邪馬台国への道 第5章 邪馬壹國への道② ― 末盧國~不彌國

第5章 邪馬壹國への道② ― 末盧國~不彌國


 前章で魏使は末盧國、すなわち倭国の本土に上陸しました。これより一行は陸行して不彌國へと向かいますが、ここでルートは定説から大きく外れます。


伊都國は糸島だったか?

 魏使一行は末盧國から伊都國に向かいます。


◆伊都国への道程

方法方角距離㎞換算距離
陸行東南50里20~25㎞

東南に陸行すること“五十”里、伊都(いと)國に至る。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)柄渠觚(ひここ)という。“十”余戸有り。(よよ)王有るも、皆女王國に統属す。(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり。

 さて、伊都國とは末盧國の東南50里にあると記されています。末盧國の東南方向には松浦川が流れていて、この川沿いには佐賀平野へと抜ける唐津街道が通っています。

 従って伊都國はこの経路沿いに東南へ20~25㎞ほど行った地点、すなわち『小城』もしくは『多久』付近となります。


 ―――と、ここで唖然としている人がいるかもしれません。

 なぜなら定説では伊都國は福岡県糸島市(旧前原市)だということになっているからです。この点に関しては畿内説のすべてと九州説のほとんどの論者がそう考えていて、邪馬壹國の位置論では末盧國までと同様、ほぼ確定事項とされているのです。

 従ってそうではないと言うのならば説明が必要になります。


◆糸島を伊都国とした場合の問題点

 まず糸島が伊都國であることの根拠は、最初に表1を提示したときに示した地名の一致です。

 福岡県の糸島半島は古くから南の山側が怡土(いと)郡、北の半島側が志摩(しま)郡と呼ばれていて、糸島とはそれが合体してできた名前です。

 怡土というのはかなり古くからある地名で、卑弥呼の時代にもそう呼ばれていた可能性は十分にあります。

 また魏志倭人伝に記された対馬國、一大國(壱岐)、末盧國(松浦)などが実際の地名と一致しており、また次の奴國(那津)、最後の邪馬壹國(大和)についても同様だという事情もあるでしょう。


 ―――しかし根拠というのは実はそこまでで、糸島が伊都國だということ示す、それ以上の証拠はないのです。

 これが対馬や壱岐であれば、朝鮮半島から海を渡って日本に来るためには必然的にここを経由せざるを得ません。末盧國にしても壱岐から最短距離にある良港という地理的必然性を備えています。どの国も倭人伝の記述と矛盾していません。国名をA国、B国……というように書き換えてクイズに出しても、これらの場所なら問題なく特定できるでしょう。

 しかし糸島にはそういった地理的必然性は存在せず、それどころか糸島が伊都國だと考えると次のような矛盾点が幾つも発生してくるのです。

  1. 方角が違う

 次の図5-1を見てもらうと一目瞭然ですが、糸島がある位置はどう見ても唐津の北東であって、南東ではありません。


図5-1 糸島は本当に伊都國か?

 この点については江戸時代より取りざたされているのですが、その理由に関しては次の白鳥庫吉の見解が代表的な物でしょう。

此の如く末盧國より不彌國に至る『魏志』の方向には誤謬あれども、東北を東南とし、東南を東方と誤解するが如きは、古代の旅客にありては往々見る所なり。

 すなわち1,800年も前の人だから間違えてもしかたないだろう、とのことなのですが―――簡単にそう言い切ってしまうのには賛同しかねます。


 なぜなら当時の旅にはGPSどころか地図もコンパスもありません。もしそんな状況で自分の進んでいる方角を見失ったとしたら即座に遭難です。わけもなく東と南を間違えるような人が見知らぬ土地に行ったりしたら、二度と戻って来ることはないでしょう。

 そもそも道順を記述する場合、経路の方向とは拠点間の距離よりはるかに重要な情報です。

 例えばあなたが駅前に行く方法を尋ねたとします。その答えが「ここから東にずっと行けばいいよ」というのであれば、かかる時間が5分か50分かは分かりませんが、ともかくあなたは駅に到達できるはずです。

 しかしもし「ここから1キロのところだよ」などと言われたらどうでしょうか。間違いなくあなたはどちらに向かって1キロなのか問い直すでしょう。


 すなわちそんな時代にあえて長旅をするような人は、現代人以上に鋭敏な方向感覚を備えていたと考える方が自然です。倭人伝の記者についても前章でも検証したとおり、少なくとも末盧國に至るまでの方角には全く問題はありませんでした。倭國に上陸したとたんに方向音痴になってしまうなど常識では考えられません。


