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改行なし
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*改行なしVer*

 第1幕.『なんのために剣を』 (約二万二千文字) 


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 第2幕.『時の征服者はそうして消えた』 (約二万三千文字)

 第3幕.『初めての友達』 (約一万六千文字)

 第4幕.『魂の穢された日』 (約二万四千文字)

 第5幕.『瞳の奥の夜叉』(約二万千文字)

 第6幕.『その記憶の残滓は願う』(約二万四千文字)

 第7幕.『魔人達の宴』(約二万三千文字)

 第8幕.『諦めぬ人間は愚者か否か』(約二万五千文字)

 第9幕.『王都決戦』(約二万四千文字)

 第10幕.『世界の終わりのはじまり』(約四万ニ千文字)
















 第10幕.『世界の終わりのはじまり』











*******************













 攻撃と防御と回避。
 そのすべてを同時に行い、さらに思考と感覚は五手先まで見通している程に――両者の『戦い』は拮抗していた。
 リー・ホランは明らかに驚愕していた。
 この赤眼の勇者の成長速度は人間のそれではないと。
 つい先ほどまで絶対的に自分の方が攻め、守り、気迫のそのすべてにおいて、勇者と呼ばれるこの少年よりも勝っていたはずだった。
 だが、いくつかの攻防の後に驚くべきことが起こった。
 勇者ルーウィンの剣が狼の爪に届き、鋼同士が音をたてて合わさっていた。
 さらに、勇者は次の攻め手を完全に読み切って後ろへと跳躍し、狼の攻撃は空を切ったのだ。
「……っ」
 (馬鹿な……)
 攻防の最中、リーは頭の中で呟いた。
 こんな短時間に、リーの感覚で自分のふた回り以上も力量が下だった者に――追いつかれるはずが!
 ルーウィンの折れた剣が狼の頬を掠め、浅い傷をつくる。
 そう。勇者の剣は半ばより折れている。だというのに、その剣の凄まじさは増すばかりで、はっきり言ってリーの頭は混乱していた。
「不思議ですか?」
 あまりにも冷静なルーウィンの声がリーに耳に届いた。
 それを合図に、永劫とも思われた剣と爪のやりとりは一時停止し、大きな狼のリーは忌々し気に「はっ」と唾を吐いて言葉を返した。
「いきなり威勢がよくなったね君。羊のくせに狼に立ち向かうなんて、どうかしてるよ」
 その言葉にルーウィンは、らしくなく目を細めて鼻で笑い、言い放った。
「ふっ……いつまでも自分が狩る側でいられるなんて思わないことです。……狼といいましたね。なら僕はその上をいく猛獣にでもなんでもなります。それで人々の平安が守れるのならっ」
「化け物を倒すなら自分も化け物に……ということか。ふふ……君は本当に面白い。……もし……」
 (ディールさんと会う前に、君に会っていたら僕はどうなっていたかな?)
 リーはあったかもしれない、ありえない未来を少し空想し、そして首を振った。
 『らしくない』
 初めての拮抗した戦いに、自分が狩られるかもしれない戦いの中で、リーの思考は混乱していたが、同時にどこか落ち着いていた。
 同居し得ない相反する感情――その状態に、まったく『らしくない』と彼もまた鼻で笑う。
「僕は、狼になれたことを後悔なんてしていない。これが本当の僕だ。人間であった退屈な日々になんて戻りたくはない!」
 追いつめられたことで、リーの心ははいつの間にか本気になっていた。
 先程までの相手をからかっている様な態度は微塵もない。
 それを感じたルーウィンも『らしくない』態度を改め、リーを静かに見据えてゆっくりと言う。
「あなたにも色々な事情があり、そうなっているんでしょう。最後に一度、聞いておきます。……人を襲わないと約束し、投降してください」
「……っ」
 (こいつは――なおもその様なことを言うのか)
 勇者のその言葉は、先程の凄まじい剣よりも切れ味があった。
 ブレてはいけない。
 少しでも相手に流されれば、狼でいられなくなる。
 リーは自分を信じていた。
 狼として生まれた自分を、誇りに思っていた。
 育ての親を躊躇なく食べられたことも――。
 自分を目覚めさせた男と出会えた運命にも――。
 彼は、彼なりに誠実で、実直とも言える誇りを持っていたのだ。
「――……僕は狼だ。だから、人を食べることはとても自然なことで、それを止めることはできないですね」
「……」
 そう返ってくるとは分かっていたルーウィンだったが、聞かずにはいられなかった。
 先程までとは違ったリー・ホランの折れない心を感じさせる眼を見ていると、聞かずにはいられなかったのだ。
 ゆっくりと折れた剣を狼に向けて構え、言った。
「あなたには感謝しています。僕はあなたを倒せばとても強くなれる。成長できるでしょう。……そう確信している。勇者として、強くならなければならない。……あなたには、これからの僕の試練のための踏み台となってもらいます」
「……ふふっ、あはははっ」
 ルーウィンの言葉に思わず、吹きだしてリーは笑った。
 踏み台とくるか――いつの間にか、狩る側の気分になっている相手に、何故だがリーは面白い気分になっていた。
 悪くはない。抗う位置というのも。
 ただ、貧弱な獲物を牙にかけるよりも面白いじゃないか。
 これ程追いつめらている非常時に、リーは仲間のヴィンセントの『強敵と戦いたい』という気持ちが理解することができていた。
 そのことが可笑しくて、どうにも笑いが止まらなくなってしまった。
「あははははっ。ははははっ……ははっ。いいね、いいよっ。こういうのも悪くはない。くく、ははは! そうか、僕は楽しく食事をしたかった! そう……ここ最近弱い奴ばかりで飽いていたんだよ。飽いて飽いて仕方がなかった! はははっ! 食べるまでさんざっぱら苦労して……そして君みたいな可愛いのをゆっくり、じっくり犯しながら食べることができたら、それは――」
 ――なんて幸せなことなのだろう――
 狼リー・ホランは恍惚な表情で大きな口元から大量のヨダレを垂らし、そして相手を見て言った。
「君は感謝していると言ったね。それは僕も同じだ。こんな『喜び』を君から学べるなんて……! 強い相手を蹂躙しながら食す喜びを! ふふふ、あはははははは!!」
「……あなたを王命により処分いたします」
 すぅ、とルーウィンの眼が細められ、赤眼がより一層深き真紅に染まっていく。
 ふふ、とリーはなおも笑い、体勢を低くしながら呟く。
「君と僕は似ている」
 (大きな『力』を自分の意思ではなく目覚めさせられ、それを自分の感情のまま振るうことに必死になっている。……違うのは立場と『使い方』くらいなものだ。君は気がついているのか? その自分の中の魔性に? 僕には分かる――)
「君は僕と同じだ」
 言ったリーの体が瞬時にブレる。
 狼の爪が勇者に向かって放たれ、そしてルーウィンも床を強く蹴り――
「僕はあなたとは違う!!」
 二つの鋼が再度、熱い火花を両者の間に咲かせた。






*******************






 魔法使いと剣士の戦いというのは、そう長引くものではない。
 いや、それはほとんどの場合、一瞬で決まってしまうと言っても過言ではない。
 たいていは勝負にならないのが常で、一方的なものであるとの見解が広く知られている。
 どちらが多くの場合、優勢であるか?
 それは言うまでもなく、魔法使いであろう。
 剣士と距離を保ち、強力な魔術を放てばいいだけ――と騎士見習いや、魔法使いの卵は思うからだ。
 その通り。それは間違いではない。
 だが、それはあくまで並の使い手同士の戦いの話であり、この賢者と黒騎士の死合いに当てはまることではなかった。
 両者の力はもはや、そのような次元には留まらず、距離感や剣士と魔法使いという、行使する力の違いをも超越していたのだ。
 剣が届くかなど、賢者セウロ・フォレストには関係がなかった。
 距離をとられ、賢者に詠唱に入られることなど、ゼス・ジールレイルには知ったことではなかった。
 相手の剣の切っ先が僅かに頬を掠めようとも、セウロは前進を止めず、詠唱を続けながら蹴りを放った。
 その蹴りを左腕で防ぎながらも、右手の黒剣に暴風の様な力を溜め続ける黒騎士ゼス。
 今やゼスの剣は、その力のすべてを解き放つ寸前の状態であった。
 ダークナイトとなった者が操れる禁呪の魔法剣であるそれは、セウロの最強魔法を凌ぐ程の力を秘めていた。
 エネルギーの源はゼス自身の魔力と、それを相乗効果で跳ね上げる禁呪による呪縛。
 ゼスが殺めた者達の無念と、絶望の感情を力に変える呪い。
 絶大な力を持った魔剣。
 その驚異には勿論、賢者も気がついている。
 (この、いつ放たれるかも分からぬはずの黒剣の力を前にして・・・・・・何故、こいつは……ここまで怯まずに前へと出られる!?)
 ゼスの戸惑いは、賢者の死を恐れぬ特攻と、猛攻にあった。
 どんな敵もこの剣の魔力を前に、動きと剣を鈍らせてきた。
 だというのに、この男は一体なんだというのだ――!
 (だが、倒せる……! この力を解き放てば、確実に賢者に防ぐ手立てはない……!)
 ゼスは勝機を確信しながらも、その力を解放できないでいた。
「はっ!」
 またも、セウロの放った蹴りをゼスは防いだ。
 魔術師のくせに、騎士である自分よりも切れのある蹴りをするな、と感心しながらゼスは受けた相手の足を後方に押し戻す。
 手数多く攻め続けてくる賢者の勢いに圧されて、剣の暴威を解放できないでいるのも一つの理由ではあった。
 だが、それ以上に――。
「……」
 ゼスは躊躇っていた。 
 溜め込んだ力が防がれるかと、危惧しているのではない。
 これを放てば、すべてが終わることを彼は確信しているし、確実にこの賢者を仕留められるだろう。
 (……終わるのだ)
 そう、終わってしまうのだ。
 このような楽しい戦いは、おそらく二度とはできない。
 ゼスを本気で止めようと考え、ここまで追いつめることができる者など、そういるはずもなく、この戦いの終わりがくるということは、その貴重な強者を失うことに他ならない。
 彼はこの戦いが終わることを――恐れていた。
 この戦いが終われば自分を止められる者は、もはや存在しないのではないか?
 今ここで闇の賢者を倒してしまえば、本当になにもかもが終わってしまうのではないか。
 (終わりなどとうに訪れている……)
 自嘲気味に心の中で呟いたゼスに、賢者は見透かした様に声をかけた。
「我と戦うことが、それ程に楽しいか?」
 にやりと笑って言った賢者に、ゼスは思わず動きを止め、セウロもそれに合わせて言葉を続けた。
「貴様はそのため込んだ力、一体いつになったら解放するのだ? 好機など今までいくらでもあっただろう? 我はわざと撃たせやすいようにさえしてやっているというのに」
「やはり、すでに気がついていたか。……しかし、何故そこまでして死を選ぶようなことを。これを使えば、本当にお前は死ぬぞ」
 自分でもおかしなことを言っているというのは理解していた。殺そうとしている相手の心配をしているのだから。
 しかし、そんなゼスをセウロは馬鹿にするでもなく真剣な眼差しで見据え、告げる。
「安心しろ。我は死なん。貴様を止めてやる」
 優しささえこもったセウロの言葉に、心動かされそうになるのを必死で留めて、黒騎士はゆらりと剣を後ろへと構えた。
 そして覚悟を決め、彼もまた真摯な瞳で言う。
「いや、悪かった。最後の最後に、どうしようもない我が儘をしてしまった」
「まったくだ」
 しばし二人無言のまま笑みを携えて見つめ合い、その後にセウロは大声で叫んだ。
「さあっ、こい!」
「いくぞおっ! 賢者ぁぁあ!」 
 黒騎士が応え、ついに最後の一撃を放つ。
 ゼス・ジールレイルの黒剣の暴威が彼の気合いと共に膨れ上がり、それは城の廊下と、階段に吹き荒れて、ごおおと大きな音をたてた。
 吹きすさぶ風に怯むことなく、相手を凝視し続けるセウロは、呪文の詠唱さえ始めてはいなかった。
 (馬鹿な……! 諦めたのか!?)
 不可解な賢者の行動に、ゼスは攻撃を止めたい衝動に駆られたが、もはや発動した黒剣は止まらない。
 剣から溢れ出る膨大な質量の力は、完全な破壊だけを目的とした暴威となって賢者へと襲いかかる。
 とてつもない速度と殺傷能力で、黒き風はすべてを無へと帰す呪文となり放たれたのだ。
「避けろおおおお!!」
 攻撃を仕掛けた張本人であるはずのゼスが叫んだ。
 彼はこのような帰結を求めてはいなかった。
 無抵抗な相手に全霊の力をもって殺めてしまうことなど、それはこの戦いの最後にはまったく相応しくはない。
 賢者はすべての力を使い果たし、自分に敗れなければならない。
 そうでなければ、彼の心は納得しないのだ。
「逃げはせんさ」
 ふっと不敵に笑ったセウロは、杖を掲げて言い放った。
「金剛十字結界(タリステレオン)っ!!」
 ぴんと張りつめた透明の線が四方へと走り、賢者の眼前に『何かが』生まれた。
 (あれは!?)
 ゼスの眼には見えていた。
 賢者を包む透明な壁の様なものが、自分の放った攻撃を止めたのを。
 迫り来る暴虐の黒風は、その透明の線をすべりながら、賢者へと向かっていったが、それが届くことはなかった。



