「3.14=π(パイ)の日®」キャンペーンの舞台裏
2009年で8回目のキャンペーン開催になりますが、ここまでくるには苦節何年の日々がありました。
思いおこせば、あれは二十年ほど前。「3月14日で3.14だからパイ」「男の割り切れない気持ち(無理数だもんね)」「まあーるい円で円満」「エンドレスラブ」「パイをお返ししてまーるくおさめましょう」などと洒落たのがはじまり。毎年ホワイトデーにパイを贈って内輪で遊んでいました。
と同じ頃に、もともとケーキ大好きの私たちは京阪神の主なケーキ屋さんを食べ歩いていましたが、東京のパイ専門店で目の覚めるようなおいしいパイ菓子に出会い、もっとみんなにおいしいパイを食べてもらいたくていろいろ考えるようになりました。
そして、思い付いたのが「3.14=π(パイ)の日」という言葉です。最初は「3月14日はπの日」「ホワイトデーはπの日」を商標登録していました。その通りに違いないのですが何か舌足らず。
そう、「3.14」だから「π」なのです。そこに言及できていないのです。小学校以来習っているのは「π≒3.14」というもの。
それで数式の形を取り入れることに。3.14と「π(パイ)の日」を組み合わせたので、3.14とπが≒ではなく、=でつなぐことにしました。これで3.14(3月14日)がパイの記念日として定義されたのです。
カチッとパズルがきれいにはまった瞬間でした。コピーの完成形に到達するには、結構、試行錯誤が必要なものです。
個人レベルでパイを贈っていても広まる気配もないし、「こんな楽しい日を二人占めしてるなんてもったいない」「よし、自分でやらなきゃ誰がやる」と10年経った95年に、この「3.14=π(パイ)の日」という言葉を商標出願することに。
商標を売って儲ける商売を考えていたのではなく、この商標をきっかけに広告の企画・制作の仕事が取れればと考えたのでした。著作権のない広告コピーで終わらせたくなくて(残念ながらこの業界パクリが多いんですよ)、いつも企画の中心でいられる権利を保つため防波堤のつもりで出願したのです。とてもシンプルな思いでした。
さっそく、96年のホワイトデーキャンペーンの実現に向けて活動を開始。
95年は阪神淡路大震災の年で、沈滞する神戸の菓子メーカーを救う手立てになればと、長年温めていたアイデアを実現しようとしました。でも、ほとんどのメーカーのホワイトデー商品は、バレンタインデーチョコレートのパッケージを替えて販売していますし、あらたにパイの工場ラインを作るとなると費用がかかりすぎ、ということで拒否されました。
この交渉と並行させて、雑誌で特集を組んでもらえないかと出版社にも精力的に活動しました。担当者の方はこの言葉を見た瞬間、「一本とられた〜」という感じでウケにウケて、その場は賑々しく盛り上がるのですが、なかなか掲載まではいきません(もちろん、どんなお店が参加するのかがはっきりしていなかったことも大きい要因ですが…)。
その後、関西の百貨店に交渉しましたが、これもまったくうまくいきません。
しかし、大阪のある百貨店が興味を示してくれ、96年のホワイトデーのメインイベントになるところまでいきましたが、上から反対されたらしくて、直前で頓挫。すでにPOPのデザインも色指定まで済んでいたのですが、電話1本で終わり(嗚呼)。
それにもめげず、翌97年ホワイトデーに向けて、兵庫県洋菓子協会に主催団体になってもらおうと働きかけましたが、協会の加盟店でパイ菓子の得意不得意があるといわれ、却下。
そうこうするうちに、「3.14=π(パイ)の日」が97年秋に商標登録。
やった〜と弾んだ気持ちで取り掛かろうとしましたが、ちょうど同時期に久保田の母が末期癌を患い、介護をすることになりました。介護から1年以上過ぎた98年秋に母は亡くなりましたが、その間、会社は開店休業状態。亡くなってからも煩雑な整理や処分しなれけはならないものがあり、仕事どころではありません。ましてや新しいキャンペーンを立ちあげていく、なんてことはできませんでした。