 もし何らかの理由で方向を間違えたにしても、このような説明では全く不十分なのです。

  1. わざわざ下船して陸路を行く理由がない

 続いて不思議なのが魏使のこの行動です。同じく図5-1を見てもらえば分かりますが、記者ははるばる大陸から朝鮮海峡を越えて唐津までやって来たわけですが、そこから糸島や博多方面に行きたければ、そのまま船に乗っていくのが当然です。

 たとえ乗ってきた船が末盧國終点だった場合でも、糸島や博多方面への乗り継ぎに不自由することはなかったでしょう。

 しかも受け入れる側の倭にとって魏使というのは超VIPです。現在のように首脳外交などのない時代、国使というのはその国の代表者で、最大限の敬意を以て扱われるのが当然です。

 そんな貴人をいったいどんな理由があってわざわざ歩かせたりしたのでしょうか? もっと楽な手段があるというのに、これはもう魏という国に対する屈辱ととられても仕方がない行為です。

  1. 唐津から糸島への陸路は背振山脈越えの山道になる

 ここでもし陸路の方が迅速に目的地に行きつけるという理由でもあれば話は別になりますが、図5-1を見てもらえば分かるとおり、唐津から糸島の間には背振山脈が横たわっています。

 現在は海岸沿いに国道が走っていますが、これが建設されたのはやっと明治時代になってからで、現JR筑肥線の開通の方が先だったりします。

 すなわち唐津から糸島までの海路と陸路を比較すれば、陸路の方が遙かに険しく時間がかかるのです。

 例えば浜崎から白木峠を経由して福吉に抜けていったと仮定すると、峠の標高は約370m。ゼロメートルから登るには結構な標高差です。現在のように道が整備されている保証もありません。場合によっては山中一泊ということにもなってしまいます。また福吉以降は海岸沿いを歩いて行くことになりますが―――沖を行き交う船を見て魏使はどう思ったことでしょうか?


十防山から見た浮嶽
十防山から見た浮嶽.JPG
白木峠は手前の低い部分。唐津から糸島への陸路はこのような山越えになる。

  1. 伊都國の国の規模が合わない

 さらに別の問題として伊都國の規模の問題があります。


図5-2 対馬國を1とした各国の規模比較

 上の図5-2は道程に現れる国の戸数を、対馬を1とした単位でグラフにしたものです。こうして見ると一目瞭然ですが、伊都國とは通過国の中でも対馬と同程度の“最小規模の国”だということです。


 ところがここでまた図5-1を見てもらうと分かりますが、糸島半島とは弥生の稲作には極めて適した場所なのです。

 前述の通り、当時の稲作には平野と“適切な規模の河川”が必須です。そんな視点で糸島地方を眺めてみると、まず糸島には隣の奴國(福岡平野)に匹敵する平野があります。また糸島平野を流れる雷山(らいざん)川や瑞梅寺(ずいばいじ)川はいい感じの中小河川で、流域のかなりの範囲が水田になっていたと考えられます。

 ところがグラフの人口比を見てみると、伊都國と奴國は1対20という比率になっています。いくらなんでもこの両国がこんな人口比になるなどあり得ません。糸島半島にも多くの弥生遺跡があるのは図5-1にあるとおりで、その密度を見ても隣の福岡地方とほぼ互角です。奴國を室見川周辺と見る説もあるのですが、その場合には完全に糸島の方が勝っています。


 また糸島には平原(ひらばる)遺跡という特筆すべき遺跡が存在しています。ここからは数十枚もの巨大な銅鏡が出土しており、その中には直径46.5㎝もある国内最大のものまで含まれています。これらの銅鏡群は平成18年に国宝に指定されていて、もし出土した鏡の数やサイズで邪馬壹國が決まるとしたら、こここそが間違いなく邪馬壹國と言えるところです。


 そんな国が絶海の対馬國と同程度などということはどう考えてもあり得ません。すなわち糸島地方は倭人伝の伊都國と考えるには規模が大きすぎるのです。


井原1号墳から見た糸島平野
井原1号墳の上から見た糸島平野.JPG
正面に見える低い台地上に平原遺跡が見つかった。

◆地名は果たして証拠になるか?