「防御結界の呪文!?」
 ゼスは相手が何をしたのか、瞬時に見抜いていた。
 賢者が放ったのは、高位の魔術師だけが使用することができる『金剛十字結界(タリステレオン)』という最強の防御結界である。
 とてつもない魔力を消費する代わりに、賢者が使える魔法の中で一番強力である『腐死霊帝王爆砲(クロウ・ギルバリオン)』でさえも無効化できる魔法。
 だが、そのあまりの魔力消費量により、使える術者は少ない。
 並の魔術師が使用すれば、数秒で魔力が枯渇し、命を落とすこともあるとんでもなく燃費の悪い魔法だった。
 (そんな魔法を賢者といえど、詠唱せずに発現できるはずがっ……。……いや、詠唱はしていたではないか! 私と近接戦をしている最中、奴はずっと詠唱していたではないか! このためだったのか!)
 ばりぃんと高い音が響いた。
 セウロの前でガラスが割れる様に、一枚の透明の壁が黒い風に消し飛ばされた。
 絶対に破壊することができないと言われている最強の防御結界。
 それが今、その黒い風にたやすく打ち砕かれていた。
「だが、それでは防ぎきれんぞ!」
 ゼスの言う通り、黒風のとてつない破壊力を前に、タリステレオンは容易く崩れ落ち、賢者へとその牙を届かせ――ることはなかった。
「なっ……!?」
 漏れるゼスの呻きに、セウロはにやりと口元を歪めて嘲笑った。
「貴様が我との戦闘を楽しんでいる間に、仕込みはたくさん用意させてもらったぞ」
 黒き風は、またもセウロの眼前で透明な壁に押し留められ、やがてそれをも破壊するが、すぐに同じように止められてしまう。
「最強結界の重ねがけ……だと!?」
「その通り」
 セウロは不敵に答えた。
 賢者は『金剛十字結界(タリステレオン)』を時間の許す限り重ねて行使して、いつでも発現できるように整えていた。
 それも五回分もの、最強結界を。
 (魔法の重ねがけなど……その様な使い方などできるはずはない! 待機状態……魔術が発現していない間も膨大な魔力は消費され続けるはずだ! ……賢者とは、それほどまでに膨大な魔力を秘めているというのか!? いや、否! そんな人間がいるはずは……)
 驚愕し、眼前のことが信じられないゼスは、ただ自分の放った攻撃の威力がどんどんと弱まっていくところを眺めているしかなかった。
「悪いな。ゼス・ジールレイルよ。我は普通の魔術師ではない。一度は、魔王とも恐れられたことがある男だ。……狡猾で、残忍で、勝つためならばなんでもやる。……我はそういう男なのだ」
「く……! これ程の魔力をなぜ……! ありえん! ありえんぞ!」
 信じられないと頭を振り乱すゼスに、賢者は少し悲しげに言った。
「これは我の力ではない。『闇の賢者』の特性。……我は歴代の闇の賢者の『魔力』を引き継いでいるのだ。故に『闇の賢者』の魔力は無尽蔵。……これくらいのことは我にとっては造作もない」
「そんな……!」 
 激しい暴風の音と、いくつかの硝子の様なものが割れる音が響き、やがてそれに終わりが訪れる。
 (まったく、なんという威力だ。タリステレオンを四枚も破壊するとは……その様な術を持ちながら、何故このゼスという騎士は……)
 一体、なにに怯えている――。
「あっ……」
 すべての暗黒が闇の賢者の眼前で虚しくも霧散していく様を見届け、黒騎士はがくりと膝をついた。
「解呪(リ・スペル)」
 解呪の術で残りの結界を解いた賢者は、大きく息をついた。
 敵の最強の攻撃を防ぎはしたが、相手はまだ無傷で健在。
 戦いは終わってはいないはずだというのに、その両者に流れる空気は、もはや先程までの張り詰めたものではなかった。
 セウロは攻撃をただ防いだのではない。相手の自信という牙を叩き折ったのだ。
 それも、いとも簡単に。
 (おそらく今まで戦った中でも、最強と言っていい相手だっただろう。……だが、ゼス・ジールレイルよ。貴様では、うちのバランやレオドルフにも勝てんだろうさ。……どれだけ強大な力を手に入れようとも、迷いながら戦う心の弱い者は、決して強者にはなりえんのだから)
 今の技で魔力の大半を使ってしまい、同じ技は使用できないのだろう。そう、確信を得たセウロはゆっくりとゼスに歩み寄り、彼の前で同じように片膝をつけた。
 両者無言のまま、しばらくの時間そうしていたが、先に口を開いたゼスは絞り出す様に呟いた。
「……殺せっ……。もうっ……終わらせて……くれ!」
「……」
 ゆっくりとした動作でセウロは、その両の掌で相手の顔を包む様に持ち、顔を上げさせ目線を合わせる。
 どこか疲れきっていて大きな傷もある顔。
 セウロとはそこまで似てはいないが、その長い黒髪はよく似ていた。
 どこか自分に似た面影のあるこの男は、やはり、自分のもう一つの未来であったのだ。
 そう思ったセウロは言った。
「我と貴様は似ている。いや、貴様と我は同じだ」
 慈愛に満ちた眼差しの賢者の言葉を、ゼスは震えながら聞いた。
 恐怖ではない。
 この地獄から解放されることに、ゼスの精神は歓喜しているのだ。
 過去の己に向けられたそれらの言葉に偽りはなく、セウロは優しく言葉を続けた。
「我が終わりにしてやる。……もし、お前にやり残したことがあるのなら、我が成そう。……言うがいい」
「……感謝する。賢者セウロ・フォレスト。……ならば……白き髪の夜叉。斬首者D……ディールという男を……殺してくれ」
 斬首者……D。
「その男が貴様に、禁呪を?」
「ああ……奴は……悪魔! ……ぐっ……!?」
 突然、びくりとゼス・ジールレイルの体が大きく跳ね上がった。
 その勢いのまま、立ち上がったゼスは、なにかを言おうと口に手を当てるが、そこから突然、白い煙が上がり始めた。
 これは――!?
「なっ……!?」
 驚き立ち上がったセウロが、ゼスに手を伸ばそうとした瞬間、彼は叫ぶ。
「やめろ! 俺から離れろ!!」
 黒騎士の言葉が終わった瞬間。
 真っ赤な線が彼の鳩尾辺りから漏れ、ぼうっと音を立ててその線は赤い火炎となってその身を焼く。
「があああああああ!!!」
 ごおおと灼熱の炎が、黒騎士を中心に大きな火柱となった。
 (禁呪の術者との誓いを破った反動か――!?)
 賢者は思うやいなや、すぐさま呪文の詠唱を始めた。
「浄千水来(ウォークル)!」
 完成した呪文は発動し、賢者の目の前から大量の水飛沫があがる。
 それは洪水となり、黒騎士ゼスの脚をすくい、一瞬で彼を飲み込んだ。
 じゅわと、水分が蒸発して水蒸気があがり、またも賢者は解呪の術を唱えた。
「解呪(リ・スペル)っ。……おいっ! 貴様!」
 賢者が洪水の術を解いた瞬間、召喚された水は嘘の様に消えて無くなり、あとにはずぶずぶと煙をあげる黒騎士だけが横たわっていた。
 駆け寄ってすぐに仰向けにし、賢者の心はただ、純粋な悲しみに支配された。
「……ちくしょう……!」
 苦悶の表情のまま、顔の半分が焼け焦げた亡骸。
 片腕でそれを抱きながら、セウロ・フォレストはどうしようもない程に怒りを感じていた。
「貴様はっ……我に殺されなくてはならんっ……。だというのにっ……なんだこれはぁ!!」
 敵であろうと、味方であろうとこんな無残で無念な死に方があろうか。
 セウロは心に強く刻んだ。
 誇り高き騎士ゼス・ジールレイルと、彼を絶望の底に叩き落とした斬首者D……ディールという男の名を。
「貴様は……必ず我が仕留めてやる……!」
 セウロ・フォレストの強い決意が、人気のない城内に虚しく響き渡った。






