工業も
大きな被害を蒙った。1951年末の時点における韓国政府の調査によると、
工業部門の戦争被害は、建物44%、工場施設42%に達した。

鉱業部門の被害も大きかった。1951年8月末の時点で、韓国の戦災総額の
23.3%を鉱業部門が占めていた。

電力部門の場合、総発電施設の約80%が損傷した。

農業生産は27%減少した。

1950年代の米国の援助は、韓国の産業生産活動だけでなく、国民の経済生活
全般を復旧する最も重要な要因となった。

具体的には、1953年〜1961年の間に、米国から、総額22億8000万ドル
という莫大な援助が与えられた。

1954年〜1961年の間の、韓国における総投資率は年平均12.0%で
あったが、そのなかの、国民貯蓄率は年平均3.7%にすぎない。
つまり、復旧のための投資は、ほとんど全部、米国の援助によるものであった。

従って、米国の援助の内容は、そのまま、韓国の産業構造を決定したのである。

米国の援助は、鉄道、消費財、穀物が主であった。

鉄道車両の導入を中心とする交通部門と、教育および厚生部門に対する導入が
集中的だった。これはいいかえると、製造業の施設財導入が大変少なかったことを
意味する。

総括すれば、朝鮮戦争によって、韓国経済は、自主的な成長の可能性を
事実上喪失したのである。

特に、韓国の経済的要求や必要とは関係なく成された米国の経済援助を土台に、
消費財軽工業を根幹とする工業化が進められることによって、産業の対外依存的
成長と農業の沈滞現象が現れるようになったのである。

参考資料:




U.韓国の歴史教科書



韓国高等学校歴史教科書



韓国中学校歴史教科書

第308頁
6.25戦争の結果
北韓が引き起こした6.255戦争は、自由と平和に対する挑戦であり、
同族相残の悲劇だった。

この戦争によって、数多くの人々が生命と財産を失った。
戦争による南韓の死傷者数だけでも150万人に達し、数多くの戦争孤児と
離散家族が発生した。

戦争で国土は荒廃し、工場、発電所、建物、橋梁、鉄道などの経済施設も
徹底して破壊された。

人命と物質的被害だけでなく、精神的被害も甚大だった。南北韓の間には
戦争によって敵対感情がみなぎり、その結果、平和的な統一よりは、
対決の局面に陥る民族の悲劇が拡大されていった。

小学校〜通信大学の歴史教科書




朝鮮戦争が引き起こした惨禍 (抜粋)
出典:朝鮮史研究会編 『朝鮮の歴史』 第329頁 三省堂1995年2月発行

朝鮮戦争は、北緯38度線を境に、南への進攻と、北への進攻がくり返された
ところから、「アコーデオン戦争」と名もついた。

南は洛東江から、北は鴨緑江まで、朝鮮半島全体に戦線が動いたため、
人的にも物的にも、戦争被害は甚大なものになった。

しかも、国連軍の物量作戦が被害の程度を一層深刻なものにした。
国連軍の弾薬使用量は、太平洋戦争における米軍の弾薬使用量を
上まわったといわれる。

戦争による犠牲者は、北朝鮮人民軍は、戦死者、約50万8,000人、
負傷者、約10万人、中国共産党軍は、戦死者・負傷者合わせて約50万人であった。

一方、韓国軍の戦死者・負傷者は約99万人、米軍の戦死者・負傷者は
約39万7,000人、米国以外の国連軍の戦死者・負傷者は29万9,000人に達した。

民間人の犠牲者は、行方不明者を含め、南北合わせて200万人を超えたといわれる。
施設の被害をみると、韓国では建物の40パーセント、生産設備の30〜75パーセントが
破壊され、60万戸の住宅が被害を受けた。

一方、米軍の「絨毯爆撃」を受けた北朝鮮の被害状況は惨憺たるものであった。
平壌だけでも60万戸の住宅が焼失した。1953年の北朝鮮の工業生産は
1949年の64パーセントに、農業生産は76パーセントにまで落ち込み、
多くの北朝鮮国民が、衣食住のすべてにわたって、こと欠く状況であった。

