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 第1幕.『なんのために剣を』 (約二万二千文字) 


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 第2幕.『時の征服者はそうして消えた』 (約二万三千文字)

 第3幕.『初めての友達』 (約一万六千文字)

 第4幕.『魂の穢された日』 (約二万四千文字)

 第5幕.『瞳の奥の夜叉』(約二万千文字)

 第6幕.『その記憶の残滓は願う』(約二万四千文字)

 第7幕.『魔人達の宴』(約二万三千文字)

 第8幕.『諦めぬ人間は愚者か否か』(約二万五千文字)

 第9幕.『王都決戦』(約二万四千文字)

 第10幕.『世界の終わりのはじまり』(約四万ニ千文字)
















 第6幕.『その記憶の残滓は願う』











*******************







 目の前に、美しいと思えるヒトがいた。
 林檎を思わせる誘う様な血の色は鮮烈で、何度見てもこの世のものとは思えなかった。
 本来ならば存在しない赤い――紅い――朱い瞳に、激しく心を揺さぶられ惹かれていたんだ。
 ルーウィンのその赤に魅入れられた俺は、これからもずっと彼の傍にいたかった。
 そう……ずっと、これからも同じように歩いていけると思っていたし、まったくそのことを疑いもしなかった。
 どんなことがあっても俺はこいつと剣を並べ、そしていつか越えてやると心に誓っていた。
 嘘ではなく……本当にそう思っていた。
 王都の街の大通りに一番近い通りで、二人の少年は向かい合い、数日ぶりに顔をあわせた。
 ヴェインとルーウィン。
 彼らの間に流れる空気は、もはや以前の穏やかなものではなかった。
 戸惑いと疑念――そして、大切なモノを失うかもしれぬという恐怖心が、ヴェインの心に渦巻いていた。 
「ヴェイン……」
 (俺の名を……呼ぶなっ)
 ヴェインの心の叫びに、ルーウィンは気がつけないでいた。
 ただ、悲しそうな顔で友人を見つめ名を呼んだ彼に、ヴェインはひたすら――堪らない気持ちでいた。 
 強すぎる真昼の太陽が、勇者を神々しく照らす。
 それは、今のヴェインには目を背けたくなる程に眩しい光景だった。
 たった数日のことに過ぎない。だが、残酷なことに人は、それだけの時間で地に堕ちることができる。
 ただでさえ特殊な状況下にあったヴェインのここ数日は、常人では計り知れない程に過酷で、残酷な苦悩の日々だったのだから人が変わってしまったとしても無理はない。
 もはや彼は、以前の熱い心を持った少年ではなくなっていた。
 (もう……俺は、今までの俺じゃないんだ……) 
 勿論、ルーウィンがそれに気がつけるはずもなく、彼が変わったのは自分の行動の所為だとさえ思っている。
 だから、ルーウィンはヴェインに会いたかった。会いたくてたまらなかった。
 彼との行き違いを修復して、元の友情を育めあえる関係に戻りたかった。
 だが、ヴェインはそうは思ってはいない。
 彼の胸にあるのは困惑と疑念。
 なによりも深く胸に突き刺さった恐怖という戒めが、ルーウィンの存在すべてを強く拒絶していた。
 道を踏み外し、今や彼の隣で肩を並べてはいないヴェインにとって、ルーウィンはただ見ることさえ恐ろしい存在であり、好きだった――いや、今でもその想いは変わってはいない――からこそヴェインは、ルーウィンにだけは会いたくなかった。
 シフィに『何か』してしまったかもしれない自分――。
 酒を浴びていなければ平静でいられない自分――。
 あれから剣を振ることをやめてしまった自分――。
 目の前の大好きだったヒトを信じられない自分――。
 それらの感情はどれもこれも、ヴェインの心と体を後ろめさで締め上げていく。
 故に彼は何もできず、逃げることさえせずにただルーウィンの前で固り、
 (頼む……呼ぶな。俺の名を……)
 そう願うことしかできなかった。
 その彼の内なる叫びを理解できる者は、この街にはいない。
 この大勢人のいる街の中心で、彼はたった一人きりだった。
 いや、世界中どこを探しても、今の彼の苦しみを理解できる人間は絶無だろう。
 彼の苦しみと、叫びは決して誰にも届かない。
 それは、人のいない無人の孤島、その断崖絶壁で誰にともなく叫び続けている様なものだ。
 当たり前だが、そんな声が届くことは在りえない。
 しかし、彼はただ心の中の孤島で叫び続けた。
 (この苦しみは誰にも理解されないっ。それに、俺は……許されないことをしてしまったっ。……だから、もう、以前のようにはっ……)
 だが、勇者は。
「ヴェインっ!!」
 一際大きな声にさえ、彼は反応できなかった。
 逃げたかったが、逃げたくても足がすくんで動けなかった。
 動かなかったのは足だけではない。
 後ろめたさや、色々な感情がせめぎ合って頭の中がまとまらず、脳も停止していた。
「ずっと……。ずっと……探していたんですよっ。今まで一体どこに!?」
 今にも泣きだしそうな顔で詰め寄ったルーウィンを見て、ヴェインは胸がきしきしと痛んだ。
 きゅうと締め付けられるそれに耐え切れず、彼は視線を外して冷たく言った。
「なにか……用か?」
「……用って……ヴェインはもう何日も学校に来ていないじゃないですかっ! それに、家にだってほとんど帰っていないってっ……」
「ふん……。イザナ先生が言ったのか? それが、どうか……したのかよっ」
 必死に搾り出す様に言ったヴェインに、ただならぬものを感じたルーウィンは、次の言葉を飲み込んでしまった。
 再び、ルーウィンと目を会わせたヴェイン。
 ルーウィンはその彼の瞳から以前の輝きを感じることができなかった。
 どうみても、ヴェインの状態は正常ではなかった。
「あなたに……何があったのですか……ヴェイン」
 一体、どれだけ寝ていないのだろうと思わせる以前はなかったはずの目の下の濃いくま。
 そして、初めて出会った時に向けられた、人を疑っている様な眼差しが、今またヴェインのその目に宿っていた。
 そんな目で見られていることが、ルーウィンには悲しく、とても切なかった。
 さらに、痩せたのか少しこけた頬と、いつもならば綺麗な折り目がついている衣服は、今は皺だらけで汚れている。
 改めてヴェインの様子を見たルーウィンは、その変わりきった姿に不安で心がざわついた。
 どれも、仲良くなってからのヴェインにはなかった違和感である。
 だが、何よりも異常だったのは、その腰に携えたものだった。
「どうして……真剣を持っているんですか?」
「ああ……これか? はは、くくく……」
 腰のものに手をあててヴェインは、鼻で笑って口元を斜めに吊り上げた。
 そして、どこか焦点の定まらない狂想を宿した目で言った。
「こいつがないとな、安心できないんだよ」
「安心……? 何を、言っているのですかヴェイン……。ここは街中ですよ」
「はっ。世界のことを何も知らないんだなルーウィンっ。ただ歩いているだけで、後ろから急に襲われることだってあるんだぜ?」
「そ、そんなことは……。誰もが安心して暮らせるように、治安騎士が守ってくれていますし……。それに、アカデミーの生徒が街で剣を携帯するのは禁じられています」
「ははは……甘いな。違う。違うんだよルーウィン。……世界はな、世界はそんな考えで生き抜いていける程、甘い場所じゃない。……知っているか? 今、こうしている間にどれだけの罪もない人間が訳もなく殺されているのかを? 俺はな、そちら側になりたくないんだよ。だから、用心に越したことはないだろ?」
「……ヴェイン」