*******************






 男は不敵な笑みをたたえていた。
 筋肉の塊の様な巨漢。
 バランも平均よりはだいぶと大柄な体躯をしているが、目の前の男はさらに大きい。
 どこか凄まじい目には見えない圧を放っているかの様な、そんな錯覚を感じる程の隆々とした肉体だった。
 (レオドルフ君よりも大きいんじゃないかね)
 ヴェインを奪還するため、兵隊ポコに案内された牢。
 そこで大男を目にとめた瞬間、バランは硬直した様に立ち止まり、男を凝視した。
「はぁっ、はぁ……あっ! バラン様!」
 隣でぜーぜーと息を切らせていたポコが、大男の後ろを指で指して叫んだ。
 何故、今まで気がつかなかったのか。
 バランは探し物を見つけた様に、はっと目を見開き、思わず叫んだ。
「ヴェイン!」
 巨漢のその背後には、魂の抜けた様な虚ろな表情で佇むヴェインの姿があった。
 少し痩せた様に見える顔に、深くなった目の下のくま。
 見た目には、それだけしか以前の彼と違うところない。
 視点定まらぬその目には、自分達が見えていない様にバランには思えた。
 得も言われぬ不安に駆られ、さらに大きな声で名を呼んだ。
「ヴェイン!」
「うるさいなバラン。……聞こえてるよ」
「……っ」
 思わぬ返答に言葉が詰まったバランは、向けられたヴェインの目と目が合った。
 ――戦慄。
 確かに彼の目は自分を映していた。
 だというのに、生ける者と視線を交えているというのに、これはどうしたことだ。
 まるで、目の前の相手を生きている人間だとは思えないのだ。
 そんなことあるはずが――バランには理解できなかった。
「ほ、本当にヴェインなのかね……?」
 これがあの実直でひたむきだった彼だとは、どうしてもバランには思えなかった。
 多少、捻くれはしていても妹想いの熱い少年。
 彼はそんな少年であるはずだった。
 しかし、目の前のヴェインは、たった一度視線を交えただけで、バランの中のヴェインとは別人の様に思えてしまった。
 それ程に、彼の目はひどく荒みきっていた。
 今まで生きてきてバランは、こんな目をした人間に出会ったことがなかった。
「――」
 それが、あのヴェイン。
 自分の弟子であるヴェイン。
 バランの頬に大粒の涙が流れた。
「ヴェイン……それ程までに『時の賢者』の知識は君を……」
「なにを勝手に憐れんだ目で見てるんだよバラン。別に今は……頭はすっきりしてるんだ。……いや、むしろひどく冴える感覚さえあるさ。それに俺は『何一つ後悔していない』」
 後悔していない。
 それは無関係な人間を殺めてしまったことか。
 それとも『時の賢者』をついでしまったこと自体か。
 バランはヴェインの隣でニヤニヤとしている大男を見やる。
「その男は何者かね? いや……そんなことはどうでもいい。ヴェイン、我輩達と来るのだ」
 ふぅ、と溜息をはいてヴェインは
「そして、また俺を閉じこめておくんだろう? 『時の賢者は』あんたらにとって大事なモンだもんなあ?」
 どこか冷めた口調で言うヴェインに対し、バランは汗が飛び散る程に、激しく首を横に振る。
「ヴェインっ。我輩はそんなものはどうだっていいっ。ただ君さえ取り戻せればそれでいい! 城の者からも必ず我輩が守ってやる!」
「……あんたは城の騎士だろ? 俺を連れ出してくれるのかよ?」
「ああっ。そうなってもいいとも!!」
 嘘偽りなきバランの言葉。
 後ろではポコが「ちょ、ちょっとバラン様っ?」と慌てふためいていた。
 バランはじっとヴェインの目を見つめ、諭すように言葉を続けた。
「一緒に行こうヴェイン。君は何も悪くはない。ただ『時の賢者』の業は普通の人間に背負えるものではないのだ」
「……どうして、そこまで俺にしてくれるんだ……?」
「なにを言う。君は我輩の弟子ではないか」
 世界に背を向けたヴェインにさえ、バランの言葉は重く深く心の奥底にまで届いた。
 心洗われるような真っ直ぐな言葉に、じんわりと暖かい何かに包まれる感覚。
 バランの持ち得る人徳であった。
 頷きかけたヴェインを、さっとヴィンセントの手が制した。
「はっはっはっ。待ちな『時の賢者』さんよ。別にこのおっさんの言うことを嘘だとは言わねえが、こいつは城のもんだろ? あんたを逃がせるのは俺達だけだぜ?」
 ヴィンセントは不敵に言った。
「……お前達なら俺を自由にできる保証は?」
「ヴェ、ヴェインっ!」
 自分の想いは届いていないのか――自分ではなく、謎の男の言葉に耳を貸すヴェインに、バランは戸惑った。
 ヴェインの問いに、うーんと少し考えた大男ヴィンセントは言う。
「保証なんてもんはねぇよ。ただ、この城の追手に追われるってーことは、相手はあの『闇の賢者』や将軍達だ。……そうなりゃ一緒に行くのは強い奴の方がいいよなあ?」
 ニヤリと髭の生えた頬を嫌らしく釣り上げて、ヴィンセントはヴェインを見た。
 相手の言わんとしていることを理解したヴェインは、ふっと鼻で笑った。
「なるほど。じゃあ、あんた達どっちか強い方と俺は逃げればいいわけだ」
「そういうことだ。がっはっは!」
「ヴェイン! 我輩を信じろ! その男はどこか得体が知れんっ」
 必死にヴェインを説得しようと声を張り上げるバランは、今すぐにでも彼に駆け寄り肩を掴みたかった。
 だが、それはできなかった。
 バランはそこから一歩も動くことができなかったのだ。
 目の前の大男の威圧感に圧され、両の足はびくともせず、嫌に冷たい汗が首筋と背中に滲んでいた。
 ずい、と一歩前へとヴィンセントが歩み出たことで、さらにその圧は強さを増した。
 そんなバランの心情を知ってか知らずか、男は豪傑笑いをして、バランに言い放つ。
「がははっ! 信じろか! そんな言葉がなによりも胡散臭く、信用できんだろが! 『時の賢者』を逃がせる者は強者のみ。てめえも『時の賢者』が欲しいなら、この俺から奪い獲ってみるんだな」
「名を訊こうか。……今さらだが城の者ではあるまい」
 問うバランに、ヴィンセントは拳を目の前でぐっと握り、膨れ上がる上腕三頭筋を見せつける様にして言った。
「無論。単なる侵入者だぜ? 名はヴィンセント・ノマアール」
「ヴィンセント……ノマアール?」
 (どこかで聞いた名のような気がするが……)
「我輩はバラン。バラン・ガラノフ・ド・ピエール。……そのヴィンセント・ノマアールが何故、ヴェインを欲しがる? 『時の賢者』の知識を狙う悪党か?」
「がははっ! 悪党ときたか! 俺達はてめえら国の連中と違って、賢者を利用しようなんて考えてねえよ。自由を与える分、俺達の方がよっぽどこの賢者様のためになるってもんだ!」
「……」
 バランが即座に反論できなかったのは、国の性質と体制を理解していたからだ。
 だが、自分は違うとバランは首を振った。
 国の利やなによりも、バランはヴェインに救いを与えたいのだ。
「約束するヴェイン! 我輩が必ず君とシフィを救ってみせると!」
 シフィ、という名がヴェインの耳に届いた瞬間。
 彼はぴくりと眉を僅かに動かしただけだった。
 ただ、それだけだった。
「がたがたとうるせぇな! 正義と真実とは強者が勝ち取るものだ! そんなに賢者様を助けてぇってーなら、このヴィンセント・ノマアール様を倒してからにしやがれ!!」
「……我輩が勝ったらヴェインを渡してくれるんだな?」
「ああ。勿論だバラン治安騎士団団長殿。またの名を『雷神のバラン』っつったっけな? はっはっは大仰な二つ名もあったもんだぜ」
「……」
 バランは小声で後ろのポコに声をかける。
「ポコ。君のその腰の剣を少しの間、貸してくれんか」
「え……? か、構わないですけど……」
 ポコは今まで一度も実戦で使ったことのない新品同様の剣を鞘ごとバランに手渡した。
 受け取り剣を抜き放ったバランは、神妙な面持ちでポコに伝える。
「君はセウロ殿を探せ。おそらく王の間にいるだろう。……我輩はこいつをここで食い止める」
「……っ」
 バランのあまりの真剣な面持ちに思わず、ごくりと喉を鳴らしたポコは今そこでやっと気がついた。
 あの王都最強の剣士と呼ばれたバランに、全く余裕が感じられないことに。
 額には大粒の汗がいくつも浮かび、呼吸は荒く、ポコと話しつつも常に相手から視線を外してはいない。
 それ程の相手なのか。
 バランは言った。食い止めると――倒せる確信の持てない程の強敵なのだ。
 ポコはここに自分がいても役にはたてないと悟り、「わかりました」とだけ言い、牢から駆け出した。
「うーん。度胸はないが、なかなか賢いではないかね。優秀だ」
 走り行くポコの物わかりの良さにバランは感心して、剣を前方へと向けた。
 先には今だ不敵な笑みを浮かべているヴィンセント・ノマアールがいる。
「剣士か。がっはっは! 手玉だぜぇ」
 そう言い、両手をぶらぶらと、準備運動の様に振るヴィンセント。
「……武器を持たぬ相手には我輩は挑まんよ。さあ、武器を構えたまえ」
 言うバランに、両の拳をがんっと胸の前で打ち合わせて、ヴィンセントは高らかに言う。
「俺の武器はこの拳のみよっ! 俺はこの手こそが最強の武器であると同時に、防具だと思っている」
「武道家か。ならば、我輩も遠慮はいらんな。……手の一本、二本は悪く思わんでくれたまえよヴィンセントとやら」
 そう言って剣を両手で持って、ゆらりと上段に構えたバランは静かに息を吐いた。
 気を静めて、目の前の相手の隙を探る。
 目ではなく、感覚的な空間の揺らぎの様なものを掴み、相手の虚を探る剣豪が持ち得る技だ。
「――――」
 場内の張りつめた空気と、重苦しい圧力。
 静かに目を閉じたバランは、それと同時に呼吸を止めた。
 ヴィンセントの放つ息が詰まる程の重圧――それらすべてをその身で受け流し、相手の気配の動きを探った。
「……面白ぇ。まるで隙が無くなったな」
 にやりと笑ったヴィンセントは何を思ったか、上半身に纏っていた薄手の衣服を両手で引き裂いて、半裸になった。
「戦士として戦うには、同じ格好でないといけねぇやっ!」
 同じく半裸のバランは、その相手の様子でヴィンセントの気質を理解した。
「戦うことを生き甲斐としているタイプかね?」
「戦いこそが俺の生きる意味。……なんだ嫌いかよ?」
「いや……嫌いではないとも!」
 そう威勢よく答えたバランに気を良くしたのか、ヴィンセントは大きく笑い声をあげる。
「がっはっは! てめぇもそうだなバラン! だったら初めから四の五の言わずに、やりあえばいいんだよ! おらぁっ、さっさとかかってきやがれ!!」
「いくぞ! ヴィンセント!」
 雷神と呼ばれるが所以。
 それはその流れる様な動きと、雷の様な速度で放たれる剣戟からきていた。
 足が速いわけではない。
 剣の打ち込みが、人間離れしているわけではない。
 いや、勿論その両方とも達人の域に達してはいるが、なによりもバランが強い理由は、そんなことではない。
「おおおっ!」
 気合いと共に、ヴィンセントへと向かったバランの剣は、間合いの僅か外側からヴィンセントに届かぬところで綺麗に空振った。
ヴィンセントは一瞬、真冬に鉄の棒を当てられたような、ぞくりとした寒気を背中に感じた。
 それは瞬きの一瞬の間の出来事であり、おそらく第三者がその攻防を見ていたとしても理解できなかっただろう。
 バランの相手を魅せて化かす剣は、剣の道を極めようと果てを見据えている者にしか理解できない極地だからだ。
 僅かな違和感を感じたヴィンセントだが、相手の剣は間合いの一歩先。
 それをやり過ごしてから、拳をバランの胴に打ち込めばいい。
 ただ、それだけのことだ――物事を単純にしか考えられないヴィンセントには、その剣のからくりは読めなかった。
 剣が空振った後にすぐに拳をぶちあててやるぜ、胸中で呟き腕に力をこめた。
 剣が、空振ってから、しかし、それは、いつ――妙な減速感を思考の内に感じていたヴィンセントはそのバランの素早い剣戟を何故だが、時が止まった様に眺めているほかなかった。
 そして、不可思議なことに引き寄せられるかの様に、自分の腕がその剣先へと伸びていく。
「!」
 気がついた時には、もう自分の右腕がバランの剣を手首で受けてしまっていた。
 右腕の一本くらいは覚悟してくれたまえ――そう言ったバランは言葉の通り、真っ先に敵の腕を狙いにきていた。
 にやりと笑ったバランだったが、すぐにその笑みは消え失せた。
 ばきんという鉄の砕ける音。
 高い音を響かせて石の床に落ちたのは、半ばより折られたバランの剣。
「なっ……!?」
 声をあげたバランは刹那、足に力をこめて、ヴィンセントと間をとろうとする。
 この男との近接戦は――どうしてだかヤバイと、そう直感していた。
 ここまで、ほんの僅か一秒にさえも満たない間の攻防だった。
 どうしてバランの剣を受けてしまったのか、全く理解できないでいたヴィンセント。
 普通の戦士ならば不可解な攻撃に体を強張らせ、隙を生んでしまうはずだった。
 しかし、彼は分からないことは『考えない』タイプの男だった。
 故にバランのあまりにも素早いヒットアンドアウェイに対応することができた。
 相手の剣が折れたのを確認するやいなや、突きだしていた手とは逆の左手をバランへと『噴出』させた。
 『噴出』――それはそう形容することが最もな拳だっただろう。
 ぼんっと大砲を撃った程の衝撃音と振動が起こり、バランはまずその空気圧に体を浮かされた。
 そこに凄まじい衝撃が胴へと放たれた。
「っっっ……!!」
 胃からせり上がる大量の血液を口から吐き出しながら、バランは宙を舞い、すぐに天井近い壁に激突した。
 人間の体がこんな不自然な飛び方をするだろうかと、バランは妙に落ち着いた思考でそう考えて、逆さまになった相手を見ていた。
 シュウシュウと煙をあげているヴィンセントの拳。
 どれ程の速度で拳を放てば、そんな現象が起こる。
 そもそも自分は奴の腕を剣で捉えたはずではなかったか――自分の体が壁から剥がれて、無抵抗なまま地面へと落ちている最中、バランはあまりにも非現実的な出来事を整理し、理解しようと必死だった。
「死んだか」
 ふぅと息を吐いてからそう言ったヴィンセントは、すぐに後ろのヴェインへと振り向いて言う。
「王都最強の剣士がこの程度か。はっ。どうやら賢者様を救えるのは俺達だけみたいだぜ?」
 無表情なままボロ雑巾に成り果てたバランを眺めているヴェインは言葉を返さない。
 ヴェインは何も感情が湧いてこない自分が不思議だった。
 師であったバランが、ああなってしまっているのは自分のせいであるというのに、罪悪感すら湧かず、ただ眺めていた。
 いつからかヴェインの感情は制止し、物事を客観的にしか見られない様になっていた。
「……まだ終わっては……いない……」
 そう言葉を発したのはヴェインではない。
「ほう……」
 唇をいやらしく吊り上げて笑ったヴィンセントは、殺したはずの相手へと向き直った。
 満身創痍な体に鞭を打ち、よろよろと立ち上がったバランは、ぜーぜーと肩で大きく息をしながら言い放つ。
「ヴェインはっ……はっ……はっ……わ、たさないっ……!」
「元気な野郎だなっ。今まで俺の拳を鎧なしの生身で受けて生きていた奴はいないぜ。すげぇえな」
「頑丈……さが、取り柄なのでな……」
「がっはっは! さっきの訳のわかんねー剣といい、てめえはなかなか面白い奴だ! 気に入った!」
 大袈裟に肩を揺らしながら笑ったヴィンセントは、とても嬉しそうに両の拳をがんがんと打ち鳴らして、言葉を続ける。
「てめぇは生かしてやる! 俺を倒せるくらいに強くなったらまた戦いにきやがれ!」
 一瞬、相手の言葉にぽかんとしたバランは、すぐに奥歯を砕ける程に噛んで声を張り上げた。
「ふざ、けるなっ!! 我輩の命などくれてやる! ヴェインは渡さん! かかってきたまえ!」
 折れた剣を相手へと向けるバラン。
 かかってこいと、そう言ったのはバランの足がもう一歩も前へ進むことができなかったからだ。
 片足の骨は砕け、おそらく左手とあばら、肩の骨も折れているなとバランは感じていたが、最初の出血以降血を吐かないところをみると、内臓は奇跡的に無事だったらしい。
 しかし、相手へと攻撃ができないことに変わりはなく、バランは相手をただ挑発することしかできない。
「君の拳では……はぁ……わ、我輩を倒すことは、できん……!」
「へっ。やめとけよバランよぉ。てめぇは俺に生かされるべきだ。そしてまた面白い戦いをしようじゃねぇか。なあ?」
 まるで、友人にでも話しかける様な雰囲気で言うヴィンセントに、もはや殺気はなかった。
 そのことが、またバランの気を急かせた。
「我輩はっ……負けてはいない!! ヴェイン!! 今すぐ……助けて……や、る」
 ヴェインの表情は変わらない。
 ただ風景を眺めているかの様な眼。
 そこに事象は映せど、感慨はない。
 剣を構え直して、自分を睨みつけるバランの闘志に僅かに圧されて、ヴィンセントは諦めた様に息を吐いて言った。
「やれやれ……。わかったよ。てめぇくらいに面白いのはそうそうお目にかかれないんでな。……ちょいと渋っちまったぜ!」
 言葉の最後で体勢を低くして、一気にバランへと詰め寄るヴィンセント。
 右手の拳を後ろへと引きながら、全身に力をこめているのがバランにも分かった。
 おそらく先程の一撃よりも、溜めがある分、威力は高いだろう。
 あの拳を避けることは――不可能。
 バランは一撃を受けただけで、そう確信していた。
 ヴィンセントの拳はあまりにも速過ぎた。
 あんなにも早い拳、いや、攻撃をバランは見たことがなかった。
