<ブラボー、クラシック音楽!-曲目解説#16>
ヘンデル「組曲「水上の音楽」」
(Suite 'Water Music', Händel)

-- 2006.05.16 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.05.24 改訂

 ■はじめに - 王室の船遊びの壮大なBGM
 初夏を爽快に過ごそう、ということで第9回例会(=05年6月9日)では<爽やかな曲>というテーマを掲げ、バロック音楽(※1)の巨匠ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(※2)の『水上の音楽』を全曲聴きました。私にとってバロック音楽は心を爽やかにして呉れる妙薬です。
 当時のイギリス王室はテムズ川の川面に船を浮かべ涼を取り乍ら音楽を聴く、という実に優雅な船遊びに興じて居ましたが、この曲はその船遊びの為に書かれた壮大なBGM(=バックグラウンド・ミュージック)です。王はこの催しを臣下や下々の民に派手に見せ付け、水上から音楽を遍く轟かせることに依り自らの権力と何某(なにがし)かの権威を誇示し、同時に自由が無い身の憂さ晴らしをして居たのです。

 ■曲の構成とデータ
 通称は『水上の音楽』ですが、正式名称は『組曲「水上の音楽」』です。曲の構成は、最近の演奏で多く採用されて居る「ハレ新全集版」に従います。
  第1組曲 ヘ長調
    第1曲:「序曲」 ラルゴ~アレグロ
    第2曲:アダージョ・エ・スタッカート
    第3曲:アレグロ
    第4曲:アンダンテ
    第5曲:アレグロ(ダ・カーポ)
    第6曲:「パスピエ」
    第7曲:「エア」
    第8曲:「メヌエット」
    第9曲:「ブーレ」
   第10曲:「ホーンパイプ」
   第11曲:アレグロ
  第2組曲 ニ長調
    第1曲:アレグロ
    第2曲:「アラ・ホーンパイプ」
    第3曲:「メヌエット」
    第4曲:「ラントマン」
    第5曲:「ブーレ」
  第3組曲 ト長調
    第1曲:─
    第2曲:「リゴードン」
    第3曲:「メヌエット」
    第4曲:「ブーレ」
という異なる調性3部構成です。
  ●データ
   作曲年 :1717年(32歳)
   演奏時間:約45~55分(版に依り曲の構成に多少差違有り)

 ■作曲された背景 - ヘンデルとイギリス国王の”因縁”の賜
 (1)イギリスに地歩を築く迄
 先ずヘンデルが生まれてからイギリスに地歩を築く迄の経歴(或いは遍歴)を簡単に記して置きましょう。ヘンデルは1685年ドイツ東部ザクセン地方(※3)の小都市ハレ(※3-2) -ライプツィヒの北西約30km- に生まれました。父親ゲオルクはザクセン公の宮廷外科医 -家では薬屋と床屋を兼業し酒類販売も手掛ける- でヘンデルには法律を学ばせたかったのですが、仕えていたヨハン・アドルフ公爵から息子の音楽の才能の芽を摘まない様説得され、漸く94年(9歳)にオルガニスト兼作曲家のフリードリヒ・ヴィルヘルム・ツァハウへの入門を許します。ヘンデルはツァハウの元で先人の楽譜の写譜から始め、音楽の基礎を全て学び取りました。この年にはハレ大学(※3-3)が創立され、ヘンデルも1702年に16歳で入学し父の遺志(父は11歳の時に他界)を継いで法律を学ぶ傍ら、ハレのカルヴァン派教会のオルガン奏者(=見習い扱い)に成り家計を支えました。
 しかし早くからオペラに興味を抱いて居たヘンデル翌03年夏(18歳)にハンザ同盟(※4)の国際港湾自由都市ハンブルク(※4-1)へ行き、秋にはハンブルク・オペラ劇場のヴァイオリニストに就任しました。そして翌04年11月(19歳)にはオペラ第1作と成る『歌劇「アルミーラ」』を書き、翌05年早々からのハンブルクの舞台で一応の成果を収めオペラ作曲家としてデビューしました。尚、ハンブルク時代に特筆すべき事は、生涯の友と成り後にヘンデル伝に寄与する事に成るヨハン・マッテゾン(※5)と親交を結んだことで、『アルミーラ』の主役もマッテゾンが演じました。
 更に06年(21歳)~10年(25歳)には音楽の先進国且つオペラの本場イタリアに修行に行き、オルガンやチェンバロ奏者としても活躍しコレルリ(※6)やスカルラッティ親子(※7、※7-1)に会い大いに刺激を受け、遂に10年(25歳)に『歌劇「アグリッピーナ」』オペラの中心地ヴェネツィアで大成功させました。
 [ちょっと一言]方向指示(次) ヘンデルは1707年初頭~秋(22歳)にローマのオットボーニ枢機卿(=ローマ法王アレクサンデル8世の甥)の邸宅でのサロン「アルカディア」に出入りし、コレルリやスカルラッティ親子と知り合い、コレルリからは合奏協奏曲形式を、父親のA.スカルラッティからはオペラとオラトリオ(※8)の作曲法を吸収します。特にヘンデルの音の響きにはコレルリとの親近性が認められ、ヘンデルの音楽に血脈として流れて居ます。又、息子のD.スカルラッティ(←ヘンデルと同年生まれ)との「後年語り草に成ったチェンバロとオルガンの競演」も、この年このサロンに於いて行われました。