 以上、伊都國を糸島だと考えるとこれだけ不合理なことがあるのですが、それに関する満足な説明は行われていません。

 一方、伊都國が糸島であることの最大の根拠となる地名の一致ですが、一般に名前の一致というのは証拠としては極めて貧弱なものです。

 例えば「犯人はヤス」というダイイングメッセージがあったとして、被害者の知り合いの安田さんをいきなり逮捕するわけにはいきません。同じような名前の人は他にもいるし、その気になれば名前などいくらでも変えようがあるからです。


 全く同じことが地名に関しても言えます。

 まず卑弥呼の時代にその地が本当にそう呼ばれていたことを証明する必要がありますが、そもそもこれが実質的に不可能です。日本最古の文献である古事記、日本書紀、それに風土記や万葉集などが成立したのは7世紀以降です。ところが7世紀というのは既に卑弥呼の時代から400年以上後になります。それだけの時間があれば地名や発音が変わってしまっても全くおかしくありません。

 例えば今から400年前といえばちょうど大坂夏の陣の頃ですが、その頃の日本語が現代人には理解しがたい存在だったことは、古文のテストを思いだしてもらえば明らかでしょう。これだけ多量の文献が残っていても言葉というのは変わってしまうのです。文字がなかった時代には変化の度合いはもっと激しかったことでしょう。


 それ以上に問題になるのが地名の重複です。

 もし“イト”という地名が唯一糸島にのみ存在していたことが証明できればいいのですが、それは不可能と言うより間違いです。むしろ他にもたくさんそんな地名を持つ場所があったと考えるべきなのです。

 そもそもこの地名はたった2音節なので、それだけでも偶然に一致することは十分に考えられます。

 それどころかもっと直接的な証拠まであります。

 というのは隣国の奴國に関してなのですが、まず次のように倭人伝の道程記述の後には女王国以北にある国名が列挙されていました。

次に斯馬(しま)國有り。次に己百支(いはき)國有り。次に伊邪(いや)國有り。次に郡支(とき)國有り。次に彌奴(みな)國有り。次に好古都(はかと)國有り。次に不呼(ほこ)國有り。次に姐奴(きな)國有り。次に対蘇(とす)國あり。次に蘇奴(さな)國有り。次に呼邑(こゆ)國有り。次に華奴蘇奴(かなさな)國有り。次に()國有り。次に為吾(いが)國有り。次に鬼奴(きな)國有り。次に邪馬(やま)國有り。 次に躬臣(くじ)國有り。次に巴利(はり)國有り。次に支惟(きい)國有り。次に烏奴(あな)國有り。次に()國有り。此れ、女王の境界の尽くる所なり。

 これを見てもらうとリストの最後に“奴國”という国名が含まれているのが分かります。

 この中には道程中に出てくる他の国は含まれていません。末盧國までは場所が離れているので女王国の直接の配下ではなかったと考えることはできます。しかしこの伊都國や、後から出てくる不彌國や投馬國がこのリストにないということは、倭人伝の記者は既出の国名は省いてリストアップしたわけです。

 するとリスト最後の奴國は道程中の奴國とは別の国で、すなわち奴國と呼ばれた国は二つあったと考えられるわけです。


 しかもこの国名を眺めていると『○奴國』という名前が多いことに気がつくのではないでしょうか。抜き出してみると『彌奴(みな)國』『姐奴(きな)國』『蘇奴(さな)國』『華奴蘇奴(かなさな)國』『鬼奴(きな)國』『烏奴(あな)國』そして『()國』の7つもあります。

 その理由を次のように考えることができます。

 例えば家族内だけで会話している場合なら「町に行ってくる」で十分通じることでしょう。しかし同じ場所でも他所の人と話している場合には、それがどこの町かを説明してやらないと大抵は話が通じません。

 同様に“なこく”というのが例えばその地域の中心集落を示す一般名詞だったとしたらどうでしょうか。

 すると“町”同様の事態が発生するわけです。各地域が独立していた頃はどこでもみんな“奴國”で済んでいたのですが、もっと広域のつながりができてくるとそれでは混乱するので『○奴國』というように個々を区別できるようにしたわけです。