 初速から打ち込まれるまでが、完璧とも言える程の無敵の拳。
 そう。あれは無敵だ。
 あの拳が放たれる時の、風圧により自分の体は自由が利かないだろう。
 ましてや、今は体のダメージでふんばりが余計に利かないのだ。
 攻撃と防御の両方を同時に成しえている時点で、対剣士においては無敵と言っても過言ではない。
 (それよりも……剣が通らずに、へし折られた謎が解けていない。あれは一体……?)
 ヴィンセントの腕は太いとはいえ、普通の腕にしか見えない。
 だというのにバランの剣は容易く砕けた。
 まるで岩に剣を振り下ろしたかの様な感触だけが手に残った。
 (考えてもしかたない。今は……やるだけだ!)
 勝てる見込みのないバランだったが、口元は笑っていた。
 確かに、敵は強い。
 だが――。
「ぐおおりゃあああああ!!!!」
 ヴィンセントの獣の様な咆哮。
 お互いの間合いが先程と同じくらいまでに接近した時、バランは最後の力を振り絞った。
「とあぁっ!」
 折れた剣を相手に向けただけでバランはそのまま固まった。
 いや、その様に見えた。
 拳を繰り出そうとしたヴィンセントは、またもバランから妙な感覚を感じたのだ。
 バランの剣がいつまで経っても振られない――いや、それは振られた後なのか?
 自身の体に妙な減速感を感じつつ、ヴィンセントは先程と同じ様に、何も考えないで拳を放――
「!」
 ――てなかった。
 ヴィンセントはまず初めに、なんだこれは、と感じた。
 失ったのは距離感と時間の感覚。
 バランまでの距離はあと僅か、腕が届く程の距離であったはず。だというのに、バランの姿はまだ遠く、詰めたはずの距離は振り出しに戻っていた。
 ただ眼を瞑り、折れた剣を片手でこちらへと向けているバラン。
 今この瞬間、どれだけの時間が経っているのかヴィンセントには分からなかった。
 バランの剣には何か得体の知れないものがあることだけは理解できた。
「……っ」
 ヴィンセントは息を呑んだ。
 よく見るとバランの剣はゆっくりと下へと動いていた。
 本当に僅かな動きで下へと動いている。
 (錯覚か? 幻覚? 魔術? なんだ、この化かされている様な……妙な感覚は!?)
 少しの困惑。
 それはヴィンセントがこの戦いで初めて見せた迷い。
 つまり、隙であった。
「ぐおおおおっ!!」
 突然、ヴィンセントの脇腹に熱い痛みが奔った。
 視線を下げるとそこには自身の腹に突き刺さる折れた剣。
 その腕の先に、にやりと笑っているバランの姿があった。
「ば、馬鹿な……!? さっきまであそこに!?」
「我輩は……なにもしとらんよ。……単に君が感じているであろう間合いを想像し、虚をついただけのことだ」
「……ぐっ。こ、呼吸を読んだのか?」
「ああ。おそらく君はあの強烈な攻撃の際に、筋肉で体を硬質化させているのだろう。……どうやっているかは分からんが、でないとあの大砲の様な衝撃に自分の腕が耐えられるはずはないからな」
「へへっ……だから、力が抜けた時に攻撃するしかないと思って、隙を探ったわけか……。しかし、どうも分からねぇ。どうして、てめえとの距離感や時間が狂わされちまったのか」
 腕に力をこめてヴィンセントに剣をねじ込ませようとするが、もはや力が入らなかった。
 なんだか可笑しくなって、ふふと笑い、バランは諦めて相手の言葉に応えた。
「経験がないかね? つまらない本や音楽でやたらと時間が長く感じたことは? 疲れている時は、いつもの帰路がやけに遠く感じたことは? 圧倒的な敵を前に妙に時間を長く感じたことは? ……我輩はそれに似た様なことやっただけだ」
「…………」
 まるで、なんともない風に言ってのけたバランに、ヴィンセントは間抜けなくらいに口を大きく開けた。
 それは彼が今までの人生で、二番目に感じた程の衝撃だった。
 一番は、あの夜叉との出会いだが、今はそれは置いておく。
 ヴィンセントはもう一度、バランの言葉を頭で反芻した。
 (そんなことで、剣士が間合いや時間を操れるか!?)
 ヴィンセントは、ただただ驚いていた。
 どんな『技』も相手にその方法が理解できずに行使されるならば、その理解できない相手にとってそれは『魔法』でしかない。
 バランはその『技』を剣の道の果ての境地で修得したのだろう。
 しかし、その技を受けたヴィンセントには理解できていた。
 (こいつの……これは――『魔法』だ……。本人は気がついてねぇ……剣で相手の呼吸を読み、虚をつく『技』。そのプロセスになんらかの魔術を行使してしまっているんだ。……いや、実際に『魔法』かどうかは魔術師でない俺には分からねぇ……。だが、そのプロセスが理解できずに、攻撃を受けてしまう敵にとって、それは『魔法』でしかない。訳が分からない催眠術みてぇなもんなんだからな)
 ヴィンセントはそう思いながら、剣を持っているバランの手が離れたことに気がついた。
 どさり、と音をたてて崩れ落ちたバランは、もはや意識を失っていた。
 死んではいなかった。
 すべての力を使い果たし、意識を失ったのだ。
「……まったく……すげえぇもん見せてくれるぜ……」
 倒れたバランを難しい顔で見ながらヴィンセントはそう言い、腹に力をこめた。
 強靭な筋肉がごりゅごりゅと生々しい音をたてながら動く。
 やがて、ぶしゅうと音をたて、ヴィンセントの脇腹から折れた剣が弾きだされて床に落ちた。
 バランの攻撃でできた深い刺し傷は、剣が抜けたと同時に塞がっていた。
「しかも俺の能力までも、ほとんど見抜いちまうとはな……」
 改めてヴィンセントは目の前で倒れているバラン・ガラノフ・ド・ピエールを気に入った。
「てめぇは、いつかまた俺を楽しませてくれるだろうな」
「殺さないのか?」
 そう声をかけたのはヴィンセントの近くまで歩み寄ってきたヴェインだった。
 もう戦いが終わり、この男が自分を逃すのだと判断していた。
 倒れたバランに向けているのは感情の感じられない眼だけで、そこには何の同情の色もない。
「ああ。俺はこいつを気に入った。だから殺さねぇ」
「後々、追っかけてきて面倒になるぞ。今、殺しておくべきだ」
 そう返すヴェインにヴィンセントは不思議に思った。
 この『時の賢者』の冷徹な言葉はどこか、あのディールを思いださせた。
「あんたこいつの弟子だったんだろ?」
「だからなんだ? 俺が欲しいのは自由と真実だ。それをこの男はくれない。だったら用はないだろ?」
「……」
 『時の賢者』となった者はそうなってしまうのか。
 どこか諦めにも似た感情をヴィンセントは感じた。
 それでも、目の前のヴェインの目に知性を感じ、傀儡ではないと理解はしていた。
 しかし、同時にヴィンセントはこの『時の賢者』と、真に分かり合うことは無理だと悟った。
「まあいい。確かに、俺らはあんたに自由をくれてやるさ。……さあ、行こうぜ『時の賢者』さんよ」
 そう言い歩きだしたヴィンセント。
 ヴェインは倒れているバランにはもう目を向けることなく、ただ着いて行った。
「……ヴェインでいい」
「あいよ。ヴェイン。外で俺らの仲間が待ってる。あとは俺らの大将と話してくれ」
「大将……お前らのボスは何者なんだ?」
 問うヴェインは今さらだが、この目の前の大男ヴィンセントが何者かさえ知らないことに気がついた。
 もはやヴェインには興味というものがなかった。
 ただ、目の前で起こる現象さえ、どこか遠い場所で起こっているかの様な錯覚があり、どうでもよかった。
 バランが死にかけ、見知らぬ男と城から逃げようとしている。
 今までのすべてを捨て、何もかもがどうでもよくなって、逃げ出そうとしている。
「……」
 不意に耳に微かな少女の声が聴こえた気がした。
 自分の名を呼んでいる。
「おい……ヴェインよ。聴いてんのか? ……あんたが俺達が何者か聴いているから説明してんだぜ?」
 訝しそうにこちらを見てくるヴィンセントに、ヴェインは首を振りながら応えた。
「続けてくれ」
「……俺達はな、ディールの旦那に集った。ディールの旦那には目的がある。その目的のためにヴェイン。あんたが必要なんだ」
「集ったって……なんだよそりゃ。なんで、あんたらはそいつのところに? 目的? なんだ、結局、俺を利用したいだけか、あんたらも」
 ヴェインの足が止まりかけるのを見て、ヴィンセントは言葉を付け加える。
「自由と真実だろ? あんたの目的は。だったら、ディールの旦那の話をとりあえず聞いてみるんだな」
「……」
 そう言われてしまえば、今のヴェインにとってその男の話を聞く以外に選択肢はなかった。
 彼に着いて行かねば、城でただ『時の賢者』として自由のない生き方を強要される。
 それは間違いない。
 いきなり牢に閉じ込めておくような連中の言うことなど信用できるはずがない。
 ジンジャライのとった措置は、確かにヴェインの心を落ち着かせたが、しかし同時に拭いようのない不信感を与えたのも事実だった。
「まあ、なんにせよだ。これから、この世界の真実を見つけに、俺らと旅を共にするんだよヴェイン」
 首だけ振り向いて笑ってそう告げられたヴェインは、どこかその言葉で納得していた。
 そうだ――俺は世界の真実を探さなくて。
 これは運命だ。この男達と行くのは――おそらく運命だ。
 俺が探す。
 俺にしかできない。
 俺だけの。
 いつだって、なにも分からない世の中で。
 強くなれば、どうにかなるって思っていた。
 妹を守れる。
 親を殺したあの男の様な奴が現れても、俺が守ってやれる。
 そして――あいつと。
 ヴェインの頭に靄がかかる。
 うまくルーウィンの顔が思い出せないのだ。
 俺は、あいつと――。
 一体、どうしたかったのか。
 世界の事象すべてを手に入れた俺にとって、ルーウィンとの想い出なんて空蝉に過ぎない。
 あんなもの、なんの役にもたたない。
 あの時、幸せだった?
 あの時の俺達の友情?
 愛?
 そんなもの何の役にたつ?
 全部、殺されたら終わり。
 全部、燃やされたら終わり。
 全部、穢されたら終わり。
 なにも、なにも、なにも、意味はない。
 手に入れるべきは、真実だ。
 この世の真実。
 失うだけのこの世界の理の先に何があるのか。
 意味を、意味を。
 屈託のない笑顔で自分に笑いかけるルーウィンの幻像を、黒い感情で塗りつぶして消してやる。
 こんなものに、意味はない。
 好きだとか、そんなものは、なんの意味もなくなってしまうんだ!
 この世界で、人を殺した自分はもう許されない。
 ルーウィンとは、以前の様な関係にはもう、たったそれだけのことで戻ることができない。
 人が人を殺した。
 それだけのことで戻れなくなってしまう。
 なんて脆い日常。
 この歴史の中でどれだけの人間が意味もなく殺されている?
 俺が殺した?
 誰を殺した?
「……おい、ヴェイン」
「っ」
 唐突に思考の中に割り込んできた声に、はっとなって我に返ったヴェイン。
 目の前に広がるのは先程までの城内ではなく、青く澄み渡る空と平原。
 またも訝しげな表情で佇んでいるヴィンセント・ノマアールがいた。
「着いたぜヴェイン。……が、今はちょっと取り込み中みてぇだな」
 そう言って、顎を前方へと動かしたヴィンセント。
 そちらに目を向けたヴェインは、僅かな痺れを脳に感じた。
「……っ!?」
 ナンダコレハ。
 ヴェインの脳の索引は自動的に凄まじい速さで駆け巡った。
 目の前の現象に解を得る『時の賢者』の能力。それを今のヴェインは自分で制御することはできない。
 頭の中で浮かぶ凄まじい語句に目を回しながらも、なんとか眼前を凝視する。
 死体。死体。死体
 詰みあがっている城の兵の死体は、優に五十は超える。
 緑の平原を赤く染める死体の山の前に、黒く巨大な怪物が僅かに残った兵達と戦っていた。
 いや、それは戦いなどではなかった。
 戦意喪失し、逃げ惑う兵を怪物がなぶっていた。
 その黒く巨大な生物は――生物というには禍々し過ぎた。
 真っ赤な目と、引き裂かれる程に広がった口。
 その両端からは、仕舞うことができないであろう大きな牙が生えている。
 凶悪な肉食獣の様な顔、と言ってしまっていいか判断に迷う程に、邪悪な面相。
 その胴体は真っ黒な毛で覆われ、図太い腕の先に鋭利な爪が伸びていた。
 さらに、よく見ると背中には黒い羽が生えていた。
「魔王……」
 言って、隣でヴィンセントが鼻で笑った。
「はっ。『時の賢者』さんの割には月並みな感想だな。だが、まあ……そんなもんか」
「なんなんだあれは……」
 からかう様なヴィンセントの言葉にはのらず、ただ問う。
 ヴェインの『時の賢者』の知識を総動員しても、目の前の現象の解答が得られなかったのだ。
「あれか? あれがうちの大将。ディールの旦那だよ」
「なっ!?」
「がっはっは! 驚くのも無理はねぇな。だが、まあ安心しな。普段は普通の人間さ。あれは……まあ、なんつーか……そう、魔法で化けてるみたいなもんさ」
「……そんなことが」
 ヴェインは改めて目の前の悪魔に目をやった。
 泣き叫んで命乞いをする兵を鎧ごと食いちぎり、ぺっと死体の山へと吐き出していた。
「ひ、ひぃぃっ」
 残り最後の兵が、断末魔をあげて魔王の拳で叩きつぶされた。
 べちゃりと、どこか水を撒き散らした様な音がした。
 化け物はその死骸も、後ろの死体の山へと積み上げる。
 まったく相手にもならなかったのか、魔王には傷一つない。
 ヴェインは妙なものを感じた。
 何故こんな城から少し離れただけの場所で兵が惨殺されている?
 城に兵の気配が少なかったのは、こいつらにここまで誘き出されていたからか?
 しかし、セウロやルーウィンはどうしている?
 様々なことが頭で駆け巡っていたヴェインだったが、すぐに考えるのを止めた。
 魔王が自分を見ていた。
 じっと、観察するかの様に自分を見ていたのだ。
「――」
 真っ赤な大きな瞳に、自分の姿が映しだされていた。
 あんなにも簡単に人間を殺していた魔物だというのに――何故だろう。
 不思議と怖くはなかった。
「『時の賢者』を連れてきたのかヴィンセント」
 魔王の口が僅かに動き、くぐもった声が発せられた。
「旦那。仕事は上手くいったようですが……ここにリーとゼスの野郎がいねぇとなると」
「ああ。奴らは死んだか。……まあ問題はない。奴らにとっては所詮は遊興。最後の最後まで大いに楽しみ、苦しみ、死んだだろう。……奴らが死ぬに相応しい相手との戦いだ。恨みはあれど、悔いはなかろう」
「へっへ。冷たいねぇ。……まあ、俺も十分に楽しませてもらったし、旦那の役にたてりゃそれでいいさ」
「ご苦労だったなヴィンセント」
 ヴィンセントとの会話を切り上げ、ディールは巨体を揺らしながら、呆然としているヴェインへと近づいた。
 (ついに……ついに『時の賢者』を我が手に)
 ディールは求めていた『時の賢者』との邂逅を果たした。
 一度目は殺し、二度目は瞳の奥から。
 そして、三度目の再会――ディールは久方ぶりに、自身の胸の鼓動が高鳴っているのを感じていた。
 (歓喜しているのか。ついに。この俺の存在の意味を知るために……世界の扉を開く鍵を手に入れたのだ)
 心の中で自分に問いかけながら、ディールはヴェインを見つめていた。
 手が触れられる程にまで近づいた両者。
 その禍々しい姿を眼前にし、ヴェインは先程と同じ言葉を反芻した。
「魔王……」
「魔王? それは俺の追い求めし者だ。お前はそれをこれから俺と探すのだ」
「何故?」
「知りたいのだろう? 自分が何者なのか。どうして自分だけが、そんな目に遭っているのか。お前も俺も理不尽によってすべてを奪われた」
 お前も俺も理不尽によってすべてを奪われた――ディールの言葉はヴェインの脳裏に、あの『緋色髪の男』によって殺された両親の姿が浮かんだ。
 爆ぜる火炎。揺らめく燃える木々の中で、緋色の長い髪をなびかせて血に濡れた手をシフィに向ける男。
 (やめろ――)
 彼女の首を絞めて、げらげらと笑い声をあげる『緋色髪の男』。
 (やめてくれっ――)
 呪いの記憶は止まらない。
 シフィを助け出そうと、足を動かそうにも、崩れた馬車に挟まれて動くことができない幼いヴェイン。
 頭からは血を流し、頬を涙で濡らして首を振り乱しながら叫んだ。
 (やめてっ……! 助けてっ、お父さんっ……お母さん……)
 両親の亡骸を目の前にしながら、幼いヴェインはただ叫ぶしかなかった。
 ――そこから、どうなったのか。
 何故、自分達は生きているのか。
 ヴェインには分からなかった。
 しかし、シフィは『緋色髪の男』によって歩くことを奪われ、その暴力による後遺症で病に伏せた。
 ヴェインとシフィは、たった一人の男の手によって、すべてを奪われたのだ。
 そんな自分と同じ理不尽に、この魔王も遭ったというのか。
「その理不尽とはなんだ?」
 怪物の姿のディールの言葉により、ヴェインは現実へと引き戻される。
「理不尽は……暴力、略奪……この世の悪だ」
 ヴェインは答えた。
 『時の賢者』の知識で得た世界の黒い歴史。
 その中で彼は、嫌というほどの暴力や、略奪を見た。
 それら人間の悪性は、まったくどうしようもない程に無尽蔵に湧いては、世界を穢していく。
「然り。しかし、それらは、すべて人間が生んだものなのか? ……いや、そうではない。そうではないぞヴェイン。この世の悪には、人間達自身が生んだものよりも遥かに悪性の強いものがある」
「人間が生んだ悪、それ以上の悪が?」