このような戦争被害の深刻さは、相手の体制に対する憎悪を拡大した。
南北分断の固定化を一層促進することになった。戦禍によって引き裂かれ、
再会の道を断たれた離散家族は、1,000万人にも達したことは、
分断の解消を求める声をますます切実なものにする要因になった。



You Tube : 韓国独立記念館:全体の広さは東京ドームの約80倍。韓国屈指の
       観光施設で、韓国の若者たちは、小学生時代、中学生時代、高校生時代を含め、
       最低3回は訪れる。年間、数百万人が訪れ、見学の都度、日本に対する憎悪と
       恨みを強め、心に刻みつけていくといわれている。





想像も出来ない戦争を、米国、韓国、など(日本?)に味わわせて、地球と無理心中だ!





北朝鮮の強制収容所−この世の地獄

国連総会、北朝鮮の人権侵害非難決議
2005年12月16日、国連総会の本会議において、北朝鮮の外国人拉致を含む
【長期間にわたる、組織的、広範で、重大な人権侵害】を非難する欧州連合(EU)や
日米両国などの共同提案の決議案を賛成88、反対21、棄権60で採択した。
中国とロシアは反対した。韓国の盧武鉉政権は棄権した。

国連総会の北朝鮮非難決議の要旨は次の通り。
@
国連総会は北朝鮮の組織的で広範囲かつ重大な人権侵害に深刻な懸念を表明。
これに含まれる具体例は次の通り。
(1)強制的失踪(しっそう)という形の外国人拉致に関連する未解決の諸問題。
(2)政治犯らを収容する多数の強制収容所の存在や強制労働、公開処刑など。
(3)外国から送還された脱出住民(脱北者)への虐待や死刑などの懲罰など。
(4)宗教、表現、平和的集会や結社の自由に対する厳しい制限など。
(5)売春や強制的な結婚のための女性の人身売買など。
(6)人権状況を調査する国連人権委員会特別報告者への協力拒否。
A
乳幼児の栄養不良がまん延し、危機的な人権状況となっていることを深く憂慮。
B
援助物資を行き渡らせるため、世界食糧計画(WFP)を中心とする
国連機関の完全で自由かつ円滑な活動を認めるよう要請。

Google News 2007年12月19日
国連総会、北朝鮮の人権侵害非難決議を過去最多支持で採択
国連総会は18日、北朝鮮の人権侵害に「非常に深刻な懸念」を示し、
拉致被害者の即時帰国の保証などを北朝鮮に強く求める決議案を
賛成101、反対22、棄権59で採択した。
北朝鮮の人権非難決議の採択は3年連続で、
賛成票は過去最多を記録した。

北朝鮮の核問題の一定の進展とは別に、国際社会が
北朝鮮の人権侵害に依然、厳しい視線を向けていることが示された。
韓国は昨年は賛成したが、
今年は南北関係への配慮から棄権した。
中露は反対票を投じた。

今年の決議は、
拉致被害者の即時帰国の保証など具体的行動を初めて要求し
北朝鮮が「透明な形で緊急にこの問題を解決する」ことを求めている。
また、北朝鮮での国民への拷問や非人道的な拘束、公開処刑、
人身売買など組織的、広範囲にわたる重大な人権侵害への懸念を
表明し、即時中止を要求している。

 出典:読売新聞(朝刊)2012年10月5日第7面

V.ウソつき中国ウソつき韓国
   朝鮮戦争論争








W.彭徳懐元帥に対する毛沢東の酷い仕置き
−毛沢東の【憎悪】は凄まじかった!
                       −毛沢東の仕置きは残虐を極めた!


