箱根戊辰戦争
慶応四年(1868)五月二十日〜二十六日

*本記事は、幕末ヤ檄団が2012年冬コミに刊行した、『明治維新-箱根の戦い編-』に寄稿させて頂いた記事を加筆修正して、関連画像を追加した物です

戊辰箱根戦争と小田原藩

 譜代の名門小田原藩は一旦は新政府軍に恭順したものの、佐幕の有志である遊撃隊の影響を受けて佐幕に転じてしまう。一方、小田原藩の背信を知った新政府軍は征討軍を派遣した。遊撃隊、小田原藩、新政府軍、三勢力の思惑が箱根の地で激突する。


譜代の名門、小田原藩

 戊辰箱根戦争で、当事者達の意思とは裏腹に、中心軸となった小田原藩は譜代の名門だった。井伊直政や本多忠勝、鳥井元忠といった徳川家の譜代重臣と肩を並べる存在だった大久保忠世が、小田原藩の藩祖である。忠世嫡子の忠隣の代に、小田原の地から一旦離れたものの、忠隣の孫に当たる忠朝が、貞享三年(1686年)に小田原城に返り咲く。以後は一貫して、小田原の地を支配していた。本拠の相模国小田原の他にも、西に隣接する駿河国駿東郡も支配しており、この間に在る箱根峠の関所と、足柄峠の関所の監視も任務とされていた。徳川幕府本拠の、江戸の玄関口を守る役目を担っていたのだ。禄高も関東の譜代藩の中では、十七万石の前橋藩に続く十一万三千石であり、家格・禄高・任務のどれを見ても譜代の名門と呼ぶに相応しい藩だった。
 幕末時の藩主は大久保忠礼であり、讃岐高松藩から小田原藩主の養子に入っていた。最後の将軍である徳川慶喜の従兄弟に当たり(徳川斉昭の兄の子)、血筋的にも徳川家に近かった。この家柄的にも、藩主の血筋的にも徳川家に近い環境が、箱根戊辰戦争時の小田原藩の動向に大きな影響を与えたと思われる。


王政復古と小田原藩

 譜代の名門であり、藩主が将軍の従兄弟である小田原藩には、幕府の方も信頼を置いていたらしく、慶応三年(1868年)九月六日に甲府城城代に任命される。これにより小田原藩は、西国から江戸に至る東海道と甲州街道の二つの防衛を任される事になった。だが、その一ヶ月後の十月十四日、忠礼が甲府城に向かう途中で、徳川慶喜は大政奉還を行ない、朝廷に政権を返上した。
 大政奉還を受けた朝廷は、全国の諸大名に京都への出仕を求めた。だが、小田原藩は甲府城城代の赴任や、徳川慶喜が未だ参内していない事を理由にして、藩主の上洛を拒んでいた。
 慶喜が大政奉還した事により、薩摩藩が主導していた討幕の密勅の工作は水泡に帰して、京の西郷隆盛は関東で挙兵の予定だった浪士組に挙兵の中止を命じた。しかし浪士組は西郷の指示に従わず、十一月から十二月にかけて挙兵し、その内の一隊が、十二月十五日に相模国荻野山中藩陣屋を襲撃した。この荻野山中藩は小田原藩の支藩であり、小田原藩もまた救援の為に出兵した。この荻野山中藩への救援の為に、忠礼の甲府城着任は更に遅れ、十二月二十八日、漸く甲府城に入城した。
 忠礼が甲府城城代の任務に着任した頃、上方では慶応四年一月三日には薩長両藩兵を主力とした新政府軍と旧幕府軍の間で鳥羽伏見の戦いが行なわれ、旧幕府軍は敗退した。勝利した新政府は徳川慶喜追討令を発して、東海道・東山道・北陸道の三方面から、江戸を目指して進軍した。
 一方、鳥羽伏見の敗戦を受けて江戸に帰還した慶喜は、帰還当初は明治新政府との抗戦を企図しており、忠礼の甲府城城代の任務を免じて、箱根関所の守りを強化する事を命じた。


小田原藩の恭順

 甲府から小田原城に帰還した忠礼だったが、この頃から新政府に恭順の姿勢を見せるようになる。二月二十日には在京の家老加藤直衛が、兵糧を新政府に献上した(小田原市史通史編近世:P967)。また、東海道を進軍する新政府の東海道軍に対して二月二十七日、正式に恭順を表明した。
 このように新政府軍に恭順した小田原藩だったが、この判断には主君たる慶喜が二月十二日に新政府に対しての恭順を表明して、上野寛永寺で謹慎を始めたのが大きかったと思われる。慶喜が新政府に恭順したので、小田原藩も恭順したに過ぎず、決して佐幕姿勢を改めた訳ではなかった。
 新政府軍に恭順し、三月二十六日には実際に東海道軍が城下を通過した小田原藩はすっかり「官軍」の一員になっていた。しかし、このような小田原藩の認識を揺るがしたのが遊撃隊の来訪だった。


遊撃隊について

  遊撃隊は旗本の次男三男によって構成された部隊で、徴募兵による幕府歩兵と比べると、親衛隊的な要素の強い部隊だった。遊撃隊は鳥羽伏見の戦いにも参加して、新政府軍相手に勇戦したが、戦いの中で頭角を現してきたのが、人見勝太郎伊庭八郎の両名だった。
 鳥羽伏見の敗戦後、江戸に戻った遊撃隊は、今後の方針を巡って三派に分かれた。上野寛永寺の謹慎後に水戸に去った前将軍慶喜に従った者、上野彰義隊に合流した者、そして人見と伊庭が率いる、新政府軍のとの抗戦を掲げて榎本武揚の海軍と合流した一派だった。
 だが、新政府軍との即時抗戦を掲げる人見と伊庭に対して、榎本は徳川家の行く末が定まるまでは軽挙妄動を避けるとの姿勢だったため、やがて人見・伊庭と榎本は袂を別つ事になる(史談会速記録合本十七巻・七五頁)。ただし、これは両者の共闘が決裂した訳では無く、遊撃隊と榎本艦隊はその後も何度も共闘し、何より遊撃隊が、房総半島の木更津へ渡海するのを手助けしたのが、他でも無い榎本艦隊だった。