「ああ。どうしようもない悲劇は、どうしようもない存在の魔物によって引き起こされるだろう?……人間とは相容れぬ存在。人類の敵……そして、この俺の体がそうだ。俺自身の意思ではない。地獄の中で、俺に与えられた力だ。魔物を生んだのが魔王だというなら、この俺にこの力を授けたのも魔王だろう。しかし……魔王は何故、そんなことをするのか? 魔王にとって、人類とは何なのか?」
「……」
 ヴェインには分からなかった。
 確かに、魔物の脅威はここ数年で日に日に増し、王都の近隣の町や村で被害は多くなっている。
 だが、それは悪なのだろうか。
 知恵を人間程までに持たない魔物達に、私利私欲のために略奪をする様な人間以上の悪を感じることはできなかった。
「分からないのかヴェイン」
「ああ、どうしてそれが人間以上の悪だと?」
 問うヴェインに、喉の奥で静かに笑ったディールは言う。
「そもそも、魔物の存在そのものが悪なのだ。人類に敵がいる。それだけのことで、人は怯え、保身しか考えられなくなる。誰もが幸せになれない元凶は『敵』そのものだ。知性がなく、話すらもできず、どこからきたのか、何者なのかすら分からない。そして、いるか定かではないにしろ、魔王という存在までもが、人々の平安を脅かす。……存在そのものが悪なのだ。『敵』――こいつらが、人々の悪性を最大限に引き上げるのだ」
「だったら……俺の不幸もすべては、魔王のせいだっていうのか? そんな馬鹿なことが……」
「馬鹿なことではない。謎の伝染病と、正体不明の魔物達……それらがいるから人々は恐怖する。信仰や勇者にすがる。そして、すがっても幸せになれなかった者が悪となるのだ。……悪行を行う者は、何かが欠如している。……単純に生きる糧である食料。もしくは心だ。……生きる希望とでも言えば分かり易いか? 心の隙間に入ってくる不安が、悪をしでかすのだ。――人々を脅かす存在そのものの元凶を辿れ、それを作ったものと謁見しろ。そうすれば、貴様の存在そのものの意味と、世界の理を理解できよう」
「……」
 このディールという男は、囚われているなとヴェインは思った。
 世界の邪悪のすべて、どうしようもない不幸にしか目を向けられず、それらの意味を解き明かそうと躍起になっている。
 すべての悪の根源である魔王という存在――それに謁見さえすれば、なにもかもが解かると――だが、それは。
「狂気の沙汰だ。そして、それが分かったから……なんだっていうんだ。失ったものは……帰ってこない」
「ならば、乗り越えろ。人は強くなれる。だが、意味の解からない不幸を、理不尽を許すことができるのか? お前は忘れることができるのか? ……普通の人間ならば、折り合いをつけて生きていけるだろう。――だがっ!!!」
 怪物の目が見開かれ、咆哮する様に言葉が発っせられる。
「俺達は違う!! どの不幸とも比べられぬ!! 俺達だけの災厄ではないか! 誰にも理解されない! 俺達の悲しみが、真に理解できるものがいるか!? いや、いるわけがない! 『時の賢者』となった貴様の理不尽な苦しみは、貴様が乗り越えなくてはならないのだ! ならば、なぜ『時の賢者』になったのか、そもそも何故そんなものが存在しているのか、それを解き明かさなければ乗り越えることはできん!」
「魔王と会えば……賢者の意味が分かるのか」
「ああ。間違いない。魔王はその昔、賢者達に封じられたのだ。魔王に謁見するということは、世界のすべてを知るということだ。……お前の『時の賢者』の知識はそれをもって、完成するのだ。すべての時の知識を集めることも『時の賢者』の使命であると聞く。……ヴェイン。お前は元より俺達と来る運命にあるのだ。……たとえ、世界や勇者を敵にまわしてもな」
 お前は忘れることができるのか?
 意味の解からない不幸を、理不尽を許すことができるのか?
 乗り越えろ。人は強くなれる。
 それが、このディールという男の行動理念なのだ。
 すべてを解き明かすためには、他者の意思など全く意に介さない。
 その所業こそが悪であるというのに、だというのにヴェインは。
「そうだな……」
 そこにこそ真の輝きがあると、そこにこそ真の意味があると理解してしまった。
 たとえ、世界や勇者を敵にまわしても。
 ヴェインは独り言の様に、言葉を紡いだ。
「確かに、俺のやるべきことはそれなのかもしれない。……このまま、すべてを忘れてただ生きていくなんて、できはしないだろう。時が経てば経つほどに俺は壊れ、世界を、自分を許せなくなる。……だったら、その前に乗り越えるしかない」
「その通りだ。ヴェイン・アズベルシア」
 ディールの大きな口がさらに左右に引きあがり、笑みの形を作った。
「俺を……俺を連れて行ってくれ。――ディール」
 心を決めたヴェインがそう言い終えたと同時、聞きなれた声が――聞きたくなかった声が彼の耳に届いた。
「ヴェイン!!」
 突如、間に入った声に、その場にいた三人は振り返った。
 ヴェインの名を叫んだ声の主は、腰までの美しい金髪を振り乱しながら、こちらに向かって平原を駆けて来た。
 宝石の様な青眼に、前髪で片目を隠している美しい男。
「イザナ……先生……」
 今一番会いたくなかったよ――と、ヴェインは胸の内で続けた。
 王都の魔術師でもあり、ヴェインの親代わりでもあるイザナ。
 彼は息を切らしながら、やっとのことでヴェインの前にまで辿り着いた。
 その目の前にいる巨大な怪物など目に入らぬとでも言うように、彼はヴェインの手を両手で掴んで膝をついた。
 そして涙ながらに彼に言った。
「ヴェインっ……一緒に帰りましょう……シフィのいるあの家に」
「……駄目だよ先生。俺は……ディール達と行く」
 ヴェインが巨大な怪物のディールを見て言った。
「ディ、ディール……? こっ……これが?」
 今初めて気がついたとばかりに、イザナはぎょっとしてソレに見入った。
 ごくりと、自然にイザナの喉が鳴った。
 凄まじく恐怖感を煽るその姿に、普段なら腰を抜かしていたかもしれないイザナだったが、彼は今はそれどころではなかった。
 やっと――やっとヴェインに会えた――彼の心には、ヴェインを取り戻したい焦燥だけがあった。
 怪物から目を離して、すぐに頭を振ってヴェインに向き直るイザナ。
「ディール達と行く!? な、何故ですヴェインっ!? あなたは悪くない! 『時の賢者』としての業は皆知っています! 街でのことは不幸な事故だったのです。……しかし、なにも王都から出て行かなくても!」
「そうじゃない……そうじゃないんだよ先生。俺は探さなくちゃならないんだ。もう……人を殺したことだとか、他のことはどうでもいいんだ」
「シフィのことも……どうだっていいというのですか!?」
 イザナはヴェインの手を握ったまま立ち上がり、叫びに近い声で言った。
 ひどく悲しみに満ちた育ての親の顔は、今の『時の賢者』となって心を凍らせているヴェインとて少し辛かった。
 しかし、彼はもう過去とは決別してしまっていた。
「シフィは……もう俺を許してはくれない……」
 ヴェインは自分で穢してしまった妹を忘れようとしていた。
 それは、あまりにも辛い現実で、思い返せば必ず感情に歪が生じて止まらなくなってしまう。
「そんなことはありません!! シフィは……あなたを許しています!」
「……そんな、まさか」
 イザナの言葉に一瞬ヴェインは、はっとして涙に濡れたイザナの美しい青眼を見た。
 嘘をついたことなどないのではないかという程に、澄んだ眼でヴェインを見つめていた。
「シフィはあなたにされたことも……なにもかもを受け入れています。……私には……彼女のあの健気な心が理解できないでいた。……彼女はヴェインが『時の賢者』になったことも、どうしようもない抗えない衝動のことも知らないのです! なのに……なのに、あなたを許している。いや、それどころか、彼女はあなたに謝りたいと――」
「――――」
 ヴェインは、シフィを穢してしまった頃からずっと、胸に大きな穴が開いている様な感覚に陥っていた。
 そこにあったはずのものが、いつの間にか無く、埋めようとしても埋められない。
 寂しさ、悲しさ、その穴はただ広がってはヴェインの心を冷たくしていった。
 だが、今そこに暖かな風を感じていた。
 (シフィは……俺を……恨んでいない?)
「ヴェイン……あなたは愛されているんです。シフィも……そして私も、皆あなたが好きなのです! ……帰ってきてください……ヴェイン……」
「せん……せい……」
 ヴェインの心に開いた穴。
 そこのあったはずのものは、大切な者達との確かな繋がりだった。
 『時の賢者』となり、すべての繋がりと愛を信じられなくなった彼の胸はからっぽだった。
 だが――。
「帰りましょうヴェイン。私達が、必ずあなたを助けます。辛い時はいつも私達がそばにいます。……一緒に『時の賢者』の業を乗り越えましょう」
「――」
 ヴェインの中で何かが弾けた。
 乗り越える――言葉こそは同じだったが、それはディールとは、まったく性質の異なるものだった。
 すべてを知って不安を取り除き、強さを得ることで、乗り越えようとしているディール。
 弱くとも、人同士が寄り添い合い、慰めあって辛い現実を乗り越えようとしているイザナ。
 ヴェインの埋められなかった胸に開いた穴に、確かな重みが生まれてきたのを彼は感じていた。
「お、俺は……」
 凍らせた。
 凍らせたはずだった――しかし、人の心は生きているのだ。
 血が通っているのだ。
 だから、冷めようとも、何度でも熱さを取り戻す。
 彼の心に吹いた暖かい風は、その氷を溶かそうとしていた。
 ヴェインの目元に、うっすらと涙が浮かんでいるのを見たディールは、忌々しく思った。
 イザナの存在を。
 (やってくれたなイザナ……。だがっ……俺はこんなところでは諦めはせん)
 ぶわっと白い煙が突然吹きだして、ディールの巨体を包み込んだ。
「な、なんです!?」
 辺りにたち込めた白い靄に驚いて、イザナはヴェインに寄り添い辺りを警戒した。
 しゅううと音をたてて充満した煙は、渦になって不自然に一点へと収束していく。
「こ、これは……!?」
 驚きの声をあげるイザナ。
 ヴェインは視界の隅で、腕を組んで楽しそうにこちらを見ているヴィンセントを見た。
 やがて、すべての煙が集まって、しだいにそれが薄れていく。
 煙がすべて晴れると、そこには白い髪を生やした筋肉隆々の男がいた。
 額に奔った傷に、ねめつける双眸は、どこか先程までいた怪物を思わせた。
「ディール……」
 イザナがそう呟いたことで、それが先程までそこにいた怪物の正体であることを悟った。
 しかし、何故――。
「先生は……あいつを知っているのか?」
 問うヴェインに、イザナは答えた。
「私は……あなたに会いたかった。だから……彼らに手を貸してしまった……」
「え……」
 それはどういうことなのか、ヴェインが疑問を口にする前に、人型へと戻ったディールが声を発した。
「それは本当だヴェイン。イザナはよくやってくれた。お前に会わせることを条件に、俺達が城へ侵入するために色々と手をかしてくれたのだ。……イザナが偽の情報を流してくれたおかげで、多くの兵を外へと集中させることができた。この積みあがった死体は、ヴェイン。お前を助けるためにイザナが築いた生贄というわけだ」
「そ、それはっ……しかし、私は殺せなどとは……それにヴェインとシフィを会わせると約束したのに、どうして外へ連れ出そうと!?」
「予定が変わったのだ。私の仲間が二人戻らん。仕方がなかったのだ。くくく」
 わざとらしく含み笑いを漏らして、ディールはゆっくりとヴェインとイザナへと近づいた。
 警戒して、ヴェインを自分の後ろへと下がらせるイザナは、ディールを睨みつけた。
「最初から私達を会わせるつもりはなかったのでしょう!」
「そんなことはない……嘘をついたつもりはなかったんだ王都の魔術師イザナよ。……だが、嘘ならお前もついているではないか? なあ?」
 白き夜叉の口元が嫌らしく吊り上り、その様子を見てニヤついていたヴィンセントも「違いねぇ」とゲラゲラと笑った。
「……なにを言っているのです」
「なあヴェイン。お前は本当に、この男が信じられるのか? 本当に妹に無償の愛を感じたのか?」
 ディールの言葉が暖かくなったはずのヴェインの心へと、楔を打ち込むように放たれる。
 ヴェインは先程までのヴェインではなかった。
 『時の賢者』を継ぐ以前の彼の眼を取り戻し、握った手の平にイザナの体温が感じられることが、嬉しいと思えていた。
 ディールは言った――お前の苦しみを理解できる人間がいるのかと。
 ヴェインは答えを得た。
「先生やシフィに、俺の『時の賢者』の苦しみは理解できない……」
「ヴェイン……」
 悲しそうなイザナの目がヴェインを見つめ、彼はそれに久しぶりに見せた優しい笑顔で返した。
「でも、俺と一緒にいてくれると言ってくれたんだ。相手を理解するってことは……そういうことじゃないのか?」
 その言葉をつまらなさそうに聞いたディールは、内心で反吐がでると吐き捨てた。
 やっと手に入れた『時の賢者』をそんな、つまらない餓鬼の戯言で失って堪るか!
 ディールは、悪魔の様な狡猾さで、相手をどうやって陥れてやろうかと逡巡していた。
「……くくく……そんなつまらない一時的な慰めに、すがりたくなる気持ちも解からんでもない」
 材料は揃っている。
 ディールは、イザナを初めて見た時から、この場面はだいたい予想することができていた。
 あとは、どこでヴェインに打ち込んだ楔で、もっと深く心に傷をつけるか――陰惨に笑ったディールは言葉を続けた。
「もう一度、聞くぞヴェイン。お前は本当に、この男が信じられるのか? この嘘つきを」
「先生は……俺に嘘なんてついたことはない」
「くくく……ははははははは!!! お笑いだなヴェイン! お前はまだ若いのだ! 世の中のことをまだ知らない! 知識で知ろうとも、真に汚い人間を理解するには、年月と経験が必要だということだ」
 大袈裟に腹をかかえて笑ったディールは、びしっと人差し指をイザナへと突きつけ、そして告げた。
「お前はこの男に騙されている」
 そう言って、そのイザナを指していた人差し指を平行に動かして、詰み上がった兵の死体へと向けた。
 そして、なにやら呪文を唱えたかと思うと、ディールは魔術を放った。
「紅蓮灼熱業火(フレムロード・タイド)」
 ぼうん、とディールの指から放たれた火炎の魔法。
 真っ直ぐに火炎球が直進して、詰み上がった兵達の死体を、一瞬のうちに炎の柱へと変えてしまった。
 轟々と燃え盛る大きな死体の焚き火。
「なにを……」
 ディールの行動を理解できないでいたヴェインは、隣のイザナを見た。
 無表情で佇み、どこか青い顔をして、その死体でできた焚き火の炎を見つめていた。
 ディールは面白そうにヴェインへと言う。
「ヴェイン。お前は、恨んでいるんだろう? 理不尽を。その元凶である、あの男を」
「…………」
 ディールが何を言っているのか解からなかった。
 あの男?
 理不尽。
 元凶……それは『緋色髪の男』のことをディールは言っているのか。
 なぜ、そのことを知っているのか。
 困惑しているヴェインへと、ディールは楔を強く打ち込もうと、言葉の鉄槌を振り下ろした。
「お前のことは調べていた。過去、盗賊によって両親を殺されたことも知っている。そして、その盗賊があの『緋色髪の男』だということもな」
「……なにを……言っている?」
 そう答えながらも、目が離せなかった。
 なぜだか、隣のイザナからずっと目が離せなかった。
 ゆらゆらと揺れる大きな火柱が、そこにいる者達を赤く照らしていた。
「なんだ、もう気がついているのだろうヴェイン? よく眼を凝らして見てみるのだ」
 その言葉にイザナは奥歯を噛み締めて、搾りだすように呟いた。
「……やめろ……」
「なにを、やめるというのだイザナ? 俺は真実を伝えているだけだ。ヴェインには、それを知る権利があるだろう?」
「やめろおおおお!!」
 ディールの言葉に激昂したイザナの形相が過去の記憶と重なり、ヴェインの心臓を大きく跳ねさせた。
 目の前の光景から目が離せず、思考回路が麻痺でもしているのか、ヴェインは現実を受け入れられなかった。
 赤い。紅い、この火を、炎を、俺は、覚えている。
 この顔を俺は知っている。
 緋色に染まった髪を俺は覚えている。
 目の前の揺らめく炎に照らされた長い金髪が、今どのように見えているのか、俺の眼は理解している。
 俺はこの人を知っている。
 そうだろう。
 それはそうさ。ずっと一緒に暮らしていたんだから。
 ずっと、一緒に――。
 ずっと俺達を――。
「『緋色髪の男』」
 ヴェインの口元が僅かに動き、イザナはびくりと肩を大きく揺らした。
 イザナは、ゆっくりとヴェインへと振り返る。
 まるで、悪事がばれてしまった子供の様に怯えた眼差しで、イザナはヴェインを見ていた。
「先生……ずっと俺達を騙していたんだな」
「ヴェイン……私は……」
 口元を震わせて涙を流し、イザナはヴェインの前で膝をついた。
「私は……私はっ……うっ……ううっ……」
 嗚咽をもらして、言葉にならない声をあげる紅い髪の男。
 ヴェインは目の前のそれを、ただ無表情で眺めていた。
 そこに夜叉が言葉をかける。
「当時、『緋色髪の男』は盗賊としては有名だった。すべてを燃やしてしまう火炎の術を得意とした魔術師で、国も手を焼いていた程の盗賊だった。――しかし、ある時を境に、奴の話は聞かなくなったがな……」
「違うっ……私はっ……私はっ……」
 イザナはただ、現実を受け入れられない子供の様にそう繰り返していた。
 その様が楽しくて仕方のない夜叉は、さらに畳みかける。