1950年6月25日、金日成の北朝鮮人民軍は、
ソ連製T34/85戦車300両を先頭に韓国に侵攻した。
米韓軍を釜山周辺にまで追い込んだ。
一時は金日成の朝鮮半島武力統一は成功かと思われた。

しかし、マッカーサー元帥率いる米韓軍の仁川上陸に始まる反撃で、ソウルを奪還され、
ピョンヤンを占領され、北朝鮮人民軍は北の中国国境近くにまで追いつめられた。

ここで彭徳懐が指揮した毛沢東皇帝陛下の中国共産党軍(当時、中国は
【中国人民志願軍】と称したがれっきとした中国共産党の正規軍)
が登場する。

蒋介石の国民党政府軍を台湾に追い落とした輝かしい実績ある中国共産党軍は、
米韓軍が思いも及ばなかった煙幕をはって米軍機の眼をかすめ、
大部隊に冬山山岳部を踏破させるという快挙で米韓軍の背後に大部隊を送り、
山上から、谷間にいた米韓軍を攻撃した。さらには米韓軍の補給路を断ち、
米韓軍を殲滅した。

米韓軍は総崩れとなり敗走した。


中国共産党軍はピョンヤン(平壌)を奪還し、ソウル(京城)を占領した。

100万人(マッカーサー元帥は、当初は20万人、その後は50万人と推察していた)といわれる
中国共産党軍の総司令官であった彭徳懐は、
北朝鮮から「朝鮮民主主義人民共和国英雄」の称号を贈られた。
中国に凱旋後、元帥に昇格した。国務院副総理、初代国防部長を務めた。

しかし大躍進政策を批判して、毛沢東の逆鱗にふれ失脚した。

文化大革命では、哀れ、紅衛兵たちに、反革命分子として曳きたてられ、
大衆の面前で容赦なく吊し上げられた。さらに、紅衛兵たちの凄まじい暴行を受け、
肋骨を2本折られた。
その後遺症で下半身不随となった。その後、癌による死の床では、
鎮痛剤の注射を拒否され、下血と血便にまみれた状態のままのベッドとシーツに何日も
放置された。監禁病室で全ての窓を新聞紙に覆われたままで約8年間を過ごした。
死の直前、窓を開けて最後に空を一目見せてほしいと嘆願したが拒否され
た。

彭徳懐は毛沢東の腹心だった。農民の将軍だった。
彭徳懐は政治的な問題に関しては常に毛沢東に従った。

「最初は兄貴分としての毛沢東に、
次に教師としての毛沢東、最後には指導者としての毛沢東に」従った。

毛沢東は、彭徳懐を「老彭(ラオポン)」と呼んだ。
彭徳懐は、毛沢東を、親しみをこめて、「老毛(ラオマオ)」と呼んだ。

中国共産党指導部のなかで、毛沢東に対して、このような呼び方を
使うことができたのは、彭徳懐だけだった。

軍事問題などで、毛沢東が、やや空論を述べすぎていると思われるときには、
内輪で、毛沢東のことを「教師」と呼んだりもした。
だが彭徳懐は、毛沢東に、へつらっていたわけではなかった。
しかし、このような彭徳懐の独立した姿勢が、結局は、高くつくことになった。

朝鮮戦争が終わってから数年して、彭徳懐は、
いくつかの政治問題で毛沢東に異論を唱えたので、
晩年には【毛沢東の敵】、すなわち【人民の敵】とされた。

「老彭(ラオポン)」と呼ばれた彭徳懐は、毛沢東によって、
投獄され、辱められ、残虐に叩きのめされ、ついには、拷問死した。

中華人民共和国の建国と国防に、必死に、誠実に尽力した、忠誠心あふれる
愛国者であった老軍人の、あまりにも悲惨な、歴史上にも類をみない
拷問死であった。



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X.殺人鬼・金日成の
   徹底的な反対派粛清
(殺害)