「俺はな、そんなクソみたいな奴らに殺されたくないんだよっ。殺されるなら、その前に俺が殺してやるっ。そうだ……だって、この世界の歴史がそうだったんだ……。どいつもこいつも大切なのは自分の命ばかりで、他人のことなんか、ろくすっぽ考えちゃいないっ。この国だってそうさっ。……他の国を滅ぼして大きくなってきたんだ。シルドリアの歴史は真っ黒さ。……いや、シルドリアだけじゃない! 五大国すべてが、隣国を虐殺して生き残った国だ! 人間は剣をもってしてでしか、命を繋げられないいんだよ! 人間ってやつは、どうしようもない。……はは、ルーウィンが世界を救おうとしているのだって、つまりはそういうことだろ? なあ? そうなんだろ!?」
「ヴェイン……あなたは、一体どうしたのですか? 僕には……あなたに何かがあったとしか、思えない……。それとも、やはり僕のせいなのですかっ!?」
 悲痛に叫んだルーウィンの目には涙が光っていた。
 それを見たヴェインは一気に頭に血が昇り、目の前が赤く染まった。
 哀みの感情を向けられることは、今の彼には逆鱗に触れられることと同義だった。
「俺は知っているんだ!! 知ってしまったんだよ! どうしてだか分からないけど、俺には『すべて』が解かるんだ!! ……そう……たとえば、そんな哀れんだ目をする奴は人を馬鹿にしている奴だってこととかな!」
「ぼ、僕はっヴェインが心配でっ……!」
「心配!? ふざけるなっ! ルーウィンお前はっ、俺のことなんか何も解かっちゃいない! 俺の、俺の何が、どこか良くて……友達だと……思っているんだっ? 俺は、最低で……世界はどうしようもなくて……ううっっ」
 その時――突然、ヴェインの頭に強烈な痛みが奔った。
 ここ数日何度となく感じた、あの耐えがたい割れる様な痛み。
「またっ……! くそっ、これはっ……なんなんだよ!? 頭がっ……ああっ!」
「ヴェイン! どうしたんですっ!? ヴェインっ!?」
 痛みに頭を抑えて大声をあげるヴェインと、慌てた勇者の様子に、街行く人々は何事かと足を止めて心配そうに眺めていた。
 ルーウィンはうずくまったヴェインに走り寄り、その肩に手を置いた。
「ヴェインお願いしますっ。……僕に、僕に何があったのか教えてくださいっ。きっと力になれますっ」
「ぐっ……」
 真摯な瞳に見据えられ、強烈な痛みに苦しむヴェインはそれを拒みはしなかった。
「はーっ……はーっ……。……解からないんだよっ……。ただ、何日か前から頭が痛みだして……わけのわからない言葉や、知りたくもないことが急に頭に……ぐうっ……入り、こんで……くるんだっ。ぐっううう……」
「痛み……?」
 それも尋常ではない程の痛みなのだろうと、ヴェインの様子を見てルーウィンは悟った。
「どうして僕やセウロに相談してくれなかったのですかっ!?」
「はは……はは……。ど、うして……だろうな……。解からない。解からないんだ……ただ誰のことも信用できなくて……ぐうっ、あああああっ!!」
「ヴェインっ! 大丈夫ですか!? ヴェインっ!」
 (これは……僕ではどうしようもないっ)
 さらに激しく苦しみだしたヴェイン。
 ルーウィンは、もはや賢者であるセウロか、この国で誰よりも知識が豊富と言われている魔術師ジンジャライを頼るしかないと判断した。
「ヴェイン、待っていてください。僕がセウロかジンジャライを呼んで来ますっ。きっと……治りますから、ここで待っていてくださいっ」
 それだけ言うとルーウィンは立ち上がって、周りに何事かと集まっていた民衆に告げた。
「皆さんっ、僕が賢者セウロを呼びに行っている間、友達のことをどうかお願いします!」
 その言葉には、すぐにとても多くの声が返ってきて、ヴェインの周りには何人もの街の人々がわらわらと集まってきた。
「ああ、任せておいてくれ勇者様っ」
「病気かいっ? 随分、具合が悪そうだっ。頑張れ、ニイちゃんっ」
「横に寝かせた方がいいんじゃないか?」
 その光景を見たルーウィンは、人々に深く頭を下げてから王城へと早足で駆けて行った。
 (セウロは今朝、遠征から帰ってきている! セウロなら……きっとっ。待っていてくださいヴェイン! ……きっと良くなりますっ。そして……きっと、また以前の様に……!)
 それは、ヴェインを心の底から信じているルーウィンの願いだった。
 あの夕焼けの決別から、二人の心が行き違いを始めた様に感じていたルーウィンは、今の状態を単なる不幸な出来事としか思っていない。
 だが、ヴェインに起こっている真実は、もはやそんな生易しいものではなかった。
 勇者が去った後、ヴェインは激痛に悶えながら、街の人々に無理矢理に寝させられ、額に手をあてられたりしていた。
 人々は、各々で世話を焼こうとヴェインに触れ、その度にどういうわけか彼の体はビクりと大きく震えていた。
 まるで、触れられることに怯えているかの様に。
 (他人にっ……触られている……!)
 怖い他人。
 信用できない他人。
 世界は裏切りに満ちて、その連続で成り立っている。
 それを、俺は知ってしまった。
 『そういう記憶を視てしまったんだ』
 ヴェインの思考は、今や飛躍しすぎていた。
 (誰かが……手にナイフを持っているかもしれない)
 善意のその裏に、自分を陥れようとする何かが潜んでいるのではないか――ヴェインは在り得ない情報、記憶の中から、人間は信用してはならないものだと、そう思うようになってしまっている。
 勿論、街の者達は心の底からヴェインを心配している。
 信仰している勇者ルーウィンに頼まれたことだからというのもあるが、少なくともここにいるヴェインの周りに集まってきた人々は、本当に具合の悪そうな彼を心配していた。
 だが、今のヴェインはその見返りのない優しさに、逆に恐怖を感じた。
「……っ!」
 一人の年配の女性が、濡れた手拭いをヴェインの頭に置こうとした時だった。
 その優しさ溢れる動作には、邪気の欠片さえ微塵もなかった。
 むしろ、それは慈愛に満ちた母親の様な、微笑ましさを感じる仕草であっただろう。
 邪気などあるずもない――だが、ヴェインの体は、ただ反射で動いてしまった。
「俺に触るなあぁぁっ!!!」
 瞬間的に抜き放たれた真剣が太陽の光に反射して、銀色の弧を描いた。
 高い音と何かが擦り切れる音、そして次に聴こえた音は、どさりという女性が尻餅をついた音だった。
 ――……。
 一瞬、すべての音が掻き消えて静寂に支配された街は、やがて一つの合図を機に怒号が飛び交う。
「きゃああああああっ!」
 合図――ヴェインに斬りつけられた女性の高い叫び声が、昼下がりの街に響き渡った。
 女性は胸元から肩にかけて浅く斬られ、血が服の上に滲みでている。
 驚愕の表情に怯えた目で、真剣を片手にゆらりと立ち上がった少年を見て叫んでいた。
 それに対し、深くうつむいたヴェインの表情は見えない。
「お、お前っ、何をしているんだ!」
 すぐに、周りにいた若い男達数人がただ事ではないと、ヴェインの手にある真剣を奪おうと手を伸ばした。
 ヴェインの腕だけが、僅かにしなる。
 ずん、と今度は低い音が響き、一番ヴェインに近かった男の体が小刻みにブレた後に、ぐらぐらと揺らいで倒れこんだ。
「が、はっ」
 男の口から血が大量に噴きだし、街の石畳にびしゃりと張りついて地面を赤く染めていく。
 倒れた男は、まるで糸が切れた人形の様にぴくりとも動かなくなる。 
 またも一息程の間であったが、僅かな沈黙――そして、またたく間にその場にいるすべての人々が、混乱と恐怖の悲鳴を発し始めた。
「うあああああっ!!」
「きゃああっ、ひっ、人殺しっ……!」
 場はヴェインを中心に、恐慌状態へと陥った。
 うつむいたまま血濡れの剣を揺らし、一歩前進したヴェインに、我先にと逃げ惑う人々。
 ヴェインは顔をあげて哂って言った。
「ははは。……ほら、見ろよルーウィン。皆、斬られた男を助けようなんて思いもしていない。自分がっ……自分さえ助かるならばそれでいいと思っていやがるっ!! あははははは!!!」