しかし、この開店休業状態、不景気の風とともに嵐になってしまい、二人だけの会社はぐらんぐらん状態に。そこで、まずは通 常業務(広告編集企画・制作)でもとに戻るようせっせと働くことが先決でした。
やっとゆとりが出てきて、キャンペーンに取り組む気力が回復したのが、2000年の末。
01年のホワイトデー開催にはお店との交渉がとても大変なことから、時間的に間に合いそうもなく「よし、今度こそはじっくり取り組んで、02年のホワイトデーに絶対実現しよう」と会社の新年目標としました。
この後は、いろいろなじつにさまざまな、そしてびっくりするような出来事が続きましたが、それはあまりにも長いので省きます。
●ともかく2002年のホワイトデーに念願の第1回「3.14=π(パイ)の日」ホワイトデーキャンペーンを実施しました。
参加していただいたお店は5店。
トリュフのミルフィーユ、πの字型のパイ菓子、シチリアオオレンジを使ったショーソン、マロンパイ、ウィスキーとカカオのフィユテ、パイでつくったバスケット、フィタージュ…とパイ菓子を競作。
95年当時に計画していた規模とは比べものにもなりませんが、一人ひとりの職人さんの顔が見えるイベントをスタートできた喜びは何ものにもかえがたいものがあります(大赤字でしたけれど…トホホ)。
辛いのは赤字ばかりではありませんでした。5店に参加していただくまでにどれだけのお店に足を運んだことか。おおよそ京阪神の60店ほどを駆けずり回ったのです。試食(まず、客としてお店に行くことにしています)した店を加えれば100店を優に越えています。
そして、完璧なコピー、気の利いたデザイン(πr二乗のrがloveに置き換えられている、気が付いてますよね?)で、誰もがすぐに「ニャッ」としてくれるものと思い込んでいたら、おっとどっこい、分からない人には分からない。「πの日」だから「それでどうした」という反応の人が結構いたのです。
それに「ベタやな」という反応や「人と同じことはしたくない」という独自路線派、気に入ってくれてもすでに会社組織になっていると「自社の企画があるから」という反応も。一番多かったのは、いっしょにこのキャンペーンを育てようというのではなく、流行ったら後から乗るという便乗派。「その時が来たらお布施代わりに1万円くらい払ってもいいよ」というのがもっとも典型的な答えでした。
でも、そんなお店ばかりではありません。なかには参加には結びつかなかったものの、誠実な理由でお断りになったお店もありました。「納得できるパイを焼こうと思うと、人員的な体制が整わないと難しいのです。いまの状況では、残念ながら…」「パイは大好きだけど、自信をもってお薦めできるパイを時間をかけて焼く余裕がなくて」などなど。
まあ、そんなこんなで、スタートする前に期待した「バカ受け」にはならないのでした。参加費の設定も、ずいぶん変更を余儀なくされました。お店の利益から考えれば当然の数字に落ち着いているのですが、私たちの利益はまったく度外視の状態です。なんともはや、苦しいことのみ多かりき、という心境に陥ったこともありました。
資金なし・コネなしの個人がキャンペーンを立ちあげて行くことの大変さに真正面から直面した、という感じでしょうか。
でも、参加していただいたお店は「自分たちの力で広めるんだ」という自覚を持ち、このキャンペーンを自分の企画と捉えてくれていました。辛い営業体験の後に、お店から「ありがとうございました」の言葉は心にじわじわとしみわたって行きました。おかげさまで、様々な媒体でも取り上げていただき、これまた手ごたえはずっしり。
しかも、当初営業していたある菓子メーカーの担当者の方や、ある雑誌の担当の方から「あの時の企画ですよね、ついに実現されたんですね」「いつもながら信念には感服しています」と言っていただいたことも。みなさん、忘れずに気にかけてくれていたんだと嬉しくなりました。
●2003年の第2回目は、個性的な6店のシェフ、パティシェがそれぞれこだわったデザート、パイ料理を競作いたしました。商標問題が発生して、急遽、テイクアウトのお店にはお断りし、新たにイートインのお店に参加していただきました。心配したけれど、これも大好評! ありがとうございました。
