第6章 邪馬壹國への道③ ― 不彌國~邪馬壹國
続いて不彌國より終着点の邪馬壹國への道程になるわけですが、ここから距離の記述が「水行○○日」というように日程形式になります。
不彌國より投馬國へ
不彌國より一行は小舟に乗って有明海を南下して次の投馬國に向かいます。
◆投馬國への道程
方法 | 方角 | 距離 | ㎞換算距離 |
水行 | 南 | 2日 | 50~70㎞ |
南、投馬國に至る、水行“二”日。官を彌彌といい、副を彌彌那利という。“五百”余戸ばかり。
投馬國は日程にして2日、以前に議論したように水行1日を約25~35㎞と考えれば、投馬國とは嘉瀬川の河口付近から約50~70㎞の地点にあることになります。
またこういう航海で船中泊するとはあまり考えられませんから、途中に中継点があるはずです。
そこで右の図6-1を見てもらうと南に約30㎞、現在の大牟田あたりにおあつらえ向きの入り江があって、そこには関川というそこそこ大きな川が流れ込んでいます。一行はまずここで一泊したと考えられます。
そこからさらに南に30㎞ほど下ったところといえば、現在の玉名地方になります。すなわちここが魏志倭人伝における投馬國だということになります。
- 大牟田から玉名までの直線距離はもっと短いのですが、航路が沿岸をぐるっと回るのでその延長はちょうど30㎞ほどになります。
◆投馬國の人口の謎
投馬國についての倭人伝の記述は引用のように非常にシンプルですが、一つ特別なのはこの國の戸数が500戸と、佐賀平野西部の中心集落であった奴國よりもさらに大規模な集落だということです。
そうなるとここに大きな問題が現れます。
弥生時代の集落とは基本的に稲作農耕に依存したムラだとされてきました。ところがこの玉名地方の場合、今でこそ海辺に広大な菊池平野が広がっていますが、魏使がやってきた当時は海底でした。
他に稲作のできそうな場所ですが、すぐ北東にはちょっとした平野があります。しかしここは菊池川という大河の河口付近にあたり、松浦川や嘉瀬川同様に水害に遭いやすく、当時は耕作が難しい場所だったでしょう。実際その平野周辺にはあまり弥生遺跡がありません。
玉名のすぐ北西には行末川という中小河川があってこの流域ならば当時でも稲作ができたと思われますが、その面積は150㏊前後で、全てが田圃になったとしても最大で1,500人、300戸前後しか養えない計算です。
すなわち、この地域の何倍もの耕地面積を持っていた奴國が200戸だったと考えれば、投馬國が稲作だけでそんな大人口を支えていけたとは考えられないのです。
しかし遺跡の分布を見てみると、玉名市西部の岱明町周辺にはかなりの数の弥生遺跡が密集しています。しかもほとんどが赤い点で、弥生時代になってからここに人が住み始めたことを示しています。また最近この地域には塚原遺跡という環濠や集会所を伴う大型の遺跡も発見されています。有名な銘入りの鉄剣が出土した江田船山古墳もすぐ近くにあって、弥生時代から古墳時代に至るまで実際に多くの人が住んでいたことは明らかです。
ではその戸数が本当に倭人伝の伝えるとおりだったとしたら、投馬國の人たちはいったい何を食べて暮らしていたのでしょうか?
