収蔵書籍展示室 (続き1)

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ひんいせい・まき


著者について(諸橋大漢和辞典より):

著者は、郭子章。明の隆慶年代(1567〜1573年)に進士となり、

貴州巡撫となり、播酋、楊應龍を破って功あり、太子少保、兵部尚書と

なる。著書多数。字は相奎。號は青螺。

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書籍解説:

当時存在したさまざまな書籍より、馬事に関する記事を集め、上・下の

二篇にまとめたもの。引用書籍名が多く記されている。


展示書籍について:

2冊構成。上篇の前半で1冊、上篇の後半と下篇で1冊。

国立公文書館・内閣文庫に、同版あり。次の叢書の内の一書と判明。

内閣文庫資料番号:毛・子90−4

亦政堂鐫

陳眉公家藏廣秘笈(全52冊)

明陳繼儒編 萬暦四十三年序刊

内閣文庫本の『馬記』は、第43冊目に当たり、1冊仕立て。

書籍の内容:

出品書は『序』を欠くが、内閣文庫本には『序』あり。

その『序』の部分を訳してみました。

本書はこれまで訳本が出版されておらず、他訳との照合ができません。

もしお気づきの点ございましたら、どうかご叱正願います。

馬記序
韓退之(韓愈)《768〜824、中唐の詩人》は、『千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。』と言う。つまり、『一日に千里を走る駿馬は必ずどこかにいるが、その駿馬を見出せる伯楽のような人物は、常にいるわけではない。』と言っている。私は、馬が「千里走る事」と人が「聖である事」とが同じだと言っている訳ではない。轡(たづな)を攬(と)って節(ふし=関節)を舒(の)ばし、雲を凌(しの)いで魑(ち=みずち=雨竜、原文は虫偏)を光らせ、塊を歴して(大地を旅して)都を過ぎ、瞬く間に、八方の最も遠い地まで行けるのが、千里馬である。一方、智籠(智恵のかご)を持ち、二儀(天地や陰陽)を理解して使い分け、才擅(さいせん=才能をほしいままにし)、萬物の本質を見極め、未だ觀(み)えざるを知り、指覩(しと)歸する(=目的とするものをよく見分けられる)者が聖人である。『千里の馬は常にあれども、伯楽は常にはあらず。』のごとく言うのは、聖人はこの世に常時いたとしても、聖人だと見極めることのできる人は常にいるという訳ではないという事なのである。しかし、千里に一士、百世に一聖と言うが如く、聖人果たして常にありと言えるだろうか?馬を知るということは、聖人を知ると同様に大変な事である。周の穆王(ぼくおう、周王朝第5代の王。名は満。〜B.C.946頃)の時代、天子の車は穆王に寵遇された造父(ぞうほ)という人物が御し、太丙(たいへい)という人物が右側に護衛として乗り、次車の栢夭(はくよう)の車は参伯(さんぱく)が御し、奔戎(ほんじゅう)という人物が右側に護衛として乗ったが、その時の駿馬は、僅かに八頭であった。(八頭の駿馬に横四頭だての馬車2台を引かせた。)東漢(後漢)の末、西河(オルドス左翼)に馬の鑑定に明るい者がいた。名を子輿と言った。子輿は西河の儀長孺にその鑑定方を傳へ、長孺は茂陵(陝西省興平県)の丁君都にそれを傳へ、君都は成紀(甘粛省)の楊子阿に傳へ、子阿は後に伏波将軍となった馬援(字:文淵)に傳へた。馬援はさらに銅の太鼓を手に入れて、それを鑄潰して馬のかっこにして光武帝に献上した。伯楽が見分けた千里馬のような本当の驥(き=すぐれた馬)なるものは、きっとこの世には存在しているかもしれないが、私はこれまでそのような馬を覩(み)たことがない。孔子は、『人の己(おのれ)を知らざるを患(うれ)えず、其の能わざるを患う也。』という。つまり、人が自分を知って認めてくれないと言って嘆くのは筋違い、自分が他の人の真価を理解できないことを憂慮すべきだと言っている。(私注:論語・学而第十六では、「不患人之不己知、患不知人也」とある。)そもそも、馬はどうして伯楽が自分を知らないからと言って嘆くだろうか。千里馬であるかどうか、つまり自分が優れた馬であるかどうかなど憂慮したりしないのである。ともあれ、古今の名馬を選び采(と)り、ここに記して二巻と為す。上巻は伏羲より我が國朝、明の帝王、公、侯が所有し統馭する馬について一百六十條、下巻は傳(伝)に據(よ)って記載するもので四十條、泰和(江西省泰和県か?)の郭子章(かくししょう)記す。

『序』の原文は、をクリックしてご覧下さい。


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