 そして、京と言えば京都を示すように、その中でも特に大きなところが単に『奴國』と呼ばれていたことは十分に考えられます。

 もちろん他の地名についてもこのようなことは起こり得ます。だとすれば同じ地名があちこちでかぶるのはむしろ普通だったと考えるべきなのです。


 以上より、文献に出て来る場所を特定するためには『名前の一致だけでは根拠にはならない』ことが分かります。地名の一致とは麻雀で例えればドラみたいなもので、それだけでは役はつかないのです。

 対馬國、一大國、末盧國については地名だけでなくその他の記述についても整合性があるので、地名を無視してもそこが対馬、壱岐、唐津近辺だと無理なく結論できます。しかし伊都國に関しては名前の一致以外には根拠らしき物がなく、逆にそう考えると不自然な点がいくつも出てきます。


 すなわち―――糸島は魏志倭人伝に出てくる伊都国ではなかったのです。



末盧國より伊都國へ

 そこで伊都國に向かって、魏志倭人伝に書かれているとおりに進んでいきます。


◆伊都國への陸路

 間にたくさんの項が挟まってしまったので、伊都國への道程を再録します。

方法方角距離㎞換算距離
陸行東南50里20~25㎞

東南に陸行すること“五十”里、伊都(いと)國に至る。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(しまこ)柄渠觚(ひここ)という。“十”余戸有り。(よよ)王有るも、皆女王國に統属す。(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり。

 伊都国を糸島と考えると前節のように様々な不合理が出てくるのに対して、伊都国を小城の北西部または東多久付近と考えればそのような問題は一切発生しません。


 まず下の図5-3を見てもらえば分かるように、方向については末盧國から見てぴったり南東です。また距離は小城北西部へは26㎞、東多久付近までだと23㎞程度とほぼ倭人伝の記述どおりです。


図5-3 末盧國より不彌國まで

 この経路を見て、魏使がなぜ船を降りて陸路を採ったかと問うひとはいないでしょう。もちろんそれしか選択肢がないからです。

 またその陸路も非常に歩きやすい道です。末盧國から南東方向に松浦川が延びていますが、この河畔は幅広い谷になっていて傾斜もなく、弥生時代でも歩くのに全く苦労はしなかったでしょう。ただその道は葦原の間を踏み分けてできた小径で「草木茂盛し、行くに前人を見ず」といった光景だったとは思われます。

 この経路沿いには古くから唐津街道(現国道203号線)やJR唐津線が通っていて、佐賀と唐津を結ぶ幹線ルートでした。


 松浦川の本流はJR唐津線の相知(おうち)付近で南西に向きを変え、南東方向は支流の厳木(きゅうらぎ)川になります。魏使一行はこの支流沿いに進みますが、状況はあまり変わりません。川幅は少々狭くなりますが、幅の広い傾斜の緩い谷がほぼまっすぐ東南に延びている点は同じです。

 最後に道は笹原(ささばる)峠を越えることになります。しかし峠とはいっても標高はわずか90m程度です。現地を国道沿いに歩いてみましたが、ちょっと登りが始まったかなと思ったらもう頂上で、車で行ったらまず気づかずに通りすぎてしまうでしょう。現在の峠部分は切り通しになっているので弥生時代にはもう10~20mは高かったとは思われますが、それだけです。とても難所と呼べるような場所ではありません。


 笹原峠を越えると多久盆地に入ります。現在の多久駅周辺はゆるい丘陵地ですが、東多久駅のあたりに来るとそこそこの平野が広がります。この付近が伊都國の候補地の一つ(A)になります。

 ここからさらに東に進むと天山から南に下ってくる低い尾根を越えます。ここも一応峠越えになりますが、標高45m程度と笹原峠よりさらに低く、特に峠の名称もついていないようなところです。国道203号沿いに行くと、一本松の信号のあたりが最高点になっていて、そこも切り通しになっているのでかつてはもう10mほど標高はあったようですが、こちらも越えるのに苦労するような場所ではありません。

 峠を越えれば小城市に入り、少し下ると佐賀平野の北西の末端にたどり着きます。この付近が伊都國の第二の候補地(B)になります。


 いずれの候補地も後述するように付近の中心的集落からはやや離れた位置にあります。ここが伊都國だったとしたら倭人伝の記者はなぜこんな中途半端な場所の小国をわざわざ特記したのでしょうか。