●2004年は第3回目の参加店は23店鋪。シェフが腕を競って、素敵なパイを焼いてくれました。協賛コンサートもできるようになり、少しずつですが育ちはじめたようです。
●2005年は第4回目。参加の個店は23店鋪。これらのお店は「パイが美味しくて、居心地の良い」名店ばかり。しかもシェフはお菓子作り、料理作りの志の高い人ばかり。もちろんサービスの人たちも。私たちの推奨店です。推奨店の成功事例を見て、一般参加のお店がどんどん参加していただけることを胸をワクワクさせて待っています。
この年は、阪神百貨店もご参加。阪神さんは前々から熱烈なラブコールをくださっていましたが、商標問題でご迷惑を掛けてはいけないからと、お断りしていました。しかしついに実現。
●2006年、第5回目。個店の拡大を中心に活動して、参加は30店舗。ますますバラエティ豊かなパイをお楽しみいただけます。阪神間のお店も増え、徐々に地域的な広がりも出てきたところです。
日本テレマン協会さんの協賛コンサートも3年目を迎えました。コンサート会場での「ムーラタルト」さんによるミートパイの販売も、大盛況。「終演後に買おうと思ったら、売り切れていて、今年は先に買っておくよ」というお客さんもいて、うれしい限りです。
●2007年、第6回目。大阪・阪神間・神戸につづき、京都への進出を達成して、参加店は41店舗。そのために、春から京都のお店の徹底的な食べ歩きを敢行。厳選した9店舗を参加店に加えることができました。
参加店の人とのつながりはもちろん、それ以外のお店の人たちともパイ談義、お菓子談義に花が咲くようになり、じわじわとキャンペーンの認知度が高まってきたのを実感しました。
ブログ「パイ日和」の人気が高まっていることも効を奏したようです。
●2008年、第7回目。参加店は40店舗。そのほか阪急、阪神、両百貨店が地下の既存の店舗のうち5ブランドずつ、合計10ブランドが参加するという形で実施しました。私たちは企画協力という立場です。
バター不足という社会現象があり、はっきりとした向かい風が吹きました。百貨店も大量のストックを用意できず残念ながら、大きな告知をしないまま終わってしまいました。
やや足踏みといった感じの年となりました。
●2009年、第8回目。参加店は最終、50店舗。新たに、滋賀県へも進出。新規ご参加店が17店舗と、大躍進しました。阪神百貨店梅田本店も2ブランド、ご参加いただきました。
全国放送のゴールデンタイムの番組「クイズ雑学王」(テレビ朝日)で、数分ですが、パイの日のことが放映されました。
これらのことからすると、少しずつ“パイの日”が浸透してきたのかと前向きに受け止めています。
●2010年、第9回目。参加店は41店舗。はじめての大幅減。不景気がじわじわと押し寄せてきているのが実感として感じた年でした。
ただ、残ったお店は積極的に取り組んでくれ、定番商品化したものもあります。
●2011年、第10回目。参加店は48店舗。復調の兆しが見受けられた年でした。
パティスリー業界において、日本パイ協会の認知度が向上したため、参加率が高まりました。
キャンペーンを機に、パイ菓子を何年かぶりに復活して作ったお店もありました。自分の企画として捉え、意欲的なお店が増えてきています。
●2012年、第11回目。参加店は43店舗。震災の影響や材料費の高騰など逆風の吹いた年でした。
そんな経済環境のもと、参加していただいたお店の取組みは今までにも増して熱心、お客さまの反応もよく、どのお店も手応えを感じたようでした。マスコミからのアプローチも増え、今後の認知向上に期待が持てました。
●2013年、第12回目。参加店は47店舗。好景気の予感でホワイトデー全体に売上げ増のお店が多い年となりました。ギフト商品開発をするお店が増えてきました。
●2014年、第13回目。参加店は39店舗+ホテルグランヴィア京都、そごう・西武百貨店主要4店舗。秋にフジテレビのクイズ番組(そもさんせっぱ)に取り上げられ、認知度が急速に高まりました。