請西藩と遊撃隊の合流

 上総国請西藩(一万石)藩主である林忠崇は、慶応四年に数え年で弱冠二十一歳だった事もあり、旧幕府を追い詰める新政府に反感を持っていた。在京の藩士は新政府に恭順する事を勧めてきたが、国許の忠崇は新政府に恭順する事を潔しとせず、藩内の議論も分れていた。
 四月十一日、江戸城が無血開城し、撤兵隊、後に義軍府を名乗る脱走兵を率いた福田八郎右衛門が同十七日に請西藩を訪れた。佐幕勢力として新政府軍との抗戦を求める福田に対して、忠崇は同意し、共闘することを約する。福田の義軍府と共闘を約した忠崇だったが、義軍府が領内で横暴な振る舞いをして、領民から搾取するのを見て違和感を持ち始めた。そして忠崇が義軍府との共闘に疑問を持ち始めた同二十八日に、人見と伊庭が率いる遊撃隊三十余名が請西藩を訪れた。
 義軍府と比べて遊撃隊は、三十余名と兵力としては少なかったが、旗本の子弟で構成されている点と、人見と伊庭の指揮により統制が取れていたことに忠崇はすっかり魅了され、遊撃隊と共闘することを決断する(一夢林翁戊辰出陣記)。

   

左:上総請西藩真武根陣屋跡
右:真武根陣屋跡の現況


遊撃隊、房総半島を南下する

 閏四月三日、忠崇は自藩兵を率いて、請西藩の真武根陣屋を出陣した。請西藩兵の出陣で特筆すべきは、藩主の忠崇自身が脱藩したことだ。これについて忠崇は、藩主のまま出兵しては、謹慎している慶喜に迷惑がかかるので、脱藩という形にしたと述べている(一夢林翁戊辰出陣記)。また同書によれば、真武根陣屋内で人見・伊庭・忠崇の三人で今後の方針を初めて会議した際に、房総諸藩を味方に引き込み、小田原藩を佐幕勢力の盟主とすることを目論んでいたらしく、まずは房総諸藩を味方に引き込むため、一行は房総半島を南下した。なお、この遊撃隊と請西藩兵の連合軍については、「遊撃隊」と「林軍」の二つの呼称があるが、本稿では遊撃隊に統一する。
 遊撃隊が目指したのは、まずは前橋藩(松平家十七万石)の飛び地である富津陣屋だった。この富津陣屋へ向かう途中で、佐貫藩(阿部家一万七千石)からの応援兵四十余名と、飯野藩(保科家二万石)の応援兵二十余名が遊撃隊に合流する。両藩の応援は遊撃隊の呼びかけに答えたものだったが、当時は義軍府も周囲の房総諸藩に圧力を掛けており、両藩の応援兵はこの影響を受けた面もあると思われる。飯野・佐貫の両藩兵を加えた遊撃隊は同日三日に富津陣屋を包囲して、同所の明け渡しを要求する。当時の富津陣屋には、江戸に在住していた前橋藩士の家族が避難していた。戦闘が起きれば、これらの家族にも災難が及ぶことから、家老の小河原左宮が同日夜に責任を取って自刃した上で、翌日四日富津陣屋は開城して遊撃隊に降った(富津市史:P750)。その際同所は金子・小銃・大砲等の物資の他に、藩士二十名を供出した。なお、藩士の他に前富津陣屋を守っていた二本松藩から引き継いだ足軽二十余名が自主的に遊撃隊に合流する。
 富津陣屋を開城させた遊撃隊は、次は館山藩(稲葉家一万石)を目指した。途中で勝山藩(酒井家一万二千石)の応援兵約30名を得た遊撃隊は八日、館山に到着する。遊撃隊の行軍に合わせて、榎本艦隊の大江丸も館山湾に現れて威嚇砲撃をしたため(一夢林翁戊辰出陣記)、人見と伊庭に面会した、留守を預かる前藩主稲葉正巳は遊撃隊の要求を受け入れざるを得なく、藩兵半小隊と兵糧等の物資を供出した。