 その理由は次項で説明するように、伊都國には他国にない特殊な事情があったからです。


◆倭國の西玄関

 倭人伝によれば倭國で伊都國は特別な位置を占めていました。

 まず伊都國の説明に「(帯方)郡使の往来(するとき)常に(とど)まる所なり」とあります。これは大陸からの使節が来た場合はここに滞在していたことを意味しています。いわばここが当時の迎賓館だったのです。


 また伊都國は倭人伝の後の方で再度登場します。

女王國より以北には、特に一大率(いちだいそつ)(検察・外交の統轄者)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史(しし)(中国の州の長官)の 如きあり。王、使を遣わして京都(洛陽)・帯方郡・諸韓國に詣り、及び郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露(そうろ)(てんけん)し、文書・賜遺(しけん)の物を伝送して、女王に詣らしめ、差錯(ささく)(食い違い)するを得ず。

 ここには女王の代理人として実際の統治を行っていた“一大率”がこの伊都國を拠点に活動していたことが示されています。

 そんな場所なら確かに特記されても不思議はありませんが、でもどうしてこんな場所だったのでしょう?

 しかしそれはこの地の立地を少し考えてみれば納得がいきます。この場所は佐賀平野の、ひいては“倭国の西の玄関口”ともいえる地点にあたるのです。


 弥生時代、佐賀平野北部を東西に延びる山裾は“弥生ベルト地帯”とでも呼べるような人口密集地でした。従ってこの地域には図5-3の点線のように東西を結ぶ陸路“弥生街道”ができあがっていたと考えられます。その街道は東は博多方面に、西はこの伊都國を経由して末盧國に至っていました。

 こう考えればこの地の重要性は明白です。九州中部の住人が大陸方面にアクセスするには、この場所かもしくは『太宰府』を通過しなければなりません。太宰府についてはもはや説明するまでもないと思いますが、この伊都國は太宰府と並ぶ当時の陸路の要衝だったのです。

 記事ではまた一大率が公的な文書や賜遺(しけん)の物の管理を行っているとありますが、それだけでなく関所や税関のような機能をも果たしていたとすれば、彼が常に伊都國で治していたというのは十分に納得のいく話です。


 ただそれだけならば一大率は太宰府に常駐しても良かったでしょう。実際、物や人の流れはそちらの方が多かったと思われます。

 そうならなかった理由は、こちらが当時の倭國の都だった邪馬壹國から大陸へ向かう際のメインルートにあたっていたからでしょう。

 またもう一点、伊都國の記述に「(よよ)王有るも、皆女王國に統属す」とあるのですが、これが伊都國の王のことを指しているのであれば、この国は昔から邪馬壹國と深いつながりがあって、そのため一大率を任されたのかもしれません。

 いずれにしても時代が下って九州の中心地が北部に移っていくと、その役割も伊都國から太宰府や博多の鴻臚館(こうろかん)などに変わっていったのだと考えられます。


 伊都國の集落の戸数が10戸と最小規模だった理由ですが、それはむしろここがこのような特殊機能を持った集落だったからだと考えることができます。

 ここには倭国全土を監察する一大率や、帯方郡から来た郡使などの重要人物が駐留していました。しかしそんな貴人が一般民と混じって住んでいたとは考えにくい話です。そこで普通の集落から少し離れた所にVIPとその世話役専用の集落ができあがっていたとするならば、この程度の戸数だったとしても納得がいきます。

 例えば現在でもいろいろな国を見てみると、アメリカの首都ワシントンとニューヨークなど、政治の中心地と経済の中心地では別の場所になっていて、首都の人口が非常に少ない例が多々見つかります。伊都國とは弥生時代の倭国にそのような“政治的集落”が存在していた証拠なのかもしれません。


◆伊都國の場所

 それでは伊都國は図5-3のA地点(多久)とB地点(小城)のどちらなのでしょうか。一本松の峠によって明確に東西が分けられているので、両方にまたがってということはあまり考えられません。


 そこでまず多久側の候補地Aですが、東多久駅の南に広がる平野はかなりの面積があります。この平野の南部には牟田部遺跡という遺跡があって、そこからは銅剣や管玉が副葬された首長級の墓が発見されています。この場所がこの付近の中心集落だったと思われます。