◆古代の港湾都市
その答えは玉名の立地を見れば想像がつきます。
次節の図6-2を見てもらうと分かりますが、まず菊池川上流の菊鹿盆地には方保田東原遺跡という特大の環濠集落があって、弥生時代には人口の密集地でした。また熊本平野や阿蘇方面にも広範囲に遺跡が分布していて、当時の熊本全域には多くの弥生人が住んでいたのは明らかです。
熊本地方にはあちらこちらに製鉄遺跡がありますが、当時の日本の技術では鉄鉱石から鉄の精錬はできず、原料を大陸からの輸入に依存していました。北から運ばれてくる最重要物資の一つが鉄鋌という鉄の延べ板でした。
もちろんそんな物がタダでもらえるわけがありませんから、その代償に米や布といったこちらの産品が支払われていたはずです。
ところが当時の交通手段は徒歩か船しかありません。鉄塊や米俵を人手で長距離に渡って運ぶなど当時としてもナンセンスです。その目的のためには船を使うの一択しかありません。
そして弥生時代の玉名地方ですが、少し奥まった湾になっていて菊池川が流れ込んでいますが、これは当時の港を作るには最高の立地です。
また図を見れば分かるように、菊池川上流の方保田東原遺跡、熊本市周辺の各地、また熊本の内陸部と物資のやりとりをしたければほぼ確実にこの玉名を経由する必要があります。
すなわち投馬國とは当時の物流の“ハブ”に当たったわけです。
投馬国とはいわゆる“港湾都市”の走りでした。ここに住んでいた人たちは農業ではなく、港湾労働や海運業、商業などに従事して生計を立て始めていました。そして自分たちの食糧は周辺国からの“輸入”に完全に依存していたわけです。
対馬國や一大國でも同様なことは行われていましたが、運んでくる船は海峡横断船です。そんないつ沈んでもおかしくない物に生活を依存するのは間違いなく危険でした。
しかし投馬國は穏やかな有明海沿岸で、各地からの流通網も完成していたでしょうから、周辺諸国に食糧を依存しても問題ではなくなっていたのです。
投馬國は地域依存の農耕文化からグローバルな広域国家への発展段階を示す場所だと考えれば、古代史上でもユニークなポジションを占めている国と言えるでしょう。
- そして最後になりますが、玉名という地名はかなり古代にまで遡ることができるそうで、“とま”というのが転じて“たまな”となった可能性もあることを付け加えておきましょう。
投馬國より邪馬壹國へ
魏使一行の旅はついに最終目的地、邪馬壹國へと至ります。
◆邪馬壹國への道程
南、邪馬壹國に至る。女王の都する所。水行“一”日・陸行“三日”。官に伊支馬有り。次を彌馬升といい、次を彌馬獲支といい、次を奴佳鞮という。“七百”余戸ばかり。
さて投馬國からついに最終目的地の邪馬壹國に向かいます。
倭人伝には邪馬壹國は投馬國の南、水行1日、陸行3日の場所にあると記されています。
この記述については古来、並列と直列の二とおりの解釈が為されてきました。
すなわち「投馬國から水行すれば1日、陸行すれば3日」という解釈と「投馬國から水行して1日、それから陸行して3日」という解釈です。
本書の場合は前者の並列解釈を行います。
その理由はまずそれが一番自然だと思えることです。前述の通り不彌國以降は距離が日程で記されるようになっていますが、この記法の問題は目的地に行く手段や経路が変わってしまうと、かかる時間も変わってしまうことです。
そこで手段が複数ある場合にはそれを列挙するのが一般的です。
例えばおじいさんの家に行くのに「電車じゃ半日、車なら2時間」などという言い方は良くすると思いますが、これは弥生時代でも同じだったでしょう。
またもう一点、有明海水行の出発点だった不彌国はわずか10戸という最小レベルの国でしたが倭人伝記者はちゃんと道程に含めています。理由がそこに港があったからだとすれば上陸地点の港も同様に道程に含まれなければなりませんが、そんな記述がないところを見ればやはりまずは並列だと考えて解釈すべきです。
ただその場合には、投馬國から邪馬壹國の間に“問題なく利用できる陸路”がなければなりません。糸島のときのように仮に陸路があり得たとしてもそれを使う必然性がなければ、その時点でこの解釈は考え直さなければなりません。