朝鮮戦争の被害は戦争を起こした北朝鮮の方が韓国より大きかった。

国連軍の火力が共産軍の火力よりはるかに強く、特に中国軍の参戦以後、
さらには、休戦協議に入ってからも、国連軍による空中からの集中的な
破壊が行われたからである。

このような被害の大きさだけでなく、朝鮮戦争は、北朝鮮社会全般に
凄まじい影響を及ぼした。

そのなかでも、最大のものは、殺人鬼・金日成による反対派の徹底的
粛清(殺害)である。これは、スターリンの反対派徹底的粛清(殺害)
そっくり、そのまま見習ったものである。

朝鮮戦争の直前、北朝鮮の権力構造内部には四つの政治的派閥が共存していた。
国内派、延安派、ソ連派、金日成を中心とする満州派である。

金日成は、1950年12月、先ず延安派の軍事指導者・武亭を粛清(殺害)した。
中国軍の介入により、延安派が鼓舞されはしまいかと恐れた金日成は、
平壌陥落の責任を問うて武亭を殺害したと見られる。

これよりもさらに大きな粛清(殺害)は、休戦と前後して敢行された。
3年間続いた朝鮮戦争が休戦で終わってしまったので厭戦思想が蔓延した。
この状況下で、これに対する責任を負わせるべきスケープゴートとして、
殺人鬼・金日成は、国内派、すなわち南労党系列に照準を合わせたのである。

休戦直後の1953年8月3日、北朝鮮当局は、朴憲永をはじめ、
13人の南労党出身者が、「米帝のスパイ」として「米帝と結託」の下に、
金日成政権の転覆を図るクーデターの陰謀を企てたとして、1952年末に
逮捕され、それまでの捜査の結果、裁判に回されたと発表した。

北朝鮮最高裁判所特別軍事裁判は4日間続けられた。金日成の実弟の
金英柱が終始指揮に当たった。

しかし、朴憲永だけは、知名度も高く、国内外に与える後遣症を考慮して、
この裁判には含めなかった。

軍事裁判の結果、彼らは、「朴憲永を首相に据え、李承樺を党第一書記とする
新しい政権の樹立を企てたこと」が明らかになったとして全員が極刑に処された。

北朝鮮軍の南朝鮮占領当時、ソウル臨時人民委員長を務めた党中央委員会書記
兼人民検閲委員長の李承樺、文化宣伝省副相の趙一明、詩人で朝ソ文化協会
中央委員会副委員長の林和、党連絡部副部長の朴勝源、北朝鮮人民委員会
外務局長を経て貿易省一般製品輸入商社社長の李康国、党連絡部長の嚢哲、
米国軍政下の公報部世論局長を務めたのち北朝鮮に移り、北朝鮮軍最高司令部
総政治局第7部員だった醇貞植、遊撃隊第10支隊隊長の孟鍾鏑、人民検閲
委員会上級検閲員の趙鋪福、元南朝鮮の警察幹部だった白亨福らは死刑になった。

党宣伝扇動部副部長の李源朝は懲役12年、党連絡部副部長だった尹淳達は
懲役15年の有期刑を宣告された。

朴憲永に対する裁判は、2年半後の1955年12月に行われた。朴憲永は
1955年12月15日、最高裁判所特別法廷に立った。最高人民会議常任
委員会の決定により、民族保衛相を歴任し、朴憲永の後を継いで副首相に
昇進した崔庸健が裁判長に任命された。検事総長の李松雲が論告した。
朴憲永は、即日、死刑が求刑された。1957年に死刑が執行された。

南労党幹部の粛清(殺害)と同時に、多数の韓国から北朝鮮に来た南労党員
たちが、職場から追われ、自己批判を強要され、刑務所や強制収容所に送られ、
そのあげく、粛清(殺害)された。
こうして、一つの政治勢力であった南労党勢力は完全に根こそぎにされてしまった。