 牟田部遺跡その物が伊都國でない理由は、国の規模が大きいこと、弥生街道から離れた位置にあるということが挙げられます。

 多久盆地は佐賀平野と比べれば非常に狭い平野ですが、それでも牟田部遺跡付近の利用しやすい平野面積は少なく見積もって1㎢は十分にあります。これだけあれば最大200戸、少なくとも数十戸なら余裕で暮らせる広さです。

 また一大率が街道を通る物資の監察を行っていたのであれば、集落は街道沿いになければなりません。街道は現203号線のように一本松から笹原峠まで多久の北部を東西にまっすぐ走っていたとするのが自然です。従って東多久駅付近の山沿いというのが第一の候補地となるわけです。


牟田部遺跡周辺の平野
牟田部遺跡周辺の平野.JPG
牟田辺遺跡付近は広い平野になっている。左奥の山は天山。

 一方小城側についても同様です。現在の小城市中心部は大きな集落が存在し得た場所です。またそこだと末盧國からの距離が遠くなりすぎます。そこで一本松の峠から下りてすぐの所が候補地Bになるわけです。

 この場所は末盧國からの距離は26㎞と、倭人伝の記述よりは少しだけオーバーしていますが、まさに佐賀平野の出入り口にあたっています。また付近の丘に登れば佐賀平野全体、すなわち倭國が一望にできる場所でもあります。

 また次の奴國との位置関係もあります。詳しくは奴國の項で説明しますが、東多久の候補地Aから東南に4~5㎞地点は現在の牛津駅付近(C)になりますが、このあたりは標高がかなり低く、弥生時代には海面ぎりぎりだった場所です。またこれも後述しますが、牛津から東に4~5㎞地点がちょうど現在の嘉瀬川河畔です。しかし嘉瀬川は弥生時代にはむしろもっと東を流れていた可能性が高く、そうすると距離も今ひとつ合いません。

 しかし候補地Bにそういう問題はありません。


 従って今のところ候補地B、小城市の北西の、国道や唐津線が佐賀平野に出てすぐのあたりというのが伊都國の一番有力な候補と言えるでしょう。

 ただ候補地Aからであっても奴国候補地Dに対する距離や方角の誤差は許容される範囲内にはあると思うので、こちらの可能性が全くないとは言えないと思います。

 従って、この東多久~小城近辺で規模は小さいのに妙に建物がゴージャスな集落が見つかったとしたら、そこが倭人伝に記された伊都國だったと考えられます。


鏡山山腹より見た佐賀平野
鏡山山腹より見た佐賀平野.JPG
図5-3のB地点より少し南にある鏡山からは佐賀平野を一望の下にできる。

伊都国より奴国・不彌國へ

 伊都國を抜けると非常に短い距離の間に奴國、そして不彌國が現れます。


◆奴國への道程

方法方角距離㎞換算距離
陸路東南10里4~5㎞

東南、()國に至る、“十”里。官を兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。“二百”余戸有り。

 奴國は定説では福岡(那津)ということになっていますが、伊都國が糸島ではなかった以上こちらも当然福岡ではありません。


 倭人伝によれば伊都國から東南に数㎞ほど行ったところが奴國でした。伊都國を抜けると広大な佐賀平野が広がりますから、奴國は佐賀平野のど真ん中にあった国ということになります。

 この国については上のように非常にシンプルに記述されているだけですが、その戸数は200戸と、これまで出てきた国の中では最大規模です。以前にも述べたように吉野ヶ里丘陵の人口が250~300戸だったとするならば、この奴國もそれに匹敵する当時有数の集落でした。そのために倭人伝の記者は記録に残したのでしょう。


 さて図5-3にある奴國の推定位置ですが、伊都國の推定位置に合わせて二とおりが考えられます。

 一つは東多久から南東にあたる牛津周辺(C)ですが、前述の通りこの地域は海抜が低く当時はほとんどゼロメートル地帯の低湿地だったと思われるので、大きな集落の存在は考えにくいでしょう。

 従って有力な候補地はD、すなわちJR牛津駅と久保田駅の中間地点よりすこし北の、小城市牛津町乙柳付近になります。

 しかしこの地域は見渡すかぎりの農地が広がっているだけの場所で、小城市の遺跡地図を見ても大きな遺跡は出ていないようですが、本当にここが奴國だったのでしょうか?


