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改行なし
/改行あり

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字が詰まっていてモニタで読むには疲れる、という方は『改行あり』に切り替えてお読みください。


*改行なしVer*

 第1幕.『なんのために剣を』 (約二万二千文字) 


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◆第1幕〜第10幕・縦書き用テキストファイル


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 第2幕.『時の征服者はそうして消えた』 (約二万三千文字)

 第3幕.『初めての友達』 (約一万六千文字)

 第4幕.『魂の穢された日』 (約二万四千文字)

 第5幕.『瞳の奥の夜叉』(約二万千文字)

 第6幕.『その記憶の残滓は願う』(約二万四千文字)

 第7幕.『魔人達の宴』(約二万三千文字)

 第8幕.『諦めぬ人間は愚者か否か』(約二万五千文字)

 第9幕.『王都決戦』(約二万四千文字)

 第10幕.『世界の終わりのはじまり』(約四万ニ千文字)
















 第2幕.『時の征服者はそうして消えた』











*******************








 明るく暖かい日差しが光の衣となり、アカデミーの宮殿の様な厳かな廊下を包んでいた。
 建物から一歩外に出ると、眠気を誘う程に春らしい陽気にも包まれている。
 こんな日だからだろうか。
 いつもならば喧しい子供達のいる校舎など気分良く歩いていられない彼だったが、今日は珍しくゆったりとした気分で廊下を進んでいた。
 驚いた様に自分を見ている生徒達は、何故彼がこんな時間にここにいるんだと思案するも、その心をすぐに萎縮させ次々に顔を強張らせて頭を下げていく。
「おはようございます」と挨拶を交わす生徒に一瞥もくれぬまま、男はそれでも気分がすこぶる良いらしく、自分を見て心を萎縮させ焦りを感じている生徒達の横を上機嫌に通り過ぎていく。
 男は腰まである黒い長髪を艶やかに流し、数人の女生徒は夢うつつな面持ちで無意識にそれを目で追う。
 見るものすべてを威嚇する深い眉間の皺以外は、作りこまれた彫刻の様な美形をしていた――が、どこか氷の様な冷徹さを宿す表情が美しさを上塗りしてしまっている。それ故に、彼の印象は『美しい』よりも『恐ろしい』が勝っていた。
 さらに威圧感を倍増しにする長身と、『闇の賢者』である彼だけ着ることが許されている紅蓮のコートが、近寄りがたい彼を一層、世界の果てまですっ飛ばしてしまうくらいに、近寄りがたい存在にしてしまっている。
「ふん」
 軽く鼻で笑い、廊下の先にある剣術科の教室を睨みつけ、ニヤリと陰惨な笑みをこぼす。
 それを見て、より『心』をギュッと萎ませた生徒達は軽く小刻みに震えていた。
 場に緊張感さえ漂わせる男は萎縮する生徒達を眺め、いつもの光景に自嘲気味に哂う。とうに慣れているとはいえ、彼はその畏れを抱いた心を見ることが好きではなかった。
 己への畏れ、畏怖の念。
 魔術師を超越した彼に羨望の眼差しを向ける者達は皆、彼を称えながらも必ずどこかにそれと僅かな恐怖を抱いていた。
 (我は、そんな心達を見たくはないのだがな)
 それは膨大な魔力をその身に宿し、人々の感情と心の色を読み取ることができてしまう闇の賢者セウロ・フォレストにしか分からぬ苦行だった。
 ――化け物――
 ――たった一個で国を滅ぼすことさえできるとは、なんとも忌まわしき存在よ――
 これは先程、自分の横を笑顔で挨拶をして通り過ぎていったアカデミーの教員の心だ。こんなものは今まで思われた畏怖に比べれば、赤子の様に可愛げある念に過ぎない。
 例えばもし、この国で一番尊敬されている存在は?――と、それを国民に尋ねたならば、誰もが王もしくは、騎士団団長のバランと口々に言うだろう。
 その意見は二分することはなく、国民は皆一様に王とバランに畏敬の念を抱いている。
 だが、それをアカデミーの生徒に限定してみるとするならばどうなるだろう。そして、さらに質問をこの国で一番恐ろしい者は誰だというものに変えてみるとどうなるか?
 それは周知の事実――皆、口を揃えて言うだろう。
 闇の賢者セウロ・フォレスト――と。
「くっくっく」
 剣術科の教室の扉を前にして、含み笑いを漏らしたセウロ・フォレストは、芝居がかった動作で腕を前に突きだして一気にその扉を開け放った。
 中の生徒達全員がギョッとして、高圧的なオーラを発する彼を見て硬直した。
「ヴェイン・アズベルシアっ。今すぐここに出てこい!」
 開口一番そう叫んだ賢者に、「はぁ?」と声をあげたヴェイン。その彼に周りの生徒達が視線を注ぎ、皆の視線の交わる先にいるヴェインを見つけると、セウロは嬉しそうに笑った。
「はっはっは。ヴェイン・アズベルシア……まずは、逃げずにいたことだけは褒めてやろう」
「なんで俺が逃げなくちゃならないんだよ。……俺に、何か用か?」
 クラス中が凍りつく――あの恐ろしき闇の賢者に名指しされたのにも関わらず、ヴェインの態度はいつもと変わらない。
 いや、それどころか組んだ足を机にのせて、ふんぞり返って両手は頭の後ろという体勢を敢えて正さないままのヴェインは、いつもよりふてぶてしくさえ見え、生徒全員の血の気が引いていく。
 睨みつけるヴェインに対し、座った目をしたセウロは死刑宣告の様に告げた。
「……『特別授業』だ。今すぐ外に出ろ。ぶっ殺――おっと……鍛え直してやる」
 ヴェイン・アズベルシアは溜息をついた。
 (なんだって、俺はこんな奴に目をつけられたのだろう?)
 自分が何をしたか思い出そうとするが、全く思いだせない。 
 そもそも、どうしてこんなことになった?
 その始まりは、あまりにも唐突だった。