しかし後に説明するように投馬國から邪馬壹國へは十分利用価値のある陸路が存在するのです。
また並列表記がここ以外にないのは、他の部分にはそんな選択肢がなかったためです。
これまでの道程を見てみれば明らかですが、例えば帯方郡から末盧國までは水路しか採りようがありません。末盧國から不彌國までは陸路しかありません。並列表記があり得るとしたら不彌國と投馬國の間ですが、筑後川河口付近は当時は大湿地帯だったので、歩いて行こうとすれば上流の久留米付近まで迂回しなければなりません。そんな遠回りをしてまで陸路を採る必然性はなかったので、この区間には水行陸行が併記されていなかったのです。
◆邪馬壹國への水行路
方法 | 方角 | 距離 | ㎞換算距離 |
水行 | 南 | 1日 | 25~35㎞ |
まず邪馬壹國への水行路ですが、投馬國より南に水行1日、すなわち約30㎞の場所ということなので、その場所は次の図6-2にあるとおり“古熊本湾”の畔になります。
投馬國と邪馬壹國の間は金峰山が有明海に落ち込んでいる場所なので、大きな集落を作れる余地がありません。そのさらに南、現在の熊本平野は弥生時代には図のように湾になっていました。この湾岸が玉名からちょうど25~30㎞くらいの距離になります。
また奴國は船着き場からわずか数㎞しか離れていなかったにも関わらず、ちゃんとその間の陸路が記述されていました。従ってもし邪馬壹國が湾岸から数㎞以上奥まったところにあればそのように記述があると考えるべきです。しかし倭人伝には何も書かれていません。
すなわち邪馬壹國は古熊本湾の畔にあるということです。
◆邪馬壹國への陸行路
方法 | 方角 | 距離 | ㎞換算距離 |
陸行 | 南 | 3日 | 45~75㎞ |
以上のように邪馬壹國の場所は水行条件だけでは古熊本湾岸ならどこでも可能になりまが、そこに陸行の条件が加わると範囲をさらに絞ることができます。
図6-2を見てもらうと熊本の内陸部にもかなりの弥生集落が分布していることが分かります。このあたりは阿蘇外輪山のすそ野にあたり、平たい火山灰の台地がずっと続いている場所ですが、この地域には各集落を結ぶ陸路が網の目のように張り巡らされていたと考えられます。山鹿や菊池を結ぶ図の点線は筆者の推定ですが、それほど間違ってはいないでしょう。
また図を見ると玉名と熊本の中間にある植木地方にもかなりの集落があります。するとこの付近の住人が玉名や熊本方面に行きたかったなら、陸路を使うほかありません。
従って植木経由で玉名と熊本を結ぶ“街道”が存在していたのはほぼ確実です。
そこでその街道を辿ってみることにしましょう。
邪馬壹國へ向かう旅人は投馬國を出るとまず菊池川を渡ります。ここは投馬國の圏内とも思えるので、多分渡し船などがあったでしょう。
そこから菊池川の支流の木葉川沿いに東に歩いていくと、後に西南戦争の激戦地となる田原坂が現れます。
この場所が激戦地になったのは大砲を移動させるのに十分な幅がある道がここしかなかったためです。すなわちこのルートは明治時代までは玉名から植木に抜ける際のメインルートでした。
坂を登って平たい台地上に出るとそこが弥生時代の植木です。人々が台地上に住んでいたのは、このあたりが阿蘇の火山灰が降り積もってできた柔らかな凝灰岩の台地で、谷間が急にすとんとえぐれているからでしょう。
台地の上は非常に平坦で、歩きやすい道がずっと続きます。またこの地域にはあちこちに阿蘇の伏流水が泉となって湧きだしているので水場にも困りません。当時の陸路としてはまさに理想的だったでしょう。
さて、邪馬壹國が古熊本湾岸というだけならば、図6-2の領域Aで示される現在の熊本城付近も候補に入れるべきでしょう。ここには白川が流れているので船着き場にも困りません。
陸路でその方面に向かおうとするなら、植木から現在の国道3号線が走っている尾根を伝って点線のように南下していくことになります。すると熊本城近辺に到着しますが、ここまでの距離を計測してみると玉名から27㎞ほどになります。