遊撃隊の小田原来訪

 館山藩を屈服させて兵力を増強させた遊撃隊は、いよいよ江戸湾を渡海して小田原藩へ向かうことにした。閏四月十日、遊撃隊は和船二隻に分乗して、榎本艦隊の大江丸に曳航されて相模国真鶴半島へ十二日に上陸した。遊撃隊が無事に真鶴に上陸出来たのは、この時点での江戸湾周辺の制海権を榎本艦隊が握っていた事を意味する。この江戸湾周辺の制海権を榎本艦隊が握っていることが、後に遊撃隊にとって大きな意味を持つことになった。
 真鶴に上陸した遊撃隊は、この地で会議を行い、忠崇が小田原藩へ説得に向かうことになった。これは一万石と言えども、譜代大名の忠崇の方が、同じ譜代藩の小田原藩の説得に有利だろうと判断したためで、忠崇は供の者を連れて同日夜半に小田原城城下を訪れた。
 藩主忠礼との面談を求めた忠崇だったが、小田原藩はこれを避けて渡辺了叟等の重臣が応対した。この席で忠崇は小田原藩に対して、遊撃隊と共闘し、その盟主になってほしいと要請したらしいが(小田原近代百年史:P23)、小田原藩側は「今、新政府軍と抗戦すれば、恭順している慶喜に迷惑がかかる」と断り、忠崇は小田原城下を退去した。
 小田原藩は遊撃隊との共闘は断ったものの、大量の軍資金と物資を遊撃隊に供与している。その内訳は軍資金三千両から始まり、機械(小銃や雷管等のことか)・塩菜・梅干・薪炭と多岐に渡っている。これは今まで房総諸藩が供出した軍資金・物資と比べると多い。小田原藩が大藩だったと言うのもあるだろうが、遊撃隊との共闘を断ったと言えども、佐幕を明確に掲げる遊撃隊に対する想いが、この供出物資の量に繋がったと思われる。これはよく言えば、小田原藩が新政府軍に恭順したと言えども、佐幕の精神を忘れていなかったとも言える。しかし、悪く言えば尊皇か佐幕かを、未だに決断出来なかった証左ではないだろうか。

   

左:真鶴半島の現状
右:小田原城の復元天守閣


遊撃隊の逃避行〜韮山から沼津、沼津から甲斐へ〜

 小田原藩を盟主にするという、当初の計画が頓挫した遊撃隊が次に頼ったのが、韮山代官所だった。韮山代官所は古くから西洋軍事の調練を行い、独自に反射炉を製造するなど開明派と知られており、それを遊撃隊は頼ったと思われる。だが、十四日に小田原城下を出発した遊撃隊が、十五日に韮山へ到着した時には、代官江川英武は新政府に呼び出されて不在だったため、韮山でも遊撃隊は共闘することが出来なかった。代官所は共闘出来ない代わりに遊撃隊に金子と小銃を供出したが、代官所が供出したのは旧式のゲベール銃だった(中根賢『戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊』)。この小田原藩と韮山代官所が差し出した物資の差からも、小田原藩の複雑な内情が窺える。
 なお、遊撃隊の装備していた小銃は不明だが、元々幕府陸軍の正規部隊であり、韮山代官所のゲベール銃供出に不満を持っていたことからも、ミニエー銃を装備していたと思われる。また請西藩兵については、一万石の小藩に過ぎない請西藩が、西洋軍制化が進んでいたとの記録は見当たらないので、こちらはゲベール銃の装備だったと思われる。

 小田原藩と韮山代官所との共闘の望みが絶たれた遊撃隊が次に頼ったのが、駿河国沼津藩(水野家五万石)だった。だが、頼みとした沼津藩主水野忠敬は、忠礼の後任として甲府城城代として甲府に赴任中であり、遊撃隊は忠敬を追って沼津から甲府へ向かった。
 遊撃隊は御坂峠越えのルートを選び、十六日夜には駿東郡御殿場村に宿陣した。同日夜、御殿場村の遊撃隊の元に徳川家の使者として山岡鉄舟が到着する。新政府軍の大総督府参謀の西郷隆盛からの依頼で、遊撃隊の様子を見に来た山岡は遊撃隊に甲斐国黒駒村で留まることを要請する。留まっている間に、山岡が新政府軍へ取り次ぎする事を約束したので(史談会速記録合本十七巻:P83)、遊撃隊もこれを了承して、二十一日に黒駒村に入り、しばらくこの地に留まることにした。

      

左:旧黒駒村の御坂路旧道
右:旧黒駒村内に建つ戸倉神社。もしかしたら遊撃隊も、この神社を訪れたかもしれない。

現在は廃道となった、旧黒駒村内の御坂路跡

 遊撃隊が黒駒村に滞陣している間、遊撃隊の決起を知った駿府勤番の旗本と、岡崎藩脱藩の脱藩藩士計六十余名が駆けつけて遊撃隊に合流した。彼らは半ば強要されて参加した房総諸藩兵(全てでは無いが)とは違い、自主的に参加した集団のために士気も高かった。こうして駿府勤番兵と岡崎脱藩兵を加えた遊撃隊の総数は270名近くもなったが、ここでその規模編成を紹介する。
 なお、駿府勤番兵の装備は判らないが、岡崎脱藩兵については、中には七連発銃(スペンサー銃)を所有していた者が居たとの記録があることから、ミニエー銃を標準装備にしていたと考えられる。

第一軍:隊長人見勝太郎(遊撃隊士)
 一番小隊:勝山藩兵31名
 二番小隊:前橋藩兵23名
 一番大砲隊:遊撃隊14名
第二軍:隊長伊庭八郎(遊撃隊士)
 一番小隊:遊撃隊15名
 二番小隊:駿府勤番兵34名
 二番大砲隊:遊撃隊13名
第三軍:隊長和多田貢(岡崎藩士)
 岡崎藩兵24名
第四軍:隊長木村隼人(請西藩士)
 請西藩兵61名
第五軍:隊長山高^三郎(遊撃隊士)
 一番小隊:館山藩兵14名
 二番小隊:飯野藩兵19名

