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考鬮寺(こうきゅうじ)の花まつり

「エイザンスミレ」(2012.4.15)

「花折街道」桃の節句・雛のつどい

オオクヌギ倒壊(2011.11.10)

吉川八幡神社の秋祭り(2011.10.15)

「老いに学ぶ」を読んで (2010.5.6)

コウモリ

イノシシや鹿に餌を与えないで!

カリガネソウに寄せての雑感(2009.10.15)

ダンドボロギクに寄せての雑感(里山復活)(2009.9.29)

サンコウチョウという小鳥に借りて (2009.6.29)

(2009.6.16)

ヤマボウシを見に行こ(2009.5.27)

あの赤い犬が

イノシシ暴れる--農家の危機/家庭菜園の崩壊/環境の悪化(2008.10.15)

XP機が立ち上がらない(2008.8.19)

スズメバチに刺されるの巻

Windows Vista機がLANに接続できない格闘記(2008.5.29)

「はな」がマムシに咬まれた始末記2008.5.12

がんばれ「のら」

ムクロジの木

蝮に咬まれる体験記(2007.8.30-9.22)追記(2007.10.4)

白内障手術体験記(2007.3.1) 追記2007.7.14

「さみしいネコ」を読みましたか(2006.1.27)

 

 


2013.5.8

考鬮寺(こうきゅうじ)の花まつり後日談

茶席の傘

抹茶の接待のきれいどころ

5月8日、さわやかな日和の中、参拝者にきれいどころにより(昔)手作り桜餅と抹茶が振舞われました(表現を間違いました。振舞われるというのは無料のことですが、実は○○円でした、それは拝観料ということですが・・・)

 

茶席の赤と新緑の緑の見事なコントラストの中、少し高台で見晴らしもよい境内でのお茶も心落ち着きいいものでした。現代はみんな忙しく、時間は早く流れ、まして高齢になると、「えっ、笑点って2-3日前に見たように思うけど、あれから1週間」、「さっき風呂に入ったと思うけど、もう入ってる、1日たったん」(ここまで来るとちょっと認知掛かってますが・・・)こんなことありません?

そんな、あわただしい1日を送っている、そんなに急いで彼の地にいかなくても、と思うのですが・・・ここで、ゆっくりと寝転んで本でも読んで・・・

「あっ、携帯がなっている・・・、ほっとこ、いやいや何かいい知らせでも、あるわけないか。docomoからの宣伝やった」


2013.4.20

考鬮寺(こうきゅうじ)の花まつり

難しい名前です。

大阪府豊能郡豊能町にある浄土宗のお寺です。小さなお寺ですが、春夏秋冬それぞれの季節にそれぞれの顔を見せてくれる静かな心休まる場所です。

特に、晩秋のイチョウの落ち葉と燃えるような紅葉、心のふるさとそのものです。今の季節新緑も又見事です。

今、現在私たちを取り巻く環境は厳しく、私たち人間だけでなく野生動物にとっても又、厳しいものがあります。経済発展、日本アズ1を目指してがんばりました。

それは戦後、私たちにとって目標でもあり夢でもあったのです。選択は間違っていなく、世界でも例がない安全安心の国づくりが出来ました。

 

しかし、その代償は少なからず私たちに降りかかってきます。例えば、木材エネルギーから石油に、このまちでも、薪炭産業は電気ガスのエネルギーに置き換えられ、山林はクヌギ林に代表される広葉樹林から、政府推奨の杉ヒノキの常緑山林に、少子高齢化とコンクリート主体の世の中に、自然は荒れ果てていきます。

年中、日のささないうっそうとした山林、野生動物も食料を求めて里に下りてきます。

昔は、犬は放し飼いで、それら野生動物が里に下りてくるのを防いでいたのです。今は、人間の都合でペット化されたイヌも闘争本能のDNAを失い、野生動物は友達だと思っています。

野生動物を駆除するために、罠を仕掛けます。

皆さん、その残酷さを見たことがありますか。

私は、動物愛護者ではありません。田畑をあらされ「にっくき奴」と思っています。でも、

罠は、もがけばもがくほど締まって、山には3本足や、角にネットを引っ掛けたままの野生鹿がいます。その現実を目の当りにしたとき、いくらにっくき奴と思っても 、人として大きな負担が心に残ります。

そんな中で、考鬮寺は毎年「花まつり」を行っています。(花まつりはネットで調べてください)

 

今年は、ちょっと気合を入れて「やるぞ〜」と考鬮寺の寺庭(お寺の奥さんをそう呼ぶらしい)は、がんばっています。

今、世の中は、クリスマスは常態化しクリスマスイブとか何とか言って浮かれていますが、日本は、お釈迦さまです。

神仏信仰は自由です。無信仰も又ありきです。

 

でも、人の心はキリストもお釈迦さまも同じです。

 

5月8日の「花祭り」一度、考鬮寺を訪れて、心の洗濯はいかがですか。

 

 

エイザンスミレ 2012.4.15

 

「忙中閑あり」多忙極める中に少しの時間がありました。「はな」を連れての頭休めの山桜鑑賞に青貝山散策。

サンシュユは散り、三椏はピークを過ぎ、遅いアセビ、クロモジが満開、アケビはつぼみという風景です。

今年も実現しなかった、この地域にあったといわれる片栗の花、あるか無いか分からないセツブンソウ、あるはずのマンサクの花・・・何れも早春のロマンの花、今年は探索は実現できなかった。

日、1日と年はとり、足腰も弱ってくる中で来年こそはとの思いに命を延ばします。

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少子高齢化、まさに集落はどっぷりと枠にはまり込みました。このまま進めば、いずれ5−10年先には限界集落へと一直線です。

日本全体の少子高齢化と同様、早くからこうなることは分かっていたはずですが、誰も現実を目の当たりにするまで、動きません。

さらに残念なことは目の当たりにしても動く人が少ないことです。

これといった産業も無く、後継者は遠くに、耕作地は家庭菜園の乱立により環境、風景ともかっての姿を変えつつあり、納税者減による財政困難行政サービスの低下。

それでもあくなき権利を主張する人々。

全国いたるところに展開する現実です。

これといった解答があるわけではありませんが、地域の力では少子高齢化をとどめることは出来ません。だとしたら、私たちはこれから如何に考え如何に生きていくかです。

高齢化の行き着くところは、いずれ独りぼっちになることです。そのとき、あの世の入口まで、如何に納得出来る生き方ができるか、にかかっていると思います。

 

そんな、こんな思いの中に、山中で枯れ草の中に白いちっちゃな花が眼に飛び込んできました。「わぁ〜これ新種や」と思い、はいつくばっての観察でしたが、帰って調べるとなんのことない、スミレの一種「エイザンスミレ」でした。

でも、「わぁ〜」と思う心、声に出して言う、それが感性を保ち、リフレッシュできるコツだと信じている私には有意義な「忙中閑あり」でした。

 

今後、この下の欄の「花折街道」の事などを書くために、夜更かしの日々が続くでしょう。

写真:エイザンスミレとアセビ


「花折街道」桃の節句・雛のつどい

イベント案内

2012.2.28-4.3

とにかく見てみよう。場所はここから、終着駅妙見口、先ず竹雛セットが待っています。

妙見口駅から八幡神社まで街道筋に40セットの竹雛、暖簾、雛人形、絵画、オブジェが並んでいます。又、公民館では、竹雛(@300-)、塩麹(200g @150-)、草団子などを販売しています。

「花折(はなおれ)街道」等については、少し時間を下さい。今、猛烈に忙しい。聞くよりは現地で。

 
 
 

2011.11.10

オオクヌキ゜倒壊

ここは、青貝山進入路

この一年、トレッキングは封印状態。地域の仕事が多忙、その上うまく進展しない。ストレスは溜まる。気分転換もかねて、Xmasリース用のフジを探しに、この辺はアケビの花がきれいなところ。

リース作りはアケビが最高だが゛、できるだけ採集しない。あのきれいなアケビの花が咲き、実がなるまで自然界では10年はかかるだろう。そんなこと考えれば、採集なんてできない。ほんのおすそ分け程度、だから、ころあいの太さまで1年あれば大丈夫のフジを主体に採集。

山仕事をする人もなく、林道は倒木だらけ、チェンソー携行でなければ軽トラが通れない。今の軽トラもルーフがへこんでいる。この林道で倒木をくぐろうとして、道と倒木に挟まれ、前進しても、後退してもの状態になったもの(高齢化すると通過の判断も鈍る)。

道も、イノシシ、鹿が路肩を掘り道幅狭く、谷へ転落に注意しながら・・・と、

 

え、え!「倒れてる」ついこの間、吹いたさして強くもない木枯らしにやられたか・・・

倒木は珍しくもない、が、このクヌギには特別な思いと少年時代のロマンが秘められている。

 

ここは、青貝山の登り口、さして高くもないこの山の4等三角点を踏み天台山の三等三角点を撫でて、光明山、妙見山へと続くハイキングコースの入口。それはさておいて、このクヌギ。

 

少年時代、カブトムシ、クワガタムシの宝庫であった。ただ、この台木(台場クヌギ)蜜が出るのが、写真で残っている最高部分のあたり、いるのは分かっている、見えている、だが届かない。木登りは得意中の得意、だが太すぎて手がかりもなく、蜜の周りにはハチが飛び交っている。クワガタムシもいる。もちろん緑色に輝くカナブンもわんさといるし、玉虫もいる。日中に。

 

当時から、この太さであった。この木には、大きな洞があり、それが原因で倒れたと思われる。洞ができるまで100年-150年として、おそらく200年以上、あるいは300年は生きていたと思う。

もう、新しく芽を吹く力もなかろう。倒壊点が二つに割れて洞が見える。50数年、見たかった洞の中が見える。洞には虫たちが、削りに削った木のくずが腐葉土として溜まっている。

 

カブトの幼虫はおれへんかなぁ〜、手で探る。幼虫はいないが、白い直径3-4mm程度の白い硬い卵が無数に出てくる。これ、なんや?

養殖カブトハウスの中にもあった。

 

カブトの卵にしては時期的に説明がつかないし、なら幼虫がいても不思議でないのに一匹もいない。とりあえず、ビニール袋に20−30個採集して持ち帰る。

 

70近い、おっさんがこんなことするか、と自分でも疑問を持ちながらである。


2011.10.15

吉川八幡神社の秋祭り 湯立ての神事(湯立神楽・巫女神楽)

(吉川八幡神社そのものの細部は、"吉川八幡神社 妙見"等で検索してみてください)

役員、氏子など数人で参詣し、シャンシャンで終わっていました。神戸震災、東北の震災、近畿南の災害と自然が猛威を振るう中、なにすべきこともできなく、ただ、「想定外」で済ませています。

考えてみれば、私たちが住む、この世の中、想定外ばかりです。想定外だから、いいこともあるのですが・・・。宇宙の中の地球のようなもので、周りはみんな想定外です。 <写真は吉川八幡神社>

このような中で、私たちに分かってきたこと、分かっていたのに忘れていたこと、それは「絆」だった、と言うことはひとつの流行語のように報道されています。避難所の非常食だって2−3日もすればそこをつき、道路寸断、破壊された場所には広場だって消え、絶海の孤島化し、政府も行政も当てにはできません。つまるところ、人と人との助け合い、励ましあい、すなわち日ごろからの「絆」が威力を発揮すると言うことは、被災地の人々が経験から教えてくれ、私たちが再発見したことです。 <写真は御神楽>
そのようなたいそうなことでもなく、集落の活性化のために、神様を活用してイベントを打とうと、八幡神社総代の下に有志が企画し実行したのが、50年ぶりといわれる「湯立ち神事」でした。宮司さんのほかに、1組の若い神職夫婦、湯立ちを舞う、若き美貌の巫女さんが、ボランティアで集落の活性に手を貸してくれました。又、消防分団による祭りの太鼓の音も高々に曇天(昨夜は大雨警報)の鎮守の森に響き渡ります。有志の屋台のおでんや栗おこわの売れ行きも上々です。 <写真は祭礼に集まった参詣者>
そんな中、高揚の中にも静かに祭祀は始まり、宮司の祝詞奏上、鈴をシャンシャンの御神楽、榊奉天と続き、集落、人々の収穫を祝いました。

続いて、メーンイベントの50年ぶりといわれる「湯立ちの神事」の始まりです。新婚間もない神職夫婦によるピーヒョロピーヒョロと何かちびまる子のソングのように聞こえる笛と太鼓、境内では80数名を超える参拝者の中で、社務所から50年ぶりに引っ張り出された窯に、グラグラと煮えたぎる湯の中に、洗い米、粗塩に続きお神酒がささげられ、続いて、笹の葉を湯釜の中に浸し、荒々しくも厳かに、何度も何度も参拝者に振り掛けられます。 <写真は湯立ち神事のバックグラウンドの笛と太鼓>

 

 

 

 

 

 

こうして、無事に、信じられないように降雨もなく、式典は終わります。

さらに、直会(なおらい)が始まり、巫女さんがお神酒を注いで回ります。あいにく、おでんは70食完売で、残りの大根だけでコミュニケーションが始まり、「絆」を確かめ合い、集落の秋は過ぎ行くのであります。 <写真は熱湯を笹で振り掛ける巫女さん>

皆様、ご苦労様でした。

ちなみに集落の有志とは「なでしこG」といい、本人たちが言うので、一応私たちも「なでしこ」と言っているのであります。(小さな声で、むかしと言う言葉がつきますが・・・)


2010.1.28 「老いに学ぶ」を読んで  (毎日新聞朝刊 2010.5.4 12ページ プラスα)

------発生物理学者 岡田節人さん(83歳)の記事から------

「生まれたままの姿では死にません。つまり多細胞生物である限り、生き物の一生には大きな変化がある。受精で始まり発育があり、老化があって死がある。」----原文一部抜粋

もやもやしていた気持ちがスカーとした記事に出会う。岡田さんは72歳のとき、ある出来事にあい、それをキッカケに老いを明確に自覚したといっておられる。

まだ、その歳まではほんの数年猶予があるけれど、いつまでも現状が続くと思って生きているし、そのつもりで先々のやることも考えている。個人差もあるだろうがたかだか2−3年のものであろう。この決まりきったことがそのときにならなければ自覚できない、人間って厄介な生き物である。口では物忘れが激しいとか少しの段差でつまづくとか自覚したような体裁のいい事を言っているが、心底では否定している自分がある。

いや、否定はしていないかもしれない。自分のことは自分が一番よく知っている。頭では理解しているが、その司令塔の発する信号を気持ちがうまく受け止められないのだろう。

岡田さんは76歳で一切の現役を退かれた。直ぐに足腰が弱くなり車椅子が便利なことが分るが、さらに弱くなることを考えれば何とか自分の足で歩く。そして、自分の研究人生のピークを思い出した後、読みなれた論文も読めなくなり、新しい事についていけなくなった。その好きだった研究活動をすっぱりとやめる。そうすると、フリーな気持ちになり昆虫採集に熱中していた少年時代を思い出す。そして、今後の人生として、趣味だったクラシック音楽の演奏会などにどこへでも出かけていく日々をすごされている。

趣味やレベルは違うがトレンドとしては共感する。思えば、退職して1年後に最初に共感した「さみしいネコ」(2006年)から4年、その開放感は常態化して、その感動はどこへやら、開放というよりむしろズボラになっただけではないのか。下手でも絵は描きたかった、もっともっと野山を歩きたい、野草も見たいし、昔のことも知りたい。

今もその気持ちは変わらないが、どこかで草刈機の音がする、あっちでは家庭菜園の耕運機の音が、家の前をくわをかついだ人が通る・・・。あかん!、こんなことしてたら、と気持ちが焦り一日ゆっくり写生などしてられへん。野山を歩くのも3時過ぎからの余った時間・・・。根が貧乏性なのか動いていないと存在が否定されるような、又怠けているような気分になり、このままでは死ぬまでこの状態が続く。