「……くくく、イザナ。貴様は覚えてはいないかもしれんが、俺は一度、貴様と仕事をしたことがあるぞ。その時の貴様といったら……女子供とて皆殺しの、容赦のない盗賊の鏡の様な奴だったではないか。……だと言うのに今の貴様は……まあいい。しかし、これは事実だ。理解しただろうヴェイン? 思い出したのだろうヴェイン? こいつはお前の両親を殺し、妹の自由を奪った憎い奴だ。そうだろう? くく……くはははははっ」
 可笑しくて滑稽で、白き夜叉は堪らず肩を揺らして大いに笑った。
 あれ程の悪逆非道を繰り返した男が、真実を暴かれ、子供の様に涙を流している。
 なんと面白いのか。
 なんといたぶり甲斐のある弱者なのか――弱者を前に夜叉はただ哂った。
 それこそが、その様こそが、真の悪であるはずなのに。
 今のヴェインは気がつけなかった。
 彼の想いは、過去への復讐に囚われ始めていたのだ。
「先生は、『緋色髪の男』だったんだな」
「……」
「答えろ。……何故、俺達の……親代わりを?」
「……私は…………私は……イザナ……イザナ」
 頭を下げたまま地面へと手と膝をつき、懺悔を述べるかのようにイザナは、ただ名を呟いた。
「いや、俺の記憶は覚えている。あんたが……両親を殺し、シフィの首を絞めているところも覚いだした。どうしてだか、今の……今まで思い出せなかった……先生の、顔がどうしても、あの『緋色髪の男』とは重ならなかったから。……でも……」
 激昂したイザナの表情と、炎により染まった緋色の髪で、ヴェインは確信を得てしまった。
 いや、記憶の線が繋がったのだ。
 次第に、クリアになっていく炎の記憶。
 その中の『緋色髪の男』は、確かにイザナだった。
 だけど、その炎の中の顔つきは、今の優しいイザナとは、まるでかけ離れていた。
 それが故に、同一人物とはどうしても思えず、記憶の線が繋がらなかった。
 『緋色髪の男』とディールに言われるまで、まったく繋がらなかったのも無理はない。
 そもそも、何故『緋色髪の男』本人が、ヴェインとシフィを助け、育てたのか。
「答えろよ先生。……あんたには、それを説明する義務があるだろ……何故、俺とシフィを騙していた!?」
「わ……私はっ……」
 地面に垂らしていた頭をゆっくりと上げ、涙に濡れた顔をヴェインへと向けた、イザナ。
 人殺しには見えないその悲しみに満ちた顔で、イザナは語りだした。
 『緋色髪の男』が、何故、魔術師イザナになったのか。
「私は……どうしようもない盗賊だった……」
 その言葉から始まったイザナの話は、とても救いようのない悲しく、そして人間らしい話だった。
「……国境越えてすぐにある森を根城に潜伏していた私達の盗賊団は、近隣の村や、行商の馬車を手当たりしだいに襲っていました。……時には貴族や、城の行軍にまで手をだし、略奪を繰り返していた。……私はっ……」
 嗚咽が混じり、イザナの目からはまた大粒の涙が溢れた。
「本当に……どうしようもない盗賊でした。私には、物を盗んで糧を得ることなど、その実どうでも良かったのです。……ただただ、人が殺せれば、それでよかった。それだけが、私の生き甲斐でした。盗賊の子として生まれた私は、盗賊に育てられ、なにもかも奪った物で、周りは溢れていました。……そんな私にとって、『奪う』ということは息を吸うのと同じくらいに、当たり前のことだったのです。楽しくも、辛くもなんともない。ただ当たり前の行為で……私は十を過ぎた頃から略奪という行為に、すでに飽きていました。……そして……」
「人殺しに精を出していた、というわけだな」
 楽しそうにディールがそう続け、それにイザナはせきを切ったように泣きながら、言葉を続けた。
「ああっ……私はっ……私は、なにも知らなかったのです。人の優しさや、その暖かさを……ただ、盗み、殺すことしかしてこなかった私は、そんな人の優しさなどとは無縁でした。でも…………ある時、私達は王都へ向かう貴族の馬車を襲いました。普通の盗賊なら手を出さない程の警備でしたが、私は仲間に命令して襲わせました。……私の魔法でだいたいの片はつき、いつもの様にあたりは火の海で……私は……そこで、子供を必死で守ろうとしていた夫婦を意図も簡単に殺しました。ただ、面白くて、血が吹き出る様や、息ができなくて窒息死する様が楽しくて……二人を殺しました」
 ヴェインは、喉がからからに渇いていくのを感じていた。
 それは、その殺した夫婦というのが――。
「そして、その夫婦の隣で燃えて崩れ落ちた馬車に足を挟まれ動けなくなっている少年がいました。……それをいつでも料理できると思った私は、近くで倒れていた少女の白い首に手をかけました。本当に白くて美しかった。炎に照らされたその肌に、私は見惚れながら首を絞めました」
 自分の呼吸が次第に荒くなり、体が大きく震えていることにヴェインは気がつけなかった。
 ただ、イザナの 『緋色髪の男』の語りに、自身の過去を投影し、ヴェインは悪夢を再現していた。
 炎の中で幼いヴェインは叫んだ。
「お父さんっ――お母さん――シフィを……シフィを……助けて……」
 動くことのない両親を前にヴェインは、ただただ泣きじゃくり叫んだ。
 辺りは火の海、視界は暗い。
 夜だった。
 木の少ない林の中、盗賊達の松明の炎と、燃え盛る荷馬車。
 逃げ惑う人達に、追いかける盗賊と応戦する兵の怒声。
 黒い煙に混じる人の焼け焦げた匂い。
 そんな中で、背の大きな細身の髪の長い男が、能面の様な顔を張り付かせてシフィへと近づいた。
 長い髪は赤く、紅く揺らめいて炎と同化していた。
 幼いヴェインは叫んだ。
「やめてっ! シフィを……シフィを……助けてあげて……」
 その言葉が届いたのか『緋色髪の男』は、くるりと首を回してヴェインを見た。
 そして、ニタァと口元を吊り上げると、すぐに倒れている少女の首を締めだした。
「う、うわあああああっ!! やめろおおお!!」
 少年は喉が潰れてしまうかもしれない程の声で叫んだ。
 自分はどうなっても良かった。今ここで妹を助けられないことが、少年には何よりも恐ろしく、耐えられなかった。
 折れているだろう足を引き抜こうと力をこめ、両の手の爪が剥がれようとも、馬車から這い出そうと懸命に抗った。
 しかし――挟まれた体は動かない、幼いヴェインの慟哭が炎の中に響き渡った。
 『緋色髪の男』にとって、それは歓声に近かった。
 殺そうとしている楽しい行為を、さらに盛り上げる味付けでしかなかった。
「うっ」
 気を失っていた少女の目が開いた。
 このまま、気がつかずに死んでいけた方が幸せだったろうに――そう思った瞬間、『緋色髪の男』は楽しくて楽しくて、仕方がなくなってしまった。
「おはよう。そして、おやすみ」
 そう言って、このまま首をへし折ってしまおうと思った『緋色髪の男』は、少女の口が何かを言おうとしていることに気がついた。
 何故だか気になった彼は、少しばかり力を緩めた。
 咳きこみながら、少女は言った。
「ごほっ……お母さんと、お父さんを……助けてあげ……て」
 そう言った少女の声は、優しい声をしていた。
 か弱く、今にも消え入りそうな儚い彼女に、『緋色髪の男』は冷徹に告げた。
「それは駄目だ。どちらも俺が殺した。首を絞めて殺し。剣で心臓を突き刺して、殺した。楽しかった」
「……お、お兄ちゃんを……助けてあげて……」
「それは駄目だ。俺が後で殺すからな」
「お願い。他の生きている人も助けてあげて。……みんな誰かが待っているの」
「誰か?」
「家族や……お友達が……」
「家族? 友達?」
「あなたにはいないの?」
 『緋色髪の男』は首を横に振った。
「俺にはいない」
「悲しかったのね。寂しかったのね」
「悲しくはない。寂しくはない。俺は楽しい。毎日、こいつらと楽しいことをして暮らしているんだ」
「でも、あなた悲しそう」
「俺が? 悲しい?」
 少女の小さな手が、男の頬を撫でた。
 それで初めて『緋色髪の男』は、自分が泣いていることに気がついた。
 少女は優しい目をして言った。
「初めから、あなた泣いてた」
「俺が?」
 何故、泣く?
 何故、泣いていた?
 それは。
 『緋色髪の男』は気づいてしまった。
 何をすればいいのか分からなかった自分が、何をして生きていけばいいのか分からなかった自分が、ただ流されるままに生きてきた自分が、ただ略奪を繰り返して、人を殺していた自分が――本当は、何をすべきか分からないだけの男だったということに。
 彼にはなにもなかった。
 心の中はいつも、からっぽだった。
 積み上げてきた経験も、知識もなく。
 育んできた愛も、友情もなく。
 彼には何もなかった。
 自分の中で生み出した『人殺し』という娯楽に逃げ、何も考えない様にしてきただけではないのか。
 俺は――ずっと。
「悲しかった……のか」
「うん……家族や、友達がいないと寂しいもの」
「俺は……なにをしたらいいんだろう?」
「好きな人……友達や家族を見つければ……したいことは自然にできるのよ」
 まだ幼い少女とは思えない程に、しっかりとした口調で彼女は言った。
 この少女は自分よりも、しっかりと逞しく生きているではないか。
 何故、生きているかを理解し、何をすべきなのか知っている。
 そんな彼女を俺は殺そうとしていた――?
 いや、今まで殺してきた人達もそうだったのではないか――?
 俺のように生きている意味が理解できずにいる人間などではなく、誰かのために、家族のために必死に生きていた人達なのかもしれないというのに、俺はそんな人達を――殺してきたというのか。
 盗賊は、『緋色髪の男』は、子供だった。
 ただ、何も教えられず、知らされなかった。
 まるで、子供が悪戯で小さな虫を無残に潰してしまう様に、彼も人間を殺していたのだ。
 彼は教えられなかった。
 人の愛を。
 生きていることの素晴らしさを。
 無知は、人を鬼にする。
 男は少女に問うた。
「俺は……一体なにを、すれば……いい?」
「ここにいる人達を助けてあげて……そうすれば……友達になれる……家族なれる……」
「家族に……?」
「ええ……相手が喜んでくれれば、また喜ばせたいって思うでしょ? ……みんな誰かのために生きて、生かされて……いるの」
 少女の意識は途絶えかけていた。
 馬車から投げ出されて、背中を強く打ち、彼女は下半身の感覚が無くなっていた。
 先程から常に、意識を奪う程の激痛に耐えながら男と会話していたのだ。
 まるで聖母がのりうつっているかの様な神々しさを、その死にかけた少女から感じた『緋色髪の男』は、彼女を抱いて立ち上がった。
「俺が君を助けたら……あの少年を助けたら、今ここにいる人達を皆助けたら……俺と……俺と家族に……なってくれ……」
 少女の言葉に、『緋色髪の男』は救われた。
 そして、彼は盗賊『緋色髪の男』から、魔術師イザナになった。
 その場にいた生き残り達で、王都へと避難した。
 周りの人間達は、シフィとヴェインを手厚く看護する彼を、誰も盗賊の頭などとは思わなかった。
 初めて優しさに触れた彼は、どうやれば彼女達の容体が良くなるのか、それだけを毎日考え、生きた。
 王都で、そのイザナの必死さに心打たれた宿屋の主人は、彼とヴェイン達に無償で部屋を貸し与えた。
 シフィが怪我から病を患い、魔法の知識が必要になったイザナは毎日、魔術本を紐解き、寝る間も惜しんで学んだ。
 ヴェインたちを助けたい――それだけに徹して、彼は医療魔術をみるみるうちに修得した。
 これまで十数年、何も知識を得ずに生きてきた彼は、周りが目を見張る程に魔術を身につけ、日に日に二人の怪我は良くなり、ヴェインの怪我は数ヶ月で完治するまでに至った。
 しかし、シフィの下半身の麻痺と、高熱の病に対しては、なかなか治療法を見つけることができなかった。
 そんなある日、イザナの噂を聞いたある魔術師が、王都のアカデミーの本を読めばいいと、彼に話をもちかけてくれた。
 街で手にはいる本には書かれていない魔術がたくさん載っているアカデミーの本を前に、イザナは歓喜して、それから毎日アカデミーへと顔を出して魔術を学んだ。
 これでシフィの病気を治せるかもしれない――喜んだのも束の間、イザナは焦燥に駆られたいた。
 二人を養い、治療費を出していた彼の盗賊時代に貯めこんだ資金が尽き始めていたのだ。
 仕事を探そうにも、流れ者の自分を雇ってはくれないだろう。
 一体どうすれば……そう思っていたところに、またもイザナの噂を聞いた城の魔術師が、彼にアカデミーで講師をしてみないかと提案してきた。
 イザナの知識と魔術の腕前は、二年の間にもはや王都の魔術師のレベルに達していた。
 元々、盗賊時代に仲間から基礎と、火炎の魔術を教わっていたし、彼には並外れた才能と、そしてなによりもヴェイン達を助けたいという想いがあった。
 だから、イザナは周りが驚くほどの魔術師としての成長を遂げて、二年でアカデミーの講師になることができた。
 イザナは人々の助力に、感謝の気持ちでいっぱいだった。
 これが、人と人が助け合い生きていくということか――彼は、人の暖かさ繋がりの大切さもそうやって知ったのだ。
 これで二人を養い、医療魔術を学びながら生きていける。
 イザナは今までの人生では、感じたことのない喜びの日々を生きることとなった。
 学ぶことを辛いと思ったことはない。
 生きるために働くことを辛いと思ったことはない。
 なぜなら、家に帰れば、二人の笑顔をみることができるから――。
「家族になってくれますか。そう言った私に……あなた達は本当の家族になってくれたのです……ヴェイン……シフィ……。私はあなた達がいてくれたから、ここまで人間らしく生きることができたのです……」
「……」
 イザナの言葉を聞いたヴェインの目は、涙で濡れていた。
 イザナがどんな想いで自分達を育てていたのか、それをヴェインは知った。
 そして、ヴェインは言った。
「先生は……俺達の……家族だよ」
「ヴェイン……」
 イザナの悲痛に歪んだ顔が、その言葉で僅かに晴れる――しかし。
「でもっ……! シフィの今の苦しみも……親達の無念も……あんたがっ、俺達のすべてを壊したんだ。それを……助けたから全部なかったことになんてできるか!? ……そんなことで……! 俺達を騙していたことを……こんな話だけで納得できると思っているのか!?」
「ヴェイン……私は確かに、どうしようもない男でした。……でも今は、私はあなた達を愛しているのです……。信じてくださいヴェインっ」
「でもっ……」
 イザナの言葉には、微塵も偽りはなかった。
 それにはヴェインも気がついている。
 しかし、彼は割り切れなかった。
 どうやっても両親の死と、シフィの不幸を――すべての元凶を目の前にして割り切れなかったのだ。
 そして、夜叉が動いた。
「言っただろうヴェイン。人々を脅かす存在そのものの元凶を辿れ――と。この男も被害者だ。違うか?」
 まさかのディールの言葉に、ヴェインは困惑した。
 この男は、許せと言っているのか。
 そう思った時、ディールから手に何かを持たされたことに気がついた。
 自然に受け取ったそれは、一振りの短剣だった。
「お前が選べ。その男を裁けるのはお前だけであり、お前にはその資格がある」
「え」
 裁けと言った夜叉の目は真剣だった。
 先程までの馬鹿にした様な笑みも、残酷な言葉もなかった。
 ただ、選べと、ヴェインへと選択を迫ったのだ。
 ヴェインの両肩を優しく掴んで、ディールは囁く様に話す。
「いいかヴェイン。すべてを知ったお前は、過去を清算しなければならない。イザナの言葉が本心かは、俺には分からん。だが……やってしまった過去は変えられないだろう? 奴はお前の両親を殺し、妹を不幸にした。その責任をただ、自分が人間らしく生きてきただけで、済まそうとしているのではないか? ……そうだ。奴はお前達を助けるふりをして、お前達を人間らしく生きるための手段、道具として扱っただけじゃないのか? 愛? 愛だと? そんな都合の良い台詞で誤魔化しているだけじゃないのか? 奴は過去の自分を無かったことにするために、お前達を利用したんだよ。……反吐がでるとは思わないかヴェイン?」
「ち、違うっ……私は自分のために、ヴェイン達を利用したんじゃないっ……彼らを本当に愛しているからっ」
「決めるのはヴェインだ!」
 イザナの言葉をディールの一喝が遮った。
 そして、それを合図に、場には一時の静寂が満ちた。
 渡されたナイフを両手で持って、ヴェインは呆然と立ちすくんだ。
 ただナイフを見つめたまま、時が止まったかの様に動かなかった。
 そして、イザナは両の手を合わせて祈った。
 両膝を地面につき、両目を閉じて、ただヴェインの選択を待つことにした。
 イザナはヴェインを信じた。
 これは懺悔だと。
 彼にすべてを話すことは、いずれしなければならなかったことで、イザナは抵抗せずにただ、すべてをヴェインに委ねた。
 イザナは最後に一言だけヴェインに言った。
「ヴェイン。私は……あなた達といられて、本当に……幸せでした」
「―――――」
 すべてを壊した男。
 俺達を騙していた男。
 俺とシフィを育ててくれた先生。
 あの、優しくて、なんでも聞いてくれて、どんな時も助けてくれたイザナ先生。
 ヴェインもイザナを本当の家族だと思っていた。
 イザナがいてくれたから、ヴェインはここまで生きてこられた。
 だから、ヴェインは本当にイザナには感謝していたし、彼を本当に愛していた。
「先生。……俺もだよ。……先生とシフィといられて……幸せだった」
 だから――。