*******************











「いいですかヴェイン。間違えてはいけませんよ? 芋は今の季節には五種類が市に並んであります。その中でもスープに入れても崩れない固さのものはルテガ産のものかウォルズ芋です。他のものではスープの中で崩れやすく、ひどいものだと溶けてしまいます。決して間違えないでくださいね」
 そう書かれた紙のメモまで渡され、さらに部屋の出口でもう一度、念を押したイザナに面倒臭そうに「はいはい」と生返事を返すヴェイン。
 週に一度か二度、ヴェインとシフィと共に食事を摂る様にしているイザナは、今は女性が付けていそうな前掛けをしていて、おまけに頭には布まで巻いていた。
 そんな本格的な主婦の様な姿をしたイザナに、げんなりするヴェイン。
「いつも言ってるけどさ、別に飯まで作らなくていいんだぜ。先生」
「なにを言うのです。あなたも、そこそこ料理の腕が上がってきたとはいえ、まだ私の足元にも及ばないでしょう? 可愛いシフィに美味しいものを食べさせてあげたい……。だから、たまには作ってくれないかと、そう初めに頼んできたのはヴェイン、あなたではないですか」
 綺麗な青い瞳に見つめられ、そう言われるとヴェインは何も言えない。
「あ、いや、そうなんだけどな……」
 シフィに旨い飯を食わせてやりたい――そうイザナに言ったのは、確かにヴェイン自身なのだが、それはもう二年も前の話だ。
 王宮アカデミーに入学した頃、まだ生活に慣れぬ初めの忙しさもあり、ろくに料理も買い物もできていなかった時期があった。ヴェイン自身も、病気の妹には良い物を食べさせてやりたくて、料理が得意だと自ら豪語するイザナに頼んだことがはじまりだった。
 物腰柔らかいとはいえ、イザナとて貴族の男。そんな彼が料理が趣味だというのは、ヴェインにはどうにも腑に落ちなかったが、その腕前はそんじょそこいらの王室のコックなどでは太刀打ちできない程だったりして、実は知る人ぞ知る料理人としての肩書きをイザナは持っていた。
 彼曰く、料理も魔術の調合も似たようなものですから――という良く分からない理論を言うが、その腕前は本物だった。
 王宮に勤める魔術研究者のイザナは、アカデミーでも講師をしている。仕事の研究も多忙を極めるので、ヴェイン達と食事を共にするのはだいたい週に一度くらいのペースになっていたが、実は毎日でも料理を振舞いたいとさえ思っていた。
「本当はもっと作ってあげたいんですがね」
 少し、すまなさそうに言うイザナに逆に多大な恩があるヴェインは、あまり外にはださない気持ちだが心の中で恐縮する。
「なに言ってんだよ。先生にはシフィを診てもらってるし、それ以前に家のことだって……」
 イザナには言いだしたらキリがない程の恩があり、時にそれを思いだすとヴェインは、心と体が締め付けれる様な重たい気持ちになった。
 恩を無償で与えてくれる人が、この世にいるとは夢にも思わなかったし、今の自分達があるのはイザナのおかげで――シフィが生きていられるのも、そもそも俺自身、あの時――。
「……あんたは命の恩人なんだ。だが、もう今の俺はシフィを守っていけるし、飯くらい気にしなくても」
 そこまで言いかけて、イザナの表情が曇った。
「そんな悲しいこと言わないでくださいよヴェイン。私はね、あなた達と一緒に食事がしたいんですよ。私にとって、あなた達との食事は忙しい日々の楽しみなのですから、あまり重く考えなくていいのですよ」
 じぃ、と優しい笑顔で見つめてくるイザナの表情。それが嘘でないことも、裏表がないことにもヴェインは、この二年で嫌というほど思い知らされた。
 聖人の様に無償の愛を捧げることのできる人間が、この世にはいる。イザナという存在で、ヴェインは初めてそう知ったのだった。
「……ああ。分かったよ。んじゃ、行ってくるから」
 本当は、ありがとうと言うべきなのだが、気恥ずかしくてヴェインがそう言えたことは今まで指で数える程しかない。
 それにイザナにそう言ってしまうと、このお人好しのことだからそれだけで恩を全部返したことになりそうで――だから、ヴェインは思っても口にはしなかった。
「はい、気をつけて行ってきてください」
 王都の女性陣にも人気のある美貌のイザナに、前掛けをされて笑顔で見送りされるというのは、異性ならばきっと悶絶ものなのかもしれなかったが、同性であるヴェインは顔を引きつらせるより他なかった。
 ヴェインが部屋から出て行き、バタンと閉まった扉の音で奥のベッドで寝ていたシフィが目を覚ました。
「あれ……? お兄ちゃん、どこか行ったの?」
「おや。起こしてしまいましたかシフィ。ヴェインには買い物に行ってもらいましたよ」
 虚ろな目でボーっとこちらを見ているシフィの元へと歩み寄ったイザナは、すぐにいつもの様に額に手を当てる。
 (かれこれ一週間、熱が引きませんか……。また薬を増やさなければならないとは……)
 気に病む心をおくびにも出さずに、イザナは笑顔で気持ち良さそうに目を細めるシフィの額を撫でた。
「先生の手、ひんやりして冷たい……」
「はは。米を研いでましたからね。……今日は私が特製のスープを作りますよシフィ」
 イザナの言葉にパァと明るい笑顔を輝かせたシフィは、今の言葉で完全に目が覚めた。
「ほんとっ!? やったぁっ。私、先生のスープ大好きっ。この前のカボチャのも凄く美味しかったし、その前のお肉の入ったやつだって、とっても美味しかったっ」
「あはは、それは良かったです。……下ごしらえは済みましたから、後はあなたのお兄さんが買い物を間違えなければいいのですが。……ヴェインは妙なところで注意散漫ですからねぇ……」
 特に、最近のヴェインは家で話していても心ここにあらずといった具合で、よくイザナやシフィの話を聞き流していた。
 そんな時の彼はだいたいいつも、今のシフィの様な赤い顔でボーッと妄想にふけっているかの様にして、すぐにぶんぶんと頭を振ったりしていた。
「お兄ちゃん、なんだか最近楽しそうだと思わない、先生?」
 唇に手を当てて悪戯っぽい笑みで言うシフィは、小首を傾げるイザナに得意気に言葉を続けた。
「お兄ちゃん、きっと好きな人ができたんだよ。きっと、きっとそうだよ。きゃーっ」
 年頃らしく、はしゃいだ口調で言うシフィ。
「ええっ、あのヴェインにですか? まさか……。あははは」
 信じられないといった風にわざとらしく驚いてみるイザナだったが、実はその実情を知っていた。
 ヴェインは変わった。
 その変化は丁度、一ヶ月前――。イザナが、バランとヴェインを引き合わせた頃からだった。
 騎士団団長のバランと会えば、きっとヴェインの溜まりに溜まった鬱憤が晴れ、物事が良い方向へと導かれるだろうとふんで、イザナは、ルーウィンとバランが剣の訓練をしている時間を彼に教えたのだった。
 そして、それは物の見事に上手くいった。正直、イザナはここまで効果があるとは思いもしなかったし、だいたいそうなると分かっていればヴェインをもっと早くにバランに会わせていただろう。
 お兄ちゃん、なんだか最近楽しそうと言うシフィの言葉通り、ヴェインはこのところ、よく声を弾ませて笑っているなとイザナも感じていたし、どこかそれを保護者の様な気持ちで安心していた。
 そして、同時にイザナは口惜しかった。
 自分ではきっと、ヴェインをこうまで素直に笑う子に変えることはできなかった。――それは、懐の広さで知られるあのバラン・ガラノフ・ド・ピエールだからできたことなのだ。
 (やはり私は研究者……。先生は向いていないんですかねぇ)
 自嘲気味に心の中で呟いたイザナは、何か言いたそうにしているシフィに気がつき、笑顔を向ける。
「先生、お兄ちゃんの好きな人って、どんな人なんだろう?」
 ほぅと赤い顔で溜息をついて、夢見がちに兄の相手を妄想しているシフィ。
 イザナは吹きだしそうになるのを堪えていた。
 (伝説の勇者ですよ――あなたのお兄さんの想い人は)
 アカデミーの宿舎を出て、市街地へ伸びるいつも特訓をしていた大橋を渡るヴェイン。
 丁度、橋の真ん中にさしかかったところで、反対側から大きな馬車がやって来るのが見えた。馬が二頭に数人乗れる形の大きさの馬車は、造りこそ派手ではないが、どこか高級感のあるそれは乗っている人物が位の高い人物だということを示している。
 王都ラクフォリアは城を中心に円状の造りの街になっていて、街から城へ行くには、二つある内のどちらかの大橋を通らねばならない。
 一つはヴェインの歩いているこのアカデミー側に架かっている橋。そして、もう一つが反対側の王城の正門に直結している橋だ。
 勿論、アカデミー側の橋を渡っても同じ敷地にある城へ行くことができる。
 ちなみに、この二つの橋の造りを他国の王や騎士が見たら、敵に城まで攻め込まれたら下手をすれば二つの橋から挟撃されるではないか、なんと無用心な――と、だいたいは呆れるか苦笑するが、この国の何代も前の王は敢えてそれを良しとしていた。