人は見切りというか、退任というか、「ここまで、はいストップ」と、けじめがつけられるかどうかで評価も変わるし自分も変われる。見切りがつけられないで、陰口をたたかれても現状にすがりつく政治家や経営者達、見本はいたるところにある。やっていることは違っても自分にもある。でも・・・それが難しい。そのうち、必ず何かで失敗をする。それも自分がこだわっていたものにである。そのときが見切りをつけるときである。それでは遅いが凡人には精一杯の見切りである。

その失敗が失敗と気がつかなかったらどうしょう。もう、本当は見切りを過ぎているかも・・・。


 

2010.1.28 ウモリ

今日は朝から雨、小止みになった午後3時過ぎ、「はな」の散歩に山の池に行く。ここでは、「はな」のリードをはずし思う存分山を駆け巡らせます。最近は冷え込みが厳しかったので小石を投げても割れない程度に湖面は薄氷がはっていたのですが、今日は気温も高く氷はありません。ネットフェンスにもたれて、「はな」の帰りを待っていると、湖面に小鳥の影が映ります。上を見上げると1羽の小鳥がせわしなく旋回しています。

「越冬ツバメか?」と思ったのは、通常小鳥は湖面を旋回することなく山から山へ横断か縦断するだけです。湖面を旋回しながら餌をとっているように見えました。「おかしいなぁ〜」ツバメにしては飛び方がぎこちない。蝶の飛び方に少し似ている。「産まれたての雛か?」一応カメラを構えるが動きが一定方向でなくズームで捉えられない。ただ、空が写るのみである。「え!」「ひょっとしてコウモリ?」羽がとがっていいるようにも見えるし、羽が透けているようにも見える。

コウモリはこの集落にはいないと思っていた。60数余年、いまだかって、絵本以外に生のこうもりを直接見たことがない。子どもの頃、冒険に興味があってこうもり探しに仲間達と、山のがけ下や、洞や、大木の穴を毎日駆け巡り、"コウモリ=薄気味悪い=冒険"という図式がよみがえってくる。

「えらい攻撃的やなぁ」つつかれるのかと思えるほど、近寄ってくる。「はな」も反応し、ジャンプし威嚇しているがとどくわけもない。15分も経っただろうか、杉林の中に入って戻らなくなった。あったかいといえども1月、「はな」帰ろ。

帰って、早々にパソコンに取り込み拡大する(写真)。ネットでコウモリを調べる。写真に写っているのはピンボケでも、羽が 明らかに鳥と異なることが分る。まさにコウモリ傘のようにとがっている部分がある。コウモリに間違いなし。この集落にコウモリがいる、今日は大収穫。それにしてもコウモリは集団生活していると思うのだが、たった一匹・・・。これから観察するぞ〜

 


2009.12.31 イノシシや鹿に餌を与えないで!

再度書きます。

12月31日、家の前にある葉牡丹が鹿に食べられてしまいました。たかが葉牡丹これにどうこうというのではありません。又、例によって「はな」はぐっすりと眠っていたのでしょうか。

このあたりは、兼業農家の担い手が高齢化しおおよそ半分近くが家庭菜園になっています。その家庭菜園では鹿、イノシシ対策として多くの資材と労力を費やしても、被害がなかったというところはどこもありません。ほうれん草、にんじん、大根、白菜、マメ、何でも手当たり次第にその日の食欲によって食べられていきます。私のような一反百姓(小規模農家のこと)も、稲刈りをして冬季は田んぼに何も植えてないのですが、実はそのときの管理のほうが重要です。なぜなら、稲が田んぼにある間はその稲の被害で単年度のものです。ところが、冬季は土手のミミズをあさるのか、田んぼ自体を壊してしまうからです。決してオーバーなな話でなくイノシシは50-60Kgの重量を跳ね飛ばし、鼻で吹き飛ばすといわれています。

鹿、イノシシが里へやってきた原因はいろいろあります。その1つが「餌付け」です。動物を愛しいと思うのは分りますが、ビニール袋に入れられたドッグフードをどのようなタイミングでやりに来るかは定かではありませんが、その近辺には何十、何百というやぶられたビニール袋が散乱し、親子連れのイノシシが定期的に餌を食べに来るのです。以前は山から通っていたようですが最近は餌の近くに住処を持ち、餌がないときや不足するときはその辺を掘りあさります。

さらに都合の悪いのは、そこが学童の通学路になっています。通学をサポートする保護者やサポーターの人たちも日中に目撃しています。最近、テレビのニュースでもイノシシの被害にあった人が報告されています。あなたはお孫さんもいらっしゃる年配の方ではないですか。かわいいお孫さんを守りたくないのですか。

本来野生動物は、自分で生きていく力を持っているものです。人間が環境を破壊したといわれるかも知れませんが、あなたはその恩恵を受けておられるのではないですか。希少動物を保護するのと増え続ける野生動物にえさをやるのとでは大きな違いがあります。毎日出没するイノシシやシカにはもう山奥で生きていく能力が失われつつあるのではないでしょうか。あなたの家の中で生涯法律に基いて飼うなら別ですが。一考ください。

 

 

2009.10.15 カリガネソウに寄せての雑感

カリガネソウ(ここのスケッチも見て) 

高代寺山標高488メートル。その少し下440メートルにちょっと名の知れた高代寺----【(真言宗七宝山薬師院高代寺)(名前のいわれは諸説あり)(1000年の歴史)----がありその参道(登山道)の途中標高340メートルのところの沢に咲いていました。

 

今日は、10月15日集落の秋祭り、数年に1回山車(太鼓を担いで練り歩く)が出るのですが、今年はそれもなく、自宅から歩いて40分のところの集落のはずれにある八幡神社で2時からの祭礼に参加し、ちょっとお神酒をいただいて時間は3時、せっかくのことだからここより吉川城址跡を経て高代寺へとハイキングコースがある。秋の日が落ちるのは早く、特に山の尾根道は西日の反対側(東側)は4時を過ぎるとコントラストが強く、地図も読めないほど暗くなる。しかし、コースは観光協会により整備され、ルートも熟知しているし時間的な不安もなく出発。

ただ、ちょっとアルコールが入っているので息切れはする。コース自体は尾根道であるが両サイドとも見通しが利かず、吉川城址跡とか高代寺などの歴史に興味がなければ、ただ歩くだけのルート。

 

私の目的は、地形図の見方の練習とGPSの精度確認及び途中のハプニングや野や山の花とかそれらの実(果実)の出会いである。だからといって、それらの名前も知らなければ、知っても直ぐに忘れるし、特に憧憬が深いわけでもない。でも、生まれてからこの方、ず〜とこれらを見過ごしてきた。その辺の雑草、雑木にもそれぞれ固有の名前があり、雑草、雑木というものはない。私が知らんだけということがほん最近自覚した。

というわけで、高代寺までの尾根道に興味はなく、目的は高代寺よりの下山道にある。下山道には沢があり、棚田が下まで続いている。その棚田も上部1/3は竹や木が覆っている。中間の1/3は放棄され荒地とか貸し農園、下界の1/3のみが現在も稲が作られている。上部、中部にはボランティアグループによる里山復活の整備がされたり、されなかったり(私の見解では、まもなくもとの荒地に戻ると思う。だって、自然に対抗していくためには継続的な多くの労力と資金が必要と思っている)。

 

この下山道は沢があり年中ちょろちょろ水が流れている。そして、幸いにも荒廃しているだけあって人手があまり入っていない。ということは自然がいっぱい残っているというわけである。途中標高340メートルの地点に墓がある。土葬墓である。昭和40年代前半までこの集落は土葬であった。葬儀があれば、里から150メートルの高度を4人でかついで上がってくる。そして穴を掘って埋葬するのである。私もそれらを経験し、一度穴を掘って道具を忘れて帰り、急いで取りに戻ったときには日はどっぷりと暮れて、そのとき の恐怖はいまだに忘れることがない。本題に戻る。

 

その墓の前からは、棚田を通して集落をほぼ一望できる。そこで沢を横切るのであるが、その沢に紫色の筒状の花が飛び込んできた。もちろん名は知らない(調べると「アキノチョウジ・秋丁字)。カメラに収めふと反対を見ると、これまた変わった花。ちっちゃナ花のくせに、4本のおしべともう少し長いひげのようなもの (めしべか)が見事な半円を描き、しばらくは見とれる。こんな花見たことがない(私が知らないだけ)今日の収穫はコレと這いつくばりカメラに収め、あたりを探すが1−2本しか見当たらない。高さは50センチ程度であるが花が無数につき見ごろである。このはながネットで調べると「カリガネソウ」であった。それにしてもカメラの接写映像では綺麗だ。おそらく、この辺では絶滅に瀕しているのではないだろうか、もう一度確認に行きたいが、暇なようでもソウ時間が取れない。12月頃までは種がついている可能性があるのでそれまでには絶対行く。

 

2009.12.6 追記

種を取りに行った。愕然!

今日は八幡神社の新穀祭(新嘗祭)、(前文は秋祭り)この神社は1000年近くの歴史を持ち(何度かの火災にあい現在の建物は1856年に建立されたといわれている)放生会、秋祭り、新穀祭と年3回神主さんが来て祀られます。参拝するため3時間ほど前にハイキングもかねて「山下道」-「高代寺」-「吉川城址」−「八幡神社」コースと秋祭りのときとは逆のコースをとりました。その途中の墓の前にカリガネソウの種があるはずです。ありました、ありました。予想外に集落を為すようにあります。さっそく用意したビニール袋に取り込みます。種をまく予定です。この葉っぱは臭気があるとネットで書いてあったのを思い出し、嗅いで見る。

「臭い!」一瞬にしてあることが浮かび上がります。ソウです、私には屍の匂いと頭に刻み込まれています。「そうだったのか、この匂いは、この草だったのか。」愕然とします。

この現在は使用されていない土葬墓は、この集落を上・中・下と分けて年番制で真夏に草刈清掃をします。3年に一度あたる事になります。その草刈のとき、この匂いが充満するのです。きっと、茎や葉っぱを鎌で刈るとき樹液が出るのでしょう。墓の掃除だけにその匂いは強烈です。この匂いは土葬墓と私には直結しています。あんな綺麗に咲く花が、こんな臭気を発するとは・・・。とりあえず種は少し採集したが、どうしょう・・・。

 


2009.9.29 ダンドボロギクに寄せての雑感(里山復活)

ダンドボロギク(段戸襤褸菊)、このおかしな名前の野草、アメリカから来た帰化植物らしいですが(セイタカアワダチソウのようなもの)、その名前の由来や性質はネットで多く紹介されているので省くが、その繁殖力というか・・・

 

左上の写真がダンドボロギク、右上の写真が伐採されたその年に一面多い尽くしたダンドボロギクの群生。セイタカアワダチソウのように同じ場所で数年咲き続けると自然消滅するとか摩訶不思議・・・

 

秋の夕方、ミニミニトレッキング。

ここは、「ムラヤマ」といって我がムラの三つの「お日待講」(注釈参照)グループが所有している山林です。昨年クヌギの立木を売却し今年(2009年H21年)の春(冬1−2月)伐採された所です。

昔なら、伐採してから8年目に腕ぐらいの太さになり又、木炭用として伐採されました。クヌギは冬に伐採し、その春から芽が吹き育っていきます。伐採された(切断された)上部は8年ごとに生まれ変わりますが、根元は年々太くなり台木(台場ともいう)となり、台場クヌギになっていきます。その8年間の初期は、陽が当たり雑草や潅木に囲まれ成長できなく枯れてしまうので、下刈りといって夏の暑い盛りに下草や雑木を刈らなければなりません。それらの重労働の繰り返しによって、鹿やイノシシ、野ウサギ、狐、タヌキが生息できるバランスの取れた美しい里山が守られてきました。

 

昔、これらクヌギにより生産された木炭は「菊炭」(炭の切断面がキクのような紋をしている)または池田に集積場や問屋があり「池田炭」と呼ばれ、煙も出なく、パチパチとハジることもなく上炭(品質が高いこと)として煮炊きはもちろんのこと暖房、お茶や和裁などに重宝がられていました。

又、「山」は家庭のエネルギー源としての焚き木やその落ち葉は田んぼの肥料にと生活の手段であり大切にされ自然と手入れも行き届いていたのです。

 

しかし、炭・焚き木→石炭・石油→ガス・電力とエネルギー手段の変遷にて、クヌギ・コナラ等の広葉樹の値打ちも下がり、手入れもされなくなることから、官主導により、より手間のかからない針葉樹のヒノキ・スギの植林が補助金と共に広葉樹を淘汰してしまったのです。今、この集落の針葉樹林の中に点在する「炭焼き窯」の残骸は、昔は広葉樹林だったことを物語っています。

当時としては、それはそれで正しい選択でもあったのです。

 

植林してスギ・ヒノキが利益を出し始めるのは40−60年かかります。当事者はその恩恵にあやかる事はできませんので、当時は子どもや孫のためと思い10年間の下刈りを経て今日に至っています。

 

その間に、外国からの安い材木の流入により、運搬などに高くつく日本のヒノキ・スギが忘れ去られ、間伐もされず、山は荒れ放題の状況を作ってしまいました。それらは、野生動物の生活環境の悪化ばかりでなく山の持つ「保水力」の悪化も見逃すことはできません。

 

だからといって、里山復活はそう生易しいものではありません。「村山」を見て思うのですが、台木からはほとんど枝が出ていません。芽が出てもすべて鹿が食べてしまっているのです(スギ、ヒノキでも状況は同じですが)。今年芽が育たなければもう来年芽が出ることはありません。若し、放置が続けばフジやイバラや雑木の違った意味での荒れ果てた山になってしまい、鹿の口が届く植物が増加し益々鹿の増加を促進する事になる。新芽を鹿の食害から守るには莫大な資金が必要となるでしょうし、又それらを防御する事によりさらに鹿の里への乱入はひどくなるでしょう。

鹿は食料があるだけ増え続けるという繁殖戦略をとる。すなわち、野山を食い尽くすまで繁殖は止まらないのです(オオカミを放つ 白水社より)。すなわち環境収容力が大きいということです。

 

今日も春に確認した「マムシグサ」に実がついているはずと思い見に行ったが、そこには何もなかった。絶滅か寸前の「ササユリ」も、環境の変化もあるがイノシシが球根を食べたり鹿が芽を食したりしている。要は食べられるものは手当たり次第ということである。

 

今までは農業被害が大きく取りだたされていたが、高山植物の食害、尾瀬湿原への鹿の影響と報道されるよう環境問題に拡大してきている。

 

里山を復活させるためには、人工的なものと野生鹿の駆除が必要だと、ダンドボロギクが生えた山を見ながら思ったのであります。

 

-----注釈

「お日待講」について

私達の「お日待講(正式名は本日待講という)」グループはT4年(1915)に14名で山林を所有したときから記録が現存する。伝承によると、年に1度正月の15日にグループが夕方から翌朝夜明けまで飲食を共にし歓談したという。当初は五穀豊穣や家内安全という信仰的なものと「頼母子講(たのもしこう)」とか「無尽(むじん)」が原点ではないかと思う。以降山林を所有し立木を売却するなどをして利益を上げ、旅行などでコミュニケーションを図るのが主となっていった。S56(1981)から3年間は広葉樹を売却しヒノキの植林をはじめ、以降下刈り、枝打ち、間伐を経てH19(2007)する作業がなくなったのと、時代性から休講となり現在に至る。ヒノキは26年生で幹径15−20cm程度で、後20−30年は利益が出なく今の我々にはその恩恵はない。その山林も鹿が幹の皮を食べ品質劣化を招いている。

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サンコウチョウという小鳥に借りて 2009.6.29

 

最近、ちょっとしたブーム。

オオルリに続いて今度はサンコウチョウです。皆さんサンコウチョウという小鳥をご存知ですか。

初谷渓谷の入り口に野鳥看板があります(右写真)。写真の一番右の小鳥です。わかりやすいようにイラストを画きます。

 

このサンコウチョウが初谷川沿いに見られるというので、噂がうわさを呼び(噂でなく本当にいるのですが)平日、休日を問わず望遠カメラを携え、何とか野鳥の会から暇人までわんさとやってきます。