 ヴェインは己の頭の中にある情報と、現実のズレにまだ僅かに期待していたのだ。
 人間は歴史が語る程、悪いものではないのかもしれないと。
 まだどこかでそう信じていたかった――だが、それが今まさに自分のやったことで、彼の中で完璧に崩れてしまった。
 そして、彼は世界のすべての闇を飲み込み『壊れて』しまった。
「はははははっ!! ははははははははははは!!!!!!」
 高笑いをあげながら、ヴェインは体勢を低くして地面を蹴った。
 狙った獲物を仕留めるために、彼は剣を振るった。
「ひっ……ひぃぃ!」
 逃げ遅れた中年の男の背を横薙ぎに斬りつけ、赤い雫が真っ直ぐな線となって左右に飛び散る。
 強く踏み込みんだ一閃は、相手に致命傷を与えるには十分で、中年の男は先程の男の様に一撃で動かなくなった。
「うわ、わあああああっっ」
 さらにもう一人殺されたことで、場の空気は一層、混乱を極めていく。
 泣き叫ぶ女性、逃げろと叫ぶ男の声、親とはぐれ泣く子供の声。
 今まさに日常は崩れて非日常へと姿を変え、その中心にいるヴェインにも似た変化が起こっていた。
 (俺は変わる。変わらなければならない。……いつまでも、『普通』じゃ駄目なんだ。この『すべて』を知った俺にしかできないことがある……)
 もはや、彼の頭の中は常人には理解できない極地にあった。
「うぇぇええええっ……ん」
 端に捉えた小さな獲物の泣き声を鋭敏になったヴェインの耳が捉える。
 目が太陽の光を反射して鋭く光り、地面にうずくまって泣いている四歳か五歳くらいの少女を視認した。
 少女は一人だけだった。
 ヴェインは、迷いなくそれに近寄り、剣を振り上げた。
 街の人間達は遠くで叫び、少女に逃げろだの、ヴェインにやめろなどと叫んでいたが、彼にはその行動すべてが無性に腹立たしかった。
「誰かっ……命張って助けようって奴ぁいないのかよっ……!」
 世界に落胆したヴェインは、本気の力で泣き喚く少女の脳天をかち割るために剣を振るった。
「……っ!?」
 斬りつける瞬間、その少女の顔にシフィの泣き顔が重なった。
 そしてその刹那、『あの夜』の記憶が脳髄の奥から光となって閃いて、彼にすべてを思い出させた。
 断片的な記憶でしかなかった『あの夜』の事象すべてを、ヴェインはその網膜に脳を介し、裏側から焼き付けた。
「馬鹿なっ……」
 驚愕に震え、目を見開いてヴェインは少女の頭の寸でのところで剣を止めていた。
 そして、彼の目から大きな涙の粒が雫となって溢れだす。
「お、おおおおっ……」
 嗚咽が漏れ、ヴェインは少女の前で膝をついて絶望に顔を歪ませた。
 『あの夜』が――。
 彼は決して思い出していけなかった『すべて』を思い出してしまった
「俺はシフィを……まさか……」
 それは、あってはならなかったこと。
「どうして……何故、あんなに……大切にしていたのに……」
 そう、『兄』は『妹』を愛し、『妹』は『兄』を信頼していた。
 その愛と信頼すべては、今はもう無い。
 彼は、ヴェインは――『あの夜』シフィをその欲望のはけぐちにしてしまった。
 薄々、自分がそんな許されない行為をしでかしてしまったのではないかというのは感づいていたヴェインだったが、まさか本当にそれが現実のことだとは思わず、夢か何かだと思っていた。
「馬鹿な。馬鹿な。馬鹿なっ……! 俺が、そんなことをするはずがない……! そんな馬鹿なことがあって……たまるかっ……!」
 打ちひしがれ、どうしようもない違和感を感じながら、それでもあの晩、シフィを――シフィの魂を穢してしまった感触だけは今、強烈に思い出されたいた。
 跳ねる浮かび上がった白過ぎる体を、無理矢理に抑えつけて、冷酷な表情の自分が、それを蹂躙していくところを――。
「やめろおおっ! これ以上っ、思い出させないでくれぇっ……!」
 頭を振り乱して、ヴェインは叫び、狂乱する。 
 何故、自分がそんなことしたのか、ヴェインには全く理解できなかったし、あの時の記憶を思い出した今でも、この記憶が何かの間違いではないかと疑いたくなっている。
 ――だが、あの晩から妹は、兄を見なくなった。
 ヴェインには理由も伝えられず、イザナの家に行っているシフィ。
 イザナさえ、あれから顔を見せてはいない。
 今までそんなことがあっただろうか?
 いや、ない。
 それは、この『あの夜』の記憶が事実であるという証明に他ならないのではないか?
 彼は、もう気づいてしまった。
 自分が、正気ではなかったとはいえ――
 ――妹を犯してしまったということに。
「治安騎士だっ!」
 どこからか響いた男の声に、はっとなってボヤけかかっていた目の前の『現実』に焦点を合わせる。
 (現実……これが……現実だっていうのか?)
 がちゃがちゃと鎧の音を鳴らして十人近くの武装した治安騎士が人垣を掻き分けて現れた。
 手で目元を擦って立ち上がったヴェインは、剣を構えて騎士達に目をやる。
 ――バランの姿は無い。
 いっそ、今ここでバランに斬られてしまいたいとヴェインは思っていた。
 ここで本気で戦って斬られ罪を償えるのならばと、彼は折れた心でただそう切に願った。
「バランは……いないのか?」
「剣を捨てて投降しろ!!」
 ヴェインの呟きは無視されて、そう大声で怒鳴った治安騎士の男は周りの仲間へと合図を送ってじりじりと、ゆっくり間を詰めていた。
 一気に襲いかからないのはヴェインの後ろで泣いている少女が人質にとられるのを危惧しているからであったが、ヴェインにはそんな気は毛頭なかった。
 ただ、彼は思う。
「どうせなら、バランかルーウィンに斬られたい。お前らは……なし、だ」
 どん、とヴェインの足が高速で地を蹴った。
 驚いたのは先頭にいた治安騎士の部隊長の男だった。
 部隊長は、バラン団長率いる治安騎士の副団長より一つ下の階級であり、その実力は並みの団員では足元にも及ばないとされている。
 部隊は六つあり、その中でも今、ヴェインの前に立っている隊長は力量では他の者よりも頭角を現している男だった。
 だが、そんな彼がヴェインのその鋭い踏み込みに驚愕していた。
「は、速いっ……!」
 そう驚き言った言葉が、この世での最後の言葉になるなどとは、隊長は思いもしなかっただろう。
 脇を通り過ぎざまに放たれた一閃は、見事なまでに鎧の繋ぎ目から、彼の胴を斬りつけていた。
 ばたりと隊長が倒れた瞬間、すでに彼を斬った少年は他の隊員達の目の前にいた。
 治安騎士達は驚きを隠せず、もはや動転して正常に脳が働いている者などいなかった。
「うわあああっ!」
 恐怖から真っ先に突っ走ってヴェインへと剣を振り上げたのは先月、治安騎士に入隊したばかりの若い騎士。
「馬鹿っ! 待つんだ!」
 他の隊員の制止の声も虚しく――あっさりとヴェインの受ける剣に軸をズラされて、たたらを踏んだところを後ろから斬りつけられ、彼の短い任務期間は終了する。
「……っ」
 二人斬られたことで、さすがに頭を落ち着けなければと精神を研ぎ澄ませ始めた熟練の騎士達は、すぐにヴェインを取り囲むように包囲網を形成する。
 一回の踏み込みでは届かない十分な間合いと、ヴェインの死角にも移動して騎士を配置させる。
 定石通りだが、一番確実な手であった。
 しかし、ヴェインには全く焦る様子はなく、むしろ落ち着き払った様子でゆっくり、その一人へと歩み寄って行く。
「わっ……! お前は、取り囲まれているっ!! 投降しどおおっ……!」
 言葉の最後でヴェインに喉元へと剣を突き刺され、びくびくと痙攣して、また一人の騎士が散った。
「治安騎士ってこんなもんなのかよ。……呆れるぜ。そんなんじゃ、この世界の闇から人々を守れないぜ?」
「何を言っているんだっ……! 馬鹿なことはやめろっ! これ以上、人を殺すな! お前は勇者様の友人なのではないのか!? ルーウィン様が悲しまれるぞ!」