しかしこの程度の距離は江戸時代なら楽に1日行程です。弥生時代だったとしても、こんな台地上の平坦なルートです。頑張れば1日、植木一泊なら余裕で、3日は絶対にかからないといった距離でしょうか。
すなわち熊本市付近は投馬國からはちょっと近すぎて記述に合わないということです。
従って邪馬壹國は古熊本湾岸でも、領域Bで示される南の部分になるのです。
◆倭人伝道程の終着点
古熊本湾南岸に向かうためには植木から図6-2の実線のように台地上を少し東に行ってから南下します。こうする理由は白川の支流、坪井川を渡らずに済むからです。
やがて正面に現れた立田山の西麓を抜けると白川が行く手を塞ぎます。これはもう避けようがないのでこの付近で渡河することになるでしょう。
それから現在の水前寺付近を通ってさらに南下していくと、こんどは緑川の支流の加勢川が現れます。これを渡ってさらに南に向かい、最後に緑川の本流を渡れば目的の領域に到着します。
このあたりは玉名から約42㎞。距離だけ見ればぎりぎり2日でも行けそうです。しかしその間に少なくとも白川、加勢川、最後に熊本一の大河、緑川を越えなければなりません。そこでの時間ロスを考えれば、当時なら十分に3日行程になったことでしょう。
すなわちこうやってたどり着いた古熊本湾の南岸地域こそが、魏志倭人伝に記述されている『邪馬壹國』の場所だったことになります。
邪馬壹國の検証
しかし、読者は間違いなくここで首をひねっていることでしょう。
確かに修正道程表の行先がこの場所だったにしても、俄かにはここが邪馬壹國だとは信じられないからです―――なにしろこの地域には正直“何もない”のです。
◆失われた弥生大国
国内には様々な邪馬壹國比定地がありますが、その場所には多かれ少なかれ何らかの歴史的遺物や伝説があります。
畿内説は言うまでもありません。九州説でも日向は天孫降臨の舞台になる場所で、西都原古墳群という有名な古墳群もあります。菊池郡の山門(山鹿市)は地名が一致しており、方保田東原遺跡という大型の弥生遺跡があります。筑紫の山門(みやま市)は筑紫の君磐井の本拠地です。
ところがこの熊本市南部地方は、現地の方には失礼かもしれませんが、有史以来、歴史的にも地理的にも特筆すべきことのないただの田舎、と言って言いすぎではありません。筆者もこの結論に達したときにまず頭に浮かんだのは「えっと……ここって何かあったっけ?」という疑問でした―――まあ、そんな物があれば今まで誰かがこの場所に線を引いていたのでしょうが……。
しかし、有史以来何もないということは“有史以前”にも何もなかったことを意味してはいません。
実は、邪馬壹國の研究をする上でほとんどすべての研究者に共通した暗黙の前提がありました。それは邪馬壹國が後の大和朝廷に対して何らかの大きな影響力を持った政権だったという前提です。
畿内説では邪馬壹國こそが神代の大和朝廷だと考えます。九州説においても、例えば邪馬壹國東遷説ならば同様に朝廷の礎になるし、九州王朝説では朝廷に対抗し得る勢力であったと考えます。本居宣長も熊襲のたぐいが“朝廷だと偽って”朝貢したのだと言っています。
すなわち邪馬壹國とは3世紀における大和朝廷か、あるいはそれに匹敵する勢力だったはずなので、何か分かりやすい遺跡や伝説が残っていなければならないと考えるわけです。
従って従来の邪馬壹國論の多くがそのような大きな遺跡がある場所を邪馬壹國と設定することからスタートします。
―――ですが冷静に考えてみれば必ずそうだという根拠はありません。
ここでは「夏草や兵どもが夢の跡」という芭蕉の句を思いだしてもらうのがいいでしょうか。
実は大和朝廷のように千年以上も連綿と続く王室というのは世界でも極めて希な存在です。一世を風靡した国が滅びてなくなってしまうということはよくある―――というよりは、むしろそちらの方が一般的です。
そう考えてみれば、有史以前にこの地に“失われた弥生大国”があって、それこそが邪馬壹國だったと主張することは十分に可能なのです。
◆弥生のパラダイス