奴国候補地
奴国候補地.JPG
かつて奴國があったと思われるこの場所は見渡すかぎり夏は水田、冬は麦畑になる。

◆平原の大国

 その可能性は十分にあると考えられます。

 まずこの場所は西の晴気(はるけ)川と東の祇園川の間に挟まったほとんど平坦な場所ですが、厳密に見ると周囲より1m程度高くなっている、いわゆる“微高地”にあたります。

 このような所は近くから水路を引いても水が流れないので、計画的にもっと上流から水路を作って、正確に水平を測って水を引いてこなければ灌漑できません。すなわちこの地域に水田を作るのはかなり難易度の高い工事が必要で、弥生時代にはかなり困難だったのではないかと思われます。一方、平坦で水はけの良い場所となれば、集落を作るのには適した場所でした。


 またこの地域の西側の晴気(はるけ)川と牛津江(うしずえ)川に挟まれた地域は、弥生の稲作にはまさにうってつけの平野です。その面積はざっと測っても数百㏊、すなわちそれだけで数千人は優に食べていける面積です。

 しかもこの地域は写真のように平らで遮る物はなにもありません。魏使の目がよければこの地域にある建物を全て数えることも不可能ではなかったでしょう。

 従って奴國の戸数が200戸というのも全く問題がないところです。


 さらにこの場所の少し北には土生(はぶ)遺跡という佐賀平野西部では最大級の集落跡があります。ただし、そこが栄えていたのが弥生“中期”までで、弥生後期、すなわち卑弥呼の時代には既に遺棄されていました。しかしその理由がこの地域に人が住まなくなったためとは考えられません。ならば新しい場所に集落が移動したのです。

 弥生の小城市付近は、まず山裾に最初の集落が作られ、晴気川と牛津江川に挟まれた地域を中心に水田が南に延びていき、それにあわせて集落が南に移動していったと考えられます。

 従ってかつて土生遺跡に住んでいた人たちは、弥生後期にはさらに南の候補地D周辺に新しい集落、すなわち奴國を作っていたと十分に考えることができるのです。


 現在この付近にはめぼしい遺跡は発見されていませんが、弥生マップの解説の所でも述べたように、それがここに遺跡が無いことを意味してはいません。

 実際この地域は先祖伝来の農地で、ほとんど開発の手が入っていません。土生遺跡が発見された経緯は、昭和40年代に行われた鉱害復旧事業によります。これはかつて小城にあった炭鉱の閉山後に発生した地盤沈下の修復を目的としたものでした。それがなければ土生遺跡の存在は今でも気づかれていなかった可能性が大です。

 地元の人の話では遺跡周辺では農作業をしていたら土器のかけらや石斧などがごろごろ出てきていたといいます。なのでこの周辺の地下にはまだまだたくさんの知られていない遺跡が地下に眠っているのはほぼ確実だと思われます。


土生遺跡
土生遺跡.JPG
土生遺跡は現在歴史公園になっている。

◆不彌國への道程

方法方角距離㎞換算距離
陸行10里4~5㎞

東行、不彌(ふみ)國に至る、“百”里。官を多模(たま)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。“十”余家有り。

 奴國を出て東に数㎞行ったところに不彌國がありました。倭人伝の距離・方角が正しければ、その場所は図5-3の領域F、現在のJR鍋島駅付近となります。

 この国も対馬國や伊都國同様に国の規模は最小です。にも関わらず道程に記述されているのは、ここに港が存在していたからに他なりません。理由は倭人伝の記述で不彌國以降が“水行”になっていることから明白です。


 ところで末盧國のところでも言及しましたが、当時の港というのはどこにでも作れるというものではありませんでした。それは有明海沿岸でも同様です。ご存じのとおり有明海は内海で波は静かなのですが、非常な遠浅になっている上に干満の差が激しく、干潮時にははるか沖まで広がる干潟の上をムツゴロウが跳ね回っているような場所です。こんな所では丸木舟のような喫水の浅い船でも潮が満ちていないと使えません。

 そこで干潮時でも水路があるところですが、それは大河の流路沿いでした。そしてこの付近には嘉瀬(かせ)川という大河が流れています。

 従って不彌國とはこの嘉瀬川の河口から少し遡ったところにある港に付随した小集落だったことになります。


 なお現在の嘉瀬川は佐賀平野に出ると南西方向に向きを変え、図5-3では奴國候補地Dのかなり近くを流れています。そのためもし当時も現在と同じ河道だったとすれば、地域EのJR久保田駅南東のあたりが不彌國候補ということにはなります。