 『二つの大橋は相手の戦力を分散することができる。さらに一方を崩せば、退路を確保できる』
 その前向きだか、後ろ向きなのかよく分からない名言により、この二つの橋は『前向き橋』『後ろ向き橋』と呼ばれ、未来あるアカデミーの生徒達は皮肉にも『後ろ向き橋』から毎日、登校するはめになっていた。
 (『後ろ向き橋』を通っているということはアカデミーの関係者か?)
 王城へ用がある者がこちら側の大橋を敢えて使うことはない。だから、きっとこの大きな馬車はアカデミーに用のある王宮の魔術師か何かだろうとヴェインは思った。
 ふと、彼は『後ろ向き橋』の下に目をやった。
 流れの緩やかな川で、その河川敷にはあのいつもの浮浪者がきっといるのだろう。 
 ヴェインは、あれから――二年間、一人で素振りをしていた『後ろ向き橋』の下には一度も行っていなかった。
 ルーウィンとバランと剣を訓練するようになってから、はや一ヶ月が経っていた。
 (今でも信じられない。俺が他人と剣を訓練しているなんてな……)
 橋の下で寝ている浮浪者の足の先が少し見えた。以前のただ、がむしゃらに剣を振る自分がそこにいる様な気がした。
 この橋の名の様に後ろ向きだったとは思わないが――かといって、今から考えると前向きであったとも思えない。
 ただ、ひた向きに己の剣と向き合っていた、あの時の自分。
 そして、今は……今まで遠ざけていた人と向き合っている。
 ついこの間のことだというのに、ずいぶん前のことの様な気がしたヴェインは自然に笑っていた。
 そして、ここ最近ではこう感慨にふけると、必ず頭に浮かび上がってくる笑顔があった。
「……っ」
 まだ慣れない。急に脳裏に浮かびあがるルーウィンの笑顔には。
 口をおさえて耳まで真っ赤にしたヴェイン。
 頭の中のルーウィンを必死で消し去ろうとするが、妄想はなかなか消えてはくれない。
 ぶんぶんと挙動不審に頭を振っていた彼は、目の前に先程の馬車が止まっていることに気がつかなかった。
 がしゃり、と音がしてヴェインは初めて接近していた馬車と中から出てきた人物に気がついた。
「――え」
 ヴェインは少し声をあげ、体を硬直させた。
 ずしり、と何かとてつもないプレッシャーが、眉間に深い皺を寄せている目の前の男から発せられていた。
 (な……!?)
 急速に全身から力が抜けていく様な奇妙な感覚に襲われて体の自由が利かなくなったヴェインは、焦りを感じながらも何とかその背の高い男を見上げた。
 無感情に、いや、汚いものでも見るかの様な目を向けてきている男と目が合った。
 雅やかな装飾のあるローブは、王宮の魔術師が着ているものと似ているので、一見して男が魔術師だろうというのは理解できた。
 だが、どこかその表情や雰囲気が、街で時折すれ違う荒くれ者達や、ゴロツキに近い様な気がして、男を普通の魔術師だとは思えない。
 印象はゴロツキの様な魔術師――。
 だが、品がないわけではなく、むしろ造りの丁寧過ぎる美形はどこぞの吟遊詩人の様だった。
 さらに、自分と同じ黒髪も、その質はヴェインのをただの布とするならば、魔術師の髪は輝く高級なシルク――何よりも艶やかに流れる長髪は、男性のものとは思えない程に美しい。
 息が詰まるほどの美しさと、謎の威圧感を発する魔術師の目。それは、相変わらずヴェインを虫やゴミでも見る様に射抜いていた。
「な、にか用……か?」
 わけの分からない重苦しさに耐え、なんとかヴェインがそれだけを発し――。
 どん、と自分の体がぐらついたのを感じた。
「え?」
 ヴェインの目の前の天と地が揺らいで反転した。
 何が起こったのかは、分からなかった。
 目の前にいたはずの魔術師の姿が何故か少し高い位置にあった。そして、下方向からという妙なアングルで、ヴェインは男の口が僅かに動いたのを捉えていた。
 し、ね、げ、す、や、ろ、う――。
 (死ね下衆野郎!?)
 口の動きだけで理不尽極まりない暴言を吐かれたのだと理解して、次にヴェインは自分が橋から突き落とされて、今まさに川に落ちようとして宙にいるのだということを悟った。
 水飛沫の中に足から綺麗に飛び込んで、勢いを殺さずに川底を蹴って怒り心頭で叫びながら、顔を水面に出した。
「てめぇぇぇぇ!」
 橋の上では、何事もなかったかの様に走り去って行く馬車の姿。
 それを見て、ぴくぴくと血管が切れそうになったのを感じたヴェインは、水の上を走っているのではないかという程の速さで岸まで泳いで、土手に足をかける。
 視界の隅で、もそりと動いた箱から顔を出した男は、満面の笑みをずぶ濡れのヴェインに向ける。
「おう。ニイちゃん、久しぶりだなぁ。元気に」
「おっちゃん、また今度な!」
 少し顔を見なかっただけの浮浪者の顎鬚が腹まで伸びているのを見て、少し怒りが鎮まるのを感じたが、敢えて和む心を抑えつけたヴェインは、鬼の形相を宿してグチュグチュと水を含ませたズボンと靴を鳴らしながら橋に駆け上がった。
「はぁっ……はぁっ」
 荒い息を弾ませて、全身から垂れる水をボタボタと地面に染み込ませる彼を通行人達が、ぎょっとして見て行く。
 (馬車は……)
 アカデミーの門をくぐって、角を曲がり見えなくなった馬車の方向を眺めたまま、ヴェインはしばし放心し、頭を振って考える。
 まるで、辻斬りにでもあったかの様な出来事を、頭の中で初めから整理する。
 (いいか? 俺は今、橋から落とされた。それは何故だ? 一から考えろ……。確か、俺が橋の上を歩いていて、馬車が止まって……そしたら、中から妙な雰囲気の魔術師が出てきて――俺はそいつに何かしたか?)
 自分が何かしたから川に落とされた。そうか、俺は川にいきなり突き落とされるようなことをしたのだ。だったら、仕方ないではないか。
「……」
 (いやいや)
 考えれば考える程に、愕然とした。
「俺、なにもしてない……よな?」
「ずぶ濡れ……ですよ」
 ずぶ濡れのヴェインを寒そうに見て、露店の少女は笑った。
 暖かくなってきたとはいえ、まだ上着が必要な春を迎えたばかりのこの季節。ずぶ濡れのヴェインを見た通行人達は皆、酸っぱそうな口をして通り過ぎて行く。
 店主の娘か店を任されている少女が、まるで濡れていることに気がついていないのか?とでもいう風に言うもんだから、ヴェインはぶすっとした口調で返した。
「知ってるよ」
 たくさんの人で賑わいごった返す大通りに、軒を連ねる露店。
 そこの少女に今は言われたが、ヴェインはこの市に来るまでに、かれこれ十回は声をかけられていた。
 風邪引くよ、寒そうね、どうしたの?……などなど始めは無視していたが、途中から「分かってる」「見れば分かるだろ」と語気荒く、八つ当たり気味に返していた。
「川にでも落ちたの?」
「いいから、芋」
 代金を露店の少女の手に置きながら不機嫌に用件だけを告げて、目線を合わせないヴェイン。
 受け取った硬貨を仕舞う少女は、脇に置いてあったリンゴの上に被さっていた手拭を笑顔で差しだした。
 果物を拭いていたものであろう手拭を見て、眉をしかめたヴェインに、少女は焦って言う。
「まだ、そんなに拭いてないから……」
「はぁ、どうも」
 ありがたく顔と、水を大量に含んだ髪だけをわしゃわしゃと拭いて、びっちょりと三倍程の重量になった手拭を芋と引き換えに渡す。
「風邪……引かないようにして……くださいねヴェインさん」
 伏せ目がちに言う少女に、少し八つ当たりしすぎたかと彼は心の中で反省する。
「ああ、ありがとう」
 露店を後にして、大通りの人ごみに目をやって、溜息混じりにうんざりしたところでヴェインは、あれ?と感じた。
 身を翻して露店の少女の前へと、またやって来る。
「どうして、俺の名前?」
「え? ああ……えーと……」
 慌てて、ばたばたと手を振って赤い顔をする少女。
 接客業が壊滅的に向いていなさそうな気性を感じさせる口ごもり方を見て、気長に待つことにしたヴェインは、通りの向こうの人だかりに目をやりながら待つ。
「あ……。あれですよ」
「え?」
 少女の言葉に振り返り、彼女がその人だかりを指していることに気がつく。
「ヴェインさん、よく勇者様と一緒に歩いてますよね。それで、知ったんです」
「ルーウィンと? それで何故、俺の名前が分かるんだよ」
 怪訝な顔で、人だかりをもしかしたらと期待を込めて見ながら、少女に問う。
 そして、通りの向こうから「勇者様」と人々の声が聴こえてきた瞬間、ヴェインの心臓は早鐘を打つかの様に暴れ始めた。
「え? 何故って……勇者様と仲良さそうに歩いていたから……。あの隣の男は誰だって皆、噂していて……」
「う、噂……!?」
 上擦った声をあげて、通りから少女に視線を戻したヴェインに、ビクッと体を震わせて少女は言う。