その根拠としてまず、ここが弥生人にとっては理想的な居住地だったということが挙げられます。
この地域は温暖な気候で、稲作農耕を営める広い平野だけでなく、すぐ近くには遠浅の海、背後には山岳地帯が広がり、バリエーションに富んだ食材が容易に手に入れられる場所です。
魏志倭人伝にも次のような記述があります。
今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤を補らへ、文身はまた以て大魚・水禽を厭う。後に稍以て飾りとなす。
倭の地は温暖、冬夏生菜を食し、皆徒跣(はだし歩き)す。
この描写はまさにぴったりだといえます。
実際にこの地域には大きな貝塚などもあって、弥生どころか縄文、さらには旧石器時代からずっと大勢の人が住んでいた証拠があるのです。
また一律誇張仮説から、国の戸数は100倍の誇張がなされていたことを思いだして下さい。畿内説の根拠の一つには、九州には70,000戸もあるような巨大な都市の遺跡がないことが挙げられます。
しかしこの仮説の下であれば探さなければならないのは700戸の集落です。
そして前述の通り吉野ヶ里丘陵が250~300戸と考えたならば、この地域にそれの2~3倍規模の集落が見つかればいいわけです。
◆邪馬壹國の場所
―――とはいっても、それはそれで高いハードルです。弥生時代というのは山を削って宅地造成したりすることはできません。多数の人が居住可能な立地というのは非常に限られてきます。
しかし逆にこの地域にそのような場所があれば、そこが有力な邪馬壹國候補地になるわけです。
そこで弥生人が好んだ集落の立地条件ですが、それは平野を望む低い尾根や台地の上でした。これは多くの弥生集落の分布などから考古学的にも明らかです。
その理由ですが、弥生人は稲作農耕を生活基盤としていたので、住む場所はまず稲作に適した平野地帯です。しかし完全な平野部だと水田を作るのにはいいのですが、洪水で流されてしまう危険もあります。また竪穴式住居だと湿気が問題になるかもしれません。
そこで平野のすぐ近くに高台があると嬉しいのですが、生活するためには水が必要です。高台でも高すぎると水場から遠くなりすぎてしまいます。従って、少し盛り上がっているくらいの尾根や台地の縁というのが弥生人に一番好まれる場所になるわけです。
写真は吉野ヶ里公園西の広場から撮った光景ですが、手前の川の周辺に田圃が作られ、その奥の低い丘の上に集落が作られています。こういう立地が弥生集落のお手本と言えます。
―――と言いつつ、実はこれまでの道程中に出てきたほとんどすべての国がこの“お手本”からは外れています。
末盧國や投馬國は既に貿易国家へ変貌の途中で、奴國の立地は平原のど真ん中でした。伊都國や不彌國にはまた別の事情があります。
すなわち弥生の国に関しては、もうそんな単純なステレオタイプでは語れないということです。
ただ、吉野ヶ里のような既存の大きな遺跡が、多くの場合そんな立地にあるのも事実です。そこでまずはお手本に合った場所を探してみることにしましょう。
そういう視点で現地を眺めてみると、次の図6-3のように何カ所かそういう場所が見つかります。
◆地域A:嘉島町
まず地域Aですが、ここは熊本県上益城郡嘉島町にあたります。低く浮き彫りのようになっている台地が分かると思いますが、この周辺には弥生遺跡も多く、大手酒造メーカーのビール工場のところには二子塚遺跡という環濠集落も出ています。
上の図6-3の左上には参考として同じ縮尺の吉野ヶ里遺跡が表示してあります。そこで示した範囲が現在の吉野ヶ里記念公園の大きさですが、この嘉島町地域も少なくとも吉野ヶ里クラスの広さがあることが分かります。
ただこの地域は投馬國(玉名)からの距離が近く、また古熊本湾岸からの距離もかなりあって海辺とは言いづらい場所です。
ただ船着き場が緑川の畔にあったとしたならば、舟で一発でたどりつける場所ではあるので可能性がゼロではないかもしれません。
◆地域B:御船町・甲佐町
地域Bは同じく上益城郡御船町と甲佐町の境目付近にある丘陵です。