*******************






「これで、僕も終わりかぁ」
 リー・ホランは、胸に深々と突き刺さった勇者の剣を見ながら、どこか吹っ切れた様な笑顔でそう言った。
 もう変化する力もないのか、リーの体は完全に人型に戻っていた。
 人型に戻った時も、服が綺麗なまま元通りになっていたディールとは根本的に異なるのか、上半身の服は無く、下半身もボロボロの衣服を纏っていた。
「ええ。これで終わりです」
 倒れたリーの上に膝をついて、折れた剣を突き刺したルーウィン・リーシェンは、淡々とそう言った。
 剣にあと僅かに力をこめればトドメがさせる――人狼の最期の瞬間だった。
 リーは勇者に向けて皮肉っぽく言葉を投げかけた。
「君は悪だよ」
「……あなた達、魔物からすればそうなのかもしれません」
「ああ、そうさ。結局、僕達は相容れない。君と僕はこんなにも同じなのに。ただ……お互いの正義が違っただけだ。ただ、同じ世界にいたことが不幸の始まりだっただけさ」
「……」
 ルーウィンはただ黙って、リー・ホランの最期の言葉を聞いていた。
 彼の言うことは、本当にどうしようもない現実を言葉にしているように思えて、それはルーウィンも思っていたことだから――どこか聞き流せなかった。
「人間が家畜を殺すのと、僕が狼で、人間を狩ることと何が違う? なにも、なにも違わないさ。君達の正義は君達のものでしかない。君達の邪魔をすれば、殺される。君達は生きるためにどんなものでも糧にして生きていく。生きているだけで罪深い人間……それと僕は何が違うの?」
「…………」
 狼は話す。
 それが、彼の最期の人間としての言葉だった。
「僕は狼だ。誇りを持っている。生きている。生きていたんだ。狩りをする喜びを感じないなんて狼じゃない。僕は、僕の正義に従って、ただ狩られた。それだけのお話なんだよ。だから――」
 もう――殺してくれ。
 そう言ったと同時に、ルーウィンは剣に力をこめた。
 リー・ホランの口から大量の血液が吹きだし、ルーウィンの白い顔を汚した。
「……っ」
 リー・ホランはひどく満足そうに笑みを作ると、そのまま目を閉じた。
「……」
 初めて、人を殺した。
 人ではなかったのかもしれない。
 けれど、それでも人語を話し、自分達と同じ様に考えて生きる者の生涯を――ルーウィンは、初めて終わらせた。
 ルーウィンは彼自身の使命に従い、人類の敵を処分した。
 狼は、その本能のままに狩りをした。
 これは、たったそれだけの簡単な戦いだった。
 他には、なにも――なにもない。
 ただ、それだけのことだった。
 本当に、どうしようもない。
 どうしようもない戦いだった。







 死体の山の炎が、ぶすぶすと黒い煙をあげて、燃え尽き始めた頃。
 そこに、ヴェインとディールの姿はなかった。
 広がる平原には、殺された兵達の亡骸と、たった一人の人影があった。
 炎は消えたが、今は夕日がゆっくりと沈んで、辺りを紅く照らしていた。
 そして、今はその紅さが最高潮に達し、平原の男の髪を紅く染め上げている。
「…………」
 男は何も語らない。
 ただ、祈りを捧げるかの様に、緋色の髪を風に揺らして、ひざまずいていた。
 両の手を合わせて目を瞑り、口元は優しく微笑みをたたえていた。
 家族を信じ、愛し、彼はそのすべてを捧げた。
 無償の愛は存在した。
 彼の微笑みから一筋の赤い線が垂れて、胸に深々と刺さった短剣の柄を濡らした。






*******************






 **エピローグ**






 空。
 静謐な空気の漂う朝に、ただ白い雲が流れていくのを、彼は眺めていた。
 彼が自由に使える部屋の、一つのバルコニー。
 そこで、ルーウィンはあの日と同じ様に一人でいた。
 傍には、折れた剣が立て掛けてある。
 あれから、何故だかそれが手放せなかった。
 アカデミーは休日で休み。
 どこか、気が抜けて、特に何もする気は起きなかった。
 城内もあの事件から一週間経った今となっては、嘘の様に落ち着きを取り戻し、以前と変わりはなかった。
 忙しい後始末や、片付けも段々と終わり、本当に元通りになってしまった。
 ただ――いなくなってしまった人だけが、帰ってこない。
 賊の犠牲になった兵は、スエディラへと向かったレオドルフの一団のも合わせれば、全部で八十九名。
 それだけの死者をだしてしまった原因は、いくつかあった。
 ルーウィンとセウロが強敵に抑えられ、レオドルフと王直属の軍が不在だった。
 そして、敵の賊があまりにも強敵揃いだったことだろう。
 しかも、敵の全貌は未だ見えず、彼らが何者だったのかは、結局のところ分からず終い。
 だが、彼らの目的だけは、はっきりとしていた。
 『時の賢者』の強奪――。
 王都は、賊に世界の宝とも言われている賢者をまんまと奪われた。
 連日、他国からの使者が絶えない。
 責任をどう取るつもりだとか、そんな調子外れのことばかりが毎日、議論されていた。
 そんなことをしているくらいなら、さっさと国同士力を合わせて、賊を追いかければいいのに。
 そう思っていたルーウィンだったが、そんな彼も今は、賊を追う気にも、なにか国のためにしようとも思えなかった。
 ショックだったのだ。
 色んなことが起こりすぎて、もう今は、ただ休みたかった。
「……」
 師が敗れた。
 バランは『時の賢者』を奪いにきた賊に敗れ、三日間意識が戻らなかったが、現在はなんとか持ち越して、療養中。
 レオドルフは一族に伝わる魔剣を使用したことで、生気を吸われ、二日意識が戻らなかったという。
 ルーウィンは、あのバランが敗れたなどと、そんなことは信じられなかった。
 いや、信じたくはなかった。
 そして『時の賢者』が――ヴェインが、賊達に自らの意思でついていったという。
 本当に信じたくない出来事ばかりだった。
 だが。
 それは現実で、彼の育ての親とも言えるイザナは、城から僅かに南下した平原で死んでいた。
 まるで、祈りを捧げるかのように手を組み、穏やかな笑顔のまま亡くなっていたそうだ。
「一体……なにがどうなっているのでしょうか……」
 勇者は本当に真実を知りたかった。
 自分が戦った賊を殺してしまったことは、本当に正しかったのか。
 彼を捕えて、話を聞くこともできたかもしれない。
 しかし、誰もルーウィンに、そうは言わなかった。
 王は賊を討ち取った勇者を称えたし、セウロも優しい言葉をかけてくれた。
 しかし、勇者は今も自分が正しいことをしたのか、解からなかった。
 それどころか、何故あの賊と戦ったのか……そんなことまで曖昧になってしまっていた。
「王命……僕は王命に従い……ただ、勇者として外敵を排除した」
 それで、それでいいではないのか。
 他になにがあるというのか。
 たったそれだけのことだ。
 多くの犠牲者がでた。
 自分の師が死にかけた。
 友が一人消えた。
 それだけの――。
「うっ……ううっ……ああぁぁ……」
 そんな風に割り切れたら、それは人間じゃない。
 勇者はバルコニーに体を預けて、誰に悟られることもなく泣いた。
 堰を切ったように、涙と嗚咽が溢れた。
 泣いてはいけない。
 割り切らなければいけない。
 勇者とは、そうでなければならないのだと、そう教え込まれてきた。
 すべてを正義と使命で割り切らなければならないと。
 ならば、勇者など人間ではない。
 心を捨てた者を、勇気がある者などと……そう呼ぶことは絶対におかしい。
 今のルーウィンには、真の勇気がなんであるかを理解できなかった。
 勇気とは、弱さを乗り越える力。
 どんな困難が起ころうとも、それに立ち向かい、抗うことができる心が勇気なのだ。
 しかし、今のルーウィンには使命感で誤魔化した偽りの勇気しか持てなかった。
 そして、彼はこれからもその偽りの勇気で戦いに挑む。
 真の勇気を得る、その日まで。