「え、ええ……。皆さん、ヴェインさんのことを知っていましたよ。勇者様と仲良ければ、有名になっても当然だと……思いますけど」
 少女が皆さんというのは、この露店に来るお客さんだということか。それは、不特定多数の人間が自分のことを噂していることに他ならない。
 勇者ルーウィンと一緒に歩いているだけで、自分も有名人になってしまっているのかと、少し気味の悪いものを感じながら、それならば当人の苦労はもっと計り知れないのではないか、という考えに至るヴェイン。
「ルーウィンって、大通りに来るとだいたいこんな感じ?」
 人だかりに目をやりながら言うヴェインに、少女はコクリと頷いた。
「そりゃあそうですよ。だって勇者様ですよ」
 ――この世界の希望でしょ――とつけ加える少女の言葉に、どこか気が重くなるのをヴェインは感じた。
 今まで気にしたこともなかったヴェインは、気がつかなかった。
 勇者ルーウィンのその尋常ならざる人気と名声に。
 (そりゃそうじゃないか。……ルーウィンは世界の勇者様なんだ。しかも、この国にとっては王子の様な存在で、あの見目をしているのだから人だかりができて当然だ。……そんなルーウィンと、一緒にいる俺の名前が、街の人間に知れ渡るのも当たり前のことじゃないか)
 ヴェインはいても立ってもいられなくなり、そんな人だかりへと駆けた。人の波を押し分け、行き交う人に揉まれながら小さなルーウィンの姿を見つける。
「ルーウィン!」
 ハッとして振り向いた小さな勇者の顔が、満面の笑みに彩られる。
「ヴェインっ。偶然ですねっ」
「あ、ああ……。いや、こんだけ人が集まっていたら嫌でも分かるさ」
 周りに群れるルーウィンのファンの様な街の人間に皮肉っぽく聞かせたヴェインは、すぐに勇者の手をとる。――途端に全身が先程、魔術師に睨まれて体が硬直した時とは、全く別種の緊張感に包まれて、思考が停止を始める。
  やわらかく冷たい線の細い小さな手。とても、男のものとは思えない。
「ヴェインはお買い物ですか? あれ? ……服、濡れていませんか?」
 ルーウィンが純真無垢な少女の様に訝しげに自分を見上げ、小首を傾げたところでヴェインの中の何かが爆発する。
 ヴェインは彼の手を握ったまま、わき目も振らず駆けだした。
「わっっ。ヴェインどうしたのですかっ?」
 駆けて行く二人を呆然と見ていた民衆は、すぐに自分達のスターを連れ去っていくヴェインに非難の声をあげたり、勇者に手を振ったりする。ルーウィンはというと律儀にも、そんな街の人間に小さく頭を下げている。
「すみません皆さんっ。少し急用ができてしまったようですっ」
 ギッギと音が鳴りそうな程に固まった真っ赤な顔を、連れられて後ろを走るルーウィンに向けてヴェインは言う。
「あんな人の迷惑も考えないで群れる連中に、そんなこと言わなくたっていいんじゃないか?」
「いえ、でも……」
「俺は知らなかったよ」
「え?」
「ルーウィンが勇者ってだけで、あんなに人が集まってくるなんてさ」
「あはは……」
 ルーウィンの少し乾いた笑いは、その全てを物語っている様に思えた。
 きっと、ルーウィンは街の人間の態度を『仕方がない』ことだと、諦め許容してしまっている――それが自分の使命だと思い込んでいるんだ。
 そう思ったヴェインは、今のが自分だったらと置き換えて考えていた。
 (きっと俺なら群れてくる連中をウザがって、ゆっくりしたいと思うだろうな。……と、その前に人が集まらないか……)
 自分がルーウィンの様に万人受けする愛らしく、そして凛々しくも見える顔をしていないことに気がつき、それは例えの話じゃないかと頭を切り替えてヴェインは街の人間を批難する。
「あいつらルーウィンのことなんか、これっぽっちも考えてねーよ。誰にだって、ゆっくり歩きたい時や静かに過ごしたい時があるはずだ。ルーウィンはそんな時ないのかよ? これ、ずっとなんだろ?」
「僕は……それは……たまには、ある……かもしれません。でも、それでも彼らのしていることは間違っていないですよ。皆さんとても良くしてくれますし……」
「よし、ルーウィンは今『ゆっくり歩きたい時もある』と認めたな」
「え、ええ?」
 手を繋いで駆けながらヴェインは、少し前までなら絶対にしなかったであろう笑顔をして告げる。
「だったら俺があいつらに言ってやるよ。ルーウィンだって静かに過ごしたい時もあるから、街でも見かけても声をかけるなって――」
「い、いいですよヴェインっ」
 申し訳なさそうな顔で言われ、きっと喜んでくれると考えていたヴェインは、大通りから逃避行する足をぴたりと止めてルーウィンを見る。
「どうしてだよ? 我慢してるんだろ? 本当は街の連中にワイワイ騒がれるのが嫌いなんだろ?」
「嫌いだなんて、そんなことは……ただ、そうしろとお父様にも言われていますし、街の人達も僕のことを好いてしてくれているわけですし……それを迷惑だとは……」
 (とても――言えないか)
「お父様って、王のこと?」
「そうです。……お父様は民の人々が僕を信仰するのは当然で、それを日々保つことでこの国は未来に安心を抱いていられると、そう僕におっしゃってくれたのです。僕が皆の声を聞き、笑顔でいれば人々は安心するのです」
世界を救うと伝承にある勇者が笑顔であれば、きっと幸福に包まれた世界がやってくる――と、人々は思うだろうと。
「でも、それじゃあルーウィンは心休まる時がないじゃないか、それに何だか全部をルーウィンに押しつけて、安心するって……そんなの……」
 ずるいじゃないか、そこまではヴェインは言えずに飲み込んだ。
「それが、勇者として生まれた僕の使命なんです」
 ニコリといつもの笑顔で笑ったルーウィン。
 その仕草に、抱きしめてしまいたいくらいの衝動に駆られたヴェインは、溢れる気持ちを無理矢理おし留める。
「シンドイとか、嫌だとか……ルーウィンは言ったことがあるのか?」
「……えっと……」
 ルーウィンはそんな風に考える様に育てられてこなかった。
 勇者としての自分を誇りに思い、世界のために命を捧げる英雄であれと教育されてきた彼に、弱音や本心など皆無――いや、それは、あってはならないものとして考えられている。
 その英雄にも、心配や弱い部分があると民に知られれば、絶対的なものだとして崇められている信仰への大きな不信が生じることになる。
 増え続ける魔物達に怯える現世の不安と、今にも折れてしまいそうな心の脆さを人々は信仰することで保ち、それをたった一人のルーウィンに託してしまっているのだ。
 (そんなの、おかしいじゃないかっ)
 心の中で吐き捨てたヴェインは、ルーウィンの身の上を自分のことの様に感じ、同情していた。
「いいんだよ。弱音吐いたって、それが普通だろっ」
「でも……僕は勇者で」
「勇者だって心は俺達と変わらないはずだ。……っていうか、ずるいんだよ。俺はあの時、俺の弱い部分を見せたのにさ、ルーウィンはいつだって弱音なんか吐かないで完璧でいるじゃないか」
「完璧だなんて……そんなことない。僕だって……」
 ああ、と頷いてヴェインは微笑んだ。
「ほら、やっぱり自分じゃそこまで完璧だとは思ってないんだろ? 正直になればいいんだよ。街の連中にも毎回騒がれるのも嫌なんだって正直に言えばいいんだ」
「でも、そんなことをしたら……勇者としての威厳を失い、それが人々の不安を煽ることに繋がってしまう。……僕だけが少し我慢すれば、それで皆が安心していられるのなら僕はそうするべきだと思うんです」
「で、でもなぁっ、それでルーウィンが辛いならっ」
 なおも食い下がるヴェインに、ルーウィンは彼の両手を包み込むように優しく握り、微笑みを向けた。
 途端にヴェインの言葉が制止する――ああ、それは反則だ、と心の中で彼は思う。
 そして、ルーウィンはほんのり赤みを帯びた頬をして頭を下げた。
「……ありがとうございます。そんなことを言われたのは……初めてです。……嬉しい」
「――っ」
 涙ぐんだ顔で手を握られて、笑顔で――ああ、もうそれも反則過ぎるっ。ヴェインは心の中で絶叫し、目の前のルーウィンの艶かしく動く唇の動きに胸を締め付けられていた。
「ヴェイン、あなたがそう言ってくれただけで、僕の本心を理解して助けてくれようとしただけで、僕の心は今とても軽くなった様な気がします。……本当にありがとう」
「お……おう」
「また……ヴェインには、その……」
 体をモジモジとさせ、ついでに握っているヴェインの手もさわさわする。
 その度に、とても気持ちの良い感触に包まれ鼓動が速くなっていくヴェインはもう、この世のものとは思えない程に、その手の気持ち良さに意識が遠のいていくのを感じる。
「また……僕の……よ、弱音聞いて……くれますか?」
 夢見心地な快感から、なんとか脱出しながらヴェインは返す。
「あ、あああっ。あ、当たり前だっっ。それが、友達だろう?」