ここも図のようにそこそこの面積があり、弥生遺跡もあります。ただ前記の嘉島町同様湾岸からは距離があるのと全体の面積が少ないことから少々望み薄でしょうか。
またB地域から細い丘陵が尾根状に北西に延びているのが分かると思いますが、そこに刻まれている溝は九州自動車道の通っている場所です。
そういった大工事をする場合には必ず現地の遺跡調査が行われるのですが、それで大した物が見つかっていないというのもマイナスポイントでしょう。
従ってここが邪馬壹國とはちょっと考えにくいと思います。
◆地域C:熊本市南区城南町
続く地域Cは現在の熊本市南区城南町にあたりますが、ここはかなりの期待が持てそうです。
図6-3を見るとまず周囲に広がる広い平野があって、それを見下ろす宮地台地という低い台地があります。台地の標高は30m前後と上り下りに苦労するようなことはなく、古熊本湾岸にもずっと近く、緑川河畔に船着き場があれば一発でアクセスできます。
田圃を作る場所ですが、北側の緑川流域は川が大きすぎて治水技術が低かった当時は危険だったでしょうが、台地の南を流れる浜戸川はいい感じの中小河川で、川を挟む細長い平野だけでまず250㏊あります。
また浜戸川が平野に流れ出している付近ですが、緑川の河道にあまり近づきすぎなければ十分に耕作できたと考えれば、数百㏊をそれに加算できます。そうなれば700戸という戸数でも養うのが可能な面積になります。
続いてこのあたりの遺跡を調べてみると、まず宮地台地の縁に沈目遺跡という先土器時代の遺跡があって、ここからは35,000年前の旧石器が出土するなど、本当に大昔から人が住んでいました。
またすぐ近くには阿高・黒橋貝塚、御陵貝塚といった大規模な貝塚がいくつもあります。貝塚とはいわば縄文人のゴミ捨て場ですが、もちろんそこに多数の人が住んでいた動かぬ証拠となります。
写真は御陵貝塚の地面ですが、祠が立っている小丘すべてが貝でできていて、縄文人はどれだけ貝が好きだったんだと思わず突っ込みを入れたくなるような場所です。
さらにこの地域のすぐそばには“塚原古墳群”という大規模な古墳群があります。ここにはあまり大型の古墳はありませんがその総数は500基とも言われています。すなわち古墳時代にもこの近くに多くの人が住む国があったのです。この古墳群は九州自動車道建設の際に発見されて保存が決まったもので、道路の敷地の部分しか調査されていません。実際にはもっと広い範囲にわたって広がっていると考えられています。
このように先土器時代、縄文時代、古墳時代のそれぞれに多くの人が住んでいた証拠があるとすれば、その中間の弥生時代も同様だったと考えるのが自然です。
しかしこのあたりにそんな大型の弥生遺跡があるという話は聞いたことがなかったし、ネットで検索しても出てきません。従って本書の企画当初は「だから宮地台地を調査すれば大型の弥生集落が発見されるはずだ」という結論になる予定でした。
ところが―――その後色々調べてみたら、実はあったのです。
◆新御堂遺跡
宮地台地上には遺跡を示す赤い点がいくつもありますが、その個々の詳細情報を見てもほとんどは名前と位置、それに時代区分が分かるくらいで、それ以上の細かい情報は書かれていません。
その中の一つに『新御堂遺跡』というのがありました。この遺跡からは既に巴型銅器や王莽時代の貨幣などが発見されていて、それに関する記事はぽつぽつと出ていましたが、遺跡の詳細については不明でした。
そこで奈良文化財研究所の遺跡データベースで検索してみたのですが―――最初に見たときは我が目を疑いました。竪穴住居が528棟で墳墓が合わせて397⁈ 出ている出土物のバリエーションも半端ではありません。
下の写真資料はここから出土した巴型銅器と舟型土器ですが、これは全国でも非常に珍しいものです。そんな遺跡がここまで無名だとは普通なら考えられません。小さな遺跡から珍しい遺物が出てくることはあり得るし、それこそ別の新御堂遺跡かもしれません。
従ってまずはデータ入力ミスを疑わねばなりません。
そこで現地の塚原歴史民俗資料館まで行って確認してきたのですが―――なんと全てが事実だったのです!