その99.9%が高齢者というのも面白いですが・・・

私も、看板でその名前は知っていましたが、そんなきれいな珍しい鳥がいることは信じていませんでした。しかし、地元にいて知らんというのも・・・と思いと、前のオオルリの件もあり、ひょっとした偶然を期待して「はな」の散歩ではかなり奥地まで入り聞き耳を立てるのですが、ギギ・・フィ・・ホイホイホイとかいう鳴き声はわかりません。すずめと鶯の鳴き声程度しか識別できない「耳」では・・・

 

何とか野鳥の会というのは、又小鳥を観察する人たちの大方は趣味であろう。(ここではたまたまサンコウチョウを切り口にしたため野鳥の会としているが、趣味であればなんでも一緒)

村上龍氏は、「基本的に趣味は老人のものだ」と、言っている。(無趣味のすすめ 村上龍 幻冬舎)そして「趣味の世界には、自分を脅かすものがない代わりに、人生を揺るがすような出会いも発見もない。心を震わせ、精神をエクスパンドするような、失望も歓喜も興奮もないといっている。すなわち、コストやリスク、危機感を伴わない作業の中には考え方や生き方を変えてしまうほどのものはない、ということである。

 

それで結構、いまさら心震わせ、精神を高ぶらせれば、心筋梗塞や何やであの世へ直行である。気の置けない仲間達と、または個人で、明日は聞けるかな、姿を見せてくれるかな、写真も取れるだろうか、明日の天候を気にしながら、誰にも迷惑をかけずに心安らかに平穏な日々が過ごせることこそ、真の幸せというものである。絵画でも、釣りでも、山歩きでも、スポーツでも、である。

が、しかし、消費はしても生産活動には参加していない。生産活動には、コストもリスクも伴う。このコストもリスクも伴なわない安らかな生活の中には「脳の退化」という魔物の支配が知らず知らずのうちに進む。脳の退化と共に身体も退化し、両方バランスよく進みジ・エンドとなればそれはそれで結構な事。しかし、思いとおりに行かないのが世の中、このバランスが狂ったときが厄介である。

 

この生産活動に変わるものを見つければよい。たとえば、野鳥観察であれば見たこと、聞いたこと、調べたことを記録して体系化して発表するとか、絵画であれば個展を開くとか、要は自己満足に終わらず人の目にさらし批判を受けることである。お世辞でもほめられれば(ほとんどが世辞であり、本当に認められるようなものであれば遠の昔にプロになっているであろう)心うきうきするし、けなされれば腹が立つ。腹を立てればちょっと血圧は上がるが脳はフル回転し活性化する。

 

安らかな平穏な暮らしは、旅立ち前の1週間あればよいとせねば・・・。


 2009.6.16

夜間、なにやら騒がしい。「もう蛍が出ているのと違う」という奥さんの忠告でカメラを持って出かけ、シャッタースピード優先を絞り優先と間違えてさっぱりだったのが昨日。4−5年前までは会社の帰宅途中にいつも河原を覗いていたのでいつからいつまでが見ごろというのがわかったが、退職してからはわからなかった。

今年は近年まれに見る豊作。ここ20年ぐらいは多くても10匹程度。しかし、今年は1箇所で40−50匹はいる。今夜は初谷橋観光スポットに人が来ない午後10時過ぎに出かける。30分ほどして帰って早速パソコンで見るとすべて真っ黒。カメラのレンズキャップをはずさないで写しとったらしい。自分的には暗闇ではよくあること。奥さんの「ここからキャップをとっていき」、という軽蔑の声を後に再度出かける。今の時期マムシはいないと思うが先ほどはつっかけ、今度は長靴を履いてでかける。さすが11時を過ぎると誰もいない。先ず河原に下りて厳禁のフラッシュを一度だけたく。ここは、鹿の通り道のため出くわさないとも限らない。

誰もいない深夜、幻想的な蛍の乱舞を見続けるうちに、不思議な感覚に陥った。どうも蛍が誘いかけてくるような錯覚に陥り、知らず知らずのうちに、そこにはちっちゃな落差3メートル程度の堰堤があるのだが、その淵に誘い込まれそうな、段差は自覚しているが、何か飛んでいけそうな、「こちらへ」「こちらへ」と誘ってくる。

「幻覚や、あかん、早よ帰ろ」と思いつつも、目は蛍を追っている。数十匹の蛍の点滅の仕方がそう見え、なかなかそこを離れられない。河原の地形は熟知しているので、目は蛍を追いながら後ずさりしながらやっと橋上に上がる。風は夕方どこかで夕立があったのか心地よい。

今度は30秒程度の露出により写っているがど素人の域が出ない。早速蛍のイラストを画く。あかん、こんなことしとったら夜が明ける。

 

ヤマボウシを見に行(いこ) 2009.5.27

先ず、周辺の草木の花実ヤマボウシを見てください。その関連です。

5月24日、法然上人25霊場参拝の一環として、善光寺御開帳参拝のお 寺の企画に参加したとき、善光寺の前日、飯田市内の「元善光寺」参拝がありバスの中から何気なしに景色を眺めていると、街路樹に白い花が咲いている。ヤマボウシは街路樹としても植えられているとネットにあったことが頭をよぎる。動体視力も弱り確認できないがおそらくそうであろう。

そんなことはどうでもよい。帰ったら昨年のヤマボウシを見に行こ。6月に入ってからと思っていたが、もう咲いている。この辺の気候はうちらより寒いはずなのに・・・、ということは・・・。

5月27日、午後2時より時間が空いた。カメラと三脚、簡単なトレッキング準備してその辺の草花を見ながら午後5時ころ帰宅予定で出発。いつもなら「はな」を連れて行くのだが・・・、トレッキングシューズをはくとか、カメラを持つとかすると、盛んに連れて行けとうるさく催促するのだが、最近、道から山に入ろうとするといくらリードを引っ張っても四足で踏ん張って「そこへは行かん」と抵抗するので、今日は裏口から見つからないように、こっそりと出て行く。

15分ほどで左の写真の場所に着く(エニシダ、イタチハギがあるところ)。田植が終わった水田の反射が美しい。(----私の家だけがまだ終わっていない、こんなことしているのは気があせるが、昨日「植代かき」といって田植えする前の水田の均平作業をやったばかりで、3−4日後でないと土が軟らかで田植えができない----)。さらに登って反対側の谷に下りる。その谷を下ると「エゴノキ」の花が満開できれい。「ウツキ(卯の花)」や甘酸っぱい香りの「スイカズラ」は盛りを過ぎています。しばらく下ると「コイの砂防ダム」にでます。今日は木陰に影が見えるのですが撮影は白い「イバラ」の花が邪魔をしてできません。そのまま下り国道の手前をUターンして別の沢筋を登ります。この辺から胸がどきどき、昨年見た幻想的な渡り鳥が飛んでいるようなヤマボウシの姿が脳裏から離れません。ゼエゼエいいながら急な斜面を這うように登ります。(実はこのヤマボウシ、ある人が地主にお願いして庭木にする手はずになっていますが、今春、まだそこにあることを確認しています)

それらしきところについても、「えっ」「どこやどこや」という感じで昨年のように直ぐにはわかりませんでしたがその幹の形状はしっかりと記憶しています。その幹から恐る恐る上を見上げると。

「咲いている・・・が、なんや、ちょっとや」という感じの昨年に比べて1割もありません。花数にしてバラバラに10数個咲いています。しかし、その清楚な美しさは変わりません。花は上を向いてつくので、野生で他の木々に負けないように陽光を求めて上に伸び、ヒョロヒョロとしているので、近くの木は登れるような形状でなくどうしても下から眺めるほかありません。一応満開状態でした。ある程度は想像できたことです。今年の山に咲く花は、昨年に比べて2-3割程度で、量だけでなくその美しさ、艶やかさはまったくの期待はずれでした。早春の 野山を埋め尽くし、すだれのように咲くキブシも今年は散っちっちゃな花がぽつんぽつんと咲いてるようで今か今かと思っているうちに終わってしまいました。

そんなこんなで一応満足し、まだ時間は1時間少々しかツイヤしていません。このまま帰るのももったいないので、このまま三角点へ登り、まだ時間的に余裕があればそこから天狗の松を経て一気に初谷川上流におりて帰宅しようと考えます。ただ、このまま登ると直ぐに尾根に出て、その尾根筋を登れば簡単ですがつい、先日このルートで長さは30メートル程度と思いますがすごい笹薮で、いつ鹿と正面から遭遇するかわからない恐怖と(今日も鹿が逃げるのを2回目撃した)、獣道であり「ダニ」がつくことも考えられ、もう一度谷に下りて未知のルートで三角点に登る事にしました。途中左の写真地点で鉄塔と既知の山があるので地形図により現在地特定の練習をします。最近GPS(HOLUX m-241)を買いました。このGPSが優れもので地形図とその位置、高度はピタリです(木で覆われた谷底では若干の誤差がある)。今、立っている場所もおおよそわかっていますが、コンパスによる地形図よりの現在地は技術面が未熟でピタリとはいきませんが、GPSは地形図に経線を引い たち図を持ってきているので、その場所の西経、東経、高度ともピタリでこの写真撮影の時間はGPSと連動していますので、帰ってパソコン処理をするとルートと写真の場所 が地図上に表示され、所要時間、距離、歩いた高低がグラフ化できる優れものです。

谷に降りて、水の染み出ている沢を登ります(左の写真)。この沢を登るとその延長線上に三角点があるはずです。

沢を突き詰めたところに出ました。南面は檜林、北面はクヌギや松や雑木が混じった薄暗いところです。「あぁ〜しんどかった」一息いれようと思って何気なしに登ってきた沢を振り返ったそのとき、目線上に白い花が見える。直感、「ヤマボウシや」。14-5mの大きな木です。この幹の形状 は、何回も伐採され台場ができており、おそらく、ヒノキが植えられて何度もその下刈りで切られたと思われます。このヒノキの大きさから40-50年たっていると思われます。谷の底にあって、ヒノキと陽光の取り合いのため精一杯伸びていますから、下には枝はなく、花は7-8メートル以上、上にあります。したがって、「ハァハァ、ゼェゼェ」と下を向いて登っていては気づきません。ここは、コースでもなければ道でもなく私有地でしょう。おそらくこの花を見た人は、極々わずかでしょう。 誰も見たことがないかもしれません。偶然とはいえラッキーでした。斜面になっているため10メートルほど上ると目線上に捉えることができます。ここは、ドコモのフォーマーでも電波が届いています。自宅に現在地を知らせ、三角点より初谷へ下りて帰ることを伝え、三角点を目指しました。途中よりいつものコースに合流し、三角点はいつもながら静かなものです。しかし、1年前この三角点を訪れたときは、三角点自体は国土地理院が整備していますが、そこへ至る道はありませんでした。ただ、山の尾根伝いに登っていけば到達するというだけでした。ところが昨今、この三角点を経由して上杉尾根妙見山ハイキングコースへ出るルートが、木々の枝は切られ、急な斜面は階段状に削られ、いたるところにマーキングがされ、路面はつるつるになり大勢が歩いているようです。1年以内にここへは10回ほど来ていますが、一度だって人に会ったことがありません が。ここからは天台山のマイクロウェーブ反射板が見え、その方角から今日も「筒鳥」が「ツッツーツッツー」と鳴いているだけです。

時刻も4時を回りました。急いで天狗の松の根をさわり薄暗くなった檜林の標高差200m瓦礫の谷を一気に降り、5時過ぎに帰着しました。偶然にもヤマボウシが発見できたことが大きな 感動と収穫でした。


あの赤い犬が 2008.11.15

2008年11月14日夕方の出来事

「ある「のら」の生涯」の(27 赤い犬)(31 おお捕り物)に出てくる「赤い犬」を見たと、「はな」を散歩させていたおくさんが言う。

「ある「のら」の生涯」を読んでいない人、是非読んでください。(近々編集しまともな文書にしたいと思っています)

散歩中、「はな」がしきりに引っ張るので道路より少し高台にある田んぼに、引っ張り込まれたらしい。するとそこには驚くべき事実が待っていた。

「あの色、姿形」から間違いないとおくさんは言う。やせこけて、ヒョロヒョロだったらしいが人の姿をみて直ぐに近くの藪に姿を隠したという。

だとしたら、最後に見かけた2006年1月17日以降、目撃は初めてである。愛犬家(近くで犬を飼っている人たち)のうわさもまったくない。2年間どこでどう暮らしていたのか、やせこけていたことでその生活ぶりがうかがえる。ただ、この犬には愛着はない。ただ、「のら」のひと時の愛人だった事での関心はあった。

よく通行する「ある町のある場所で」やせこけた野良犬が箕面のサルのように、道路に出てきて数匹がたむろしている姿をよく見かけたが、最近はいない。おそらく駆除されたのであろう。そんな状況の中で、若し2年間も生き延びていたとしたら、いったいどこでどんな生活をしていたのだろうか。

改めて、捨て犬をした飼い主の人間性を疑う。

飼えなくなったときに、保険所に引き取ってもらい処分したほうがよかったのか、やむを得ず飼い主とは離れるが、生き伸ばしたほうがよかったのか難問であるが・・・

 

人間の身勝手というか、心の貧しさというか、いかなる理由があろうとも最後まで責任を持って、彼らの行く末を補償して飼う信念がなければ、ペットを飼うな!といいたい。

 


イノシシ暴れる--農家の危機/家庭菜園の崩壊/環境の悪化

2008.10.15

 

最近我が家の庭にイノシシの訪問があった。それがすべての始まりであった。

ある夜、8時過ぎ、例によってまた「はな」が異常にうるさい。「ペチャペチャ・・・」何か水を飲んでいる音がする。直感何かいる、パソコンの手を止めて2階の窓からのぞく。例のセンサー付きのライトが点灯している。音のするほうを見る。何か動いている。「イノシシ」や、大きなイノシシが背中を見せて石臼の水を飲んでいる。

 

 

この地域には水車小屋が3つあった。その小屋を記憶していることから少なくとも55年前までは、そのうちの1つは30数年前まで実在していた。高齢者の証言によれば実際に使用されていたのは昭和14-5年までだろう。用途は「米搗き」精米である。1回に1斗搗けたという。石臼に入れた玄米を、水車の回転運動を棒の上下運動に変えて、石臼の玄米をたたく。それによって玄米がすりあわされぬかが分離される手法であった。その石臼が、なぜか家にある。以前はその石臼で「もち」をついていたが、今は「もちっこ」電動である。

 

その石臼が今は庭の「カブトハウス」の横にあって布袋草の花が咲いている。それに足をかけて水を飲んでいる。後姿がくっきり、大きい豚のようによく肥えている。とにかくカメラを取りに1階に駆け下り再度2階から撮ろうとするが、フラッシュの時はシャッターボタンが直ぐにおりない。このデジカメの欠点だ。フラッシュの距離は16mISO感度1000撮影の能力は十分ある のに。いつもシャッターチャンスを逃がす。今夜もシャッターが下りた時はいなかった。

懐中電灯をもって外に出る。まだいたのか大きな音を出して逃げる。追いつくはずも無いが「はな」をリードから放す。脱兎のごとく追跡する。ここで駄犬の悲しさ、逃げた方向より来た方向のにおいをかぎ全力で走り回る。「はな」に追跡の方向を教える。全力でそれらしき方向へ走るが直ぐにUターンしてこれも全力疾走で帰ってくる。「お前も付いて来い」という目で人を見る。こちらもその方向に走ると、これまた全力で逃げた方向へ走るが、決して50mとはなれない。このページの「がんばれのら」がうらやましい。蛙は、実にうまく捕らえるけれど・・・

 

そんなこんなで、あくる朝検証。石臼の周りは落ち葉があらされている。(俗にイノシシの場合ふいているという)坂道を下ると、竹やぶの周囲があらされている。そこは早速電気柵を施工。問題は田んぼである。土手があらされ、畑の小芋、ヤーコンは根元を掘られている。黒豆は全滅。田んぼへの水路は石垣をつぶしている。早速、畑の周囲は鹿ネットで囲い、土手は鹿ネットを敷く。