「ヴェイン……」
「弱音吐くのなんか友達だったら当たり前だ。……だからルーウィンは弱音吐いたっていいんだっ」
 俺にだけな――と、どうしても言えなかったヴェインは奥歯を噛み締め、それでも、目の前で嬉しそうに自分を見ているルーウィンを見て、とても暖かな気持ちに包まれた。
 (友達。そんな言葉を自分が言っているなんてな、とても信じられないけれど、これで――これで良かったんだ)
 そう確信することができるのは、この胸の温かさがとても心地よかったから……そう素直に思えたヴェインは、ルーウィンの赤い瞳を真っ直ぐ見て言った。
「その……ルーウィン。友達なら……な。その、俺達が友達だと言うの、なら……」
 (ええい、駄目元だっ)
「友達なら?」
 不思議そうに言葉を返すルーウィンに、ヴェインは力の限り勇気を振り絞って言う。
「たまには、友達の家で飯を食べるもんだっ」











*******************











「まったく、まさか……いきなり勇者様を連れてくるなんて驚きましたよ」
 小さな部屋のそう大きくもない丸いテーブルを皆で囲んで、食事を摂っていた。――と言ってもシフィは、ベッドの上で上半身だけ起こして自分の足にスープを載せた盆を置いている。
「いきなり押しかけてしまって……ご迷惑だったでしょうか」
 ごめんなさいと、そう謝る勇者に顔が青ざめるくらいに焦って自分の言葉を訂正するイザナ。
「め、滅相もございません。勇者様が来ると知っていたなら、もっとご馳走をと思いましてね……」
「気にしないでくださいイザナ先生。それに、僕は今とてもビックリしているんです。……こんな美味しいスープを飲んだのは生まれて初めてで、感動しています」
 本当に感動している様に、ルーウィンは何度も頷いてはスプーンを口に運ぶ度に、ほぅ――と甘い溜息を漏らしている。
 そんな彼の様子に、ベッドの少女はクスリと笑う。
「ふふふ、イザナ先生のスープとても美味しいよね」
「ええ、とっても。この味――羨ましいです……。シフィはいつもイザナ先生とヴェインと三人で食事をしているのですか?」
「イザナ先生はたまにだけど、お兄ちゃんとは毎日一緒だよ」
「いいですね。兄弟というのも僕には羨ましいです。……なんだか温かみがあって、皆で食べるご飯……これが家庭の味というやつなんでしょうか?」
「かてーのあじ?」
 ルーウィンの言葉に、きょとんとするシフィ。
 そして、ヴェインの口へ運ぶスプーンの動きがを止まる。
 そう言うルーウィンはいつも何を食べているんだろう、というか――やはり食事は王と摂っているのだろうかと考えて、急に夕飯に誘っても大丈夫だったのだろうかと改めて心配になってくる。
 ルーウィンを家に招いたヴェインは、どこか焦っている様なイザナの様子を見て、始めはまずいことをしたかなと思った。
 イザナが焦ることは、そうあることではないのだ。
 しかし、勇気を振り絞って食事に誘ったヴェインに「嬉しい!」と一言で了承したのはルーウィンなのだし、何も無理矢理連れてきたわけではない。
 そして、イザナの様子を見て始めは心配していたヴェインも、今はシフィと楽しそうに話してくれているルーウィンを見て安心していた。
 だが、イザナに至っては時間が増すごとに焦りの色が濃くなっている。しかし、ヴェインはそんなことよりもルーウィンが自分の家にいるという展開に、高鳴る胸を抑えつけるのに必死だった。
「ルーウィン、またウチで食事をしたい時はいつでも言ってくれよ。俺が先生を呼んでやるから」
「本当ですかヴェインっ。ええ、是非また誘ってくれたら嬉しいです。……でも、なんだか悪い気がしますね。いいんでしょうか?」
「いいって、いいって。なあ、先生?」
 機嫌よく喜ぶルーウィンを見て、ヴェインは嬉しくなっていた。
 対照的に少し暗い面持ちのイザナ。
「あ、あのルーウィン様。こちらで夕飯を食べることは誰かに話しましたか?」
 恐る恐る尋ねるイザナに、ルーウィンは平然と返す。
「あはは、心配しないでくださいイザナ先生。僕はよく外食をするんです」
「外食?」
 意外なルーウィンの言葉にそれを思わず反芻するヴェイン。
 外食という言葉が、真面目で優等生なルーウィンから聞いたのを皆が、意外という風に感じていた。
 その空気を感じとってか、ルーウィンがすぐに慌てて手を振って訂正する。
「あ、いやっ外食と言ってもセウロと……。あ、あの賢者と食事をすることが多いんです僕は」
「がっ……!」
 急にガキッとスプーンを噛んでテーブルに突っ伏したイザナは、頭を抱えながら何かブツブツと呟き始める。
「まずいまずいまずいまずい。これは非常に、まずいまずい……」
「お、おいイザナ先生?」
 そんな、壊れた彼の様子を初めて見るヴェインは、顔を引きつらせる。
 ベッドでは「まずくないよー美味しいよー」と暢気に言うシフィ。
「どうしたんだよイザナ先生」
 小声で彼に耳打ちするヴェインに、バッと顔をあげたイザナは、青白い顔でルーウィンに聴こえぬ様に言った。
「あなたは、とんでもないことをしてくれましたね……ヴェイン」
「はぁ? なんでだよ。ルーウィンはウチで食事するのを大丈夫って言ってるじゃないか」
「勇者様が天然なのは有名じゃないですかっ。これは全然、大丈夫ではないですっ。いいですか……あなたは、とんでもない人にこれから目をつけられるでしょう。……ええ、これは確実です」
「と、とんでもない人?」
 鬼気迫るイザナの言葉に、ヴェインは喉をゴクリと鳴らす。
「ヴェイン、あなたは闇の賢者セウロ・フォレストを知っていますか? 勇者ルーウィン・リーシェンを溺愛しているという」
「セウロ……さ、さあ? 有名なのか?」
 頭を抱えて、いよいよもってまずい事態になったとでも言う様にイザナは声に緊迫感を漂わせた。
「あなたはアカデミーで最も恐れられている存在を知らないと言うのですか……ああ、そうでしたね。あなたはルーウィン様と話せる様になる最近までは、友達一人いない根暗さんでしたね」