その場所でこの遺跡の発掘報告書のタイトルが『宮地遺跡群』だと判明しました。“新御堂遺跡”で検索しても出てこなかったはずです。そこで九州歴史資料館まで行って報告書を閲覧してきました。
それによるとこの遺跡は1999年から2001年にかけて、下益城郡城南町宮地(現在は熊本市南区さんさん)の区画整理の際に発見されました。
遺跡の範囲は上の図6-4に示していますが、遺跡の推定存在範囲は白い輪で囲まれた領域で面積は25㏊ほどあります。
その中の白く塗られた領域が試掘によって遺跡の存在が確認された領域です。領域は二つに分かれていますが、左上の部分が西福寺遺跡、右下の部分が新御堂遺跡と名づけられており、それで報告書の名前が宮地遺跡群になっていたわけです。
両者は合わせて約8㏊の面積がありますが、実際に調査されたのはそのうち西福寺遺跡が1.5㏊、新御堂遺跡が2.5㏊の計4㏊分です。
西福寺遺跡からは弥生中期の竪穴建物が7棟と弥生土器などの遺物が出ただけで、前記の大量の竪穴住居や墓はすべて新御堂遺跡からのものでした。
調査報告書によると新御堂遺跡の発掘概要はリンク先のようになっています。これを見るとデータベースのものとは微妙に数値が違いますが、ともかく基本的にこの規模の出土物があったことは明らかです。
この地区はかなり長い間人の活動があった複合遺跡で、発掘された遺構・遺物には以下のような時代区分がなされています。
1期 (1世紀~2世紀前半):竪穴住居跡・土壙墓・木棺墓・甕棺墓
2期 (2世紀~3世紀):環壕(条壕)・竪穴住居跡
3期 (6世紀中葉):溝遺構
4期 (6世紀末から7世紀前半):竪穴住居跡・掘立柱建物跡
5期 (9世紀後半):土壙(土壙墓)・道路遺構・溝遺構
6期 (13世紀):土壙墓・溝遺構
本書にとって重要なのがこのうち1期と2期にあたります。
まず大量にある墓はほとんど全てが1期のものでした。また当時の住居も80~90とかなりの数にのぼり、この頃からここには多くの人が住んでいたことは明らかです。これだけでも十分大きなニュースになるべき規模でしょう。
しかし何といっても注目すべきは2期でしょう。
この2世紀~3世紀という時代はまさに魏志倭人伝の時代ですが、その時期に急に深さ3m近くある大型の環濠が掘られて、内側には450棟にも達する大量の竪穴住居跡が現れます。遺物にはそれ以前から出ていた物も含めると12点の青銅器が含まれていて、これは弥生遺跡からの出土と考えると特筆すべきものです。
すなわちここが緑川中流地域の中核集落だったことを示しています。
―――これは一体何を意味するのでしょうか?