、2−3日間は後手後手に回り鹿ネット20メートル8本施工、ついにネット代などの資金切れ。今は、イノシシの思いのままにさせている。

よその家も、個別にもう田んぼには何もないのに周囲に電気柵をしたりネットを張っている。稲のあるうちはすずめ対策のみだったのに。

 

ついに、今まで比較的安全と思われていた家庭菜園をめちゃめちゃに荒らし始める。菜園の人もネットを張る人、あきらめて意欲を失う人それぞれ。今までアライグマや鹿に荒らされていたが、イノシシほどの圧倒的な破壊力は無かった。

 

イノシシは橋は渡らない。舗装道路は通らない。等の一定の習性、人間とのルールがあった。いまや、それらは関係なし、外灯のついた舗装道路を悠々と歩く。住宅地では野生鹿の観光スポットがあり日中から悠然と道路砂防の斜面の草を食っている。

 

今の時期、山には柿の実、栗の実、山芋など一番豊富な時であるが、周囲が開発され、道路で分断され、天敵もおらず里に下りてくる条件は整っている。又、一度里の味を覚えると離れられない。

 

菜園の人と違って、山間の零細農家は先祖からの田畑を継承していく責任がある。延々と長い水路の補修に明け暮れる。肥料や、農業資材の経費も高騰しており、ましてこのような間接経費の出費にも限界がある。

いっそ、菜園にでも貸し出してお米は買ったほうがはるかに安いし、いろいろな銘柄を食することもできる。機械貧乏もなくなる・・・という方向に進んでいくのもやむをえないかも。

 

菜園が多くなったのも、その管理が悪いのもイノシシや、鹿が里に下りてくる原因の一つにもなっている。昔は、畑は田んぼの零コンマ%以下だったが今は30パーセントはあるだろう。そこには、1年を通じていっぱいミミズもいるし、芋もナスもほしいだけある。楽して美味しいものが食べたいのはイノシシだって、鹿だって人間とかわらないのだから。

 

家庭菜園も問題がないわけでない。多くは言わないが、経済面で採算が合う話でないことはみんな知っている。又、田畑の保全のつもりもない。歳をとって動けなくなるまでの、又は飽きるまでの数年間が楽しめればよい。それだけの出費をしているのだから・・・

ビニール、プラスチック系統の持込は美観を損ない、環境問題もある。

「食」を作るということは、水路を管理し、畔道の草刈、残渣の整理、共同作業・・・が付帯しているということである。たとえそれが趣味の世界であってもである。農家は、本来の食を作る作業より、付帯作業についやする労力・時間がはるかに長い。工場生産と大いに違うところである。

これらの認識が少し足りない。

本来は、土地の所有者、管理者がすべきことであるが、それができなくなったから貸し出した、ということもある。

 

何か愚痴っぽくなってしまった。いや、愚痴に違いない。「人のことはほっとき」と奥さんはおっしゃるが、しかしなぁ〜。

「人の振りみてわが身を直せ」ちゅう言葉もあるしなぁ〜。自分のことは気がつかんのが人間であり、歳がいった証拠や、自分のことは人が愚痴ってるやろ。

 

 

 

 


XP機が立ち上がらない

2008.8.19

あぁ〜パソコンはいやや!

その日も夜遅く、いや午前零時を回っている早朝というべき、例のごとくちょっと飲んでオリンピックを見ているうちにうつらうつらとしてしてしまった。さぁ、日が迫っている。パソコンに向かう、あれやこれや画面に出している時、突然フリーズ。まぁパソコンにフリーズはつきもの。

ところが今回はそんな悠長なことでなかった。再起動ができない。Windowsが立ち上がらないのである。何回電源の入り切りをしても英語のメッセージ・・・

なにやらわからんが、要はOS(オペレーティングシステム)が入っているブートディスクがわからんといっているらしい。このパソコンは数年前に購入したHP(コンパック)製、2階の自室で使用している。今やっているすべてのものが入っている。こんなことのために暇なときはCDにコピーしたりしているが、ついつい油断して最近のものはない。セーフモードでも先へ進まない。ブートディスクを選択しなおすが一向に埒が明かない。

マニュアルを調べるがいつも思うがマニュアルのトラブル集は、電源が入っているか、線は抜けていないか、・・・そんな幼稚なことしか書いてない。ユーザーを馬鹿にしている。ネットで調べるしかないが、そのためには1階の奥さんのVista機まで深夜の階段の往復が始まる。それでもマニュアル程度のことしかわからない。

いろいろ、対策、チェックを始めるが、Vista機のネットから返ってくる回答は「ディスクを交換してください」と、なり交換の手続きの仕方が案内される。

後はサポートセンターへ電話してくれ、とある。しかし、それが曲者で、症状は答えられるが、なんやかんや顧客番号や、どこに仕舞ったかわからん書類など聞かれる。それは最後の手段としてとっておく。

頭がだんだん白くなってきて放心状態が始まる。

午前3時を回るが眠気はまったくない。人間あきらめると、だんだん先が見えてくる。

まず、内蔵のブートディスクと外付けのデータディスクがある。外付けのデータディスクはUSBタイプでまず助かる。

 

内蔵ディスクのフォーマットしかない

要は、 内蔵ディスクに入っているソフトウェアーのOffice(Developer)はよいとして、ネットから落とした数々のソフトが問題である。また、このホームページのプログラムが全部入っている。コピーは昨年の12月分、以降は ない。対策としては、ブロバイザーからダウンロードするしかない。

こんなこと今まで数回経験しているが、そんなこんなで夜は白々明けてくる。心は空っぽ。一応あきらめの対策を立て、コーヒーを沸かし、しかし、まだあきらめられず、内蔵ディスクの中身を 助ける方法はないものか、サポートへ出せば1週間はかかる。

 

解決策

助ける方法はある。他のパソコンでブートディスクをセカンドディスクとして読ませればよい。今、後ろでのろのろ動いているVaioはコンパクトタイプで増設はできない。ならば、数年前に購入したDELL機が押入れにある。確か、あれは、タワー型だから内蔵ディスクの増設スペースはある。規格も日本製品のように独自仕様でないから増設可能なはず。DELL機は本体しかない。あっちこっちの線やディスプレイを引っ付けて、とにかくXPが起動することを確認、ネットへもすぐにつながる。

HP機からディスクを取り出す。DELL機は内蔵ディスクが2台ついている。とにかくブートらしきものを残して2台目をはずす。メモリーは256KB、これでは今のソフトはしんどい。HP機からメモリーをはずし2GBにする。HP機からディスクを取り出し、DEll機にセット。「ウム」今度はDELLが立ち上がらない。「そうか、どちらもブート使用になっているからわからないんだな」すぐに気がつき、HPからはずした問題のディスクのジャンパーを2台目にセット。

「起動した」「Dドライブとして問題のディスクが読める」必要なアプリケーションを次ぎつきにCDに落とす。これで安心、Officeなどの再インストールはしゃない。

 

ちょっと休息

その日の午後は、外出の用事があり、奥さん運転の車で出かける。昨夜は貫徹、一睡もしていないのに不思議と眠気がない。少し胃が思い程度。現役のときは貫徹するとあくる日はじっとしていると睡魔に襲われたが、今はない。

これって、体のセンサーが壊れつつあるっていうこと?。老人の徘徊は一夜二夜眠れなくても続く。これと同じことが起こりつつある?新発見。

 

フォーマットとOfficeのアクティブ化

夕方からまた、パソコンとの格闘が始まる。HP機を組み立てなおし、ドライブのリカバリーである。すっきりとまっさらになった。ここでまた難関が待っていた。Officeをインストールしたがオンラインアクティブ化ができない。コピー品を使っていないか確認するために、「あなたの番号を教えなさい」というやつである。一般にソフトは2回インストールできるが3回目は受け付けてくれない。大体6万円もするソフトを買って、自分が使うのに2回である。それ以上はセンターに電話して許可をもらうシステムになっている。インターネットにはしっかりとつながっているのに受け付けてくれない。「メッセージが出る。ここに電話しろ」電話する。相手は声はコンピューター、例の電話の数字を押すやつである。相手のコンピューターは無機質な声で、30数桁の番号をいってくるのを、パソコンの画面に入力していくのである。

受話器の2番を押して聞きなおすが、全神経を耳と指先に集中して入力する。やっとOK、アクティブ化ができる。

 

まだ難関が

またまた難関、ウイルス対策である。使用はノートン、それも3種類のを2005年から、オンライン継続している。それも、再インストールタイプ(1年以内でありば再度インストールできる)で契約している。どれがどれかわからん。適当な購入時のディスクを入れる→「期限が切れています。再購入してください」。この間カードから自動的に引き落とされたばかりや。ネットで調べる。再インストールのダウンロードが見つかった。前回の注文番号を入れろと要求される。購入時やり取りがあったメールなんかフォーマットできれいさっぱり消えている。HP機に入っているのは来年の2月まで有効なはず。それを目安に、メールでコピーしてあった商品注文番号とメールアドレスを入れる。そのうち1つがヒットした。無事にダウンロード完了。ダウンロードしたファイルをインストールするがどうもすっきりしない。簡単すぎる。そのとたんインターネットの接続が不安定。一度削除し再インストールする。小さなメッセージが出ている。Windows Service Pack2でないとインストールできないらしい。「えっ」リカバリーディスクのWindowsは古フルか。

今度は、Service Pack2をインストール。これでノートンもすっきりとインストール完了。ただし、ウイルスをチェックするため2時間は使えない。

今日は疲れた、それでも午前0時を回っている。今日は寝よう。

 

残る難関

またまだ問題発生

主要なソフトは復元した。さぁ、DELL機でコピーしたCDからアプリケーションを入れよう。「えっ!」「えっ!」「えっ!」「えっ!」、CDに何も入ってないやん。空ディスクと表示が出る。「何でや!」「何でや!」「何でや!」「何でや!」もう頭真っ白、冷や汗が出てくる。DELL機では入っていることを確認したはず。

ノート98機、Vista機、VaioXPで試す、どれも入ってないと真っ白の画面。・・・

 

冷静に考えるとDELL機でCDにコピーしたとき、何かやり方が違った。おかしいなぁ〜と思ったが、再度読み込んでみるとしっかりと入っていた。今のHP機はCDコピーに2段階の手続きを踏むが、DELL機は1回で簡単だった。

もしかして・・・以前にも経験した。 またまた、HP機のドライブ、メモリーをはずしDELL機にまたも差し替え、CDを作ったDELL機のCDRドライブで読ます。「出たぁぁ〜」しっかりと読める。今度は外付けドライブをつなぎ、完璧にコピー。DELL、HP機を再度組み立て、事なきを得た。

 

何とか復旧

メールアドレスも90%はコピーがあったので復元。このホームページの更新もできた。三日間を費やした。今なお後遺症があり、小さなソフトは必要な度にダウンロードはしなくてはならないし、Officeなどのメニューバーもデフォルテで、使い勝手が悪いが、贅沢はいえない。

 

原因

トラブルの原因として考えられるのは、Wordに貼り付ける絵やオブジェクトをVISIOというソフトで作って、それをドラッグアンドドロップで移していたときだと思う。今は、VISIOソフトはマイクロソフトに吸収されてWordとの連携は問題ないようだが、私の所有するVISIOは吸収される前の会社の製品であり連携の互換が取れていなかったと思う。それもよくやっていることだったが、他のソフトとのタイミングもあったのだろう。ディスクの故障でなく、ソフトのエラーWindows終了時のトラブルと思う。大変な目にあった。

 


スズメバチに刺されるの巻

2008.7.19

まぁ〜、いろいろととあります。

夜が遅いので、当然朝も遅いという典型的なライフスタイルになってしまった。その日も(7/19)暑い、家庭菜園の人たちは一仕事を終えて暑くなってきたので帰路につく頃午前10時、やおら仕方がなく家の周辺の草を刈る。明日は孫達が来てバーベキューという段取りらしい。私の役目はとりあえず庭の掃除から始まるが、これまた草ぼうぼうで、草刈機で刈り始める。ついでに前の道の田んぼの土手も刈り始めた。

その土手には、私が生まれた当時からある(その当時も同じ老木であったことから100年近くは経っている)クヌギの台木(標準では「台場」というらしい・細部は「昔の炭焼きの記憶」)が一本あります。

----台木(台場)とは、クヌギを15−20年程度で炭焼きのために伐採する。クヌギは杉や檜と異なり伐採しても又芽を出す。その伐採を地上2メートル程度のところで切る。私が子どものときから聞いている理由は、地上30−50cmで切ると、鹿などが新芽を食べるためそれを防ぐ意味から高所でカットした。それが何世代も続くとその地上から2メートル程度は60年100年150年と太っていくわけでありその老木には「うろ」と呼ばれる「樹洞」(木の幹に穴が開いている。そこに狸などが冬眠したり)が出来ます。----

家の入り口です。そこの草を刈っていたとき、突然右あごに激しい痛みを感じました。瞬間、頭の中のデータベースから「ハチ」というキーワードが検出されます。更に、草刈時の石などの飛散ガードとしてメンをかぶっています。そのメンの網は黒色です。ハチは黒色に反応するという事項も検出されます。更に痛みは針にさされたよう、スズメバチーは2度刺されると危険・・・など次々と頭のディスクは回転し答えを出します。

早い話が、そのメンの中にハチが入ってあごを刺して逃げたという事実です。

ハチはマムシのようにあわてはしませんが、とにかく作業もほったらかしにして、直ぐに洗面台に行き、肉のついていないやせこけたあごを水道の蛇口につけながら両手で刺された場所を搾り出します。肉のついていない皮からは、何も搾り出せませんが試みとしては必死です。というのは、今日の夕方からちょっとした公用があるので腫れると格好が悪いので必死です。「ムヒ」を塗るかと奥さんが持って来ますが、そんなものしみるだけで効くはずもありません。「ハチ」は何度か刺された経験があり、体質的に心配はしません。

それより、原因追求をと現場に戻り付近を調査すると、そのクヌギの「樹洞」にハチが出入りしています。ハチの種類を特定したいが今は危険です。とりあえず、散歩の人とか、家庭菜園の人が通りますのでパソコンで危険表紙ビラを作り、押しピンで表示し夜間を待ちます。

あごは若干腫れていますが、公用を済ませ、リベンジの体制に入ります。

先ず、ハチの種類と数の確認のため、カメラを「樹洞」の中に向け何時もフラッシュをたきます。ハチは夜間は行動しません。その写真の一部がBです。「樹洞」の上部にあり巣の入り口は一箇所、スズメバチの巣です。

周辺には見張りのハチが数匹、あと何匹が巣の中に入っているかは定かでありません。

刺された直後からあごを冷やしながら考えたリベンジの実行です。暑いといってはおれません。長袖長靴雨合羽、草刈時のメンに隙間はタオルで埋め、皮手袋、頭にはトレッキング用のヘッドライト、どこからでも、かかって来い、というスタイル。異様な格好で「はな」はおびえています。

先ず、台木の穴を布でふさぎ、その隙間から殺虫剤を吹き付けます。台木に耳を当てると「グワーン」という唸りが消えません。殺虫剤が弱いのです。ちょっとケチって「蚊」用の残りでした。「アカン、新品の今日買ったハチ用のジェットを使おう」10秒ぐらい吹き付けます。ものの2−3分で静まり返ります。とりあえず、今日は密閉して明日のお楽しみ。

腫れはだんだんひどくなり、痛みもありますが(公用でビールを飲んでしまいました)たいしたことはありません。明くる日、のどが腫れ、なんとヒゲがよく剃れるのです。ふだんは喉やあご、ホッペは皺でひげも剃りにくく、皮を引っ張っていましたが、今日はスイスイです。皺一つありません。

バーベキューも終え、待望のリベンジの結果確認です。先ずカメラで「樹洞」の底にイメージトレーニングではハチがかたまって死んでいるはずです。

結果は、写真Aの通りです。

皮手袋で、上面の巣と、底面の残骸を出します。結果は、写真Cの通りで作戦大成功です。ただ、全部が死んでいるわけでなく20%程度は動いています。ただ、神経系統がやられ運動機能に障害が出ているようです。成虫87匹、幼虫≒600匹程度でした。