 以上の編成の計248名に、人足や富津陣屋台場足軽などが加わり、総数では400名を超えたと思われる。
 木更津上陸時と比べると十倍以上の兵力となった遊撃隊だったが、新政府からも山岡からも一向に連絡が来ないことにしびれを切らして、五月一日に甲府城目指して出発した。遊撃隊の出発を知った沼津藩士は、甲府城から駆けつけて説得を行った。この時に甲州勝沼で新政府軍と戦った敗れた近藤勇のことを例に挙げて、暴発を思い留まり沼津藩内で時期を待つように諭している(戊辰國難記)。説得を受け入れた遊撃隊は二日に黒駒村を出発、五日に沼津藩領香貫村へ到着し、同村内の霊山寺に宿陣した。
 なお、『一夢林翁戊辰出陣記』によれば、忠崇は小田原藩退去後も小田原藩と連絡を取っていたらしい。

遊撃隊が宿陣した、霊山寺の現況。


大総督府軍監の派遣

 遊撃隊が香貫村にて宿陣を始めた翌六日、江戸の新政府軍は占領下の地域に、四人の軍監を任命する。島義勇(佐賀)・中井正勝(鳥取)・三雲種方(佐土原)・和田勇(大村)の四人の内、島が下野と下総、中井と三雲が相模と伊豆、和田が沼津をそれぞれ担当し、占領地域の反乱勢力を鎮圧するのが任務だったと思われる。この四人の権限はかなり強大だったらしく、島などは曖昧な態度を取ってはいたものの、決して反新政府的な行動を取った訳ではない真岡代官所を襲撃して、代官の山内源七郎を殺害している。「疑わしきは討つ」との方針の軍監からすれば、遊撃隊は正に危険な存在であり、該当地域が離れている島以外の、中井・三雲・和田の三人は遊撃隊を討伐目標として動き出す。
 まず三人は、一旦箱根関所の任務から離れていた小田原藩に十三日、箱根関所の守りを固めるように命令した。新政府軍が強硬姿勢を強める中、一方の遊撃隊は宿陣する香貫村で陣地を構築して戦闘準備を進めていた。この動きを知った沼津軍監の和田は十六日、小田原藩家老である岩瀬大江進を呼び出して、遊撃隊の討伐を命令する(小田原市史通史編近世:P973)。
 命令を受けて小田原藩は、家老の吉野大炊介を隊長とした4個小隊と山砲砲兵隊半隊を出発させた。このように小田原・箱根・沼津の方面に徐々に戦雲が立ちこめる中、事態を急転させる出来事が江戸で発生する。五月十五日に開戦した、上野戦争である。


上野戦争の開戦

 江戸城無血開城後、各地に飛び取った反新政府勢力の中で最大勢力だったのが、上野の寛永寺に篭った彰義隊だ。最盛期は三千名もの人員を有したと言われる彰義隊には、西郷隆盛も手を出すことは出来ず、彰義隊は江戸の町を欲しいままに闊歩していた。しかし、彰義隊討伐の任を受けた大村益次郎が、閏四月に京から江戸に着任すると、急ピッチで戦争準備を進めた。五月十五日、新政府軍が上野に対して攻撃を開始すると、大村はその天才的な作戦で、最大の反新政府勢力たる彰義隊を僅か半日で壊滅させた。上野戦争開戦の知らせは、彰義隊の暴発として全国に広まり、当然その知らせは沼津藩領香貫村の遊撃隊にも届いた。


遊撃隊の決起

 遊撃隊が上野戦争開戦を知ったのは、五月十七日だったらしいが、彰義隊が半日で壊滅させられた事までは伝わらなかったらしい。上野戦争の知らせは次第に遊撃隊内にも広まり、遊撃隊も決起すべきとの主張の中、十九日に人見が単独で第一軍を率いて香貫村を出発し、江戸を目指した。この単独決起について人見は、徳川家の廟所で彰義隊が決起した以上は、趣かざるを得なかったと述べている(史談会速記録合本十七巻:P83)。この人見の単独出兵は、忠崇が真武根陣屋出陣時に発した軍令状に書かれた「令無シテ猥に進退スヘカラス(一夢林翁戊辰出陣記)」に反する行動だったが、このまま第一軍だけ行かせて、第一軍が敗北したら、全軍が瓦解する可能性があるとの判断から、全軍で人見の後を追うことに決した。全軍が箱根方面へ出兵する一方で、一部の遊撃隊が沼津宿に宿陣中だった軍監和田の寝所を襲撃する。沼津宿を常宿にしていた岡崎藩士が主導の襲撃だったが、間一髪で和田は沼津藩に保護された。


箱根関所の戦い:五月二十日

 香貫村を出発した人見率いる第一軍は、増水した狩野川を超えて三島宿へ到着した。三島宿内には新政府が新たに設けた関所があり、旗本の松下嘉兵衛の手勢が守っており、人見はこの松下勢に関所を通してくれるように依頼した。軍監の吉井顕蔵(土佐)に監視される松下勢は、関所を通らずに間道を通るのならば黙認するとの姿勢を示したものの、人見は強行突破の姿勢を見せたため、松下勢も屈して関所を開き、人見率いる第一軍は更に箱根へ向かった。
 この三島宿突破に先立ち、小田原藩士関重麿は、人見に江戸に向けての進軍を思い留まるように説得したものの、人見に拒絶されている。関から遊撃隊の進軍を知った小田原滞在の中井と三雲は、遊撃隊の進軍に備えて箱根関所の守りを固めるように小田原藩に命じ、これを受けて吉野率いる小田原藩兵は、箱根関所に向けて出兵した。また、この箱根関所を守る小田原藩兵を督戦するため、三雲も箱根関所へ向かった。
 翌二十日、小田原藩兵が守りを固める箱根関所に人見率いる第一軍が到着し、箱根関所の通過を要請する。これに対して吉野は間道を進むように答えるが、大砲を有する遊撃隊は東海道を進むしかなく、両者の押し問答は二時間にも及んだと伝わる。
 やがて小田原から三雲が到着して、小田原藩兵に開戦を命令した(中根賢『戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊)。小田原藩兵が午後二時頃から射撃を始めた事により、両軍は箱根関所を挟んで銃撃戦を開始、ここに遊撃隊と小田原藩は戦闘状態に突入した。
 箱根関所を挟んでの射撃のため、両軍とも決定打に欠けていたものの、夕方頃には兵力に劣る遊撃隊が、箱根宿に火を放って後退を始めた(小田原市史通史編近世:P974)。遊撃隊の後退を見た三雲は一旦小田原に戻ったため、やがて箱根関所は休戦状態となった。しかし、その頃小田原藩の政情は急転直下に激変していた。