南労党一派に対する粛清(殺害)と併行して、南労党系以外の要人たちも
少なからず粛清(殺害)された。

その代表的な例が、ソ連派の頭目格だった許寄而である。ソ連共産党の党籍を
持ったままソ連占領軍とともに北朝鮮に入り、北朝鮮労働党、後に朝鮮労働党の
創党に貢献した許寄而を、金日成は「党博士」と呼んだこともあった。
彼は南労党一派に対する粛清(殺害)が開始された当時、党中央委員会の書記
兼内閣副首相であった。彼は1953年4月に拳銃自殺した。

金日成の反対派粛清(殺害)は、これにとどまらなかった。

1956年2月ソ連の新しい権力者として登場したソ連共産党中央委員会
第一書記兼ソ連政府首相のフルシチョフがスターリンの独裁を非難し、
集団指導体制の原理を再び強調したことに鼓舞されて、同年8月、延安派は
ソ連派の一部の同調を得て、金日成に反対する運動を開始した。

ちょうどそのとき、金日成は、援助資金を確保するため、ソ連と東欧諸国を
旅行中だった。急遽、帰国した金日成は、軍部と秘密警察の確固たる支持の上に、
反対運動を開始した一派を、「反党宗派主義勢力」と断罪した。延安派の頭目
であり、北朝鮮労働党の初代委員長を務め、北の政権樹立後は、引き続き、
国家元首格の最高人民会議常任委員長職にあった金科奉と、彼の長年の同志であり
金日成大学副総長を歴任した韓斌、副首相の崔昌益、商業相の尹公欽、
職業総同盟委員長の徐輝、駐ソ大使李相朝などといった延安派のリーダーたちと、
許寄而の自殺以後、ソ連派の事実上の頭目だった副首相の朴昌玉、同じく副首相の
朴義現、建設相の金承化のようなソ連派のリーダーたちを、その時、
すべて粛清(殺害)した。

この粛清(殺害)事件を、北朝鮮では、「八月宗派事件」と呼んでいる。

反対勢力に対する金日成の無慈悲な粛清(殺害)は、これでは終わらず、
その後、2年間続けられた。この徹底的な粛清(殺害)によって、1958年までに、
金日成の「唯一独裁体制」が確立された。

金日成の一連の粛清(殺害)は党上層部の構成を徹底的に変えたが、党の
下層部でも、その構成が大きく変わった。その最大の要因は、朝鮮戦争中、
「約16万人」の党員が、党籍を捨てたり「犠牲」になった反面、
約40万人が新しく入党したからである。1956年初めには、
党員の約51.7%が、朝鮮戦争勃発以後に入党した者だったという。
以上


関連サイト:犯罪軍事国家・北朝鮮の人権無視の実態

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Y.朝鮮戦争は歴史から見捨てられた戦争!

1965年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、
韓国との境界線を突破して韓国を奇襲攻撃した。

北朝鮮軍兵士の多くは、中国の国共内戦で、中国共産軍に参加した実戦経験
豊富な者たちであった。

北朝鮮軍は3週間で韓国全土を圧する戦略であった。

北朝鮮軍の韓国侵攻半年前、アチソン米国務長官は米国のアジアにおける
防衛線に韓国を加えるのを怠るという大きなミスを犯していた。

当時、韓国に駐留していた米軍は小規模な軍事顧問団だけであった。
北朝鮮軍侵攻への備えはまったくなかった。

奇襲攻撃後から数週間の北朝鮮軍の戦果は驚くべきものであった。

韓国から続々報じられる韓国軍惨敗のニュースに、ワシントンでは
トルーマン大統領ら米国政府首脳が北朝鮮の意図をめぐり鳩首協議を重ねた。

北朝鮮軍の奇襲攻撃はソ連の指図によるものなのだろうか?
北朝鮮はソ連の手先すぎないのではないか?
あるいは、北朝鮮軍の奇襲攻撃は、世界を股にかけた、共産主義・ソ連の
挑発行動の第1弾となる陽動作戦なのだろうか?  と。