 しかし嘉瀬川の河道は過去に大きく変動していることが分かっています。なにしろ佐賀平野というのは非常に平坦な場所で、しかも嘉瀬川は山から多量の土砂を運んでくるのでいわゆる“天井川”になっています。治水など行われていなかった時代、このあたりは完全なデルタ地帯になっていて、大雨が降るたびに河道は簡単に、しかも大幅に変わってしまったことでしょう。

 実際、嘉瀬川の主河道は少なくとも縄文時代には南東方向に向けて、現在の佐賀市東部の巨勢(こせ)川の方向に流れていたことが分かっています。また佐賀市内を流れる田布施(たぶせ)川や鍋島駅付近の本庄江(ほんじょうえ)も嘉瀬川の旧河道と考えられています。

 すなわち弥生時代に鍋島駅周辺が嘉瀬川の畔だった可能性は十分にあって、逆に当時の嘉瀬川の河道が分かれば不彌國の位置は非常に正確に特定できるということにもなります。


嘉瀬川風景
嘉瀬川風景.JPG
嘉瀬大橋から見た嘉瀬川と河川敷の風景。

◆超大国と零細国

 ところでこの不彌國は対馬國・伊都國同様に道程中最小規模の集落なのですが、こんな小集落にも官と副がいたと記述されています。すなわちこの規模の集落でも隣の奴國と同様の独立国だったことが伺えます。

 しかし対馬國のように地理的に分断されていたり伊都國のような特殊事情があればまだ分かりますが、そんな事情のない不彌國がわずか数㎞先の20倍も規模の差がある“大国”にどうして吸収されてしまわなかったのでしょうか?


 その理由として考えられるのは、当時の“国”という物が現在のイメージの“国家”ではなく、むしろ“協同組合”に近いものだったとすることです。

 すなわち、奴國というのはその周辺の稲作農民の組合で、奴國の長とは組合長でした。そして人々が国に属することの最大のメリットは、奴國の倉庫が利用できたことだと考えてみるのです。

 米というのは江戸時代まで通貨としての役割を持っていたことからも分かるとおり、まさに人々の血と汗と涙の結晶でした。

 そんな貴重な物ですから、それを狙ってやってくる様々な悪しき生物たち―――虫やネズミ、中でも特に質の悪い二本足の奴から守ってやらねばなりません。しかしそれは大変な労力で、個人で行うには限界があります。そこでみんな共同で倉を建て、共同でそれを守るというのが当時の“クニ”の基本イメージだったとしたらどうでしょう。

 実際、初期の環濠集落では環濠は高床式倉庫のまわりにしかありませんでした。これは何よりもみんなの倉庫を守るという目的で国ができていったことを示唆しているのではないでしょうか。


 このように考えると逆に、倉を利用しない人はその国に属している必要はないわけです。そこでもし不彌國の人々が稲作ではなく漁業や海運業などの別の手段で生計を立てていたならば、奴國に属する理由は全くなく、同様に奴國も不彌國を併合する必要はなく、互いに独立して共存できていたわけです。


 ―――以上はもちろん筆者の想像というべき話ですが、こうやって倭人伝の国を見てくると、弥生時代の国々には現在考えられているよりも遥かに大きな多様性があるように感じるのです。


本章のまとめ

 以上、末盧國から不彌國まで旅をしてきたわけですが、ここまで特に矛盾する点は見当たりませんでした。

 もちろん各国への距離・方角については、倭人伝の記述に合う場所を選択してきたので合っているのはある意味当然です。

 しかし、記述と合う場所に記述と合う国が矛盾なく存在し得たという点は重要です。

 伊都國、奴國、不彌國に関してはまだそこだと特定できる遺跡があるわけではありません。しかし伊都國はともかく、奴國の場合にはまずそれだけの人口を抱えられる地域でなければなりませんが、倭人伝の示す場所は問題なくその条件をクリアしています。

 また不彌國の場合には港がなければならないという更に厳しい条件があるのですが、奴國の東へ数㎞の所にはちょうどいい案配に嘉瀬川が流れていました。

 これがもし偶然の一致だとしたら、相当に幸運だったというべきです。有明海沿岸で嘉瀬川流域のように港に適した場所はそうそうはないからです。

 ここにきて倭人伝の記述はますます信頼度を高めていると言っていいでしょう。