   

左・右:復元された箱根関所跡。当時と同じ位置に復元されているので、遊撃隊と小田原藩兵の戦闘は、この付近で行なわれたと思われる。

見張り小屋から見下ろした、関所跡と芦ノ湖。当時の東海道は、芦ノ湖の湖岸線を通っていた。


小田原藩の変心

 箱根関所で小田原藩兵と遊撃隊が開戦した一方で、小田原城下に元小田原藩士の加藤音弥渡辺源四朗の両名が、小田原藩の説得に訪れていた(明治小田原町史上:P24)。この両名は当時は遊撃隊に属していたと言われるが、遊撃隊の名簿にその名は見られない。あるいは榎本艦隊に合流していたのかもしれない。また同書には、他に米沢藩士雲井龍雄も両名と一緒に訪れたと書かれているが、同書以外ではそのような話を聞かない。
 閑話休題。小田原藩を説得する為に訪れた加藤と渡辺の両名は、上野戦争で彰義隊が勝利して、小田原藩の親戚筋である大久保彦右衛門家率いる徳川勢三千が伊豆下田に軍艦で上陸し、他にも奥羽諸大名の連合軍九万が利根川まで進んでいると伝えた(小田原市史通史編近世:P974)。
 後世の歴史を知っている私達にとっては、この元小田原藩士の情報は誤報と判るが、当時の小田原藩は上野戦争が開戦した情報は掴んでいたものの、その勝敗までは情報が入ってきていなかった(戊辰國難記)こともあり、この元小田原藩士が持ち込んできた情報を鵜呑みにしてしまった。あるいは一旦忠崇の誘いを断ったと言えども、血筋的にも環境的にも佐幕姿勢の強かった小田原藩もまた、徳川家を追い詰める新政府に反感を持っていたのかもしれない。だが、感情だけで新政府に対抗して御家が断絶してしまう事は、封建諸侯にとって最も避けるべきことだった。忠崇とも水面下でやり取りしていた小田原藩にとっては、この元小田原藩士が持ち込んだ情報は「信用出来る情報」では無くても、「信用したい情報」だったのかもしれない。
 また、中井と三雲が率いる軍勢が、城下で我が物顔に振る舞うことに不満を持っていた小田原藩は、この誤報を飛びついてそれまでの新政府下の恭順姿勢を捨てて、佐幕に転じることにした。当時小田原城には藩主忠礼が在城していたので、この意思決定に忠礼が関わっていたのは間違いないと思うものの、この顛末が書かれた史料が残っていないので、史料的には忠礼の方針転換への関与は判らない。


遊撃隊との同盟と、軍監殺害

 藩論を佐幕とした小田原藩首脳部は、遊撃隊との戦いを辞めさせるため、藩士の関小左衛門を箱根関所へ派遣させた。かくして二十一日朝、関所内の小田原藩から遊撃隊に停戦と同盟が呼び掛けられ、これを人見が了承した事により、小田原藩と遊撃隊の同盟が成立した。
 この席上で小田原藩側から、遊撃隊の小田原城入城を持ちかけられたらしく(史談会速記録合本十七巻・P85)、遊撃隊は小田原城を目指したが、その途中の元箱根に設けられた新政府軍の宿舎を襲撃して11名を殺害した。また、道中の権現坂で小田原から出張してきた中井一行と遭遇する。恐らく中井は三雲に代わって、この日の箱根関所を守る小田原藩兵を指揮しに来たと思われるが、この中井とその護衛兵の一行を遊撃隊は襲撃して殺害した。
 軍監殺害の知らせは間もなく小田原城下に到着するが、年寄の蜂屋重太夫は藩論が佐幕に転じたのにも関わらず、三雲に小田原からの退去を勧めたため、三雲は小田原城下を脱出して、東海道藤沢宿に向かった。
 翌二十二日、中井一行を殺害した遊撃隊は小田原城に入城して、人見と伊庭は藩主忠礼を対面した。だが、この会見場で人見・伊庭と忠礼が何を語ったかは伝わっておらず、また遊撃隊と小田原藩がどのような軍議をしたのかも伝わってはいない。
 個人的に解せないのは、この時小田原城に入城したのは遊撃隊の第一軍と第二軍を始めとした148名らしいが、小田原藩との同盟を当初から唱えていた忠崇は入城せずに、東海道山中村に留まっていたことだ。何故、それまで小田原藩との折衝を担当していた忠崇が小田原城に入城せずに、人見と伊庭が入城したのかが疑問だ。
 またこの日、三島宿から逃れてきた吉井もまた、佐幕に転じた小田原藩士により斬殺されている。