 木製のギギと軋むドアを開けると、そこには一人の少女がベッドで上半身だけを起こして、訪問者を迎えた。
「あ、いらっしゃい。……どちらさまでしょうか?」
 真っ白な肌に、熱があるのか頬だけが赤く染まっている少女。
 そんなシフィを見て、セウロ・フォレストは優しく微笑みかけた。
 彼女がいるのは、イザナの部屋だった。
 魔術の本が多く積まれた室内は埃っぽく、どう見ても掃除が必要だった。
 イザナが、見た目からも綺麗好きなのは誰が見ても一目瞭然だったが、多忙を極める彼の生活のしわ寄せが、この自室の有り様なのだろう。
 アカデミーで講師を務め、二人の成長を見守る親として生き、そのうちの一人の主治医としての責務も負ったのだ。
 部屋が魔術本と、薬の調合の材料や器具でごった返すのも無理は無かった。
 後で使用人に片付けさせるか――もう……必要がないのだから。
 そう思って、周りを観察する様にセウロは眺めた。
 部屋には大きな窓があり、薄いレースのカーテンが僅かに開いた窓からの風を受けて、小さく揺らめいている。
 朝の暖かい日差しが、部屋に差し込んでいた。
 木漏れ日の様に柔らかなその光の中で、シフィは一人、窓の外に目を向けていた。
 その姿が、まるで――何かを待つように見えて、セウロは胸が締めつけられた。
「我はイザナとヴェインの友人のセウロだ。お前のことは聞いているよシフィ」
 イザナと兄の名がでたことで、シフィは不安げにしていた表情を、ぱっと明るく咲かせて振り向いた。
「まあ、お兄ちゃんとイザナ先生のお友達っ。……セウロさん? なんだか聞いたことがあるような。……あっ! ルーウィンさんがそういえば、おっしゃってました。セウロさんは、とても面白い方だと」
「ふふ、そうか。……こちらに座ってもいいか?」
 普段はあまり見せないセウロの優しげな微笑みと仕草。
 シフィは少し荒く息をしながら、「どうぞ」と言って、すぐに両手をばたばたと振って慌てだした。
「あっ、ごめんなさい。……その、お茶とか、何もおもてなしができなくてっ……」
「気にするな」
 優しくそう言うと、セウロはベッドの横のイザナがいつもシフィを診る時に座っていた椅子に腰を下ろした。
 こちらを不思議そうに見ているシフィを、セウロも同じように見た。
 シフィはとても可愛らしく、誰からも好かれる顔をしている。
 よく見ればヴェインとも少し似ている。
 そんな彼女を見ていると、セウロは居た堪れない気持ちになった。
 なんと言ったらいいのか――セウロはまだ頭を整理できていないでいた。
 シフィの体は細く、誰が見ても病人だと分かる程に、血の気のない白い肌をしている。
 そんな、とても一人では生きていけないシフィに、今からセウロはとても酷なことを伝えなければならなかった。
「……」
「セウロさん?」
 きょとんとしたシフィの声に、我に返ったセウロは難しそうな顔をして頭を掻いた。
 そして、口を開こうと決心したところで、先にシフィが声をあげた。
「今日はお兄ちゃん達、いつ帰ってくるかなー」
 しばらく、セウロは呆然としていた。
 その言葉の意味が解からなかった。
 セウロは、ただ己が伝えなければならない残酷な現実を、いかに彼女を傷つけずに伝えるか、それだけを必死になって考えていたからだ。
 だが、シフィの表裏の無いその眼を見てセウロは。
「……っ」
 言葉が詰まった。
 (今なんと言ったのだ? もしかして――)
 すべてを話そうと決意したセウロだったが、その一言で、もしやと。
 人の心が読めるセウロには解かった。解かってしまった。
 シフィが希望や、冗談を口にしたのではないと。
 彼女は、何の疑いもなく――兄達が今日も家に帰ってくるのだと、そう思っている。
「……」
 セウロは、彼女の容体の悪さを悟ってしまった。
 眉間に深いしわを刻み、うつむいて尋ねた。
 彼女の目は見れなかった。
「……昨日は……イザナとヴェインは帰ってきていたのか……?」
 そのセウロの言葉に、本当に嬉しそうに笑ってシフィは言った。
「お兄ちゃんとイザナ先生は、いつも帰ってきてくれるよ。いっつも、私と一緒なの。毎日、一緒にご飯を食べて、毎日、一緒に寝むるんだよ。……二人がいれば、私ちっとも寂しくないし、とっても楽しい。……私、二人が家族で本当に良かったっ」
 弾んだ声は、本当に楽しそうで、そのシフィの心から流れ込んでくる気持ちを直接、セウロは感じ取ってしまった。
 自身の膨大な魔力が、拒もうとも否応なしに、相手の感情を読み取ってしまった。
「……っ」
 堪らず、セウロは奥歯を強く噛みしめた。
 彼女は――幸せだった。
 自分の病気のことなど、微塵も不幸だとは思っていなかった。
 歩けないことなど、彼女は全く気にしていなかった。
 ただ、ヴェインと、イザナといられることが、彼女のすべてで、それだけでシフィは幸福だった。
「……こんな私のために、二人はとても優しくしてくれるから……。……でも、昨日は……あれ? いつ帰ってきたかな。あはは、忘れちゃった」
「……」
 ルーウィンのことは覚えていた。
 容体が悪化してからの記憶が、数日の出来事が曖昧になってしまっているのか。
 もし、これが、このまま続くなら。
 それは幸か不幸か。
 これで、辛い現実を見ずに済むのではないだろうか。
 (我は……なにをっ……) 
 少し、ホッとしてしまっている自分を、セウロは本気で殴りつけたくなってしまった。
 シフィは幸せなのだ。
 それは、仮初の幸福だろうか?
 彼女のこの幸福感は、間違っているだろうか?
 いや、これこそが真実であるはずだ。
 彼女の様に幸せを感じられる者こそが、真に幸せになるべきなのだ。
 だというのに――。
「ちくしょうっ……」
 思わず口に出てしまったセウロは慌てて、口を押さえて、すぐに作り笑顔をした。
 もう、自分がシフィに今言えることはなかった。
 セウロは立ち上がった。
「あれ? もう、お帰りになられるのですか?」
 熱でぼうっとしているのか、シフィの目は少し虚ろだった。
 時折、目蓋をこすり、強烈な眠気になんとか持ち堪えている様な、そんな感じだった。
「ああ。少し様子を見に来ただけなのだ。……また、我は来るよ。毎日でもな」
「わあ。本当ですかっ。……それは、お兄ちゃん達も喜びますっ」
「……そうだな。……イザナとヴェインはここ最近、少し忙しい。だからな……使用人を一人、我が雇って掃除や、食事の世話などをさせるが構わないか? 大丈夫。女性だ。……それに、いい人を連れてくるさ」
 思わぬセウロの申し出に、驚いたシフィはまた手をばたばたと動かし、慌てて言った。
「ええっ? そんな、悪いですっ。それに、お兄ちゃんやイザナ先生にも訊いてみないと……」
「二人の了解はとってあるよ」
 にこりと優しい笑顔でそう言って、セウロは入り口のドアまで歩いて行き、振り返ってシフィを見た。
 こちらに向けられている優しい表情。
 そのシフィの笑顔を見ているだけで、イザナとヴェインがどう彼女に接していたのか、セウロは理解できた。
 彼女達は、本当の家族だった。
 偽りのない家族だったのだ。
 誰もが、当たり前に手に入れられるはずの家族と生きる幸せが、確かにそこにあった。
 セウロは、入り口の戸を開けた。
 木製のドアがギギと軋んだ。
「あれ? お兄ちゃんこの前、扉が軋むの直すって言ってたのに……しょうがないなぁ」
「ふふ。ヴェイン達はアカデミーや、修行やら色々なことで忙しいからな。……じゃあ、我は行くよ」
 そう言って、部屋を出て行こうとしたセウロを、シフィのとても楽しそうな弾んだ声が止めた。
「ねぇセウロさんっ。セウロさんって、アカデミーの先生なんでしょう?」
「ああ。そうだ」
「私も……」
 突然、シフィの目蓋がすぅと落ちた。
 たくさん話してしまったからだろう。
 彼女の体が休息を必要として、強制的な眠りを促していた。
 それでも、シフィはなんとか最後まで話そうと、懸命に口を開いた。
「私も……歩けるようになったら……セウロさんの、授業受けて……みたいなっ。……お兄ちゃんと……一緒に……」
 ぱたりと、シフィの頭が枕に綺麗に落ちた。
 気持ち良さそうにすぅすぅと寝息が聴こえてきて、セウロはゆっくりと扉を閉めながら言った。


「……おやすみ。シフィ」






*******************






 そして、三年後――。






 
 石碑があった。
 所々が欠け、表面に書かれた白い文字は、殆どがかすれて見えなくなっている。
 薄暗い洞窟のような場所に、三人がいた。
 植物の根が地面をツタの様に覆い、壁には人骨と思われる骨がいくつもぶら下がっている。
 この冷たい空気が流れる薄気味の悪い洞窟は、ここに住んでいるエルフ達は絶対に近寄らない神聖――いや、禁忌と呼ぶべき場所だった。
 デビルズ・サンクチュアリと呼称されていることも、半分は恐れからであった。
 そんな所で、外見は普通の人間にしか見えない男女が、石碑を見ていた。
 一人の男は、白いローブにうらぶれた眼をした長身の男。
 隣では、ぎらぎらとした眼を洞窟内に警戒するように向けている巨漢。
 そして、髪を肩で切り揃えた綺麗な顔立ちの十五、六の少女。
 騎士の様な鎧姿に身を包み、少女は嗚咽を漏らして泣きじゃくっていた。
 そんな彼女に、巨漢の男――ヴィンセントは焦りながら、捲くし立てるように言った。
「ニ、ニアっ、本当なのかよっ!? だ、旦那が……ディールの旦那がやられちまったってのは!?」
「ああぁ……ディー様……ディー様が……うう……ああああっ」
 ヴィンセントの声が耳に入っていないかの様に、ニアは嫌々と頭を振った。
 両手で耳を押さえて、ただ主からの言葉を待つが、一向にその声は聴こえてこなかった。
 『捧戟福音(ラバンセディアッジュ)』の術により、すべての感情が主であるディールへと伝えられるニア。
 ニアは、常にディールとの繋がりを感じていた。
 その呪術が彼女にとっては、ディールとの絆で――それが、途端にぷつりと途切れてしまったのだ。
 今まで、そんなことはなかった。
 『捧戟福音(ラバンセディアッジュ)は禁呪――術者が死なぬ限り解けることはない。
 つまり――。
「な……何かの間違いだっ!? 旦那がやられるわけがねぇ! そんなことあるはずが!」
「いや……ディールさんは死んだ」
 ヴィンセントの希望をあっさり打ち砕いたのは、白いローブの男の言葉だった。
「馬鹿野郎っ! ヴェインっ! てめぇもディールさんの強さは知ってるだろう!? 簡単にくたばるわけがねぇ……!」
 食って掛かるヴィンセントに、ヴェインは無表情のまま石碑を眺めていた。
 返事がないヴェインに追求はせず、ヴィンセントは片膝をついて、地面を殴りつけた。
 どしん、と重たいものが落ちた音がして、地面が揺れた。
 顔を伏せて、搾りだすようにヴィンセントは言った。
「ちくしょう……やっぱり、俺達も行くべきだったんだっ……。……はじめから、なんだか嫌な予感がしてやがったんだ……! ちくしょう……あと、あと一歩のところで……!」
 ヴィンセントの嘆きをさして気にした風もなく、ヴェインは石碑に歩み寄った。
 石碑を撫でながら笑みをつくり、口を開いた。
「ディールさんの死は無駄じゃない。……ちゃんと、ディールさんは役目を果たしてくれた」
「……役目……?」
 涙に濡れた顔を上げて、ニアはヴェインに言葉を返す。
 ヴェインは白いローブをはためかせて、振り返った。
 片目につけた単眼鏡、モノクルの位置を正しながら言う。
「このデビルズ・サンクチュアリに入れたのが何よりの証。……魔王の肉体が、賢者により封じられたとされるこの洞窟。……ここに入れるのは、魔王の精神が、もう一つの封印より解き放たれた時だけだと、俺の『時の賢者』の知識は言っている。……つまり、ディールさんは魔王の精神を解き放つことができたのさ…………」
 だが、ヴェインの胸の内で、僅かな疑問が渦巻いていた。
 (……しかし……ディールさんは、魔王の精神の所在を知らなかったはず。……ジルフに知らされた偽の情報しか……。……俺の『時の賢者』の知識をもってしても、肉体の封印場所しか解からなかった。……ディールさん……あんたは余程、魔王と縁があるんだな……)
 二手に分かれて、封印を解く。
 そう命令したのはディール本人であった。
 ヴェインは偽の情報のことは、敢えて言わなかった。
 偽であろうと、それが魔王復活のための一手であるのは間違いはない。
 今は亡き『時の賢者』ジルフと、『闇の賢者』セウロ・フォレストが謀った策ならば、セウロ・フォレストに近づくことだけが、魔王復活の鍵となるからだ。
 ヴィンセントが立ち上がって、言葉を震わせながら発した。
「だけどよぉ……あんなに会いたがっていた本人がもういねぇんじゃっ……」
「私達が意思を継ぎましょうっ」
 そう言ったのは、今まで泣きじゃくっていたニアだった。
「ニア……お前……」
 ヴィンセントはその彼女の顔を見て、驚いていた。
 落ち着きを取り戻したその姿は、先程までの弱い少女ではなかった。
 瞳に力が戻り、亡き主の意思を成そうと、彼女は悲しみに暮れる弱い自分を乗り越えていた。
 ディールだけがすべてだった彼女は、ここにいる二人よりも遥かに、あの夜叉に心酔していた。
 故に、ディールの心を一番に理解していたのもニアだった。
 その少女がそう言ったことで、ヴィンセントも大きく息を吐いて、決意した。
「……そうだな。残された俺達がやらなくて、誰がやるよ……。旦那のためにも……俺は行くぜっ」
 両の拳をがんがんと打ち鳴らして、いつもの彼に戻った。
 そんな二人を見て、鼻で笑ったヴェイン。
「ふふ、俺も魔王に会わなければならないんだ」
 彼はディールの死に対して、悲しみはなかった。
 自分に自由をくれはしたが、最後まで彼はディールを信用することはできなかった。
 ディールは、自分のすべてを理解してくれた。
 ディールは、誰よりも真実に眼を向けていたし、尊敬できた。
 でも――彼には、ディールには、人を愛することだけができなかった。
 それを理解していたヴェインは、ディールに本当に心を許すことはできなかった。
 ニアに向けるディールの目は、単なる駒を見る眼で、ヴィンセントを見る彼の眼は、面白い喜劇を眺めている様な、そんな眼をしていた。
 そして、自分を見るディールの眼は。
「…………」
 だが、ヴェインは感謝していた。
 ディールに会えて良かった。
 ディールに着いてきて良かった。
 あの時の、あの選択が正しかったのか解からない――でも、今は真実だけが、自分を動かしている。
「さて、行こうか……。よろしく頼むぞ……ヴィンセント、ニア」
 愛や、情なんかじゃ手に入れられないものを、俺は見つける。

 たとえ――この世界すべてを終わらせても。









 







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