紫式部
源氏物語の舞台
日本人で唯一人「世界の五大偉人」に選出され、フランスのユネスコ本部に登録された世界最古の偉人並文豪紫式部は、「平安京東郊の中河の地」すなわち現在の廬山寺の境内(全域)に住んでおりました。それは紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅(堤第)であり、この邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したといわれております。
紫式部は藤原香子と呼び、「源氏物語」「紫式部日記」「紫式部集」などは、ほとんどこの地で執筆されたものであります。そのため、世界文学史上屈指の史跡、世界文学発祥の地とも言われております。
この遺跡は考古学者角田文衛博士によって考証されたものであります。そして昭和四十年十一月、境内に紫式部邸宅跡を記念する顕彰碑が建てられました。
また「源氏物語」中の花散里の巻※1にでてくる屋敷はこのあたりであったろうといわれております
※1・・・花散里とは源氏の心を安らげることの出来る女人でした。橘の香りの懐かしいその住まいに源氏が訪ねていったのは心の憂いさに耐え兼ねてのことでした。亡き桐壷院の女御のひとりだった麗景殿女御の妹であり、のちに源氏の子「夕霧」や後に出てくる「玉鬘」の養母となります。
源氏物語の世界
めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に
雲がくれにし夜半の月影
紫式部
有馬山ゐなの笹原風吹けば
いでそよ人を忘れやはする
大弐三位
上の句は紫式部が幼友達に贈った歌である。 紫式部の歌は『思いがけず出合って、その形を見たのかどうか分からぬうちに、雲の中に隠れてしまった夜中の月のように、久し振りにお目にかかり、お姿をみたかどうか分からぬうちにもうあなたはお帰りになられましたのね。』といった意味である。
少女時代の紫式部については、有名な逸話がつたえられています。紫式部の実弟・惟規が父の為時について「史記」を学び、なかなか覚えられずに難渋していたが、わきで聴いている紫式部はすらすらと覚えてしまうので、為時は、「この娘が男でないのが残念だ」と歎いたという話である。