再び尊皇へ方針転換

 話は遡り五月二十一日、小田原藩は自藩の江戸藩邸へ、藩が佐幕に転じた事を知らせるために、藩士関重麿を出発させた。関は東海道を辿って江戸を目指したが、藤沢宿で小田原城下を脱出した三雲と遭遇し、殺害を試みるものの、三雲に逃げられてしまう(戊辰國難記)。二十二日午後、関は江戸藩邸へ到着し、国許が佐幕に転じた事を伝えたが、これは江戸藩邸の藩士にとっては正に驚愕の事態だった。小田原藩が佐幕に転じた理由の一つである上野戦争についても、江戸藩邸からすれば彰義隊が半日で潰滅させられたのを間近で見て、新政府軍の軍事力を実感していただけに、新政府軍と抗戦するなどと言うのは考えられないことだった。江戸藩邸に居た大目付の中垣謙斎は、関に対して上野戦争で彰義隊が潰滅したことを説明した上で、自らが国許を説得すべく小田原を目指した。
 なお、関は中垣に説得された後も新政府に対しての抗戦を諦めず、江戸に留まって反新政府勢力の結集を募ったが、最終的には榎本艦隊に合流し、結局関が国許に帰ったのは、箱根戦争も、その後の戦後処理もとっくに終わった九月のことだった(戊辰國難記)。
 二十三日、小田原城へ到着した中垣は、城内に居並ぶ重臣を前に彰義隊が潰滅した以上は、新政府に抗戦する不利を諭して説得を試みた。この時点の城内は佐幕派の空気が強く、家老の渡辺了叟と勝手方の関小左衛門は、中垣の説得を受けても頑固に反対し、関に至っては刀の鍔に手を掛けてまで中垣を恫喝した(慶応戊辰小田原戦役史:P11)。
 しかし、彰義隊が潰滅したと言う事実を知った藩主忠礼は再び新政府に恭順して、遊撃隊との同盟を破棄する事を決定する。この小田原藩の変心は非難される事が多いが、尊皇にしろ佐幕にしろ、封建時代の諸侯としては、あくまで藩が存続する事が前提の尊皇であり佐幕であり、藩の存続を危険に晒してまで佐幕を貫くと言う考えがなかったのは当然だろう。

 再び新政府に恭順することとした小田原藩としては、城下に反新政府勢力である遊撃隊が駐屯しているのは都合が悪く、二十三日夕方に藩主忠礼自らが遊撃隊の元を訪れて、城下からの退去を要請している。
 忠礼の説得を受けた遊撃隊は城下からの退去を了承し、翌二十四日から順次退去を開始し、二十五日には殿の伊庭も小田原城城下を去った。城下を去る遊撃隊に対して、小田原藩はまたもや金子や食料の提供を伝えるが、伊庭に「反復再三、怯懦千万、堂々たる十二万石中、複一人の男児なきか(岡崎脱藩士戊辰戦争記略)」と嘲笑されてしまう。小田原城下を退去した遊撃隊は、箱根方面へ後退して、湯本村周辺に布陣を始めた。一方で人見は、今後の善後策を練るために、榎本艦隊を訪ねた(一夢林翁戊辰出陣記)。
 遊撃隊との同盟を破棄してまで、慌てて新政府への再恭順を計った小田原藩だったが、時既に遅く、新政府は小田原藩へ問罪使を派遣していた。


新政府軍、問罪使を派遣する

 五月二十三日、小田原を脱出した三雲が江戸へ到着し、大総督府に小田原藩の変心を報告した。小田原藩の変心に激怒した大総督府は、ただちに問罪使の派遣を決定して、公家の穂波経度を問罪使に任命する。この問罪使の護衛兵として上野戦争の勝利で得た余剰兵力となった長州・鳥取・津・岡山の四藩兵が選ばれ、それを率いる参謀として勝沼野州上野で勇戦した鳥取藩士の河田左久馬が任命された。
 この時に、河田の指揮下に入ったのは以下の兵力である。長州藩2個中隊(飯田竹二郎鋭武隊一個中隊・有地品之允施条銃足軽第一大隊四番中隊) 、鳥取藩7個小隊(宮脇逢殿助隊・渋谷甚左衛門隊・本内金左衛門隊・建部半之丞隊・井上静雄隊・支藩兵一小隊・山国隊)と近藤類蔵砲兵隊、津藩兵3個小隊(若原一郎左衛門隊・服部作左衛門隊・平井喜造隊) 、岡山藩遊奇隊(農兵隊)。名目こそ問罪使だが、これは事実上、小田原藩征討軍であり、名目上の長である公家の穂波に代わって、河田が実質軍勢を率いた。また小田原から脱出してきた三雲が軍監として河田を補佐する形となった。


小田原藩の謝罪恭順

 中垣の奔走により小田原藩が新政府に恭順と決めた翌二十三日、問罪使からの詰問状が到着する。詰問状は「中井の殺害」「三雲の追放」「遊撃隊との同盟」について弾劾するもので、問罪使軍が二十五日に大磯宿へ到着するので、同地へ出頭することを求める内容だった。
 これを受けて二十五日、家老岩瀬大江進・年寄蜂屋重太夫等が大磯宿へ出頭するが、昼に到着の予定が夕方に到着し(もっともこれは遊撃隊の城下退去を見届けたからかもしれないが)、詰問に対する返答が曖昧な物だったので河田は激怒し、小田原城へ戻って新政府軍と戦う準備をするようにと、岩瀬等を追い返した(鳥取市史:P1042)。
 問罪使の怒りを知った藩主忠礼は城内から退去して、城下の菩提寺の一つである本源寺に入って謹慎の姿勢を表明した。翌二十六日、問罪使軍が小田原城下に到着した。前日から城外で謹慎していた忠礼は河田の元に出頭して開城謝罪すると共に、遊撃隊を小田原藩の手で討伐することにより罪を償うことを懇願した。河田が了承したことにより、小田原藩兵は昨日までの友軍だった遊撃隊討伐のために出兵する。
 ところで、この二十六日に遊撃隊討伐のために出兵した小田原藩兵の規模編成だが、残念ながら判らない。あるいは、この日の小田原藩は、問罪使の河田に謝罪恭順して、その直後に出兵すると言う混乱の状態だったために記録が残っていないのかもしれない。だが自藩が存亡の危機だったのだから、戦える者は全て出兵したのではないだろうか。小田原藩が河田に提出した書状の中に、小田原藩の兵士数が745人と書かれているので(復古記第十巻:P241)、或いはこの745人が全て出兵したのかもしれない。
 こうして小田原藩兵が先鋒として進み、その後に河田が率いる長州・鳥取・津・岡山の四藩兵が半ば督戦隊として進む形で遊撃隊が布陣する湯本村へ向かった。