 本場での盛名を伝え聞いた音楽好きのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(※9~※9-2)は直ぐに彼を呼び寄せ、10年6月16日にヘンデルをハノーヴァー宮廷楽長に任じたことは「因縁の糸」を垂れたと言うべきで、後述する様にこの糸は後に不思議な磁力を発します。当時のハノーヴァーはドイツ国内ではオペラが盛んで立派な劇場も在りましたが、ヘンデルはここに安住せず10年秋(25歳)には宮廷楽長の儘暇を貰ってオランダ経由で渡英し、暮れに僅か2週間で書き上げた『歌劇「リナルド」』が翌11年2月ロンドンで大当たりし、貴族及び産業革命前のイギリス新興階級の支持を獲得しました。6月に一旦ハノーヴァーに帰りますが翌12年秋(27歳)に再び宮廷楽長の儘渡英『歌劇「忠実な羊飼い」』(12年作、この時は1幕のみ)、『歌劇「テセーオ」』(12年作)の相次ぐ上演でヘンリー・パーセル(※10)以来の大作曲家と認められ、王室から『ユトレヒト条約記念テ・デウム』(13年作)(※11、※11-1)や『合唱曲「アン女王誕生日のための頌歌」』(14年作)を注文され女王から年金を賜る身分と成り、その儘ロンドンに居着いて仕舞いました。
 ところが病に臥して居たアン女王が1714年8月1日に急死、代わってハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒがイギリス国王ジョージ1世を宣した(※9-2、※9-3)のです。不思議な磁力を発した「因縁の糸」は何と”主人”を”我儘な従僕”の元へ引き寄せて仕舞いました。観念したヘンデルは早速『テ・デウム ニ長調』を作曲し9月26日王室礼拝堂で演奏し”以前からの主人”である新国王を丁重に迎え、王室主席作曲家に”横滑り”して以後王室の慶事や弔事の曲を書く事に成ります。

 (2)『水上の音楽』の実演風景
 ヘンデルはその後、『歌劇「テセーオ」』以来協力関係に在る”顔の醜い”劇場経営者J.J.ハイデッカーと組んで『歌劇「ゴールのアマディージ」』(1715年作)を成功させますが、この頃「君臨すれども統治せず」をモットーにして居たジョージ1世(※9-2)は冒頭に記した様に夏にテムズ川に船を浮かべ、ほろ酔い気分で貴婦人たちを侍らせて音楽を聴くという”酒と薔薇の日々”(※12)を過ごして居ました。『水上の音楽』はジョージ1世の1717年7月17日の船遊びの為に作曲された作品で、正にジョージ1世との”因縁”の賜と言える曲です。
 この日の約200年後に発見されたプロイセン公使F.ボネットが記した「1717年の船遊びのメモ」を要約すると「最高の好天に恵まれた夕方8時頃、国王は貴婦人4人、伯爵1人、護衛1人を伴い御座船に乗り込み、その隣には約50人の楽士を乗せた船が随行し、周囲には臣下たちの沢山の御座船が取り囲み、更にはこの催しを人目見て『水上の音楽』を少しでも聴こうと無数のボートが川面に浮かんで居た。」「国王は1時間も掛かるこの曲を大変気に入り計3回(食前(=往路)に2回、食後(=帰路)に1回)も演奏させ、御蔭でテムズ河畔チェルシーでの夕食は午前1時~3時、セント・ジェームズ宮殿に帰り着いたのは午前4時半だった。」、更に「この日の楽士たちへの支払いだけで150ポンドを費やした。」と記されて居ます(△1のp58~59)。楽士が手にした報酬は単純計算で1人頭3ポンドですが、それにしても夜を徹しての”トンデモナイ催し”だった様です。
 ところで上のメモでは「1時間も掛かる」と記されて居ますが、今日の構成の演奏では50分位(←「曲の構成とデータ」の章を参照)です。1717年以外でヘンデルの『水上の音楽』が演奏されたことが判明して居るのは1715年8月22日のジョージ1世の船遊び1736年4月26日ジョージ2世長男のウェールズ皇太子婚前船遊びですが、実はこれらの船遊びに演奏された『水上の音楽』の曲目構成の詳細は不明です。「ハレ新全集版」では第1組曲は1715年に、第2組曲は1717年に、第3組曲は1736年に初演されたという説を主張して居ます。又、金管を含み大編成の第1組曲と第2組曲は船上演奏用、小編成の第3組曲は晩餐用という説が在り私も同感です。しかし、これらの説を証明出来る資料は未発見です。いずれにしてもヘンデルが折に触れて少しずつ書き溜めた小曲を組み合わせて出来上がった楽曲と言えるでしょう。