 ヴェインのことを知っていたのか、治安騎士の一人がルーウィンの名をだして情に訴えかけていた。
 しかし、今のヴェインはもはや正常な心が動作していない。
 知識と時間に支配された心に、人々の情は届かない。
「なんでもかんでも勇者様、勇者様、勇者様、勇者様っ……! お前らがてんで弱い理由が分かったよ。……ルーウィンに全部救ってもらおうと考えているからさっ……。このぉぉクズがあぁ!!!」
 辻褄も前後も合わない言葉を返したヴェインは、またも迷わずに、すくい上げるように剣を振った。
 騎士とヴェインの剣は、ばきんと鈍い音を鳴らして合わさり、他の治安騎士達はそれを好機と仕掛けた。
 囲まれていることなどお構いなしに、ヴェインは気合を爆発させる。
「うおおっっ!!!」
 ヴェインの強烈な力に押し戻された騎士の剣は、ばきばきと刃の部分がひび割れていき、次の瞬間それは一気に折れて砕け散った。
「ぎゃああっ」
 砕けた破片は、その騎士の片目に突き刺さり、それとほぼ同時に、他の騎士の剣がヴェインの背中へと斬りつけられた。
「……っ」
 浴びた太刀は浅く、傷はそう深くはないだろうと冷静に判断したヴェインだったが、激痛には違いはなかった。
 しかし、そんな攻撃に全く怯むことなくヴェインは振り向きざまに、斬りつけた男の喉元を一閃する。
「がふうっ」
 びゅうと風が切るような音がして、鮮血が柱となって吹き上がり、頚動脈を抑えて騎士は倒れこんだ。
 流れるような動作で、あっさりと騎士の包囲を崩してしまったヴェインは、自身でそれに驚いていた。
 (おかしい――剣を振る前から『相手の動きが読める』!?)
 背中に剣を受けてしまう前に、敵が攻撃を仕掛けてくるのは分かっていた。
 だが、ヴェインはその慣れない『知識』を素直に信じなかった。
 だから、攻撃を受けてしまったのだが、それによってヴェインはこの『知識』が戦闘で役に立っていることを確信した。
 (そう……今だけじゃない。他の奴を殺した時も、いつもよりも間合いが計りやすかったり、相手の動きが読めたりしているのは確かだった……。これは……一体……)
 それは彼の中で溢れている、在り得ない『知識』による産物。
 剣豪は技のみで強くなっているのではない。それに伴う知識と経験を身につけることによって、初めて剣の達人へとなることができる。
 今のヴェインの頭にある『知識』は、まさに世界すべての経験。
 故に、それは並みの剣豪の『知識』を遥かに凌ぐ。
「はぁっ……はぁ……っ」
 肩で息をして、辺りを見渡すと騎士は残り三人となっていて、どう見ても彼らは戦意喪失に近い状態だった。
 騎士達の顔には負けの色が濃く滲み出ており、彼らの心にあるのは、ただ一言。
 『鬼人の如き』――少年に抱く感想ではないの本人達も理解はしていたが、自分達では勝てないのも事実だと、すでに悟っていた。
 それ故の戦意喪失。だが、ヴェインは逃さない。
「お前達みたいなのじゃ世界の闇は超えられない。だから、俺が助けてやろう」
 そう、これは救いだ。
 ヴェインは自分のその想いに深く感激していた。
 この、どうしようもない世界で救われるには、すべからく迅速に、即刻に、今すぐに死んでしまうことではないのだろうか。
 ヴェインの足がゆらりと、怯える騎士達へと向けられる。
 じりじりとすり寄る悪鬼の如き仕草で、ヴェインは冷酷な笑みを張りつかせて、剣を彼らへと向けた。
 その笑顔の仮面は『あの夜』と同じモノ。
 すでにヴェインは、理解していた。
 自分という存在が何か別のものに、入れ替わってしまっていることに。
 そこへ、どこからともなく声が、風の如く流れ吹いた。
「魂に納まりきらない知識は人の心を壊すか……。なるほどな……『時の賢者』になったものが救いようのない理由が、これか……」
「……!」
 聞き慣れた声が、剣を振り下ろそうとしているヴェインの耳へと届いていた。
 声の主に気がつき、さらに歓喜に満ちた表情をしてヴェインは笑って言った。
「はははっ。セウロ来てくれたんだな……! それに、待ってたぜえルーウィン!!」
 振り向いてそう叫んだヴェインの見る先にいたのは、信じられないという様な表情をしたルーウィン・リーシェンと、澄んだ瞳でヴェインを見ている闇の賢者セウロ・フォレストだった。
「ヴェイン……なにを……なにをしているんですかっ!!」
 悲鳴に近いルーウィンの叫びだった。
 彼の瞳はすでに涙に濡れていたが、今のヴェインはそれを見ても先程の様に胸が痛むことは無かった。
「なにを? 言ったろう? 殺されるよりも、殺す側になる――と」
「どうしてっ……!」
 ルーウィンの表情は絶望に打ちひしがれ、呆然と目の前の光景をただ否定したいがために、ゆっくりと首を横に振っている。
 自分が王城へセウロを呼びに行っている間に、一体何があったのか。思考回路が麻痺し、ルーウィンは呆然と呟いた。
「そんなっ……どうして、ヴェインが……どうして……」
 ヴェインの持っている剣と彼の服には、血と思われるものが付着している。
 そして、辺りには倒れこんだ、幾人もの人々。
 彼らは皆血を流し、ぴくりとも動かない。
 たとえ信じたくなくとも、現状を飲み込むには十分な判断材料が揃っていた。
 しかし、ルーウィンの心と思考は、それを強く否定する。
「そんなっ……ヴェインっ。これは何かの間違いですよね!? あなたは……なにも……していませんよね?」
「馬鹿かルーウィン。全部、俺が殺したんだよ」
「――」
 あっさりと肯定され、最後の希望を失った勇者は膝をついた。
「嘘……ですよ……」
 五人以上殺害し、しかも中には職務中の治安騎士が含まれている。
 いくら子供とはいえ、このシルドリアでは打ち首が確定する程の罪であるのは一目瞭然。そして、それをやったのが友人であるはずのヴェインなのだ――勇者とはいえど、まだ心が未成熟なルーウィンが、もはやこの現実についていけずに心が折れたのも無理はなかった。
 そんなルーウィンの肩に、セウロはそっと手を置いた。
「ルーウィン。これには、どうしようもない事情があります。今は、我を信じて心を立て直してください」
 そう言ったセウロは、ルーウィンの前に座り込んで、まっすぐ目を合わせる。
 焦点の定まらないルーウィンの目を追って、セウロは今度はただ名を呼んだ。
「ルーウィン」
 それだけのことだった。
 たった、それだけのことで次の瞬間ルーウィンの目は、セウロと視点を合わせて何とか彼は弱々しくであったが、頷くことができていた。
 そして、彼は自分の無力を噛み締めながら、すべてをセウロへと託した。
「お願いしますセウロ。……ヴェインを助けてあげてください……」
「……。ルーウィンには分かるのですね。奴が救われなければいけない側だということが」
 セウロは笑顔で頷くと立ち上がって、背後でニタニタと事の成り行きを眺めている『ヴェインらしき者』へと目を向けた。
「ヴェインまさか、お前が『選ばれる』とはな……。……まず初めに聞くが、お前は今、自分がどういう状況であるかは分かっているか?」
「はぁ?」
 馬鹿にして挑発するかの様に、セウロへと剣を向けて言い放った。
「俺は全部知ってしまったんだよ。お前達の考えていることも! 世界がどんなものかってことも全部な!!」
「笑わせるな」
「なに……?」
 ヴェインの言葉を、一笑に付したセウロはゆっくり彼へと足を向け、距離を近づける。
「お前はな。膨大な知識と、あてどない時間に足がすくんでいるだけのガキだ。……そんなガキは大人に助けてもらわなけりゃならなん。……すまなかったなヴェイン。お前が引き返せなくなる前に、どうにかできなくて……本当に、すまなかった」
 倒れた人々に目をやった後にヴェインを見た賢者セウロの目は、少年をただ哀れんでいた。