幼虫は、ガスでは殺せないみたいで全員元気に動いています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、成虫寸前の者もおり(写真D)、中には親の敵とばかり戦闘態勢をとる幼虫(写真E)もいます。勿論返り討ちを致しましたが、今日3日目、 喉の腫れも引き明日には完治するでしょう。

ネットでは、ハチは害虫を食べ農家のみかたであり、とありますが、刺された身になれば・・・今晩も、ベランダの小さな巣を一撃しました。こちらは初期で2匹でした。

次回、このような機会があれば、女王蜂を確かめます。今回は頭カッカして全員並べて数を勘定するだけでした。

 
 

退職3年経過

2008.7.4(イラストは時間を見つけて書きます

昨日、「町」よりラブレターが届く。早速封を切ると、中味は「生活機能評価チェックリストアンケート」とある。

「4月からの医療保険制度が改正となり・・・介護保険制度の改正で・・・介護予防・・・」とあり、要は高齢化度のチェックリストであり65歳以上に送った。と、書いてある。この項目の中で、認知症を見るらしい項目をまともに採点するとまさに認知症寸前か予備軍である。このアンケートよりさらに詳しいチェックをされると、と考えると恐怖である。

 

65歳を過ぎると、自分では若いと思っていても、又年齢など気にしていなくても、周囲から「貴方は高齢者に近づきましたよ」という趣旨のチラシがあっちこっちから舞い込んできて、自覚させられ精神的に年をとってしまう。

「老いは年齢にあらず、心の持ち方だ」というような意味のことを言ったのは誰だった。そう思って生きているのに、いやな世の中になってきた。

 

機会があり、卒園式から小、中学校の卒業式/入学式に、又老人クラブの会にも臨席した。園児のパワーにも感嘆するが、老人クラブのエネルギーも質は異なるが引けをとらない。

 

話を退職後に戻そう。半年、1年、1年半、2年とそれぞれ心の葛藤、変化はあったけれど少なくとも今までは自由を満喫し定年万歳であった。

退職1年目は、会社から離れることを覚える期間であり、2、3年目は地域とのかかわり方を覚えていく段階でありまだそこそこには、体力も精神力も、蓄えた技術力も残っている。地域に貢献することは可能であり工夫もし目的も出来る、その需要もないことはない。その勢いで、退職後4−5年は持つ。問題はその先である。

体力は衰える。地域もあまり期待はしてくれない。次第に忘れ去られる。

 

この1−2年がその過渡期と思っている。だから、今が大切である。ただ漫然と送っていると第二の定年を迎えることになる。人生の定年は1回でよい。次に迷うと後の人生はまさに老後となってしまう。

今、非常に忙しい。現役時代の忙しさとは内容と質が異なる。現役時代は、今から考えると1種類の急がしさ、要は1つの職業分野の、専門職としての忙しさである。同時に多くの職業に就く人はいない。ところが、現役引退後の忙しさは自分の趣味も含めて多くの分野が重なり合って、1つのことにじっくりと取り組めない。今まで生きてきた経験と勘と偏見とでこなしていっているようなものだ。

そんな中でも、欲深くまだ20年近くは将来があると考えれば、今いかに忙しくとも自分のやりたいことの基礎はつくっておかなければならない。

 

今年の正月からトレッキングの面白さを味わった。トレッキングといってもその辺の勝手知ったる山の散歩であるが、散歩ではいかにも老人くさいので、トレッキングと呼ぶことにしている。それでも危険とスリルがいっぱいである。コンパスと地形図を頼りに山を歩く。全て土地勘のあるところ、低いところ、低いところへと歩けばいつかは、見知っている川か道路に出るし、高いほうへ高いほうへと登っていけば、必ず知っている構築物が 視界に入る。理屈はそうだ。ところが面白いのは、一歩沢に踏み込めばどちらを見ても山、山、山、それも針葉樹林の中であれば薄暗い、ものの30分も歩けば里に出られると理屈で分かっていても、恐怖感はある。 適度の緊張感とスリルが味わえるわけだ。度か過ぎると人に迷惑をかけ新聞沙汰にもなりかねない。その緊張感をやわらげてくれるのが、山に咲く花、木になる実である。この数ヶ月で何種類の花の名前を知ったであろうか(直ぐに忘れるけれど・・・)その花・実を絵にすることも楽しいことであるし、ネットで名前も調べるのも興味がある。ただ、直ぐに忘れるのがちょっと苦しいところであるが・・・だからカメラは手放せない。

その為には、足腰を鍛えておかねばならないが、悲しいかな、少し同じ姿勢でいると「ヨッコラショ」と声を出さねば次の動作に移れないし、朝起きるときは、関節が「こことここについてますよ」とはっきり分かるぐらい動きがぎこちない。65歳を境にして特にそう思う。

 

もう一つ、年をとるということは、誰からも報酬をもらってないということは、倹約すればそこそこには生きていけるということは、病気以外はあまり怖いものはなくなる。総理大臣、大学教授、お寺の住職、弁護士、警察のえらいさん・・・若いときには尊敬もしたし、畏怖も感じたし、近寄りがたいものでもあった。ところが、この歳になってくると尊敬は変わらないが、言うこと、していることは似たり寄ったりで、大差ない。ただ、身なりも違えばベンツと軽トラの違いもあることはあるが、裸になればそう変わらない。田んぼの稲刈りのノウハウなどは総理大臣より詳しい。もしも、アルマーニの作業服を着て、ベンツの軽トラに乗って、金メッキのクワを担いで百姓をしてたら、・・・そう思うと世の中面白い。生きる勇気もわいてこようというものである。

 

人は一人では生きて行けない。しかし、いつかはひとりとなる。○△同好会、○△クラブ・・・などに参加して同じ趣味を持つ人と楽しく生きていくに越したことはない。しかし、人が集まり、団体で行動するということは、先ず自我を殺すことから始まる。適当な落としどころで妥協することから始まる。それは現役時代の延長であり、その線上にいるうちはよい。自我を殺すのが下手で、自説を曲げないのが老人である。

 

喧嘩せずにやっていけているのは、自説を曲げて妥協しているわけでなく、人の言うことは聞かず、又聞いても自分に都合の良いように解釈しているに過ぎない。

だから、変人といわれようが、協調性にかけるといわれようが、一人で楽しめることを見つけ出すことはこれからの人生にとって絶対に必要なことだと思っている。

 


Windows Vista機がLANに接続できない格闘記

(2008.5.29)

インターネットの接続が遅いという奥さん用のパソコンのご不満により、パソコンを買うことになった。あれこれメーカーは考えたがやはり価格の点とオーダーメイドの利点をかって、売上げ世界2とも言われる前にも使用していた某社のディスクトップに決定し、早速インターネットで発注する。船便のため1週間ほどで配達された。相変わらず某社のデザインは「ごっつい感じ」引退願おうと思っているVAIOのディスクトップのスマートさと比べるとやはり日本人好みの繊細さはない。が、しかし、コストパフォーマンスを重視するのでここまでの不満はない。

問題はOSを使い慣れたXPにするか、最新のVISTAにするかで迷ったが、洗濯機でも冷蔵庫でも電化製品は最新機種を購入せねば意味がないと思っているのでインターネットなどの情報も参考にしてVISTA機にした。

 

到着した翌日早速セットアップにかかる。三年前から「Bフレッツ」で終端装置を経由して無線ルーターとハブを使ってXP機2台とたまには98機を使っている。ルーターは無線仕様であるが実際はADSLの名残りの有線でLANを構築している(本当は無線LANカードも購入せなあかんし、設定も難しくうまく行かなかったから、既存の有線にしているだけ)。

そこに、VISTA機を有線で接続した。ただ、単にLANケーブルを差し込むだけである。

 

さぁ〜、それからが格闘が始まった。LANに入り込めない。何故だ!。先ず単純に、ケーブルがちゃんと繋がっているのか、何度試しても機械的な接続は間違っていない。ひょっとしてケーブルが古くて対応しないのか、あっちこっちのケーブルを交換する。クロスとストレートは間違っていないか、カテゴリーは5以上か、それでも問題は解決しない。

それでも、万が一にもということもあるので夕食の時間であったがホームセンターまでLANケーブルを買いに走り接続するがなんら改善は見られず。何が困るといっても、VISTA機を接続しただけで既存のXP機も切断され、そのたびにルーターの電源の入り切りが発生する。

ここで、問題を更にややこしくするのは、数十回のルーター電源の入りきりで1−2度接続されるのである。ただ、不安定で10分もたたないうちに切断されてしまう。それも、ルーターを全く認識しない場合、ルーターを認識しても外へ出て行かない場合、それぞれの因果関係がつかめず、「ええ加減にせぃ」という感じ。考えてみれば、パソコンをさわりだしてからちょうど10台目の購入である。今までパソコンには鳴かされどうしであるが、こんな困ったことはない。

 

次はルーターがVISTAに対応してないことも考えられる。早速形式とトラブルの状況を某ルーターメーカーに、インターネットにより質疑する。不幸にも土曜日の早朝午前3時、自動返信メールでは受け付けたが営業日3日以内に返事するとある。だんだん腹も立ってきて購入したメーカーと、ルーターを設置した通信会社にインターネットで質疑する。

勿論その間もインターネットの事例を参考にあれこれ試す。しかし、なんとVISTA機のネット接続に関してこんなにあるのかと思うほどトラブルが書き込まれている。それも、私などの素人と違いかなり技術を持ったらしい人たちが困っている。私と同じようなトラブルの人もいる。彼らと同様に、私もネットのアドバイスをそれぞれ試すがやっぱりダメである。

 

月曜日、早速購入ディーラーから電話が入る。「その状況では当社のパソコンの故障ではないと考えられるので対応できません」。

通信会社から電話が入る「ルーターの故障でなさそうだし、基本的にルーターは有線で利用する限り XPもVISTAも関係なく接続できる。ルーターはそのままで可、ただし無線は対応していない。問い合わせの有償の接続サービスも、顧客がいろいろなパソコンをつなぎそれぞれ設定されているので、それはできない」

ルーターメーカーからメールが入る。「当社の製品であっても通信会社から供給されているのでお答えできません。そちらへ問い合わせてください」

○△×?!・・・

 

案の定、たらいまわしで、どこもこれといった解決策を提示しない。しかし、言葉は優しく、何なりと・・・口と腹は違うのであります。

こうなったら自力に頼るしかなく、冷静に原因を突き詰めていこうという姿勢に変わってくる。ここが現役でない強み時間はたっぷりと・・・と、言いたいところが、うちだけ田植がすんでいない。田植をしようとする予定日は大雨らしい。卯の花も咲き出しているに違いない。もっと他の花が咲いているかもしれない。もうちょっと、花の散歩も遠くまで足を伸ばさなくては・・・。かぶと虫も動き出す季節になってきた。どのぐらいいるか定かでないがひょっとして7−80匹いたらと希望を持つと上屋も何とかせねば逃げられる。今年は夏野菜の成長が遅い。まだトマトは15センチ程度、ピーマンはやっと芽が出て2葉になったばかり、この夏食べられるのかなぁ〜という感じ。退職者にもなかなか自由時間がない(本当は自由時間ばかりです)。

 

どうも、IPアドレスが自動で認識してないみたい。VISTAのIPアドレス、DNS等固有の固定に設定する。なんだか繋がるケースが多くなったような気がする。XP機のフレッツ接続ツールを削除する。Vistaのイーサーネットの伝送スピードを100MBから10MBに変更する。

ダイレクトコマンドでpingゃipconfigで確認しながらいろいろやってみる。

そのうちに起動後ルーターの電源リセット1回で接続できるようになってきた。XP機2台もVISTAが接続されると従来と同様に問題なく動く。毎回ルーターの電源ジャックを抜き差ししているのでなんやら「ごそごそ」になってきたような気もせんでもない。

しばらくようすを見ることにするが、ここで又問題発生。

VAIOで使っていたプリンターがVISTAに対応していない。1階から2階に走ってまで印刷できない。新規購入しかない。WEBカメラ、各種ソフトツールもVistaに対応していないことが分かり、ガックリ。

 

退職者を自覚して、おなじXPの入ったパソコンにしとけばこんな苦労と費用をかけずにすんだのに・・・と悔やまれるここ数日間でした。

 


「はな」がマムシに咬まれた始末記

(2008.5.12)

(グロテスクな蛇写真が多くゴメンなさい)

 

出来事。

 

近くの山の中に農業用のため池があります。金ケ谷池といいますが、この池には物語がありいつかは、その物語を書こうと思っています。その池には週に3度は行きます。山に囲まれその淵にはサクラ、アケビ、フジ、オオツリバナ、モミジ・・・四季のどれをとっても素晴らしい景色です。その池に通じる林道に杉の木が数本秋の台風でかかり木(木が倒れるとき隣の木に引っかかって途中までしか倒れていない状態)状態になっていました。その状態では素人では危険で伐採できません。

幸か不幸か、3日の強風で、さらに傾き、軽トラが進入できなくなったため思い切って伐採に踏み切ったのが7日です。伐採した木は又ベンチかテーブルを作る材料にしようと思っています。

 

前置きはここまでで、夕方にもなりおくさんが「はな」の散歩ついでにようすを見に来ました。そこで

「はな」が鼻をマムシに咬まれてん。

「○△×?・・・」「まだまむしなんか寝てるやろ」

「でも、あれまむしやと思うけど」

--「はな」の鼻をみる。右の鼻の部分に2点血がにじんでる--

「どこでかまれた」

「ここへ来る途中のコンクリートの道、まだいると思うは、逃げんとトグロ巻いていたもの、見に行く?」

「勿論行く」--軽トラからスコップを取り出し現場へ急ぐ--

 

「おぉ〜、立派なまむしや、大きいなぁ、先ず写真を撮るは」(カメラはいつもどこでも携行してる)

--まむしは盛んに威嚇するが、こちらは経験者且研究ずみ、30cm程度しかジャンプ力はない。カメラをチューリップマーク(近接撮影のこと)にしても大丈夫--

「どうするの?」

「きまっとる。駆除や」

--あわれまむしスコップで寸刻み、口をあけて牙の構造を調査、上手いこと出来ている。開くとぱっと家が立体的に飛び出したり、テーブルが立ったり、窓が開いたりする絵本がある。あの構造です。口を閉じると牙が収納され、あごを開くと牙が出てくる。飛行機の着陸の車輪の構造とも似ている。その牙はいわしの小骨のように細く鋭い。でも歯茎(牙茎か)が歯槽膿漏状態でぐらぐらしている(ここだけは私と似ている)。したがって、真っ直ぐ咬めば突き刺さる。硬ければ牙は折れずに横に倒れる。この牙では皮手袋、ゴム長靴も通すと思われる。ただし厚みがあれば牙は5mm程度の長さなので届かないかもしれない。首を切断されているのに牙から毒液を噴出した。石垣(極最近出来たコンクリートブロックの石垣)と道との隅に落ち葉が風で集められたところで日向ぼっこをしていたところを「はな」に驚かされた咬んだようす。注意しないと落ち葉とまむしの模様が酷似して分かりづらい。人通りはほとんどないのでよかった。

「はな」はしきりに鼻を舐めているがみるみる腫れてきた。とりあえず元の作業していたところに戻り作業を続け様子を見る。

犬は人間と異なりまむしには強いといわれている。それでも、だんだん腫れてくるし、「はな」もショックを受けて自ら軽トラにのり帰りをせかすので、作業中断し帰宅。

「どうする」

「動物病院へ電話して聞いてみ」

--かかりつけの動物病院の先生が、犬は基本的にはまむしの毒には強いが、アレルギー反応がある犬は30分以内にショック死する場合もある。1時間以上も経っているならその点は大丈夫ですが、腫れているのはアレルギー反応している。犬には血清はない。--

とりあえず、5−6分でいけるので直ぐに連れて行く。注射してもらって飲み薬と塗り薬をもらって帰る。「はな」は白熊さん状態にまで顔がはれなぜかブラブラするほど喉が腫れている。塗り薬は痛いのか触るだけでこちらが咬まれる。塗っても舌で舐めてしまう。飲み薬はソーセージに埋め込んで食べさせる。何やかんやとかわいそうということでドックフードから肉や魚に代わり贅沢三昧。食欲旺盛。