 ■聴き方 - 王様に成った気分で聴いてみたら
 前述の『水上の音楽』の実演場面を思い浮かべ乍ら、王様(或いは女王様)に成った気分で聴いてみるのも、偶には良いでしょう。BGMとは言っても近頃の軟弱な”癒し系”のそれとは違い金管楽器が派手に鳴る元気溌剌とした曲ですが、それは川風や騒音に打ち勝って音楽を王の耳元迄確実に届かせる必要が有ったからです。
 第1組曲はホルンが主役です。序曲に続いて第2曲でオーボエが静かに哀愁を漂わせ、第3曲でホルンが鳴り渡り、再び第4曲のオーボエの哀愁に満ちた旋律の後、第5曲・第6曲で又ホルンが鳴ります。第7曲「エア」の心休まる旋律は有名で、第8曲はホルンが明るく鳴り渡り、第10曲~12曲は穏やかな曲です。
 第2組曲はトランペットが主導します。第1曲でトランペットとホルンが気分を盛り上げた後、第2曲「アラ・ホーンパイプ」ではトランペットが華麗なファンファーレ(=この組曲全体のテーマ・メロディー)を奏でます。『水上の音楽』と題してこの曲だけが単独で、又はこの曲と他の曲の抜粋が演奏されることも有ります。第3曲は優雅に、第4曲では落ち着いてトランペットが奏した後、第5曲で再びトランペットが晴れやかに鳴らし終了します。
 第3組曲は木管楽器が活躍します。第1曲はフルート、第2曲はオーボエ、第3曲「メヌエット」のリコーダーの素朴で哀愁を帯びた旋律が聴き所で、第4曲はリコーダーを中間部に挟み弦が全体を安定感の有る和音で締めて居ます。
 各組曲毎に緩急・長調と短調・強弱の減り張りを効かせて居ます。途中にメヌエット/パスピエ/ブーレなどの舞曲が挟まれて居ますが、船上で国王は貴婦人たちを相手にダンスをされたのでしょうか?

 ■ヘンデルはオペラ作曲家
 「作曲された背景」でお解りの様に、ヘンデルは生涯の殆どをオペラとオラトリオ(※8)の劇音楽の作曲に費やした -作曲のみならず劇場経営者・興行師、歌手を探して契約させる手配師も遣った- 人です(△2)が、日本の学校での音楽教育が交響曲中心の絶対音楽偏重の為にこの事実が不当に無視されて来ました。否、一人ヘンデルのみならずバロック・オペラ一般がクラシック音楽ファンの間ですら殆ど知られて無いのが現状です。減り張りの効いた豊穣で明朗な音はヘンデルの特徴ですが、この『水上の音楽』の所々に聴かれる劇的な音創りはオペラ作曲家ヘンデルならではの手腕が遺憾無く発揮されて居ると私には思われます。従って今後機会を捉えてバロック・オペラの魅力を少しずつ当会で紹介して行きたいと考えて居ます。