 街の者を殺してしまったことも、治安騎士を手にかけたことも、どうしようもない事故であり、災難なのだと彼は理解していた。
 だが、今のヴェインにその哀れみは逆効果でしかなかった。
「お前もっ、お前もそんな目をするのかよセウロぉぉぉぉ!!!」
 理由のない怒りに突き動かされているその姿にセウロは見覚えがあり、胸の奥を掻きむしりたくなる様な後悔の念を感じていた。
 気がつけなかった。救えなかった。こんなに身近にいて、しかも自分がもっとも気にかけている存在ルーウィンと親しい友人であったはずの彼の変化を何故――賢者セウロ・フォレストは、手に持った杖を力強く握り締めるとヴェインへと向けた。
「怒りを静めろ。今は何も考えるなヴェイン。我はお前を止めなければならん。それは、情けでもなんでもない。ただ、そうしなければならないのだ。それが、お前のためでもある」
「止めるだって――それは、殺すってことだな? ……はははっ、俺を殺したいんだろセウロ? やっぱりだ! そうやって偽善者面して寄ってきて、俺を殺すつもりだったんだな! 騙しやがって……いいさっ! やるならやってやる!」
「…………」
 あの模擬戦の時の血気盛んなヴェインの姿が重なり、セウロはたまらず目をそらしそうになったのを堪えて、冷静に告げる。
「……そうだな。あの時やった模擬戦だとでも思えばいい。我はお前を止めるぞヴェイン。その怒り、静める気がないのならばかかってくるがいい」
「セウロっ」
 挑発するセウロを心配そうに呼んだルーウィンに対し、賢者は笑顔で心配ないと告げた。
 正直なところ、それはセウロの強がりに過ぎず、彼は自分の無力に打ちひしがれていた。
 先程、ヴェインを救ってくれと頼まれた時に、セウロが笑顔で頷いてみせたのは単なる誤魔化しでかなく、ルーウィンをこれ以上落胆させたくなかっただけなのだ。
 どうしてこんなことになったのか。しかもよりによって何故こいつなんだとセウロは、ひたすら神を恨んだ。
 (神を……か)
 心中で呟いたセウロは、じとりと粘りつくような殺気をこちらに放ってくるヴェインを見て、その姿にどこか重なる影を思い出していた。
 目の前の少年は、どうしようもない理不尽に見舞われ、今まさに不幸への奈落を転げ落ちようとしている――そんな、少年をセウロは知っていた。
 心の奥底に封印して仕舞い込んだはずの忌まわしい記憶。それに映った世界を恨んだ目をした少年。かつての自分の姿に、目の前のヴェインは嫌になるくらい重なった。
「お前は我のようにはなるなヴェイン。……まだ引き返せる」
「引き返せる? どこにだよ? 俺を裏切ろうと、殺そうとする連中のいないところか!? そんなところ、もうねぇんだよぉぉ!!!」
 風が前方より弾け飛んだ様な感覚は、ヴェインによって放たれた覇気で、それを真っ直ぐに受け取ったセウロは――静かに息を吸い、覚悟を決めた。
「紅蓮灼熱業火(フレムロード・タイド)!!」
 セウロの手の平の前方から炎の玉が生み出され、それは水平に空気を切り裂きながら弾け飛んだ。
 賢者セウロが対人戦で最も使用する頻度の高い、火炎球を飛ばす魔術『紅蓮灼熱業火(フレムロード・タイド)』。辺りが木々の多い、森や林ならば一瞬で焼け野原に変えてしまうほどの火炎で、生身の人間は直撃したらひとたまりもなく、全身大火傷程度では済まないだろう。
 素早い呪文の構築を必要としたのは、すでにヴェインが抜き身の剣を振り上げ駆けていたからだ。
 しかも、驚くべき程に。
 (速いっ……!)
 彼の動きを目で追っていた賢者は驚愕していた。
 明らかに模擬戦の時とは比べものにならない動き。セウロは呪文を放つと同時に後方へ飛んでいたが、ヴェインはすでに彼の眼前へと迫っていた。
 しかも、容易くセウロの術を避けて。
「ちっ……!」
 舌打ち混じりに、杖を掲げてヴェインの素早い剣を受ける。
「セウロぉぉぉ!!!」
 怨念さえ感じる叫び声をあげながらヴェインは、杖を叩き折る気で力をこめる。
 その剣にこめられた力も、以前とは比べものにはならない――まるでバランや、レオドルフの剣を受けているかの様な、もはや普通の少年のレベルではない域にヴェインの剣は達していた。
 (これが『すべてを知った者』の業か……!?)
 セウロはこのヴェインの異常な怪力の解答は得ている。
 おそらく、今のヴェインは以前と『力の入れ方』が違う。
 剣への体重のかけ方、構え方、そんな些細なことでも、素人と剣豪の間には歴然とした差が生まれ、それが力量を大きく左右することもある。
 今のヴェインは、すべての歴史の中に刻まれた戦いの知識が刷り込まれている。彼は知っているのだ――『戦い方を』。それ故に簡単にセウロの呪文を避けることもできていた。
 セウロが呪文を口ずさんだ瞬間にヴェインの頭の中では記憶の索引が並び、一瞬で『何の呪文』で、『どのように避けることができるのか』ということを割り出すことができていた。
 (恐ろしいなジルフよ……。貴様はどおりで強かったわけだ)
 それでも――そんなジルフも、それを上回った者にあっさり殺された。
 万物の頂点を極めた知識は、それ単体では脅威だが、最強ではない。
 故に止められるはずだ。
 (いや、止めてみせる)
 そんな賢者の内面を知ることなくヴェインは、模擬戦で全く相手にもされなかった自分が、セウロを圧していることにいくらかの興奮を覚えていた。
「ははははっ! 手加減してんのかセウロ!?」
「調子にのるなよ餓鬼」
「へっ……そうだ、そういう口調じゃねぇとらしくねぇよアンタ。……それよりも、聞いてくれよセウロ。どうしてだか、あんたの呪文が判っちまうんだ。どう避けたらいいかなんてことが簡単に分かっちまった……どうなってんだよこれっ! はははははははっ!!!」
「過ぎた力だ。本当は、お前のような奴が持つものではないっ」
 そう言って、体重を後ろに傾けたセウロは勢いで前のめりになったヴェインの剣を綺麗にいなし、後方へと飛んで呪文を構築し始める――が、しかし。
「……っ!?」
 体勢を崩したと思われたヴェインはそのままセウロへと間を詰めて、その胴へと素早い一撃を打ち込んだ。
 弓を放った様な高い音がして、宙に赤いものが綺麗に舞い散らばった。
「セウロ……!!」
 後方から見ていたルーウィンには、セウロの腹部が横薙ぎに斬られた様に見え、焦り叫んでいた。
「ははっ! あの間合いで避けるんだからなぁ……本当に魔法使いのくせにデタラメな賢者様だぜ」
「……」
 セウロは驚嘆するヴェインの声が耳には入らなかった。それよりも、斬られた紅蓮のコートに目がいっていて、どこかその光景が信じられなかったのだ。
 (我に一太刀……この身ではないとはいえ、衣服にさえ剣を届かせたものが、この何年かでいたか? いや――)
 セウロは覚醒したヴェインの力量を見誤っていたことを確信していた。
 (元々の戦闘の才能が、さらに奴の力を相乗的に跳ね上げているのか!)
 魔術師相手には、呪文を唱えさせる暇を与えずに、間を詰める。
 基本に忠実なヴェインの手は、それでも今の素早さが加わるならば、全力を使えないセウロにとって、かなり戦い難い相手となっているのも事実。
 そう、ヴェインは気がついてはいないが、セウロは全力を出してはいない。
 (殺しはできない。……いや、元より奴がああなっていようがいまいが……我にはもう奴は殺せんだろう)
 奥歯を噛み締めてこの難題に挑むべく、さらに覚悟を決めるためセウロは、自分に言い聞かせるように言い放った。
「お前は今、誰かに止めてもらわねばならない! 我とルーウィン……バランを信用していた頃を思い出せヴェイン!!」
「……ふん。今度は情に訴えかけるつもりかセウロ。……でも、もう俺には――何もないんだ。何も……」
 ヴェインの心の中では、もうシフィも、ルーウィンも、バランも、セウロも皆笑わなくなった。