「根暗は余計だっ」
 近頃のヴェインは、アカデミーでもルーウィンと話すことが多くなっていた。
 始めは皆、そのヴェインの変化に戸惑っていたが、しだいにルーウィンが仲良く話している彼を誰もが放っておけなくなり、他の学生達も自然と二人の会話に参加し始めていた。
 そうやってヴェインは、自身が気がつかぬうちに、生徒達の輪の中に少しずつだが入ることができるようになっていた。
 それは、本当にここ最近のことで、ヴェインはまだ、そんな自分の変化に気がつけていなかった。
 イザナは大きく息を吸って、少し心を落ちつけながら言う。
「闇の賢者にだけは逆らうな――アカデミーの生徒ならば……いえ、私のような講師でさえも誰もが心に刻んでいることなのです」
「大袈裟なんじゃないか……? まあ、とりあえず、そいつを怒らせなきゃいいわけだろ?」
 軽く笑い飛ばすヴェインに対して、イザナは目を閉じ首を振る。
「もう……手遅れです」
「どうして?」
「……賢者セウロは先月バルトゥークの国に招かれ、旅に出ていたのですが、今日帰ってきたらしいのです。先程も言った通り、セウロは勇者ルーウィンを溺愛しています。それはもう……我が子の様に、生き別れた兄弟の様に、数千年の時を経て輪廻転生し再開を果たした恋人の様に――です。分かりますか?」
「う……。ま、まあ……どれだけ愛されているかは、よーく分かった」
 たじろぐヴェインに、イザナは追い込むようにズイと顔を近づける。
「いいえ、あなたは全然分かっていません。そんな賢者が一ヶ月間、愛するルーウィンと会えなかったのですよ? それはそれは、きっと今晩のルーウィンとの食事を賢者セウロは楽しみにしていたでしょう……私の知る賢者の性格から考えて、それは間違いない」
「え、えらく寂しがりな奴なんだなぁ。……あははは」
「ふふふ。段々と事のまずさが理解できてきたようですねヴェイン。……そんな一ヶ月間、楽しみにしていたルーウィンとの食事をっっ。あなたは台無しにしてしまった。きっと……闇の賢者セウロ・フォレストは、最高のタイミングで勇者との食事をかっさらった、あなたを血祭りにあげようと考えるに違いありません」
「そ、そんな大袈裟な……。血祭りって何だよ? というか、冷静に考えれば俺は全然悪いことしてないじゃないか。そりゃあ、楽しみにしていたなら、気の毒なことをしてしまったと思うけどさ……。俺は何も知らなかったんだぞ?」
 くくく、と少し壊れた含み笑いをして、イザナは頭を抱える。
 先程からのイザナの常軌を逸した反応に、恐いからいつもの普通の先生に戻ってくれと願うヴェインだった。
 (それ程までに、闇の賢者が恐れられているってことか……)
「大袈裟なものですか……勇者ルーウィンに好意を抱く人間は少なくありません。しかし、誰もがその想いを伝えることなく心折られてしまうのです。賢者の手によってね。……私が知っている限り一番、軽いもので全治五ヶ月です」
「はぁ!? 賢者が手ぇだしてくるっていうのかよ!?」
 声が大きいと、しーっと人差し指を立てるイザナ。
 ルーウィンはコソコソと話す二人を気にせず、シフィと楽しそうに話している。それを確認して、イザナは同情の眼差しを向けて言う。
「誰も闇の賢者には逆らえないのです。……ヴェイン、あなたはこの国最強をバラン騎士団長と思っているようですが――ええ、勿論、それは民が皆そう思っているでしょう。ですが、それは『剣』でならばの話です。国の武術大会に魔術師は出れませんからね……。しかし、実は純粋な戦闘力で言えばこの国最強は、圧倒的なまでの差をつけて闇の賢者セウロ・フォレストなのです」
 まさか、とヴェインは両手をあげて肩を竦めて、ぎこちなく笑う。
 (あのバランより強いだって? そんなわけが……)
「信じなくても構いませんが……どの道、あなたはそれを数日中……もしかしたら今すぐにでも体験することになり、信じざるを得なくなるでしょう。下手をしたら今晩、この部屋に怒鳴り込んできてもおかしくはない……彼はそんな人なのですよ」
「そんな奴が世界を支える三大賢者の一人でいいのかよ……」
 三大賢者とは、この世が生まれた時から世界のバランスを保ってきた影の功労者だ。
 時、闇、光の三つの称号を持つ賢者達は、おとぎ話にもでてくるくらいで、この世界に古の時代から存在していた。
 賢者とは代々受け継がれるもの――先代の闇の賢者は何故、セウロという者を賢者にしたんだろうと、ヴェインは知りもしない先代の賢者を恨んだ。 
「私もたまにですが、彼が賢者であることに疑問は感じます、が……しかし、ヴェイン勘違いしてはいけませんよ。セウロは賢者としての資質と正義感や道徳は人並みに持ち得ています。その魔術の実力も本物ですし、功績も素晴らしいものです。――ただ……」
 そこでイザナは勇者ルーウィンを流し見て。
「彼のことになると、もう周りが見えないというか……無茶苦茶なのです。きっと、それ程までに愛しているのでしょう」
「愛……」
 複雑な面持ちで呟いたヴェインにイザナは微笑み言う。
「つまり、あなたの恋敵というわけですね」
「ばっっ」
「何を焦っているのです。そんなこと、とうに気がついていますよ。――いずれにしても、賢者セウロと戦うならば早い方が怪我も軽いでしょう。……死なないでくださいねヴェイン」
「あ、あのな……」
 ポンと肩に手を置いてそう言ったイザナは、やっといつもの調子を取り戻したようだった。
「ヴェインこの後は、いつもの様にバラン様と稽古ですか?」
「ああ。そのつもりだが……」
「だったら今日は食事を終えたら、すぐにルーウィン様と稽古場に向かってください」
  焦りが無くなったと思ったら妙な事を言うイザナを胡散臭そうに見て、ヴェインは尋ねる。
「どうして?」
「ここにはシフィがいるのですよ? いきなり賢者が怒鳴り込んできて、入り口から攻撃呪文でもぶっ放されたらどうするのですか」
 その一言が決め手となり、ヴェインは理解した。
 今、自身がどれだけ危険な状態であるのかを――。