 ■自由と自立と国際性を求めたヘンデル
 ヘンデルが社会に対してどういう思想を持っていたか、については知る由も有りませんが、彼の行動から推測すると教会や宮廷に縛られない「自由と自立」志向が強かったと断言出来ます。そして独立した音楽家として経済的にも裕福に成ろうとすれば当時はオペラしか有りませんでした(←しかし作曲家は分が悪く歌手の方が儲かった様で、ヘンデルは劇場経営にも乗り出しますが、後で破産して居ます)。そしてもう一つはハノーヴァーの様な地方都市には見向きもせず、ハンブルクやフィレンツェ(←イタリアで最初に訪れた街)やロンドンなどの国際都市好みという点から国際人(=コスモポリタン)志向だったとも言えます。この2つの志向の底辺を探ると、ヘンデルは硬直・疲弊した聖職者や貴族階級よりも新しく勃興しつつ在る新興ブルジョア階級の上昇気流の勢い(=即ち近代資本主義の萌芽)を「論理的にでは無く直観的に」感じ取っていたのではないかと思われます。
 さて、その後ヘンデルは1727年2月20日、42歳の誕生日直前にイギリスに帰化し、その亡骸は最高名誉とされるウェストミンスター寺院(※13)に埋葬されて居ます。ヘンデルの英語名は
    ジョージ・フレデリック・ハンデル(George Frederick Handel)
です。Handel の "a" は元来のドイツ語ではウムラウトが付き "ä" です。現在ヘンデルを根っからのイギリス人だと思い込んで居るイギリス人が少なく無いですが、実際にヘンデルの遠い祖先にイギリス人の血が入っていた可能性が有ります。何故ならば、ヘンデルの生地ザクセン地方という所はイギリス人のルーツの一つであるサクソン人が居住して居た土地(※3)だからで、ザクセン(Sachsen[独])はサクソン(Saxon[英])が訛りドイツ語化したものです。
 ところでヘンデルのイギリスでの成功は、彼の死後にヨハン・クリスティアン・バッハ(=J.C.バッハ)ハイドンなどに大きな影響を与えました。ドイツから一歩も出なかった大バッハ(=J.S.バッハ)の末子J.C.バッハはヘンデルと同様にイタリアで音楽修行し1762年(27歳)からロンドンに定住します。1791年のハイドン初渡英にはヘンデルのイギリスでの活躍の事蹟が大きな勇気を与え、更にハイドンの『オラトリオ「天地創造」』(1798年作)はヘンデルの超有名な『オラトリオ「メサイア」』(1741年作)に触発されて生まれて居ます。
 死の床に就いた最晩年のベートーヴェンは寄贈された『ヘンデル全集』の楽譜を楽しんだと伝えられて居ます(△3のp120)。

 ■結び - 遊びにはタフさが必要
 私たち庶民は他人に誇る権力権威も持ち合わせて居ませんが、『水上の音楽』を聴いて気分だけは涼しく爽快に成ろう、というのがこの日の狙いでした。イギリス国王の船遊びの賑わいは大変なものでしたが、なぁに大阪天神祭の船渡御(※14、※14-1)も負けてませんゾ。更に古きを遡れば西暦900年頃、平安貴族たちは京の川に小舟を浮かべ楽人に音楽を奏させ和歌や漢詩を詠み”酒と怠惰の日々”を過ごして遊んで居ました -この舟遊びが今に伝承されて居るのが嵐山の三船祭(※15)- ので、舟遊びの歴史では日本の方が古いかも知れません。
 私も舟遊びと迄は行きませんが、夏に成ると鴨川の川床(※16)で酒を飲む「納涼の宴」を楽しみ、浮世の憂さ晴らしをして居ます。BGMは「川のせせらぎの音」ですが、自然の音が日本的風流というものでしょう。しかし、『水上の音楽』の実演場面を知ってみると、外国では「遊びにはタフさが必要」と熟々(つくづく)感じさせられました。
 さて、『水上の音楽』で涼しく爽やかな気持ちに成って戴けたでしょうか?、...、何々、貴婦人が傍に居られたらもっと良かったですと?、...、いやぁ誠に御同慶の至りでは有りますが、それを申したら当会の女性会員に失礼ですゾ!!
                (>_*;)

-- 完 --

【脚注】
※1:バロック音楽(―おんがく、baroque music)とは、バロック期の音楽の総称。通奏低音の上に、異質的・対比的効果を生かした楽曲様式が特徴。モンテヴェルディコレルリヴィヴァルディテレマンヘンデルバッハらが代表的作曲家。主なジャンルはオペラ/オラトリオ/協奏曲/ソナタ/組曲など。

※2:ヘンデル(Georg Friedrich Händel)は、ドイツの作曲家(1685.2.23~1759.4.14)。初めはイタリアで、後半生はイギリス(1727年に帰化)で活躍。バッハと並び後期バロック音楽の代表者の一人。作風はバッハに比し和声的で単純・明快。多くの世俗カンタータ、イタリア歌劇「リナルド」「ジュリアス・シーザー」「クセルクセス」、オラトリオ「メサイア」「マカベアのユダ」などを作曲。他に器楽の組曲「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」「合奏協奏曲(コンチェルト・グロッソ)」など。