 だから、彼はもう誰も信用できなくなっていた。
 始まりは世の暗黒を知ってしまったことだとしても、その後の闇は――自分が引き起こしてしまった不幸は、それは自分だけの所為でしかない。
 ルーウィンを、シフィを、イザナを傷つけてしまった自分が、また人を信用できるようになるはずがない。
 後戻りなど効かないことは、人間の歴史が物語っていて、そんな世界にいるちっぽけな自分もまた同じ様に決まっている。
「…………」
 ヴェインは世界を、目の前の風景を拒絶して薄く笑った。
 それと似た笑みをかつてしていた自分を思い出した賢者は、心が奮い立つのを感じていた。
「お前は、世界のいらぬ黒い部分を見過ぎて、それがこの世のすべてだと思い込んでいるだけだっ……。……いいか、『世界はそればかりではない』――……確かに、嫌なことや辛いことは多いが、良い方に向かうこともあるのだと、それを忘れるなっ!」
 セウロは自らの言葉に懸けるという行為が果たして正しいのか迷い、戸惑っていた。
 おそらく今のヴェインは正気ではなく、心がとてつなく巨大な知識の重さに耐え切れなくなって暴走している。
 だから、彼は言葉に懸けるべきか、無理矢理な実力行使にでるべきか未だに揺れていた。
 正気でないのならば、賢者の言葉はヴェインにとってどこ吹く風でしかなく、むしろ逆に彼を追い詰めるだけになってしまうかもしれない。
 それでも、セウロはヴェインに言いたかった。いや、その言葉は過去の自分に届けたかったのかもしれない。
「なんだよ、急に説教臭くなったなセウロ。……そんな、先生らしいところもあるとは思わなかったぜ。くくく……はははははっはははは!!」
「……っ」
 大袈裟な動作で腹を抱えて笑ったそれは、どう見てもまともに取り合おうとする態度ではない。
 狂気が宿っている。そうとしか、思えないヴェインの言動を見たセウロは。
「……すまない……」
「あ?」
 世界を否定して受け入れられず、すべてを憎んでしまう気持ちを誰よりも理解できるセウロには、もう言葉をかけることができず、そんな自分の無力さを痛感し、助けることができない少年と、過去の自分に賢者は詫びていた。
 セウロは嫌というくらい、ヴェインの気持ちが理解できる――できるからこそ、そんな彼には言葉が通じないのだと理解してしまった。
「セウロ」
 背後から声をかけたルーウィンの声はどこか冷たく張り詰め、大人びていた。
「ルーウィン。ここは我に……」
 任せて――と言葉はでなかった。振り向いたセウロは、爛々と燃える二つの赤を見て言葉を切っていた。
 勇者ルーウィン・リーシェンの眼は今、激しい紅へと変貌し、普段の赤とは別種の光を宿す真紅というべき色が宿っていた。
 赤眼の勇者が、その真価を顕わにしていた。
 セウロの隣に並んだルーウィンの手には、いつの間にか真剣が握られている。それは倒れていた治安騎士の物で、ルーウィンがそれをどういうつもりで持っているのか、セウロは考えたくはなかった。
 いや、止めてほしかった。自分にはできないことをルーウィンが、すべての感情を犠牲にし、その『力』を使用してまで成そうとしている。
「セウロ……迷っていますね。ここは、やはり僕がやります」
「ルーウィン……『力』を使ってはいけないと……それに、これは我の仕事です」
「お父様には後から僕から言っておきます。それと、ヴェインは……僕が止めなければならない。……初めからそうするべきでした」
 ルーウィンはセウロの横を通り過ぎて、ゆっくりとヴェインへ歩み寄る。
 ヴェインはそんなルーウィンに気がつき、また大笑いしようとしてすぐにその表情は凍りついた。
 彼の双眸の紅の光に気がついて、口を開けて驚愕していた。
「あっ……あっ……! 今なら……分かるぞ!! ……その眼ぇ……!! その眼に惹かれた訳がああ!!! くそおっ、やっぱり、俺を俺を騙してやがったんだな! ルーウィン!!!」
 頭を掻き毟りながら取り乱し、ヴェインは言葉を荒げて続ける。
「やっぱり、お前はあの時もっ、あの時も手を抜いていやがった!! 馬鹿にしやがって……!! その眼をした時が本気の本気なんだろルーウィン! 俺は知っているぞ!! 勇者ぁ!? 笑わせるな! お前は知っているのかよ、その眼の真実を!? はははっ、俺は知っているぞ!」
「…………」
 冷徹な顔を張りつかせたルーウィンは、彼をただ静かに眺めていた。
 そして、ルーウィンは剣をヴェインへと向け、定めた決意を揺るがすことなく、相手へとぶつけた。
「何があったのかは今の僕には分かりません。しかし、これだけのことをした、あなたの罪は必ず償われなければならない。セウロは……その理由を知っているがために、あなたに全力を出せないのでしょう。だけど、僕は違います。あなたを今止めることは――友人として、勇者としての僕の使命ですから。ですから、もう手加減しません。本気の力で、ヴェイン…………あなたを僕が裁きます! そして救ってみせる!」
 それを完全な拒絶だと、裏切りだとしか今のヴェインには捉えることができなかった。
 だから、彼はその紙一重なすべての感情を変換させてしまった。
 これまでに人類がそうしてきた様に――愛を憎しみへ、羨望を嫉妬へ、好きという純粋な感情は、恨みという相手を意識し続けるという点では同種の、しかし全く正反対のそれへと歪み変えられてしまった。
 一度、転げ落ちた奈落から這い上がることの難しさと、過酷さを痛感しているセウロは、そのヴェインの心変わりを傍で感じつつ思っていた。
 (そう……こいつはこれから人を恨んでいくだろう。あのジルフがそうした様に……。だからっ……我はせめてルーウィンだけは恨んでほしくはなかったのだ。……そうだ……止めねばならない。これは、やはり我がするべきこと――憎まれるのは我一人で十分だっ)
 決意を固めたセウロの思いを知らずに、その瞬間。
 二人に剣は綺麗に合わさり、白い閃光が真ん中で十字の火花となって飛び散った。
「ルーウィン!」
 飛ぶセウロの言葉も、もはや二人には届かない。
 赤眼の勇者は、かつての友を止めるべく何の感情も感じさせずに剣を振り上げて、それに対し、怒りの形相を宿したヴェインにも、もう言葉はなかった。
 ただ、彼の頭の中では裏切り者に対する憎しみが増幅されるばかりで、目の前のそれを叩き斬ることしか考えられない。
「……っ!」
 思わず息を飲んだのは、赤眼の勇者ルーウィン・リーシェン。
 ルーウィンの剣は通常の何倍もの速度で線を描いてヴェインの剣を受けていく――にも関わらず、それをすべて受け止めているヴェインの剣はもはやバランやレオドルフと同じ域にあるとさえルーウィンは感じていた。
 (この……勇者の『力』をもってしても…これほどとはっ……)
 ルーウィンはセウロが本気をだしていないだけで、ヴェインの力量がここまで跳ね上がっていることには気がつけていなかった。
 しかし、今ルーウィンは理解していた。
 真の『力』を引き出し、眼に紅い色を宿した状態の自分の剣をヴェインは受けきっている。
「ヴェイン……あなたに何があったのかは分かりませんが……強く、なりましたね……」
「う……うう……ああああああああああああああ!!!!」
 もはや、言葉が届くことはなかった。
 ヴェインの踏み込んだ足とは逆の足が目前に迫り、後ろへと体を反って何とか顔を蹴られるのを避ける。
 がら空きになった胴に剣が閃き、剣の柄でそれを受け止めたルーウィンは、そのまま後ろへ流れていった体をさらに反らせて宙返りさせ、素早く距離をとる。
 ルーウィンの着地を狙い、その脳天目掛けて真っ直ぐに振り下ろされた打ち込みの剣は、しっかりと踏み込みを入れられたヴェインの最速最強の一撃。神業とも呼べる、熟練の剣士が何十年かけてたどり着く境地の打ち込みだった。