しかしトルーマン大統領はすぐ決断した。

米軍と、さらに、国連軍とを投入して、共産主義・北朝鮮の韓国占領を
阻止すると決断した。

朝鮮戦争は3週間どころか、その後3年も続いた。

米軍と国連軍は兵力の規模は小さかったが、兵器と技術力で、
なんとか北朝鮮軍と中国共産党軍を抑えようとした。

北朝鮮軍と中国共産党軍の兵力は圧倒的だった。
朝鮮戦争は過酷きわまりない戦争になった。

けわしい地形とひどい気候の戦場、とりわけ冬期の凍てつく寒さは、
米軍将兵には、北朝鮮軍や中国共産党軍以上の難敵であつた。

軍事史研究家のS・L・A・マーシャルは、
「朝鮮戦争は20世紀最悪の胸くそ悪い小戦争」と評している。

米軍・国連軍将兵の前に立ち現れた重畳たる山岳地帯は、米軍・国連軍の
兵器の優位性、とりわけ装甲車両の優位性を損なうものであった。

逆に重畳たる山岳地帯は中国共産党軍には、洞穴やその他さまざまな形の
隠れ家を提供するものであった。

当時のアチソン国務長官は「忌まわしい戦争だった」と朝鮮戦争戦後回顧
している。
「しらけた戦争だった」とはアチソン国務長官の友人アヴェレル・ハリマンの
言葉である。
米国にとって、朝鮮戦争を「望まざる戦争」と呼ぶのは、たいへん控え目な
言い方になるだろう。

米軍に戦闘突入を命じたトルーマン大統領は、当初、
朝鮮戦争を【戦争】であるとは言わなかった。

トルーマン大統領は、ソ連との対決色が高まるのを抑えるため
朝鮮戦争を意識的に軽く扱っていた。

トルーマン大統領は言葉をひねり回した。

北朝鮮軍が韓国との境界線を突破して韓国を奇襲攻撃した4日後の
6月29日午後、米軍への戦闘命令を発令ずみの時点であつたが、
トルーマン大統領は、ホワイトハウス詰め記者団と会見した際、
米国は実際に戦争に突入したのかとの問いに、「これは戦争ではない。
しかし、もっとも、事実上そういうことにはなるが」と、
訳のわからない答えをしている。

「国連のもとでの警察行動と呼んでよいのか」との別の記者の質問に、
トルーマン大統領は「そうだ!まさにそういうことだ」と答えた。

在韓米軍は軍というよりも警察力であるとのこの答えに、
朝鮮半島で北朝鮮軍と死闘していた米軍の将兵は苫々しい思いを抱いた。

6月29日のトルーマン大統領の迷答は朝鮮戦争が米国にとって何で
あったかを示している。3年間も続いた朝鮮戦争は、第2次世界大戦のように
米国民を一致団結させる大国民戦争とはならなかった。1世代後のベトナム戦争
のように国民を2分し、絶えず悩ますことにもならなかった。

米国民にとって、朝鮮戦争は不可解な、灰色の、ひどく遠隔の地の紛争であった。

希望も解決策も見えないまま、ずるずると続いた戦争であった。

朝鮮半島で戦った米軍兵士とその家族たち以外の、ほとんどの米国人は、
できるだけ知らないでいたい戦争だった。

朝鮮戦争から約30年後、シンガーソング・ライターのジョン・プラインは、
この米国の国民感情を「ハロー・イン・ゼア」という歌で正確に捉えた。
ジョン・プラインは、歌のなかで、デイヴィーという若者の悲劇的な死と、
その犠牲が無駄だったことを雄弁に歌いあげた。

半世紀後も、朝鮮戦争は相変わらず、政治的にも文化的にも、米国人の意識の
外に止まったままであった。

この戦争を扱った傑作の一つ『忘れられた戦争』という本がある。なんと
的を射たタイトルであることだろう。朝鮮戦争はまるで歴史から見捨てられた
かのようだったのだ。

米軍兵士たちの多くは朝鮮半島に送られたことに怒りをもち続けた。

ある者は第2次世界大戦に出征し、戦後は予備役入りして民間の職業に
就いていたところに召集がかかりしぶしぶ応じた。告げられたのは、
10年の問に2度目となる国外戦争への従軍だった。同世代の大勢の者が
そのどちらにも召集がかからなかったのにである。