二日目、状態変わらず元気もない。三日目あの腫れはどこへ行った?。「はな」特有の細長い元の鼻に戻っている(この細長い鼻が曲者で2回もフィットの下にもぐられ狭いところの配線を噛み千切られ、ディーラーで又ですかといわれ修理した)。元気いっぱい。ドックフードを与えるが、それとちがうやろ、昨日食べたやつ、という顔おして横を向く。幸いにして、お医者さんが、かまれたところが壊死して毛がはがれ元に戻るまでは時間がかかるかもしれないといっていたが、壊死に関しては経験者、何れ膿が出てくるかなぁと思っていたがそんな気配全くなし。

今日も、元気に散歩。山を駆け巡ったり田んぼの土手ではかえるを捕まえ弱いものいじめをしている。

 


 

頑張れ「のら」

やっと先代「のら」から1年少し・・・

又「のら」の出現です。今度は2匹の成犬です。一匹は薄茶色一色の小形犬、もう一匹は細長いオオカミタイプの犬です。2匹とも首輪をしていません。しかし現れたのが今年の2月初旬。そのときは既に成犬でした。

最初、「はな」の散歩でかみさんが谷川の対岸で激しく犬が鳴いている。茶色っぽい犬みたいやけど、この辺で見慣れない犬や、怖いから帰ってきた。

明くる日も「まだいたわ。鹿ネットに引っかかってるのかも知れない」と帰ってから言う。

若し、そうならかわいそうや、ちょっと見に行ってくる。「はな」を連れて行き、「はな」に向って吼えてるみたいやから。

例の場所に来ると、谷川の対岸の竹薮の中で犬が吠え出した。後ずさりしながらこちらに向って盛んに威嚇する。目つきは鋭い。しかし、危害を加える恐れはなさそう。早速カメラを構え撮ろうとするが「はな」も盛んに「クークー」と行こうとするし、竹がじゃまをしてオートのためズームが効かない。竹にピントが合って犬にはあわない。双眼鏡で覗くと首輪はしていない。していた形跡も感じられない。とにかくよく吼える。ついに姿をくらましてしまった。

「あっ」もう一匹いる。これは全く鳴かない。しかし、じりじりと下がっていく。こちらのほうはオオカミと間違うほどこげ茶色のまだらがある。尻尾もほうきのようにだらりとしている。

その日は、ピンボケの写真だけ撮って引き上げる。

明くる日、又見に行く。昨日と同様の場所に2匹おり、薄茶色のうるさい方が吼えながら隠れる。オオカミタイプはじっとして動かない。谷川を挟んで対岸の竹薮を見下ろす状態で、もっとよく観察しようとするが竹がじゃまをしている。

双眼鏡で再チェック、オオカミタイプがこちらを見つめている。「はな」は吼えない。相変わらず「クークー」と谷川へ下りたそうに暴れる。オオカミタイプの前に赤いものが見える。「あっ、鹿や」そこには鹿が横たわっておりその肉を食べているらしい。それで同じ場所にいたのかもしれない。

 

それから1週間ほどは見かけない。かみさん曰く、あれは猟犬で迷い子になっていたのを猟師が探しに来て連れてかえったんや。しかし、それにしては首輪がなかったで・・・、猟犬やったら首輪をしてGPS発信機をつけているはずや。と、私。

 

それからさらに数日後、夜間激しく犬の鳴き声を聞く。さらに、自宅下から見えるがけの上に白い犬が歩いていると、かみさんが言うので双眼鏡で確認。間違いない、あの犬や。そのがけの上には小道があり「天の山の妙見さん」に通じている。

早速、かみさんが止めるのも聞かず、トレッキングシューズに履き替え「はな」の散歩がてらに登ってみる形跡は見つけられなかった。

 

又、夜間に激しく犬が鳴いている。鳴き声が移動している。しかも声質が2種類、ということはあの2匹が鹿を追っているのでは・・・。

あくる朝、民家の前の川沿いを「はな」の散歩に歩く。すると、例の薄茶色の犬が民家の前からその裏山にゆっくりと登っていく。口笛を吹く。チラッとこちらを向くが、ただそれだけ。

「ピン」とくる。川を覗きながら川沿いに下る。

「やっぱり」川の中で大きな鹿が死んでいる。お尻を咬まれ、内臓部分を食ったと思われる欠損部分がある。生々しい。カメラに収める。昨夜の鳴き声は、この鹿を追っていたのか・・・、しかし2種類の鳴き声を聞いたように思うが、1匹しか見ていない。

 

これらの話を犬好きの人たちに井戸端会議をやっていると、ダムの向こうにも鹿の死骸がある。あっちにも小鹿が死んでいた。という、噂を聞くようになり、実際に確かめにも行った。事実である。ただ、その犬が捕ったかどうかは定かでない。咬まれた形跡のない鹿もいた。

 

続いて、朝の「はな」の散歩から帰ってきたかみさんが、今、犬が鹿を追いかけていた。あんなん始めてみた。といっている。

そして、3月10日朝ついに確認。その日は比較的朝が早かったので「はな」の散歩に出かける。一巡して、今日は何もニュースはないなぁ。と、自宅下まで来ると、「ワン」という1回だけの犬の鳴き声を聞く。「はな」が反応する。盛んにリードを引っ張る。異常な反応にカメラを取り出しスイッチを入れる。前方150m.ほどの民家の竹薮で竹の割れる音がする。そのときはまだ竹薮を掃除している程度の認識しかなかったが、「はな」の反応は異常である。「ピー」と音がする。鹿の鳴き声である。その時その竹薮から大きな鹿が飛び出してきて田んぼからアスファルトの道路を横切り民家の間に入り視界から消える。

それから50メートルほど遅れて、例の薄茶色の犬が追いかけている。消えた先は川である。その川へ急ぐが間に合わず。鹿は川をさかのぼっていつもの獣道を走る。その後を無言で犬が追いかける。一匹である。直ぐに鹿は竹薮に消える。その先は私が鹿ネットを張っている。竹薮から出てきた。思惑通り鹿ネットにつかまる。2度3度4度ともがく。カメラのシャッターを切るが遠いのでズームにするが、「はな」は暴れるのとズームのため視界が狭くとらえられない。ついにネットを倒した。犬は目前に迫っている。今度は360度さえぎるもののない田んぼに飛び出した。懸命に土手を飛び越え逃げる鹿。その大きさ10分の1にも満たない薄茶色犬が追いかける。思わず「ガンバレ」と声が出る。犬に対してである。一瞬「はな」を放そうかと迷う。「はな」はやる気満々で狂ったようにリードを引っ張る。しかし、ここは公道、興奮状態で放すことはできない。薄茶色犬も1匹ではなかなか追い詰められない。要は、行く手をさえぎり鹿を逃げ場のない川のがけなどに追い込まねば、走るだけでは負ける。やがて私の目の前の道路を横切り大ジャンプしてガードレールを飛び越え数メートル下の田んぼに着地さらに元の川へ逃げる。犬はそんなジャンプができないので、ジャンプは出来ても着地点が見えないジャンプはできない。少し遠回りしてさらに追いかける。それでも追う強み近道をしているので距離は縮まっている。川へ入るためには、そこにも私が電線を張っている。しかし今は通電してないし、そんなもの関係なくジャンプで軽く1.8メートルのポールを飛び越える。やがて川に入ったので視界から消える。しばらく放心状態で、ようすを見ていたが何事もなかったかのように世間は静寂。

仕方がなく、帰ろうとすると薄茶色の犬が川をさかのぼってくる。その落胆振りからどうも取り逃がしたらしい。とぼとぼと又、山へ登っていった。

それにしても、オオカミタイプはどうしたのだろう。最近は目撃されていない。最初にみたときに、こちらを眺めていたが逃げもしなかったのはきっとどこかに怪我をするか弱っていたのではないだろうか、そして、・・・

 

何れにしても、雌か雄かも分からないが、あの小形犬は今後どうしていくのか少し観察したい。

 

ムクロジの木

 

いつも見ていて、見てないものがある。
そのものに関心があるないかの問題でもある。関心があれば目で捉え頭の中の記憶と照合され、あるものは心で捉え確認できる。
実は、先日スケッチの中に「ムクロジ」という木がありその実をこすり合わせれば泡立ち、その実の中の種は羽根つきの羽根の芯になると書いた。実の皮をこすり合わせれば泡立ち、それらは幼い時の遊びでもあったと書いた。そして、見たことも なかった実がなっているのを発見してそれがムクロジという名前であることも知った。その木は自宅から車で10分程度の距離にして約2キロほど離れたところであった。それから、そこを通るたび観察していた。

 

しかし、木になっているムクロジの実は「ギンナン」程度の大きさでそれが二十数個の実が房になってついている。幼い頃、石鹸といって遊んだ泡立ちのするその地上に落ちていた実は、もっとしわがれて干からびたものであった。
それから3日程たって自宅の横の竹薮に落ちているその干からびた実を50年ぶりに発見する。まさに幼少の頃のその実である。試しに水につけこすってみると泡立ちもし、中の種は羽根つきの羽根の玉そのものであった。

その付近、真上の木を探すがムクロジ特有の葉が見つからない。ただ数メートルはなれたところに樹高70センチ程度のムクロジに酷似した木が生え黄色く紅葉している。しかし、そんな小さな木に実がつくかなぁ〜、実際にそんな形跡はない。ひょっとして椿かな、しかし椿とは明らかに違う。
不思議不思議と思って数日過ぎた。今度は、いつも「はな」の散歩をするごく近くの道路に同じ実が落ちている。その真上を見上げるとなんと樹高15メートルに達するような大木のムクロジがあり、そのてっぺんには3房ぐらい 実をつけている。珍しいと木と思っていたがこんな身近なところにあり、それもほとんど毎日、しかも最近はその付近のモミジの赤とその木の黄色のコントラストが実に素晴らしく、カメラを通して見ていたのに。

すると続いて家の周辺20メートル以内に10メートル程度のムクロジが3本もあり何れも実をつけているではないか。その1つは自宅から見える。木の大きさから私より年をとっているに違いない。これで幼いときの遊んだ記憶が証明された。ただそのときは落ちている実で遊んだだけで木になっている状態まで見て無かっただけである。

こんな実のなる木を見たことがないと思って調べ関心を持ちだすと、なんとそこらじゅうにあったというわけである。

退職してから気づくことがいっぱいある。こんなところにスミレが咲いていたのか、こんなところにラベンダーがあったのか、それらは私 の歴史よりもっともっと古く、何百年も前からずーとその場所、その季節が来るとに生えていたはずである。田んぼの土手を1u切り取り、そこを365日眺めていたとすると、名も無き草とおもっていたものにも皆固有の名前があり、芽が出て花が咲き、実をつけ、枯れていく、するとその場所に違う植物が・・・、それが毎年繰り返されている。

なにをそんな阿呆なことを考えている、そんな暇は無いはずや、と自分でも思う。が、しかし、・・・秋のある日たとえ数分でもそれらを眺めるとき、これがまさに「至福の時」というべきであろう。40数年のサラリーマン時代こんな時が一瞬でもあったろうか。まさに定年万歳である。


 

蝮に咬まれる体験記

田舎に住めばいろいろなことが経験できる。これも経験のうちであるけれどこんな体験はゴメンこうむりたい。

夏も終りの29日、昨日は久方ぶりの慈雨だった為、その日は屋外仕事取りやめ夕方までパソコンに向っていた。午後4時過ぎ日照も弱く、一汗かかな体調悪くビールが不味い。幸いにも畑は草ボーボーで土も柔らかくなっており早速草引きをすることにした。夕方は蚊やブヨが多いため長靴、長袖、ゴム手袋の装備で取り掛かる。野菜の根元なので草刈機でビューンとやるわけにもいかず手作業で、固い根は鎌で引っ掻く。ナスを終えて四角豆の根元に移った。この豆は根元から多くのつるが出て雑草に絡まりごちゃごちゃになっている。それらを右手の鎌で探っているとき、突然右の指に鋭い針で突かれたような痛みが走った。

手袋に棘のようなものが入っていて突き刺さったかな、蟻んこが刺したかな、否もっと痛い。四角豆の花のミツをすっているミツバチかな?・・・頭をよぎる。反射的に手袋を脱いだ。左手薬指の爪より1cm程度のところに針で突いたような点から血がにじみ出ている。見た瞬間、あるものが頭をよぎると同時に眼は豆の根元に注がれた。

一瞬マイクロ秒単位で判断できる短胴、銭型模様の三角頭立派な蝮(まむし:この地方ではハメと読んでいる)が、置物のようにとぐろを巻いている。

----蝮は少々のことでは動かない。カメラを取りに戻り撮影し、細い竹を切り先を割って鎌首を挟み牙を鎌で抜き取る。それを頭から一升瓶にいれ数日放置し腸内を空にしてから焼酎を注ぎ込み栓をロウで封印して床下に転がす。又は皮をむいて天日に干す。----・・

と考える余裕も無く、その場に手袋鎌を捨て指を押さえ口で血を吸い出しながら水道栓へと走る。栓を全開にし洗いながら搾り出す。やせた指からは余り血が出ない。指も根元からその辺にあったビニールひもで縛る。同時に家内に消防署に電話して血清のある病院を聞いてくれと頼む。汗のシャツとズボンを履き替えている間に消防署から○○病院にある。病院が本人から事情を聞きたいといっているので電話するようにと番号を教えてくれる。

やり取りのあと付添い人を連れて救急受付まで来るようにとのこと。直ぐに家内の運転で15分程度で病院に着く。指は激しく痛む。既に時間外で廊下の明かりは薄暗く救急受付には子供を連れた母親ら数人。体温と血圧を測るが通常と余り変わらない。

それからの対応はゆっくりとしている。やっと呼ばれて診察室に入る。医者は椅子に座って傷口の詳細を見るわけでなく、看護師が消毒液を塗って傷張りテープを巻く。その間患者はいつごろ咬まれて、どういう処置をとってきたかを、医者が聞いてないのに説明する。医者は、本をぺらぺらめくり、「う行」やったかな、「あ行」やったかな、なんか覚えにくい名前やったなぁ〜。どうも血清の名前を調べているらしい。看護師が気を利かし、ここにあります、と何か薬を持ってくる。

又、患者がしゃべる。「指に巻いてあるひもが痛いのでもう解いていいですか」「まいてきたのやからそのまましといたらわ」と医者が言う。又患者が質問する。「以前蝮に咬まれた人を見たのですが、もっとパンパンに腫れていたけど、まだ指だけしか腫れていないけどこれから腫れてくるのですか」。「そういうたら腫れが少ないなぁ。応急処置が良かったんか、これから腫れるのかな、専門でないからなんともいえんなぁ・・・」。とにかく痛いと患者。

そら、痛いやろう。痛み止の薬を出しとく。先生、私胃が弱いから胃薬も一緒にお願いします。そうしとく。明日もう一度来て外科で見てもらって・・・・・というやり取りがあって、看護師がこっちのベッドに横になってくださいという。えっ、ベッドに寝るのですか?。点滴しますから。血清を打つのではないのですか?。今は点滴の中に血清を入れてますから1時間ぐらい我慢してください。患者は納得する。やがて点滴を持ってくる。フルネイムで名前と生年月日をいってくださいという。は、はぁ〜ん。これ、何時かどこかの病院で患者を取り替えたのでマニュアル化されたんやなぁ〜と、思いながら、聞かれんでも、こっちからいいたいわ・・と、思いながらはっきりとゆっくりと言った。

針が刺さるので痛くないか、寒くないか、姿勢はどうのこうのと、非常に親切である。でも、そんなことどうでもええ、針を刺せばちょっとぐらい痛いのは知っているし、点滴中がさがさ動いたら針が外れるぐらいわかっとる。もっと、症状についての現状と今後がはっきりと知りたい。・・と腹では思いながら、はい、はい、と素直な患者振りをし、自分でも自然に笑えてくる。それにしても痛い。指のひもも解いてほしい。

(以上前編)


(以下中編)