  宙返りから体勢を整える途中だったルーウィンはその剣を受け、あまりの強烈な力に両腕がびしびしと音を鳴らして悲鳴をあげた。
「やりますね……! 勇者の『力』を使った僕を防戦一方にさせるなんて……!」
「なにが勇者だ! 馬鹿にしやがって……! 人を救うだと!? なら……どうして、俺の母さんと父さんは救われなかった!? どうしてシフィは今も苦しんでいる!? どうして俺はこんなに……」
「ヴェイン……」
「どうして、こんなことになっちまったんだよおおおお!!!」
 叫んだヴェインはさらに力をこめる。
 剣ごと、かつて好きだった人の頭を割るために。
 ばきばきと、どちらかの剣が破滅の音をたてる。
 両者どちらとも引かずに、合わせた剣をただ押し込んでいた。
 そんな中で、ふとヴェインは急に力が抜けるのを感じていた。
 無性に、帰りたくなって――シフィの顔を思い出してしまった。
 よく思い出せずに、目をしばたかせると――目の前にルーウィンがいることに『気がついた』。
 ――あれ――ルーウィン――そうか、俺達――。
 (好きだったはずなんだけどなぁ……。あれ……? 俺がルーウィンを好きだったのって……いつだったけ……)
 瞬間、ヴェインの頭の中からすべての怒りと憎しみが消え失せていた。
 あんなにも自分を突き動かしていたものが、嘘の様に霧散して何もかもが無くなっていた。
「え――?」
 それは一瞬のこと、呆けた声をあげたのはルーウィンだった。
 相手から力が抜けていくのを感じ、ヴェインの顔を見た瞬間に、驚愕していた。
 そこにあったのは、ヴェインだった。
 間違いようもない。いつものヴェインで、いつもの表情を宿した彼だった。
 キィンと高い音が響きヴェインの剣は弾け飛び、力を緩めることができなかった勇者の剣はそのまま、彼の肩に落ちた。
「ぐ、あああっ……!」
「ヴェインっ」
 飛び散った鮮血がルーウィンの顔を濡らし、『いつもの彼は』、『いつもの笑顔』で言った。
「ごめん……な……ルーウィン……。俺……」
 それだけ言うと、ヴェインは体重が支えられなくなり、膝をついて倒れ込んだ。
 激痛のためか、または別の理由かヴェインは意識を失った。
「そ、そんな……ヴェイン……?」
 ルーウィンは震えながら、彼の肩に食い込んだ剣を見つめていた。
 それは決して浅くは無い傷。
 深く沈んだ剣に裂かれた肉から大量に血が噴きだしている。
 そんなことを自分は――『いつもの彼』にしてしまった。
 勇者の瞳からまばゆい赤が失われ、いつもの暗さを含んだ赤へと落ち着いた。
「ルーウィンっ!」
 セウロは呪文を唱えながら、急いで二人へと駆け寄る。
 唱えている呪文は回復魔法。
 『癒し手の精霊(ドリアーデ・レイ・シュバイト)』と呼ばれるもので、セウロ程の術者が使用すれば、かなりの重傷者でも処置が早ければ救うことができる。
 ヴェインの肩に斬り込まれた剣による傷は深く、どうみても重症だったがセウロはそれについては、自分の魔法で救えることを確信していた。
 しかし、セウロは焦っていた。
 震え、青ざめたルーウィンを見て、セウロはやはりどうあっても自分がやるべきだったと激しく後悔していた。
「ルーウィンっ、どいてください。とりあえず回復魔法でヴェインの傷を」
「セ、セウロ……僕は……」
 怯えるルーウィンの表情が痛々しく賢者の目に映る。
「……」
 セウロは言葉を失っていた。
 こんなことになるとは、思いもしなかったのはセウロも同じだったからだ。
 『正気を失ったヴェイン』であれば、彼を止めるために斬ってしまったとしても、それを勇者は覚悟していたのだし、こうなることはなかった。
 しかし、明らかに今のヴェインの様子は『いつもの彼』だった。
 ルーウィンが感情すべてを放り出し、禁じられた勇者の『力』を使用してまでヴェインを止めようとしたのは、彼に言葉が通じる余地がないと思ったからであり、あんな風に『いつもの彼』に――しかも、お互いの本気をぶつけ合う戦いの決まるその瞬間に――戻ってしまうなどとは思いもしなかった。
 『正気を失ったヴェイン』ではない、『いつもの彼』を斬ったルーウィンは己の選択を悔やみ、そんな自分を許せなくなるだろう。
 セウロは懸念する。それが、勇者にとって致命的なトラウマとなることを。
 感情を捨てて行動に徹することは時として、いや、これから先に勇者ルーウィン・リーシェンには使命を果たす上では、必ず必要なことだ。
 セウロは――いや、この国の王はそう思って、ルーウィンに勇者としての使命を果たさせようとしている。
 だから、ルーウィンにトラウマは残してはならない。
 セウロは、ヴェインを回復魔法で処置しながら、ルーウィンを救うべく言葉を選ぶ。
「セウロ……ヴェインは最後に……いつもの、彼に……僕は……僕達は……」
「ルーウィン。あなたは勇者として何も間違っていない。友であれ、そしてとてつもない理由があれど、ヴェインは人を殺している。あなたは止めるべきでした。そして、見事にそれを止めてみせた。その剣を持ってして。……あなたは勇者の責務を果たしたのです」
「勇者の……責務……」
「ええ。それは普通の人間には辛いことです。……時に、道を踏み外した友人を斬ることもあるでしょう……。しかし、あなたはそれをしなくてはならない。なぜなら、勇者であるあなたは越えられるからです」
「僕は……」
「大丈夫。我らは間違っていない。それに、ヴェインは死にません。これから、我らで救います」
「…………そうですね」
 ルーウィンの震えは僅かに緩やかになり、その瞳も少し生気を取り戻し始めていた。
 セウロは心の中で少しばかり、ほっと安堵の息を漏らした。
 多少、強引だったが今のルーウィンに、未来を制限させるような傷を残してはならない。
 それが、勇者を守るようにと言われてきた賢者セウロ・フォレストの務めであり、彼の生きる目的なのだから。 
「ヴェインは大丈夫でしょうか……?」
 心配そうに剣の残ったままのヴェインの肩を見つめ、瞳に涙を溜めているルーウィンに、セウロは言う。
「大丈夫です。傷は浅くはありませんが、必ず『癒し手の精霊(ドリアーデ・レイ・シュバイト)』の術で全快できます。……それよりも、人を呼んでヴェインを城まで運ばせましょう」
「やはり……ヴェインは裁かれるのでしょうか……」
 これだけの人を殺めてしまったヴェインの刑は容易に想像がつき、彼を止めたルーウィンにそれが重くのしかかる。
「いえ、ルーウィン。……ヴェインは裁かれません」
「え?」
 まさか、と顔を見つめてくるルーウィンの表情は戸惑いの色に満ちている。
「これには特別な理由があるのです。……王とジンジャライに報告しますので、ルーウィンもその時一緒に聞いてください。ルーウィンもこのことは無関係ではないですから」
「……」
 『裁かれることはない』
 その言葉を聞いても、ルーウィンの胸にはただ大きく不安が広がっていった。
 どうしようもなく、重苦しく纏わりつくような不吉は、ヴェインの顔を見る度に増していく。
 その彼の瞳にもう一度、自分が映ることがあるのだろうか。
 先程の、あのいつもの彼に――優しい笑顔をした彼に――もう一度、目を合わせて笑ってもらえることがあるのだろうか。
「ヴェイン……」
 ルーウィンの瞳から大粒の涙が溢れ、すぐに彼はそれを手で覆って隠そうとする。
 ヴェインが倒れたことで、周りに治安騎士や街の人が大勢集まり始めていて、そんな人達に勇者であるルーウィンは泣き顔を見せるわけにはいかなかった。
 しかし、ルーウィンの涙は止まらず嗚咽さえ漏れ始め、そんな彼に急に影がかかった。
 セウロの紅蓮のコートがルーウィンの顔を大衆から隠していた。
「セウロ……」
「今は泣いてくださいルーウィン。……我がこうやって、隠しておきますから」
 勇者は賢者に包まれ、泣いた。