*******************











「な、なあルーウィンは賢者セウロと仲が良いんだよな?」
 アカデミーの門をくぐり、バランの待つ校舎横の庭園へと向かっている途中で、ヴェインは落ち着きない様子で尋ねていた。
 イザナに脅し、というか事実を聞かされた彼は、いつ賢者に奇襲をかけられるのか気が気ではなかった。
 (べ、別にビビってるわけじゃねぇ……用心に越したことはないはずだ)
 辺りを血走った目で警戒するヴェインに、やはりそれに気がつかないでいる天然なルーウィンは、笑顔で肯定した。
「ええ。仲が良いというか、僕とセウロはたぶん兄弟の様なものだと思います。……セウロと僕は一緒に育ったから」
「兄弟のようなもの、か……」
 先程、シフィと話していたルーウィンが、兄弟がいることを羨んでいたのをヴェインは思い出した。
「なんだ、ルーウィンにもそんな家族がいるんじゃないか」
「でも、血の繋がりはないから……。それに、セウロは僕を大事にしてくれます。だけど、それがなんだか……セウロが自分の幸せよりも僕のことばかり気にかけているように思えて、辛い時があるんです。……だから、本当の兄弟がいるヴェインが羨ましい」
「……」
 それは、賢者セウロに限ってだけではないだろう。
 王も、そして、この国のすべての者が勇者ルーウィン・リーシェンを特別な存在として守り抜いているのだ。
「でも、家族って仲良いと、そんな感じだと思うけどな。自分のことよりも心配するなんてのは当たり前じゃないか?」
 俺だって、シフィさえ助かるなら――あの時の様にもう一度、命を投げだすだろう。
 シフィの病気さえ治るなら、俺はこの命を悪魔にだって売り渡しても惜しくはない。
「そうなんでしょうか……。そう、ですね。きっと……。なんだかヴェインとシフィを見ていると、そんなものだと思えるようになりました。……ありがとうございます」
 急にペコリとルーウィンにお辞儀されたヴェインは、慌てて何故か同じく頭を下げた。
「なに言ってんだよ。そんなの普通なんだからさ、気にしなくていいんだよっ。……あ、あとさセウロって怒ると恐い……のか?」
 おずおずと尋ねるヴェインに、あははと声をあげて笑ったルーウィンは、手をぱたぱたと振った。
「まさか、僕はセウロが人に怒ったところなんて見たことがありませんよ。セウロはとっても、優しいんですよ。博識で何でも知っていますし、話していると面白くって……。あっ。そうだ、今度ヴェインにも紹介しましょうっ。前からヴェインに会わせたかったのですが、セウロは今日までバルトゥークに行っていたので機会が無かったんです」
 しっかりと、今日セウロが帰ってくることを覚えているルーウィン。
 ヴェインは、ルーウィンが自分の食事の誘いを何の迷いもなく了承したことに、少し違和感を感じて聞いてみた。
「あのさ、今日はそのセウロと夕飯は一緒でなくても良かったのか? ……その、一ヶ月ぶりなんだろ? 俺の家で食べてたりしたら、その、怒ったりは……しないのか?」
「あはは、大丈夫ですよヴェイン。セウロはそんな事では絶対に怒らないですから」
 うーむ、と顎に手を当ててヴェインは、イザナとルーウィンの話の食い違いに頭を悩ませる。
 (きっと先生の奴、俺のこと驚かそうとしてやがったんだな。きっと、そうだ。だいたい、そんな事で急に攻撃魔法ぶっ放す奴がいるかよ)
 ――と、そこでヴェイン昼間の橋での出来事を思い出す。
 (まあ……急に橋から突き落とす様な魔術師はいたけどなぁ……)
「おっ。二人とも、今日も遅れずに来るとは我輩は毎日、感心の嵐ではないかっ! ふぅはっふぅはっは」
 いつもの異様な笑い方でバランが出迎えると同時に、夜の二度目の鐘が街に響き渡る。
 音量に反し、澄んだ夜気に溶け込んで様に消えていく鐘の音をうるさいと思う人は、きっといないだろう。
 そんな心地よい音が、三人の稽古の合図だった。
「ルーウィン殿、そう言えば今日はご帰還果たされたセウロ殿とは会ったかね?」
「いえ、今日は先程までヴェインの家に夕食に呼ばれていたので、まだ会っていませんが……バランは?」
「ふぅはっはっ。我輩は会ったともっ。一ヶ月ぶりだったのでね、男らしく熱く抱擁しようとしたら、火炎の魔法でいつもの様に熱く返してくれたともっ。ふぅはっふぅはふぅはっ」
「いや、熱すぎだろソレ……」
「あはは。バランの冗談はいつも面白いですよね」
「じょ、冗談なのか今のっ?」
 少しの期待を込めてヴェインはバランを見る。何故か、髪の毛の先が縮れていて、頬も暗くて分からなかったが、少し黒いすすの様なものがついている。
「絶対、マジじゃないかっっっ」
「あっはっは。ヴェインってば、セウロがそんなこと本当にするわけないじゃないですかっ……ぷ、くくくく、あははは」
 何故だか、ツボに入ってバランの言ったことを冗談だと思っているルーウィンは珍しく体をくの字に曲げて笑っている。
「……バラン、ひょっとしてルーウィンって、かなり天然なのか……?」
「ヴェイン。……キミは今ごろ気がついたのかね?」
 呆れた顔で、やれやれと言ったバランは、少し焦っている様なヴェインの様子を肌で感じ取った。
「キミはまさかセウロ殿が今日帰ってくることを知らなかったのかね? それとも、なにか? 賢者に挑戦状のつもりでルーウィン殿を夕食に誘ったのかね? そうならばっっっ。ああっ。なんと男気ある素晴らしい恋・愛・模・様っっ!」
 ぶぅあっと滝の様な涙を目から流しながら、バランは固まっているヴェインの肩に手を置く。
 ちなみに、ルーウィンは今だ笑いの波が止んでいないらしく、こちらの話は上の空だ。
「ああっ、ヴェインっ。これからキミを襲うのは世にも恐ろしい苦難だろう……。何しろ最強、いや最凶の賢者を敵にしてしまったのだから――そして、キミは感謝する、このバラン・ガラノフ・ド・ピエールに剣の教えを乞うて良かったと!!」
「あ、あのさ熱く語っているところ悪いんだけどさっ。どうにかしてくれよバラン。あんた、教え子を半殺しにされてもいいのか? 皆がどんな目に遭っているか知ってるんだろう? 死んだらどうすんだよ」
「ぬはっはふぅっはっ。心配するなヴェイン。セウロ殿は加減が上手い。死んだ者は一人もおらんよ」
「あ、いや、そういう問題じゃなくてさっ。俺、休学している暇ないんだけどっ」
 イザナの話では、賢者セウロにやられた一番軽いもので、全治五ヶ月だという。
 病院のベッドの上で包帯ぐるぐる巻きの自分をベタに想像するヴェインは、青ざめた顔で懇願する。
「バラン助けてくれよっ」
「馬鹿者ぉぉぉっっ」
「へぶしっっ」
 どかっ、とバランの拳を頬にめり込ませてヴェインは地を這い、それを見たルーウィンは、やっと笑いの波から脱却した。
「ちょ、ちょっとバラン。どうしたのですか!?」
 ルーウィンの問いに答えず、バランは言い放つ。
「獅子は我が子を千尋の谷へ突き落とすという!! 我輩はキミをそんな軟弱に育てた覚えはないぞ!!」
「こ、の野郎……」
 ブチっと何かが切れる音と共に、ヴェインはゆらりと立ち上がる。
「今日はなっ……一日ツいてなくて、ずっとイラついてたんだよっ。わけわかんねぇ奴にいきなり橋から落とされるわ、ずぶ濡れになるわ、イザナ先生は新たなキャラ目覚めさせて俺を恐がらせるわ……んで、いきなり理不尽に殴られるわ――」
 最近、稽古に行く時だけ帯刀しているバランに貰った真剣を抜き放つヴェイン。
「いい加減ブチ切れそうだぜっ」
「ふぅはっはっ! その意気だともヴェイン!!」
 バランも腰の剣を抜き放ち、両手で胸の前に構える。
「ふぅはっ。今日の訓練は予定を変えて、乱戦を想定した実戦といこうかかね!! 三人それぞれが敵っ! 誰を狙うのも自由っ! さあ、二人ともかかってきたまえ!!」
「面白そうですね!」
 怯むことなくバランの思いつきに応じたルーウィンも、いつの間にか剣を抜いている。
 にやりと笑って、こちらを窺うバランに笑みを返すヴェイン。
 (そうだ、そうじゃないか。……たとえ、賢者がどんな奴でも、俺が最強になればいいんじゃないか。今までと何も変わらない。俺はバランよりもルーウィンよりも、そして――この国最強と言われている賢者セウロ・フォレストよりも強くなればいいんだ――!!)
 臆病風に吹かれ、助けを求めていたヴェインは自身の強さを取り戻した。
 やはり、それは一見、無茶や無駄に見えるバランの行動のおかげなのかもしれない。
「今日は、俺が勝つぜ!!」
「僕も負けませんよヴェインっ!!」
「ふぅはっふっはっふぅはっ! 若い若い若いねぇ!!」