※3:ザクセン(Sachsen[独])は、サクソン人が居住して居たドイツ中部エルベ川の中流・下流の地方。旧東ドイツ南部のチェコ、ポーランドに接する地域と旧西ドイツの低ザクセンに分れる。919年部族公ハインリヒ1世が開いたザクセン王家が1024年迄代々ドイツ国王と成る。ラテン語名サクソニア。英語名サクソニー。
※3-1:サクソン人(Saxon)は、ゲルマン民族の一部。2~3世紀頃、ラインとエルベ両川間の北部地方に居住し、5~6世紀頃、ドイツ北部を占領、一部はグレート・ブリテン島に侵入、アングル人と共にイギリスの基礎を作った。
※3-2:ハレ(Halle)はドイツ東部の都市。エルベ川の支流ザーレ川に沿う。商工業の中心地。ヘンデルの生地。人口29万(1994)。
※3-3:ハレ大学(Halle university)は、ドイツのハレに在る大学。1694年フリードリヒ3世に依って創設。学問・思想の自由を大学の本質として重んじ、ヨーロッパの近代的大学の範とされた。第二次大戦後東ドイツ時代にマルティン・ルター大学と改称。

※4:ハンザ同盟(―どうめい、Die Deutsche Hanse)とは、(ハンザとは「商人の仲間」の意)13世紀から近世初期に掛けて、海上交通の安全保障、共同防護、商権拡張などを目的として、北ドイツ、特に北海・バルト海沿岸のドイツ人諸都市が結成した有力な都市同盟。リューベックが盟主。16世紀以降次第に衰えた。
※4-1:ハンブルク(Hamburg、漢堡)は、ドイツ北部の工業都市。エルベ川の下流部に位置する大貿易港。中世、ハンザ同盟の中心都市の一。人口170万5千(1994)。

※5:マッテゾン(Johann Mattheson)は、ドイツの作曲家・音楽理論家(1681~1764)。教会の合唱長を務め、音楽の情緒説を唱えて多くの著書を残した。主著「完全なる楽長」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※6:コレッリ(Arcangelo Corelli)は、イタリアのバロック期の作曲家(1653.2.17~1713.1.8)。ヴァイオリンの名手。重厚な美しさを持つヴァイオリン曲を多く作り、バロック期の合奏協奏曲の形式の確立に大きな力が有った。ビバルディ/バッハ/ヘンデルらに大きな影響を与えた。代表作「合奏協奏曲作品6」。コレッリ。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※7:A.スカルラッティ(Alessandro Scarlatti)は、イタリアの作曲家(1660.5.2~1725.10.24)。初期ナポリ楽派の一人。17世紀イタリアの声楽書法を総括し乍ら、多くのオペラやカンタータを作曲。
※7-1:D.スカルラッティ(Domenico Scarlatti)は、イタリアの作曲家・チェンバロ奏者(1685.10.26~1757.7.23)。A.スカルラッティの四男。リスボン、後にマドリードの宮廷音楽家。多数のチェンバロ・ソナタを残す。18世紀の鍵盤ソナタ・鍵盤奏法の発展に大きく貢献。

※8:オラトリオ(oratorio[伊])とは、(祈祷所の意)宗教的音楽劇。聖譚曲。通常聖書に取材し、語り手が進行役を務め、独唱・合唱・管弦楽などで演奏される。歌劇と異なり舞台装置・衣装・演技は伴わず、原則として演奏会形式で上演される。17世紀にオペラと共に発展し、ヘンデルが大成。ヘンデルの「メサイア」/ハイドンの「天地創造」/メンデルスゾーンの「エリア」が有名。