山崎の戦い:五月二十六日

山崎の戦い略図
(記事を読む前に別ウインドで開いて、記事を読む際にご活用下さい)

 はじめに戦いが行われた湯本村・山崎村周辺の地形から説明したい。小田原宿を出た東海道は、箱根に向かうに従い南北を山に挟まれた隘路となり、南側を早川に沿って東に続いていた。その後、風祭村・入生田村・山崎村を越えると、東海道は早川を三枚橋で渡り、早川南岸の湯本村へ至る。この湯本村は隘路続きの小田原〜箱根間では珍しく開けた土地であり、当時も温泉街として栄えていた。湯本村を出ると、再び山に挟まれた隘路になり、やがて箱根の峠道へに繋がった。

   
左:石垣山から見下ろした山崎村の遠景、山に南北を挟まれた隘路なのが判る。
右:早川と、早川に架かる三枚橋。その右奥に石垣山がそびえる。

 二十五日、小田原城退去を終えた遊撃隊は湯本村に本陣を置いて、三枚橋から山崎村間の街道上に畳で胸壁を設けていた。また山崎村北方の塔ノ峰の山裾と、湯本村南方の早雲山の中腹にそれぞれ台場を築いて砲兵を配置した。兵力の配置は湯本村周辺に第二軍と第三軍が布陣し、第一軍は山崎村付近に布陣した。一方、忠崇がいる第四軍と第五軍は、箱根関所よりも後方の、山中村付近に宿陣していた。
 遊撃隊の布陣の意図は、兵力の展開に適さない隘路で、敵軍を迎え撃つものだったと思われる。兵力に劣る遊撃隊としては正しい判断だったと思われるが、兵力に劣るのであれば、何故遊撃隊内で最大の兵力だった、請西藩兵による第四軍を後方に置いたのかが謎だ。

 翌二十六日、新政府に再恭順した小田原藩兵は、遊撃隊討伐のために出陣した。前述のとおり、この時の小田原藩兵の規模編成は判らないが、藩兵を三つに分けて主力が東海道を進む一方で、右翼隊は東海道北に連なる塔ノ峰の山沿いに進み、左翼隊は早川の南岸、かつて豊臣秀吉の小田原征伐の際に石垣山城が築かれた、石垣山沿いに進んだ。


石垣山に残る石垣山城の遺構。関東大震災で石垣は崩れてしまったが、戊辰戦争時は石垣が健在だったと思われる。

 正午頃、小田原藩兵が風祭村付近に到着したことにより、両軍は戦闘を開始した。小田原藩兵は佐幕派の重鎮である家老渡辺了叟自らが指揮を執ったが、つい先日まで友軍だった遊撃隊との戦いには士気は奮わなかった。小田原藩兵の西洋軍制化は進んでおらず、実戦経験不足からも、装備の面でも練度の面でも優れた遊撃隊優勢の戦況が続く。また塔ノ峰と、早雲山の中腹に築かれた台場からの砲撃に阻まれ、数に勝っていたにも関わらず、小田原藩兵は遊撃隊の戦線を崩せずにいた。 


激戦地となった山崎村付近の現況

 夕方近くになっても、小田原藩兵が遊撃隊を撃破出来ないことに業を煮やした河田は、小田原藩兵に代わって、新政府軍を投入する事を決意する。前衛を長州藩兵と岡山藩兵、後衛を鳥取藩兵と津藩兵の順に行軍してきた四藩兵を戦場に投入した。装備の質と、練度の両面で小田原藩兵を大きく凌駕する、四藩兵を投入しても、戦意旺盛な遊撃隊の戦線は中々崩れず、鳥取藩兵小隊長の井上静雄が戦傷死している。
 だが、小田原藩兵の迂回攻撃と、長州藩・鳥取藩兵砲兵の砲撃により、塔ノ峰の中腹に築かれた砲台が陥落すると、次第に遊撃隊も劣勢になる。河田はその隙を見逃さず、総攻撃を命令した。新政府軍の猛攻の前に、遊撃隊の戦線も崩れ始める。やがて三枚橋より東に布陣する遊撃隊は三枚橋を渡り、湯本村に火を放って箱根方面へ撤退した。

  
左、右:旧東海道の現況、新政府軍と遊撃隊は、この街道上で激戦を繰り広げた。

 新政府軍は三枚橋を渡って湯本村周辺まで攻め込んだものの、夜半になったのを受けて、全兵が三枚橋北岸へ引揚げた。そして小田原藩兵は山崎村へ、長州藩兵と鳥取藩兵は風祭村へ、岡山藩兵と津藩兵は小田原城下へ後退して、それぞれ宿陣した。
 なお、新政府軍側の総攻撃の最中、山崎村で遊撃隊の指揮を執っていた伊庭が、小田原藩士高橋藤太郎により左手首を斬られている。この出来事は伊庭の武勇伝として語られる事が多いが、銃砲撃戦がメインとなった戊辰戦争の中で、組織的な白兵戦が行われたと言う珍しいケースと言える。