血清点滴が終り誰もいない受付でお金を払い、痛み止めをもらう。いつまで縛っとくのかなぁ〜、と奥さんに言うが、もうえええのと違う。そうやろなぁ、指が蒼くなっている。はよ、血をかよわさな壊死するわ。という会話がありひもを解く。それにしても痛い。家までもたん。自販機で水を買ってきて、薬ここで飲むわ。誰もいないくらい待合で痛み止めを飲む・・

家に帰り着いたときは午後7時、咬まれてから2時間ちょっと経過している。腫れは手の甲まで広がってきた。とにかく痛い。じっとしていると余計に痛い。室内を歩き回る。そのうち疲れと薬が若干効いてきたのか、今日は早く寝たろ、と、10時に就寝。痛い割りにはすぐ眠りにつく。

あくる朝、咬まれてから16時間、手の甲が腫れている。しかし、手首で止まり腕は平常通り。痛みは持続している。でも、腫れの状態からたいしたことはないという予感がする。昨夜予約した時間に病院へ行く。今度は正真正銘の外科の先生。「どうですか」「イタイイタイ」と患者。テーピングをはずすと爪より先1.5cmぐらいの楕円形で真っ黒い血豆が出来ている。「血豆ができてますねぇ。血を抜いて切開しておきましょう」と治療して消毒テーピング、明日予約しておきましょう。「このまま直るのですか、もっと腫れている人を知っているのですが」「そうですねぇ〜。確かに腫れはちいさいですねぇ。ようすを見ましょう。」「アルコールはよくないですよね」「よくないですねぇ〜非辛抱してください」予定通りの答えが返ってきた。痛み止めを処方してもらったので、処方箋薬局へ行く。

「蝮に咬まれたのですか、実は私の親も山でかまれ1週間ほど入院していました。なかなか直らないでしょう」・・・薬局の薬剤師が言う。腫れはどうの、痛みはどうのと話が弾む。病院の先生よりはるかに経験者の話が参考になる。

その日は当然禁酒、翌日手の甲の腫れも指の腫れもひき、痛みも少なく順調順調。傷口の状態が知りたく急いで病院へ。今日は昨日の先生と違い女医さん。テーピングをはずし消毒し、再テーピング。その間1−2分。ほとんど無言。「腫れも引いてきたのですがこのまま直るのですか」明日は土曜あさって日曜なので月曜日に予約しておきましょう。それよりこの先どうなるのか知りたい・・・

日曜日は、神社の祭礼があり立場上、蝮に咬まれた話を酒の魚にどうしても飲まなければならない事情があり缶ビール3−4本飲んだ。腕が若干腫れ、わきの下のリンパ腺が痛い。

9月3日の月曜日はガーゼ交換程度でまずまずの回復。この程度であれば痛みさえ引けば・・私の場合、毒が回る前の処置、あるいは血清を打つまでの時間、咬まれた深さが浅かったのか・・幸運だったと思った。

ところが、マムシの毒はそんな生易しいものでないことを、思い知ることになる。


(以下中編)

1週間経った。指は防水テーピングの上に指包帯(筒状のもの)をかぶせてある。なんか、痛い。指も手の甲も肘の辺も熱っぽい。このテーピングが気に食わない。包帯なら患部を見ることが出来るがテーピングは中がどうなっているのかわからないので不安である。予約日に病院へ行くと「どうですか」「痛くなってきました」「どれどれ・・・」テーピングを取ると思ったとおり一面に膿がたまっている。それを取り除くと、指がクレータのように陥没している。周りは肉を引きちぎったようにギザギザ状態。「原因はこれですね」2-3日点滴に通ってください。その日は点滴し痛み止めをもらって帰る。化膿は外からの菌でなく、内側からと思われる。即ちマムシの毒がまだ残っているということだ。貧乏暇なしで、指先程度で遊んでいるわけには行かない。指がテープと包帯で太くなっているので、皮手袋の薬指を切ってはめ草刈など百姓は忙しい。医者は、指を上に上げて安静にしていると思っている節がある。二日間点滴に通ってずいぶん楽になった。ただし、ここ二日間はノンアルコールの缶ビールで我慢する。(初めてノンアルコール(アルコール0.05%)を飲んだが、なかなかいける)

当然この季節、日中は汗をかく、指も汗をかきテーピングの中も汗をかくので気持が悪い。昼、夜とテーピングをはずし消毒してガーゼと包帯に替える。スカーとして気持がよい。あのじゅくじゅくの指先も肉が盛り上がり乾燥状態になり完全に回復モードに入った。

病院にいくと、「どうですか・・」「完全に回復モードです」と患者。「ん・・」女医さんは指先の包帯を見て・・・。「あっ、それ濡れたので替えたのですが・・」・・勝手にテーピングをはずしたのが気になるらしい。「濡れたって、中からですか、外からですか」「外からです。もう中から膿は出てないと思います」と、患者が勝手に判断する。

今回は消毒もせずに又、しっかりと防水テープを貼り、上から透明テープでがっしりと巻かれた。「少々水がかかっても大丈夫ですから3日目に予約を取っておきますのでそのままで」

どう考えても、経験的にも、汗をかくからテーピングが緩んでくるし外気に触れず蒸れむれで不潔で悪化すると思うのだが、・・これ以上反抗すると後が怖いので口には出さなかった。今日で2週間経過。

 


(以下後編)

3週間目、例の防水テープの下がゼリー状になり上から押すとにじみ出てくる。もう、怒られてもよいから又テープをはずし、水道水で洗い流す。スカーとして気持がよい。患部はまだ皮膚が出来ていないが快方に向っているのは明らか。

病院へ行った。例の女医さん「む-」これうちの病院の包帯でないという顔をしている。

すかさず(患者)、黄色いゼリー状のようになって・・・。

(女医さん)「ゼリー状のようになってよいのです。」

又、(患者)がいう。「一進一退の状況ですが長引きますわ」。

傷口もろくろく見ないで(女医さん)「ムカデはひどい毒性ですから」。

(患者)「・・・・・??・・あの〜マムシに咬まれたのですが・・」

(女医さん)「そういうことなら、別のシートを出しますから自分で替えてください。三日後予約を取っておきます。なんか、今日も機嫌が悪い。

 

4週間に入る。今日の先生は始めての人だ。楽しみ・・

(先生)「どうですか・・(カルテを最初から読んでいる)、うんうんだいぶよくなってきましたね(傷口を見て)」

(患者)「指が曲がってきましたが・・別にどう曲がっても機能が回復すれば形はもうこの年ですからかまいませんが」

(先生)「そんなことありませんが(年齢のこと)、添木でもしますか?」

(患者)「添え木すると後のリハビリが必要ですから、このままでいきます」

(先生)「ハッハッハハハ・・」

(患者)「なぜ曲がるのですか・・」

(先生)「引っ張っている筋肉、筋が牙で刺されても切断はないですが、細胞が壊死するから、それらも破壊されたことが考えられます」

(患者)「指がビーンと反っている人がいますやろ、私はこどものときによく「マムシの指」と言われたのですが、このように指先・第一関節・第二関節が「へ」の字になりピ−ンと反りません(実演する)。これ、まさにこの状態から「へ」の字のような指をマムシの指ということになったんですかねぇ〜」

(先生)「いわれは知りませんが、確かにそんな人もいますねえ」

(患者)「先生はどうですか・・」といって先生の指先を見る。

(先生)「私は、こう-普通ですねえ」と指を伸ばす。」「もう大丈夫と思いますから、今後自宅療養してください。なにかあれば直ぐにきてください。」

(患者)「ありがとうございました。」・・今日の先生は良かった。はじめからこの先生に当たっていればもっと早く良くなったかも分からん・・と思いながら一安心。

 

しかし、このような外傷に対して昔の人は経験とか、それより昔の人から言い伝えられているとか、よくあたっているように思う。例えば「マムシに咬まれると腕、足が腫れ、マムシの模様が浮き出てくる・・」確かに、咬まれてから4-5日経ってから腕の関節の裏側に鮮やかに斑点が2つ現れた。これ、内出血らしいがマムシの模様といわれればそう見える。この斑点は数時間で消えた。

次にマムシ指のことである。咬まれると、マムシが頭を持ち上げた状態のように指がまがる、と。その通りになった。

医者は結果として科学的に説明するが、昔の言い伝えとかは一笑に付しているきらいがある。

約1ヶ月経った状態で指に傷張りテープで間に合う状態になった。さらに完治まで2-3週間はかかると思うが日常生活には不便はない。

 

他の事例から比較して、この程度の症状で終わったのは、

@ゴム手袋の上からで傷が浅かった

A2本の牙のうち、手袋の傷穴から右の牙は指にかすった程度か

B直後、水道水での洗い出し、指の根元を直ぐにしばった

C血清を打つまで30分程度で早かった

ことが考えられる。

 

犯人か、犯人の仲間かはわからないが、「はな」が激しく吼え敵の来襲を知らせたので処分できた(関連写真)。

【完】

追記2007.10.4

一ヵ月が過ぎた。指を動かせば少し患部が痛い程度でほぼ完治。ただし、以下の写真のような後遺症が残る。

写真は、左手の薬指と、右手の薬指です。

左の指は、これ以上伸びません。蛇が鎌首をもちあげている姿に似ていませんか。早い段階で添木を当てるなど処置はあったのですが、感じから添木を当てても後のリハビリが大変で機能的に元には困難と思いそのままです。しかし姿は悪くても現状は機能的に元に完全に復旧していますから、年齢的に姿かたちは問題ではありません。勿論自然状態はこの形ですが、伸ばしたら伸びます。放せばこの形に戻る

【完】

 

 

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白内障手術体験記

1-経過
退社後2年間でずいぶんと左目の視力が衰えてきた。
少し視力が落ちてきたのと、どうも老眼が強くなったのか眼がすっきりしないのでちょうど1年前にメガネを新調した。
いつもの事だが、メガネを買ったときはすこぶるよく見える。それから半年後、左目の視力が落ちてきて左右のバランスが悪く、メガネをはずして眼をこすったりすることが増え始め、犬の散歩時などで右目をつぶったり、左目をつぶったりして状況を見ると、右目は近視なりに見える範囲ははっきりと見えている。左目は物がかすみ2重に見えている。左目だけだと電柱は陰のように2本見える。両眼では、それらをごまかしたようにな感じである。しかし、右目が健在で特に日常生活や車の運転で障害になるほどではないが、とにかくうっとしい。
これは白内障の兆候だと思うが、医者に行くほどの決心もつかず、づるづると過ごしていたが、年末に一大決心をして地元の眼科をおとづれる。

2-地元眼科診断
最初に視力検査、眼圧検査をして後、例によって暗室で先生が目を覗く。
「これは白内障ですねぇ〜。さらに詳しい検査をしますか?」というので、
「徹底的にやってください」というと
「今日は、車ですか?」に対して「そうです」というと。「瞳孔を開く目薬をしますので数時間はまぶしく運転に注意が要りますが、歩いては遠いですか?」「歩いても15分ぐらいですし・・」という問答があって目薬をさした。

実は、10年ほど前に一度会社の近くの病院で眼に光が現れる不思議な現象で訪れたことがあり、そのときは真夏だったので帰りにまぶしかったことを経験しているので、状況はわかっていた。今は、冬の太陽であり5分ぐらいの車の運転は大丈夫と内心は思っていた。
目薬から20分ほど待機して、再度診察で
「左目は白内障で、右目は健全です。白内障にもいろいろあり、貴方の場合は中心部が濁っているので視力に影響を与えているのと、白内障としては年齢が若いので進行も早いです。免許の更新はいつですか」
「更新はまだ数年先です」
「それでは急ぐこともありませんね。しかし、よくなることはありませんので、手術より手はありませんが・・・」
「是非、手術をしてすっきりしたいのですが・・」
「今は進んでいて、日帰り手術と、3-4泊の入院コースがありますが・・」といって、それぞれの病院の名前を教えてもらった。
「紹介していただけますか」
どこどこは日帰りで、どこそこは宿泊しか実施していない、という話があって、「いつごろされますか・・」農業などをやっているので農閑期の4月ごろまでにしたい旨を伝えると、「2−3ヶ月あるのでこことここなどは可能と思います。何れにしても診察の予約を取りますが・・」
 

入院など学生時代の盲腸しか経験していないので、入院もいいかな・・、それなら極近くの病院でも対応しているし・・と頭の中で考え、入院となると心の準備も要るので、もう一度来ます。1週間ぐらい経ってからどこにするか決めてきます。といって、陽光も鈍く、まぶしさもほとんど感じずとりあえず帰宅する。

早速、家内に状況を話すと「たとえ1日でも入院となるといろいろ大変や、日帰りにしぃ」という一言で日帰り手術が瞬時に決定された。
再度、医院に行く予定が師走も迫っているし、おまけにノロウィルスが猛威をふるっていたせいか、それらしき症状になり眼科より内科へ先にいく羽目になり、それやこれやのうちに正月、1月は瞬く間に過ぎ去った。
ついに意を決して2月になって再度医院を訪れ日帰り手術を対応している病院の紹介状をもらう。

3-病院
待合室で名前を呼ばれて先ず視力、眼圧、その他簡単な検査及び血圧測定を受ける。カルテが出来ると最初の医師の診断があった。紹介状に何が書いてあるのか分からないが「うむうむ・・ちょっと見てみましょう」ということで例によって眼に光を当てられ光学器械や虫眼鏡のようなもので覗かれる。「白内障ですね、詳しい検査をします」といって、例の瞳を開く目薬をされて20分ほど待つ。再度、光学器械による検査を受ける。「白内障以外の症状はありませんので手術は日帰りを希望でしたね、何時します。早いほうがいいですか」といって看護師に台帳を持って来させ、「○○日はどうですか?」「えっ!」手術までは2−3ヶ月待ちがあると思っていたが、打診されたのは今週ではないか。「次ぎやったらいつになります」「来週いけますが」「では来週にします」「分かりました。それではこれから手術に必要な検査をして帰ってください」といわれ、眼の検査が済むと、検尿・採血・心電図・胸部レントゲンの検査を受けて、次回の手術説明会の日時と手術日、手術以降の日程の予約票をもらって帰る。


4-手術説明会
手術説明会は、身内の者の同伴が義務付けられ家内と同行する。説明会の前に数件の光学器械による技師の検査を受ける。よくわからないが、目の焦点距離とか、何か眼の構造を測定しているようであった。間違えたらいけないので、ということでポロライドカメラで顔写真を撮ってファイルに貼り付けていた。

7−8組の患者が一同に会議室に集められ、1組ずつカルテの内容の確認(既往症、糖尿病、高血圧、現在の体の状況)、手術後の通院場所(日帰りの場合は、主要検査以外は照会元の医院に通院する)が行われた後、事前に配布されたプリントの内容の手術の準備、モデルによる白内障手術の方法、手術に潜む危険性、などの説明を受ける。最後に個人ごとに「挿入するレンズの焦点距離」を決定する。
このレンズの焦点距離は、近・中・遠があってレンズはプラステックで出来ているから自動ピンと調節が出来ない。したがって、「近」に設定すると近くは見えるが遠くはメガネが要るし、「遠」に設定すると近くはメガネが必要になる。手術したからといって遠視や近視や老眼が治るわけでなく、あくまで水晶体が濁っていたのを透明な人口水晶体(レンズ)に替えるだけであるのは理解していても、目がよくなると錯覚する。焦点距離の設定は、自分が今まで過ごしてきた日常生活に合わすのが原則になる。私の場合は、近視で老眼であり日常はメガネをかけて、はたまた新聞を読むのは老眼タイプのメガネをかけ替えている。一時退職前は、パソコンの距離用もあり3つのメガネをあやつっていたのと、手術する眼が片方なので直ぐに理解が出来た。

「右の健在な眼の焦点距離にあわせてください」「右は20cmですから、レンズは30cmがいいでしょう」ということになりそれで決まった。ここでは、みんなよくなろうと必死であるからある程度プライバシーに関することも言わなくてはならない。「私は、こんな病気を持っているのだが・・」、「私はお月様が八つにも九つにも見えるのですが・・」等の話も出ていた。
その日は、手術前の目薬、術後の目薬、飲み薬のレシピをもらい薬局でそれらを受け取り帰る。手術の時間は前日に電話で知らされる。前日の定められた時間に点眼する。