 人は理不尽な不幸や辛いことがあっても、きっと優しく包みこんでくれる人がいるから、立ち直ることができるのよ。
 絶望にのまれそうになった時は、そういう大好きな人のことを思い出して、その人と一緒にいることを考えればいい。
 そう、言っていたお姉ちゃんみたいな人は、盗賊に首を斬られて死んだ。
 ニアは賢者セウロの影で子供の様に泣いている勇者を見て、その姉の様な存在であった彼女の言葉を思い出していた。
 きっと、勇者にとっては、あの賢者がそういう大切な人なんだろう。ならば、自分にとっては誰なのだろうか?
 そう考えたニアは、顔と体が熱くなるのを感じていた。
 今、自分の心を支えているのは切望する自由と、自分を助けてくれた絶対的な存在。
 彼のために、ニアは勇者と賢者の様子を、ただ見続けていた。
 そして、そこにニアにしか聴こえない主からの声が届く。
 『くくく……あれこそが、あれこそが、そうだ……くくく』
「ディー様?」
 『奴が……あのヴェインとかいう小僧が――時の賢者を継承せしものだ。この、俺が手に入れるものだ』
「で、でも……賢者とかいう人達が、あの人をどこかに連れていくみたいです……」
 そういうニアの見つめる先では、駆けつけた治安騎士に運ばれるヴェインと、セウロのコートに顔をうずめているルーウィンの姿があった。
 『今はいい。こうなることは途中から予想していた。あの小僧はこれから、この国の役にたたせるためだけに教育されるのだろう』
「教育……ですか」
 『洗脳といってもいいがな……くくく』
 それは、まさにディール本人も狙っていることであった。
 時の賢者をこの手にし、その知識をいつでも引き出し利用するには、無理矢理従わせるのでは引き出せる知識に限界がある。
 ならば、思い通りにするためには――。
 『これから、あの小僧を城から奪う手立てを考えなければならん。……いくつか思いついた案はある。ニア、貴様にはまだ働いてもらうぞ』
「はいっ。私にはいくらでもお申しつけください」
 ディールはニアの瞳の奥で、大きく吹きだしそうになるのを堪えていた。
 どういうわけかこのニアとかいう少女は自分に異常なまでに従順で、始めは何か裏があるだろうと思っていたのだが、どうやら本当に主従の関係が築けているようだ。
 特に狙っていたわけではなかったが今のディールにとっては、街の中で自由に動き回れる手下ができたのは有難かった。
 (始めはジルフの奴にしてやられたが……運はこちらに向いてきているようだ)
 夜叉は笑った。
 時の賢者をその手中に収めることを――そして、やがて世界が自分の望む色へと変革を遂げることを確信して。
 ああ 時は鳴らし終えただろうか――あとは時間が、ただ緩やかに死を刻む。
 お前は、ただ揃った記に弄ばれ、刻まれた印をなぞるだろう。
 脳髄に銘記されたものは吐き散らさず、胸に抱え、その身をもって浄土まで送り届けよ。
 ああ 時は鳴らし終えただろうか――あとは時間が、ただ緩やかに死を刻む。
 抱えていた望みは絶たれ、人としての生は終わりを向かえただろう。
 歌が止まる。
 かつて、『時の賢者』と呼ばれた男の歌が。
 夢か現か。
 どこかへ運ばれている感覚を感じながら、まどろみの中で聴こえてきた声に、ヴェインは耳を傾けた。
「ニイちゃんよ。お前の頭に俺の知識は全部入っちまったみてぇだ。……すまねぇな。本当は、お前さんにこんな大役押しつけたくはなかったんだけどな……」
 ――。
「ああ、喋らなくいい。どのみち話せんだろうがな。……いいか、よく聞いてくれニイちゃん。……今は、俺達『時の賢者』が代々受け継いできた知識が全部入って、ようやくニイちゃんは平静を取り戻せた。あの、割れる様な頭の痛みは、無理矢理に膨大な知識を引き継がされて起こるもんなんだ。それが、今……さっき終わった。だからニイちゃんは正気に戻ることができたんだ。……でも、本当に辛いのはここからだ……。本当に、すまない。何故、ニイちゃんなのかは俺にも分からないが……それでも引き継いじまったもんは仕方がねぇ」
 ――。
「すまない。だけど、許してくれ。この世界に『時の賢者』は必要だ。その理由はすべての知識を得た今のニイちゃんになら分かるだろう? 世界の秘密、魔王の存在、賢者というものの真の使命――……俺達は世界を守るために賢者を失うわけにはいかない。元より五人いた五大賢者が今は三人だ……。もう、あと一人でも失えば世界を救う手立てがなくなるだろう」
 ――。
「ああ……分かってるさ。自分には関係ないことなんてことはな。……俺だって世界のことなんて、どうだって良かった実際。全部の人間を嫌いになっちまってからは特になぁ……さっさと滅んじまえーーって思ってたよ。……でも、お前にはまだいるだろう大切な人がさ? それに、俺だってたまには人間もイイもんだなぁって思ってたんだぜ? こりもせずに何度も橋の下に酒持ってきて一緒に呑もうって……言ってくるあのバランの野郎とかさ……鬱陶しがったふりして追い返そうとしても、ずっと笑ってやがった……。……あぁ……ありがたかったな……俺、もっとあの野郎と話したかったなぁ……ちくしょう……ちくしょう……」
 ――……。
「それにな、俺と同じくらい不幸な目に遭ってるくせに……いや、俺なんかよりも辛かったに違いない闇の賢者の奴なんかも、いつも憎まれ口叩きながら、俺の心配してやがったよ。……あいつも素直じゃねぇけど、こっちのこと心配してんのバレバレでよ……。恥ずかしくなっちまうくらいだったけどよぉ……嬉しかったんだぜ俺ぁ……」
 ――。
「そんな風によ、人間もまだまだ捨てたもんじゃねぇって時が、いつか必ずあるもんだ。……だから、ニイちゃんも諦めないでくれや。人を嫌いにならないでくれ。頼む……ははは、自分にはできないことを押しつけるなってか? いいじゃねぇか……最期の俺の頼みだよ。……おっと、そろそろ、時の先に記憶の残滓を置いておくのも限界か。……じゃあなニイちゃん……」
 一人の男の願いが終わりを告げ、夢が晴れ渡る。
 すべてを知ったヴェインにとって、世界とは救う価値が無かった。
 すべてを知ったヴェインにとって、人とは信じるに値するものではなかった。
 すべてを知ったヴェインにとって、希望などこれっぽっちもありはしなかった。
 すべてを知ったヴェインにとって、もう――。
 シフィとの繋がりを失ったヴェインにとって、すべては、もう。
 自分が折れるだけで、世界が傾くというのならば。
 何を迷う必要があるのだろうか。

 こんな世界、消えてなくなってしまえばいい。





 





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