第2次世界大戦で兵役に就いて、そのまま陸軍に残った者たちは、
1965年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、
韓国との境界線を突破して韓国を奇襲攻撃してきた当時の米軍の哀れな状態に
強く憤慨した。

当時の米軍は、定員も訓練も足りない部隊であった。装備は欠陥だらけの
旧式装備であった。指揮官層のレベルの低さは目を覆うほどであった。

彼らが知っている第2次世界大戦最盛期の米国陸軍の強さ、米国職業軍人魂と
たくましさと比べて、朝鮮戦争勃発時の米軍の哀れな状態はショック以外の
何ものでもなかった。

経験が深ければ深いほど、戦場で強いられる諸条件への失望と驚きは
深刻であった。

朝鮮戦争の最悪の側面は「朝鮮半島そのもの」と第2歩兵師団第23連隊
所属の大隊長だったジョージ・ラッセル中佐は書く。

米軍兵士が頼りとする兵器、とりわけ戦車への依存度の高い米軍には、
朝鮮半島は最悪の地勢だった。スペインやスイスのような国々にも、
急峻な山岳地帯はあるが、直に平坦な平野が開け、そこでは戦車の投人が
可能である。朝鮮半島は、ラッセル中佐によれは、「重畳折りなす山また山」
だった。
       

もし朝鮮半島を色でたとえるとすれば茶褐色のグラデーションになる。
朝鮮半島で戦った功労に対して贈られる従軍勲章があったとするなら、
従軍した米軍兵士全員か勲章の色として茶褐色を選んだだろう。

朝鮮戦争は、米国が情報化社会に入る以前に起こった前の時代の、すなわち
テレビ・ニュースが本来の力を発揮する以前に起こった前の時代の、
プリントメディアの時代の戦争だった。朝鮮戦争の戦況は白黒印刷の新聞で
報道され、米国国民の意識も新聞報道の域を出なかった

テレビ時代のベトナム戦争とは大きく異なり朝鮮戦争当時、テレビの
ニュース番組の放送時間は一晩、わずか15分間であった。しかも内容は
そっけないもので、影響も限られていた。当時のテレビ放送技術では、
朝鮮半島からの素材がニューヨークの本社のニュースルームに届くのは、
通常、深夜で、米国国民を震憾させることはめったになかった。

この本を執筆中の2004年、私は、たまたまフロリダ州キーウエストの
図書館を訪ねた。書架にベトナム戦争関係の書籍が88点あった。
朝鮮戦争関係の書籍はわずか4点しかなかった。これは米国人の意識を
そのまま反映している。

朝鮮戦争50周年記念の催しがあった2001年から2002年にかけて、
米国では3本の大型戦争映画が作られた。
『パール・ハーバー』、『ウィンドトーカーズ』、
『ワンス・アンド・フォーエバー』である。

前の2本は第2次世界大戦物、3番目はベトナム戦争に関するものだった。

これに、1998年制作の『プライベート・ライアン』を加えると、
全部で4四本になる。朝鮮戦争物は皆無だった。最もよく知られた
朝鮮戦争物映画は1962年の『影なき狙撃者』だ。中国の捕虞収容所で
共産主義に洗脳されて米国大統領候補をつけねらう暗殺ロボットになった
米国人捕虜の話だ。

戦時中の陸軍移動外科病院を描いたロバート・アルトマン監督の反戦映画
『マッシュ』は朝鮮戦争に見せかけているが、実はベトナム戦争が主題である。
この映画が封切られた1970年は米国で反戦運動が最高潮に達したころで、
ハリウッド映画の役員たちはベトナム反戦映画の制作には神経質になっていた。