   

左:三枚橋の現況
右:三枚橋を渡り、箱根へ向かう東海道の現況


遊撃隊の脱出

 五月二十六日に山崎村で開戦したと知った忠崇は、二十七日朝、第四軍と第五軍を率いて宿陣地の山中村を出発して湯本村・山崎村を目指した。林達は昼頃には、湯本村・山崎村から敗走してきた兵士達と合流し、山崎村での敗戦を知った。敗戦を知った林達は、箱根からの脱出を決意し、敗走してくる友軍を収容しつつ、熱海目指して撤退を始めた。当時箱根方面から熱海へ抜けるには、標高千メートルを超える鞍掛山を含む山岳地帯を突破しなくてはいけなかったが、留まっていても新政府軍に討たれるだけなので、一同は懸命に熱海を目指した。
 だが、熱海を目指せたのは集団を保っていた遊撃隊士のみで、はぐれてしまった遊撃隊士達は山中をさまようことになり、二十七日以降行われた小田原藩兵の残敵掃討によって、次々に討たれていった。特にこの日以降の小田原藩兵は、新政府に対する功績を挙げる為にも、積極的に遊撃隊の残党狩りを行なった。
 忠崇が率いる遊撃隊の残存兵力は、小田原藩兵の残敵掃討から辛くも逃れることが出来、夕方には熱海へ到着した。同地には榎本艦隊から帰ってきた人見も到着しており、人見の指示で遊撃隊は漁船に乗り込み、海上で榎本艦隊に回収され、相模湾を航行して翌二十八日に館山湾へ寄港した。
 ここで人見と忠崇は(伊庭は治療の為に戦線離脱)、館山・勝山・飯野・前橋(富津陣屋)等の房総諸藩兵を帰還させ、自分たちは新政府軍との抗戦を続ける為に奥州へ向かった。やがて忠崇は奥州で新政府軍に投降したが、戦線復帰した伊庭と人見は新政府軍との抗戦を諦めずに、遂に箱館まで戦い続けた。

   

左:真武根陣屋跡に建てられた、請西藩戊辰殉難者慰霊碑
右:真武根陣屋跡から見下ろした、請西藩領の町並みの現況


小田原藩の戦後処理

 小田原藩兵は二十九日まで箱根山中での残敵掃討を行なったが、その間にも河田による責任追及は行われており、二十七日に家老の渡辺了叟と吉野大炊介、年寄の早川矢柄、勝手方の関小左衛門の四人が謹慎を命じられた。結局この四人は六月六日に鳥取藩兵の護送により江戸へ護送され、処分が終わったと言うことで、十日には河田は津藩兵を残して、残りの長州・鳥取・岡山の三藩兵を率いて江戸へ帰還した。そしてこの河田が去ったその夜に、家老岩瀬大江進が小田原藩迷走の責任を取って自刃した。
 また、十三日には吉井顕蔵を斬った藩士二名が捕らえられる。この両名は九月二十三日に斬刑に処せられたが、その処刑者として吉井の息子が任じられている。そして「三雲軍監追放」と「遊撃隊との同盟」の首謀者としての責任を取り、十月十日には江戸藩邸で渡辺が自刃した。
 このように犠牲は大きかったものの、小田原藩は取り潰しを免れて、九月二十七日に藩主忠礼の永蟄居と三万八千石の厳封処分が伝えられた。これは朝廷任命の軍監を殺害、追放して、反乱勢力の遊撃隊と同盟を結んだにしては軽い処分だったと言える。新藩主には支藩藩主の世子も選ばれるなど、小田原藩にとっては望外の処分だった。かくして、なまじ譜代の名門であり、藩主が前将軍と血筋的に近かったために迷走してしまった、小田原藩の戊辰戦争は終わりを告げた。


主な参考文献

『戊辰役戦史』:大山柏著、時事通信社
『復古記 第10巻』:内外書籍
『三百藩戊辰戦争辞典』:新人物往来社編

『防長回天史 第6編上』:末松春彦著
『備前遊奇隊東征記』:太田修平著、岡山古文書研究会
『慶応戊辰小田原戦役史』:村岡尚功編、内田活版所
『旧小田原藩士関重麿遺稿戊辰国難記(『江戸第四巻 戦記編』に収録)』:大久保利謙編、立体社
『戊辰戦争下の小田原藩と遊撃隊(『交通の社会史』に収録)』:小田原近世史研究会編
『慶応戊辰小田原戦役の真相』:石井啓文著、夢工房

『岡崎脱藩藩士戊辰戦争記略』(『舊幕府 第二巻』に収録):戸川安宅編、臨川書店
『史談会速記録17巻』:史談会編
『一夢林翁手稿戊辰出陣記(『江戸第四巻 戦記編』に収録)』:大久保利謙編、立体社
『人見寧履歴書』:桐山千佳著

『小田原市史 通史編近世』:小田原市編
『小田原近代百年史』:中野敬次郎著、八小堂書店
『明治小田原町史上』:片岡永左衛門著、小田原市立図書館
『足柄史料』:片岡永左衛門著、小田原町
『鳥取藩史 第1巻』:鳥取県編、鳥取県立図書館
『鳥取県史』:鳥取県編
『鳥取県郷土史』:鳥取県編、名著出版
『鳥取市史』:八村信三編、鳥取市役所

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