※9:ハノーヴァー(Hannover)は、ドイツ北部、ニーダーザクセン州の州都。中世、ハンザ同盟の一員。商工業の中心地で、大規模な見本市の開催で知られる。人口52万5千(1994)。ハノーファー。
※9-1:選帝侯(せんていこう、Kurfurst[独])とは、中世・近世のドイツ王国即ち神聖ローマ帝国に於いて、帝国諸侯中、特に1356年の金印勅書に拠り、皇帝(国王)選挙の権利を与えられたもの。選挙侯
※9-2:ゲオルク・ルートヴィヒ(Georg Ludwig)は、後のイギリス王ジョージ1世
 ジョージ1世(英名[George]は独名[Georg]に由来)は、イギリス王(1660~1727、在位1714~27)。ハノーヴァー選挙侯。アン女王の死後、王位継承法に拠りイギリス王位に就き、ハノーヴァー朝を開いた。英語が話せなかった為に閣議に出席せず、ウォルポールが閣議を主宰して最初の首相に就任。こうして「君臨すれども統治せぬ」王の下に、責任内閣制が発達した。
※9-3:ハノーヴァー王朝(―おうちょう、Hannover dynasty)とは、ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位して開き、ヴィクトリア女王迄6代続いたイギリスの王朝(1714~1901)

※10:パーセル(Henry Purcell)は、イギリスの作曲家(1659.9.10頃~1695.11.21)。イギリスのバロック音楽史上最も偉大な音楽家。青年時代にエリザベス朝時代の本格的なポリフォニーを習得し、更にイタリア/フランスで流行の音楽も取り入れた。王室オルガン奏者を務め、後年は劇音楽を多数作曲。作風は明るく澄んだ流れる様な美しさを持つ。歌劇「ディドーとアエネアス」「妖精の女王」。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※11:ユトレヒト条約(―じょうやく、Utrecht treaty)とは、1713年に列国がオランダ中部のユトレヒトに会して結んだスペイン継承戦争講和条約。フランス/スペインの合併禁止を条件にブルボン朝のスペイン王位継承を認め、多くの海外植民地の英国への割譲などを決めた。
※11-1:スペイン継承戦争(―けいしょうせんそう、War of the Spanish Succession)とは、1701~14年、スペイン王位継承問題を起因として、フランス/スペインとオーストリア/イギリス/オランダとの間に行われた戦争。フランスの退勢とイギリスの海上覇権とを招来し、その後の世界史の力関係に多大な影響を与えた。→ユトレヒト条約。

※12:『酒と薔薇の日々』というアルコール依存症をテーマにした映画が在り、同名の曲(ジョニー・マーサー作詞、ヘンリー・マンシーニ作曲)がジャズのスタンダードに成って居ます。

※13:ウェストミンスター寺院(―じいん、Westminster Abbey)は、ウェストミンスターに在る聖ペテロ修道教会。7世紀初め創建、11世紀に再建、現在のドームはヘンリー3世の建立。国王の戴冠式を行う。歴代の国王・王妃の他、高名の政治家・作家・軍人もここに葬られる。

※14:天神祭(てんじんまつり)は、7月(陰暦6月)25日に行われる天満宮の夏祭。天満祭(てんままつり)。季語は夏。
※14-1:天満祭(てんままつり)とは、大阪の天満宮の夏祭、即ち天神祭のこと。7月25日、昔は陰暦6月。神輿(みこし)の川渡御を中心行事として江戸時代を通じて盛ん。天満の船祭。天満天神祭。季語は夏。

※15:三船祭(みふねまつり)は、宇多上皇(867~931、在位887~897)が大堰川(おおいがわ) -嵐山を流れる桂川やその上流の保津川を含む水系- に御幸の際、舟遊びを楽しんだことに始まり、その後、漢詩・和歌・奏楽に長じた者を3隻の船に分乗させて浮かべ、舟遊びを楽しんだという故事に拠る車折神社(くるまざきじんじゃ)の祭礼。毎年5月第3日曜日。詩・歌・管弦に堪能な人を「三舟の才」又は「三船の才」と呼ぶ。

※16:川床(かわゆか)は、川に突き出して設けた涼みの為の桟敷(さじき)。京都四条河原のが名高い。床涼み。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『ヘンデル』(渡部恵一郎著、音楽之友社)。

△2:『新訂 大音楽家の肖像と生涯』(音楽之友社編・発行)。

△3:『ベートーヴェン』(大築邦雄著、音楽之友社)。

●関連リンク
バロック・オペラの中心地ヴェネツィア▼
ヴィヴァルディ「ヴァイオリン協奏曲「四季」」
(Violin Concerto '4 Seasons', Vivaldi)

舞曲パスピエについて▼
ドビュッシー「ベルガマスク組曲」(Suite Bergamasque, Debussy)
ヨハン・クリスティアン・バッハについて▼
モーツァルト「ヴァイオリン協奏曲第3番」(Violin Concerto No.3, Mozart)
大阪天神祭の船渡御▼
大阪天満宮の天神祭船渡御
(The Tenjin boating-festival of Tenmangu, Osaka)

この曲の初登場日▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')


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