最初から朝鮮戦争はベトナム戦争の隠れミノだった。アルトマン監督と
脚本家リング・ラードナー・ジュニアはベトナム戦争に焦点を当てながら、
ベトナム戦争は当時の段階ではコメディにするには繊細すぎる問題だと
考えたのだった。

映画『マッシュ』に登場する兵士も士官も、ベトナム戦争時代の
もじゃもじゃ髪で、朝鮮戦争時代のクルー・カットではない。

朝鮮戦争が持つ残虐性の実相は米国人の文化意識にはまったく
浸透しなかった。

朝鮮戦争における米国人の死者は推計で3万3000人、負傷者は
10万5000人であった。

韓国の死者は41万5000人、負傷者は42万9000人であった。

中国と北朝鮮は、その死者数と負傷者数を固く秘匿しているが、米軍当局者は
両国合計で、死者数は約150万人と推測している。

朝鮮戦争は冷戦を熱くした。米国とソ連共産圏との緊.張を高めた。
アジアで存在感を見せつつあった共産勢力と米国との亀裂を深めた。
米国の誤算が中国の朝鮮戦争参戦を招いた後、一段と深刻化する
戦いが終わり、軍事休戦が実現した。米国と中国の双方が勝利を主張した。

朝鮮半島の最終的な分割線は開戦前とあまり変わらなかった。
米国、中国、韓国、北朝鮮にとって、まったく無益、かつ悲惨な戦争であった。

だが、朝鮮戦争は米国を大きく変えた。米国の対アジア戦略像は変化し、
国内の政治状況は大幅に塗り換えられた。

朝鮮半島で戦った米軍兵士たちは、米国国民から疎んじられたと感じることが
多かった。その犠牲は米国国民から感謝されなかった。

重要度の低い遠隔の地、朝鮮半島の戦争であるにすぎない朝鮮戦争には、
第2次世界大戦にあったあの栄光と正統性はひとかけらもなかった。

第2次大戦では、米国国民は国を挙げて一つの偉大な目的を共有した。
米軍兵士ひとりひとりが、米国の民主主義精神と、至善の米国的価値観を
広げ流布する使徒と目されて、米軍兵士の祖国への貢献は高く賞賛された。

いっぽう、朝鮮戦争は退屈な限定戦争であった。そこからは、この先、
あまりいいことは何も生まれてこない、と国民はさっさと決めてしまった。

米軍兵士たちが帰還して気がついたのは、かれらの悲惨な体験に、隣人たちが、
総じて、さしたる興味を示さないことだった。

会話のなかで、朝鮮戦争話はすぐに無用の話題にされた。

家庭内のできごとや、職場での昇進、新しい家屋や新車の購入のほうが
もっと興味を引くテーマだった。

その原因の一部は朝鮮半島からのニュースが、ほとんどいつも、
たいへん暗いからだった。

戦況が良い時でも、必ずしも非常に良いとはいえなかった。
戦局の飛躍的好転の公算が近いと見えたことはほとんどなかった。
ましてや、勝利に近づく気配は何もなかった。

とりわけ、1950年11月下旬、中国が大兵力をもって参戦すると、
明るいニュースは皆無になった。

「勝利のためではない、引き分けるために死ぬのだ」という膠着状態を表す
自嘲的なフレーズが米軍兵士たちの間で人気になった。

朝鮮半島で死闘を繰り返した米軍兵士たちと、米国国内の人びととの間には
大きな心理的隔たりがあった。

米軍兵士たちが、どんなに勇猛果敢に、大義のもとに戦っても、
第2次世界大戦の米軍兵士たちと比べれば、しょせん「二流」だった。
朝鮮戦争の戦後も、米軍兵士たちは、そのことでやりきれない思いをした。
しかし、彼らは静かに耐え忍ぶしかなかった。
以上
Re:李承晩の犯罪を忘れるな
100万人以上虐殺の保導連盟事件(ホロコースト)


Re:北朝鮮の強制収容所
−1日12時間重労働を強制し、数年間かけて虐殺