 激しい剣戟の音が、いつもよりも数多く長く続いているなと、橋の下の浮浪者は酒に酔った頭でぼんやり考えていた。
 最近、ここでずっと剣の鍛錬をしていた少年の声が、夜に橋の上の方から聴こえてくるのを彼は聞いていた。
 誰か一緒に剣をする仲間でもできたのだろうか、と思った彼は少し寂しく笑う。
 だけど――。
「一人は寂しいからなぁ。誰かと一緒にいた方がいいさ」
 浮浪者はぐびっと酒をやる。
 響く剣戟の音と、少年達の声を酒の肴にしているかの様に。
 橋を避ける様に、丁度、真ん丸い月が見上げた夜空に浮かんでいた。
「まあ、こんな夜は一人で酒にかぎるがなぁ」
 自嘲気味に笑って、ぐびぐびと良い音を鳴らしてなみなみ酒をついで、その音が途切れたと思うと一気に飲み干す。
「かーっ!」
 熱いものが喉元を過ぎ去るその余韻に浸っていた男の上空を何かが横切った。
「――っ」
 途端に横になっていた体を機敏な動作で起こす。
 今までの気の抜けた様な酔っ払いの表情が消えていき、無表情を張りつかせていた。
「…………」
 まるで、辺りを探る様に彼は月が覗いている方とは反対の暗い橋の下を睨みつけた。
 何も音はしない。
 ただ無音――先程までの剣戟の音がどこか遠く、いや掻き消えてさえいて、辺りを静寂が支配していた。
 突然、生きた心地のしない妙な空間に運ばれた様な感覚だった。生き物が消えうせた空蝉の世界。
 そんな中で、それでも浮浪者の男は、その静寂の暗闇に何かを感じ取っていた。
 闇に蠢く、鬼気としたものを放つ何かを。
「ほほう」
 いきなり、男のよく通る太い声が橋の下に反響した。
「この俺の気配に気がつくとはな――」
「あんた、何者だ?」
 浮浪者の男はボサボサの頭を掻きむりながら尋ねた。
「余裕さえある、か。……さすがは『時の賢者』といったところか」
「はぁ? おっちゃんは、橋の下で暮らすただの浮浪者だよ。お情け、お恵みはいただけませんかねぇ?」
 ヘラヘラと笑って物乞いらしく両手を皿の様にして、暗闇へ向けて言う浮浪者に、影は哂う。
「くくく……この俺の『眼』を誤魔化せると思うなよ。時の賢者ジルフ」
 怪しく光り、燃える炎の様な点が、漆黒に二つ浮かび上がり、暗闇から男が姿を現した。
「あんた……何者だ?」
 先程と同じ問いを、闇を背負った来訪者に向けた『時の賢者ジルフ』と呼ばれた浮浪者は狼狽する。
「俺――俺か? くくく……しがない殺し屋だ」
 闇に目が慣れた浮浪者は、顕わになった男の姿を見て、自身の目を疑った。
 全てが真っ白に染まった逆立った髪と、いくつも古傷がある顔――取り分け目立つのが左目を一閃している大きな古傷。普通ならば、眼を潰してしまうであろう傷のはずだが、左目は健在で右目と同じく怪しく光を放っている。
 隆々とした筋肉の体格の良い体。
 そして、その白髪の男が放つ雰囲気と物腰は、彼がただ者でないことを物語っている。
「殺し屋か……。何をしに来たのかは知らんが……。とりあえず、その目の色については、説明してもらえるか?」
「ははは、殺し屋の用は人を殺すだけだ。そうだな……これから死ぬ奴には何でも教えてやれるがな。だが、俺はそれをいつもトドメを刺す瞬間にすることにしている」
「ほう、この俺を時の賢者ジルフだと知りながら、殺せる気でいるのかニイちゃん」
 ボサボサの頭を掻きむしり、伸び散らかした髭を揺らす浮浪者の男。彼は今までと態度を変えて、挑発的に殺し屋に告げた。
「死にたくなけりゃ、回れ右して帰りな――。酒が不味くなる」
「『時の賢者』は全ての歴史と知識、心理を知るという……。それ故に、欲深い悪党共に狙われ、代々『時の賢者』は表舞台に顔は出せぬというではないか。……世を忍ぶ仮の姿が王城の橋の下に住む、呑んだくれの浮浪者というわけか。くく、強い愛国心を持っているようだな。――まあ、それももはや意味はない。ここで潰えるのだからな」
「ふん、お前の様な俺の知識を狙う殺し屋風情を今までに、何人葬ってきたかな。途中から面倒で数えてなかったわ」
「はっはっは。ならば、いいではないか。いつもの様に葬ってみるがいいジルフよ」
 全く怯まずに一歩前へ詰め寄った殺し屋を、ジルフはゆっくり立ち上がり、鋭い眼光で射抜いた。
「口の利き方を知らねぇガキは嫌いだ。いつもの剣のニイちゃんの方が億倍礼儀がなってらぁ。……まずは、てめぇの名を聞いておこうか。死んじまったら、治安騎士に引き渡す時に不便だろう?」
「くく。斬首者D――。ディールと呼ばれている」
「お前が……Dか」
 ちっと唾を吐いて、ジルフはディールと名乗った男に背を向ける。
「面倒な大物引いちまったなぁ。……街は壊したくねぇ。ついて来な。……てめぇも、その方が都合がいいだろう? 治安騎士や魔術師に見つかりたくはないだろうからな」
 悪魔の様な、底の見えない深い闇を携えた笑いを漏らして、ディールはジルフと共に橋の下を後にした。
 この、満月の夜の出来事が、一体その後の世界にどれ程の影響を与えることになるのだろうか――それは、誰も知らない。
 ただ、三人の剣戟の音が遠くに響き、そこには未来に夢を馳せる若者と、世界を救うことを使命としている勇者が何も知らずに剣を交えている。
 この時……誰か、誰かがいるならば、この出来事を止められたのだろうか。
 あの若者と戦士に、それを知らせることができたのだろうか。
 後にジルフは――もう一度、満月を見上げながら心にそう思うのだった。






 





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