5-当日
前日に、病院から手術の時間について電話があった。「朝9時30分からですが、遠方ですけれど来れますか」しかし、手術2時間前から5分毎に目薬をさせと指示されている。「電車で来られるなら、座れますか?」「目薬をさすためですか?」「そうです」病院でさす場合は少なくとも7時30分にはついてなければならない。遠いといっても、交通手段はいくらでもあるし、了解した。


当日、かなり激しい雨が夜明けから降り出していた。病院へ7時30分までにつけるよう家内の運転で出発。早朝のため高速もすいており、1時間以内で7時前についてしまった。そこで駐車場開門まで入り口で待ち、開門と同時に入る。一番乗りである。中は真っ暗で残置灯、誘導等のみで眼科待合に座って目薬をさしていると、受付の人が来て照明、テレビをつけてくれる。
8時過ぎになると、どんどん人が集まってくる。目薬の確認に看護師が来る。9時になると体調確認と血圧測定と、手術に間違わないようにと名札を手首に巻かれ、「左」とかいたテープを左目の上に張られる。血圧はいつもより高かった。「今日は少し高いですね、誰でもここに来ると高くなりますから」といっていた。緊張してないと思ってもやはり緊張しているらしい。最初に看護師が取り留めのないことを言っていたが、愛想のよい人だと思っていたが、実は緊張を解くために話しかけていたのだとわかった。待つほどもなく、手術準備室の更衣室に案内されパンツ一丁で手術着に着替える。そして準備室で点滴をセットつける。この点滴を受けるのは盲腸以来の42年ぶりである。待つ間、点滴のしずくが落ちていない。液が血管に入っていない。「おかしいなぁ〜、バルブが閉まっているのと違うか、看護師を呼ぼうかな、そんなミスをするわけないし、たかが10分ぐらいの手術、どうでもいいかな」とか、勝手に想像していたが、これは手術が始まって使用する事前準備だったらしく、看護師を呼んでいたら大恥をかくところだった。


6-手術

しばらくして隣の手術室に連れて行かれ、台の上に横になるように言われてその通りする。なにせ、メガネをはずされているのと、とどんどん手順よく進むので周囲の様子が観察できない。台の上には頭が納まる頭受けのようなものがあるだけで、ただのベッドである。姿勢もどこも固定されず動くか不安である。仰向けに寝ると直ぐに重みのあるサブトンの小形のようなカバーを顔面に乗せられ、両サイドをマジックテープのようなもので固定している。左目だけが穴が開いているらしい。先ず看護師らしき人が眼を洗いますからといって、眼にホースのようなもので水をかけて消毒ている。次に「麻酔の準備をします」とか言って、目薬をさす。

1分ぐらい経ってから、「それでは始めます」と声があり目の上に強力なライトが当てられる。ライトの黄色い輝き以外は何も見えない。「眼を動かさないで」と指示があり、ライトの中心あたりの一点を注視する。
手術の様子はインターネットの動画で何回もイメージトレーニングをしていたから、経過時間と眼に施される動きから今、何をしているかを確認しようと思っていた。ところが、なかなか難しい。いつ、まぶたを固定されたのか心配な瞬きの動きはない。
点眼麻酔の後、注射針による麻酔があったような気もするが麻酔針が眼球に近づくのを確認しようと思うが、光の輝きがゆれる程度でいつ打たれたのかよくわからない。ただなんとなしに医者の動きが察知され結果として分かる。

このときが一番恐怖である。本当に麻酔が効いているのか?、何か黒いものが眼に近づいてくる。それ注射針と違うか?、それが眼球に刺さって痛くないか?、体はリラックスしているのに心に緊張がはしる。怖いのはそのときだけで後は眼を動かさないことだけである。

おそらく次の動きはメスで白目から黒目を通り水晶体まで、水晶体を吸い出す穴を切開しているようである。眼には強力な黄色い光の中に凹を逆さにしたような模様が見える。その模様を注視する。で、ないと目を動かすなといってもどこに焦点を固定したらよいのかわからない。「あっ」いま、超音波で水晶体を破砕しているらしい。器械から音がしている。模様が盛んに左右上下にゆれている。「眼を動かさないで」と、注意がある。目は、自然に模様のゆれを追いかけてしまっていた。インターネットの動画では、水晶体を包んでいる袋の中身を隅々まで取るような仕草がある。そのとき目玉がぶるぶると揺らされていた。今がそのとき、ここまで来るとイメージトレーニングの結果から70%ぐらい進んでいるはず。

そのうちに強力な黄色い光と模様が消えていく。「あっ」黄色い光はなくなってすりガラスを通して濃淡のない光を見ているようで眼前は灰色一色になった。きっと、水晶体がなくなったのだろう。
途中幾度も水がかけられる。それは眼に水が流れているのが見えるのと流れを肌が感じることからはっきりと分かる。
次は、レンズ挿入が始まると思っていると今度は、「ちらっ」「ちらっ」と光が見え隠れする。直ぐに強力な黄色い光と、模様が復元してきた。又、水をかけられる。最後の消毒と消毒のようだ。直ぐに「終わりました」と先生の声がする。看護師が大きな眼帯を無造作にテープで止め、カバーがはずされた。もう先生はそこらに居ない。声には聞き覚えがあったが、今日は一度も先生の顔を見ていない。チラッと見たかもしれないが、メガネをしていないのでぼやけて分からなかった。手術室に居たのは10分以内であった。直ぐに準備室に戻りまだ点滴が残っているのでこれが済むまでここにいるようにと指示を受ける。今度はぽたぽたと点滴が落ちている。10分ほどで点滴はなくなり更衣室で着替え、後は家内が待つ待合室までもどる。大きな眼帯で、メガネをかけられない。うろうろして待合室までたどり着き、眼科の待合室へと移動し、看護師に手術が終わったことを報告する。1時間は待合で座っているように指示があり、きっかりと1時間後に、もう帰ってよいと指示があった。いっぺんに空腹を覚え病院で軽食をして帰路につく。
怖かった手術は終わったが、もう一つ難関がある。


7-帰り道
私は助手席に座り、カーナビの指示を運転手に伝えるナビがメガネをかけられないので出来ない。とにかく高速道は短時間で車線変更が多い。無理にメガネを引っ掛けて往路よりも短時間で何とか帰り着く。こんな大きな眼帯、電車ではよう帰らん。
途中、眼帯が大きいのでその隙間からどの程度見えるか斜めに見てみるが、何か見えているが真っ白で明るい。
当日は、禁酒とノー風呂で我慢する。

8-翌日
紹介もとの眼科に行き眼帯をはずされる。視力検査をする。素晴らしくよく見える。0.3程度の視力が1.0(メガネ矯正)まで復活している。大きな炎症もなく先生もびっくりしていた。小さな眼帯をくれたが風の強い屋外に出なければ必要ないということなので、一回もしなかった。帰って、通常タイプ、老眼タイプのメガネ、昔のメガネなどを試すが、老眼タイプのほうが新聞から遠方まではっきりと見える。裸眼でも新聞、パソコンの字ははっきりと見え室内で生活するには不自由しないようだ。
とにかく明るい。カーテンは真っ白、花は真っ赤、汚れのない子供の心のように一転の曇もない。その日はどうしても避けられない夜間の用事があり、ほんの少しアルコールを飲む。

9-翌々日
今日は、地元の眼科が休日のため遠方の手術した病院まで出かける。往復3時間、診察1分足らずで異常なし。見え方が安定するのは2−3ヶ月かかるとのこと。昨日ほどよく見えない気がする。


10-三日目・五日目
地元の眼科の診察。異常なし。六日目に最後の病院診察を受け、以降は一週間先の診察となる。
五日目現在では、やはり左目眼内レンズは最初ほどではないが白い紙は真っ白、カーテンは真っ白で素晴らしい。現時点で従来の数種のメガネで試すが、左をあわせば右が合わず、右にあわせば左に合わずで、早く安定してめがねのレンズをあわせればもっとよく見えると思われる。したがって、手術前は右目が効き目になっていたが、今は左目を効き目にしたほうが世の中が明るく見えるのでそうしている。


11-今までの結果
手術は痛くも痒くもなく何の苦痛も伴わないで、しかも短時間で行われその結果が感激的であることから大成功に思う。幸いに右目が健在であったため、又左目も生活に困るほどでなかったのに、この結果であるから、両眼白内障の人で、テレビが見ずらくなったとか、歩行にも障害が出てきたというレベルの人が手術を行ったときの感激は、想像を絶するほどであろうと思われる。おかげで、医療の進歩を痛感できた。
手術の方法、感じ方などは人それぞれであり、手術中のことも感じだけで本当にそうだったかの確信もないが、実感を記載した。

12-続編 3ヵ月後

手術から3ヶ月、その間一週間、2週間・・1ヶ月と診察の間隔が伸びてくる。診察は毎回両目の視力〔裸眼・矯正〕測定と眼圧検査〔目の玉にプッと風を当てるやつ〕と医師の上を見て、左を見て・・・で眼球を動かしのぞかれるだけ、ハイ、異常なし次回は○週間目ぐらいに来てください。・・を経て、はれて3ヶ月たったというわけ。

あれだけの感動が消えてしまった。最初は近視が直ったかと思うほど裸眼で遠くも近くも見えた。しかし、時間が経つにつれ焦点距離40cmのレンズが入っている眼は、確実に固定されやっぱり近視は近視パソコンに眼を少し近づけるとパッチリと焦点が合う。それよりも遠くは従来通りめがねが必要で、それより近くは手術していない目が近眼老眼で裸眼でピッタシと合う。しかし、手術した眼は明るさが違う。高級カメラのレンズのようである。いつもの検査では手術後は矯正で1.5見えている。右目は矯正して0.7程度である。3ヶ月をちょっとすぎた今日〔2007.5.25〕メガネの処方箋をかいてもらって、眼鏡屋さんへ行った。一週間後に出来上がる。

当たり前のことだが、視力検査のとき近視の人は知っていると思うが目を細めると見えない輪の切れ目が見える。眼の筋肉が水晶体のレンズを凸凹にして焦点距離を変えているのだが、手術した眼はプラスチックのレンズであり凸凹はできない。顔がゆがむぐらい眼を細めても見え方は一緒。変なことに感心する日々である。

それと、もう一つ、毎回毎回視力検査をしていると看護師さんの癖が分かってきて、次のワッパの切れ目は右や、ということが分かってくる。直球で勝負に来る看護師さんもいれば、シュートをベースに直球を絡めてくる看護師さん。意地になってカーブばかり投げてくる看護師さん、という風に。だからといって何にも得にならないが・・

メガネが出来上がれば完結編をかきます

 

13-続続編 

2007.7.14 手術の日より4ヵ月半、手術直後は何んだったんだろう。

メガネは6月始めに処方通りで出来上がった。まずまず満足であり日常生活では全く不自由さはない、運転もバッチリだ。遠近共用でないので近くは裸眼で見ている。

しかし、しかしである。以前も言ったが、あの手術直後の近くも遠くもある程度見えるあの感覚はどこへ行った。

このパソコンは裸眼で書いているが、手術の左目は35cm離れてバッチリそれ以下でも以上でも視力は落ちる。右目はといえば10‐15cmの焦点距離、あわせて10‐35cmぐらいに焦点が合っている。両目の焦点距離が違うというのもある程度便利な面もある。これ、もっと拡大解釈すると手術するとき片目は遠方に反対の目は近くをと、焦点距離の違うレンズを入れると裸眼でも生活できるのでは・・と考えたりするが、そんな人がいないとするとやっぱりバランスが悪く目が疲れるのだろうなぁ〜。

しかし、一昨日新調のメガネを落として左目のレンズが割れた。修理の間今、以前使っていた老眼用のメガネをかけている。この古いめがねは、近視の老眼タイプのもので「度」は薄い。したがってこのメガネをかけていると手術した左目は遠くがよく見える。運転など全く支障がない。ところがパソコンは見えない。健在の右目は近くはよく見える(近くを見るため作っためがねだから当然だが)。遠くは見えない。これをかけてパソコンも扱え、運転もしている。目も疲れない。始めは違和感があっても直ぐなれる。

これって、片目が1.2づつ見えたら両眼で2.4見えるなら別だが、新発見?

そんなこんなで、白内障手術は終わりました。

(完)

 

 

 


さみしいネコ」を読みましたか(2006.1.27)」

1月22日、読まれた方もいると思うが毎日新聞の読書欄(?)に大人の本棚というシリーズに納められている「さみしいネコ」「(早川良一郎1919.3-1991.4著)みすず書房」を若島正氏が評した記事があった。この本は若くしてロンドン大学に遊学し経団連事務局で定年をむかえられた早川氏の淡々とした生き様がエッセイとして定年後にまとめられたものである。20年も以前のエッセイであるが今読んでも光を放っている。定年は「毎日が日曜日」でなく「毎日がお正月である」と言っている。50歳代以降の人は一読に値する。

若干高価(@2625-)であるが早速、Amazonで入手し興味深く読んだ。

著者は銀座が好きで、ラ.クンパルシータとか何とか言う音楽を聞きながらパイプタバコをたしなみ、田んぼや畑しか知らない私とは人間もレベルもすむ世界も大いに違うが、その生き方、考え方に大いに共感するところがあり「ウン」「ウン」「そのとおりゃ・・」と一人ごとを言い、ニヤニヤしながら読 ませていただいた。

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特に、筆者が言うには、定年前は収入が立たれると餓死しかないと思っていたが、定年2年前に餓死しない程度に厚生年金というものがあり生きていけるということが分かり定年後はばら色に見え待ち遠しかったといっている。又、定年後は「朝起きたいときに起きる。今までは洗面、髭剃り、・・・など時間に追っかけられていた。それがなくなった。全てゆったりと悠々とやる。同じタバコが、ご飯がこんなにおいしいとは・・」「定年前は仕事中心の生活であり意識である。それが定年後は人間中心の生活になる。視野は広くなり、宇宙が大きくなったようである。」

そんな著者に「年をとっているんだからネジリ鉢巻で仕事をする必要はない。実働一時間でも、二時間でも三十分でもいい、何かしてりゃいいんです。六十から、いろいろ勉強していたら八十で本を出すことになってしまう。こつこつと何かしながら生きるっていいもんですよ。楽しみばっかりもとめるのはいけないな、楽しみのみ求めているといずれは欲求不満になる。と、経験者が筆者に言っている。(同本、自由への道より)

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まったく同感である。

定年後この九ヶ月、「年を考えて特に生活習慣が変わる年でもあり無理したらあかん」人の忠告も空耳にやりたかったことを土日祭日関係なしにやってきた。その付けが昨年末の手の甲骨折という事態を引き起こした。それから一ヵ月、右手人差し指と中指以外は何とか動くようになったが、鉛筆はおろかドアの取っ手さえ回せない。 イラストのパイプは親指と小指に挟んで画いた。キーボードの「Ctrl+Alt+Delete」が同時に打てない。口で鉛筆をくわえてようやくDeleteキーが打てる。当然のこととして「はな」の散歩以外は家の中である。それも降雪時は滑って転んでこれ以上怪我をしたらあかんという恐妻の忠告に従って引きこもりである。今年は雪降りがやけに多い。しかし、内心は心落ち着く、なぜなら晴天続きでそこら辺に家庭菜園の人とかが畑仕事などをしていると心あせるがそれがないのは気持ちよい。

いろいろと心の葛藤があった一ヶ月間であったけれど、最近、少し大げさであるけれどPTSD(心的外傷後ストレス)になりそうな事件に遭遇した。「はな」の散歩を共にする野良犬の「ノラ」の物語である。今は書けないがほとぼりが冷めた時分に是非紹介したい。

そんなこんなで、本を読んだり、姉歯問題、ホリエモンと次から次へとでてくるワイドショーを勉強したり、・・まだ、骨折の自粛に一ヶ月はかかるだろう。その間に記憶のあるうちに早川氏にならって老人特有の思い出話とか生き様をつづっていきたい。

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