まず確実なことは、卑弥呼の時代、この場所には大きな弥生国家があったということです。
調査された領域は遺跡の推定領域の1/10程度ですが、そこに450戸あったということは、全体では4,500戸の住居があった! という計算になりますが―――もちろん集落内部が住居だけで埋まっていたわけではないし、同一時期に全ての遺構に建物が建っていたわけでもないので実際はもっと少なくなりますが―――それでも邪馬壹國の修正戸数である700余戸という条件なら軽くクリアできそうです。
また倭人伝の卑弥呼の項に「宮室・楼観・城柵、厳かに設け」とあります。この宮室や楼観は吉野ヶ里遺跡で出たことで有名ですが、新御堂遺跡でもこれだけ巨大な環濠が出ている以上、今後の調査で見つかっても全く不思議ではありません。しかも今回の調査区域は台地の内部の方で、景色のよい一等地だった台地辺縁部については未発掘の状態なのです。
すなわち、この新御堂遺跡は邪馬壹國であることの条件を十分に備えているのです。
◆地域D:宇土市・宇城市と向野田古墳
そして最後に図6-3の地域Dですが、ここは宇土市および宇城市の一部になります。
この場所は倭人伝の記述からすれば距離や方角が一番合っている場所です。また熊本湾岸にも完全に面していてその点では有力候補と考えて良いのですが、ただこの地域の丘陵地はわりと凸凹していて、前項の宮地台地のような広い弥生集落を作るにはやや不向きかと思われます。またここには港に適した大きな川が流れ込んでいません。従ってこの場所が邪馬壹國だったという可能性はやや低いでしょう。
しかしここには一つ非常に印象的な遺跡が残されています。それは向野田古墳という、築造年代が4世紀後半と思われる古墳です。この古墳はサイズが70m程度の中型の前方後円墳で、卑弥呼の時代よりは100年ほど新しくなります。
ここが特別だというのは、葬られていた首長が女性だったからです。この古墳は盗掘されておらず、現れた石棺はサイズが3mもある巨大な物で、その中から30~40歳くらいと思われる女性の人骨が現れました。
古墳に単独で女性が葬られている例は全国でも珍しいのですが、そんな古墳がどうしてこの地域にあったのでしょうか?
もちろんたまたま偶然だった可能性は否定できません。
しかしもしそうではなかったとしたら実はこの地にはかつて倭國全土を従えた女王がいて、それ以来ずっと女性を長とする伝統があったから―――なのかもしれません。
邪馬壹國の解明
以上より、倭人伝道程の目的地が熊本市南部地域で、そこには十分に邪馬壹國と考えることのできる遺跡があることが分かりました。そこでこれまでの経過をまとめてみます。
◆修正道程表の“解”
まず最初に、筆者がここまで難しい話は一切していないということには同意して頂けると思います。筆者がやったことといえば表3の修正道程表に書かれていたとおりに弥生マップを辿っていっただけです。
魏使一行が実際にその経路を歩いたり船行したりすることが可能だったことも、またそのルートを採った必然性についても疑問の余地はないでしょう。
下の図6-5は末盧國以降の道程を一枚にまとめたものですが、これを見れば弥生時代に熊本市南部の住人が大陸に渡ろうと思ったら、この経路で唐津まで行ってそこから船に乗るのが最も合理的なことは一目瞭然です。
また途中に出て来る各国の位置や規模についても無理なく説明できていて、奴國などは未発見ですが推定地域に十分に存在可能です。そして経路の終点には女性の首長がいたかもしれない大型の弥生集落が実在していたわけです。
異論の余地があるとしたら第1章で行った水行・陸行1日の推定距離に対してでしょうか。そこでその点を少し再検討してみることにします。
◆水行・陸行の再検討
まず水行1日が仮定の25~35㎞より短い場合は、3日では熊本に行きつけないので邪馬壹國はその手前になります。熊本のすぐ北には金峰山があってその西麓の海岸部ということはまずあり得ないので、そうすると玉名が邪馬壹國になります。
すると投馬國はさらにその手前になりますが、玉名以北にあるめぼしい場所といえば大牟田かその更に北のみやま市付近しかありません。しかし大牟田から玉名へは30㎞、みやま市からはもっと距離があって、1日で玉名までは行きつけません。
また投馬國が大牟田だったとした場合、玉名への直線距離は15㎞しかありません。陸路は海岸沿いの丘陵地を抜けていくのが一番早いと思いますが、長く見積もっても20㎞前後でしょう。これはどう考えても3日もかからない距離です。
従ってこの場合には投馬國の場所を適切に決めることができません。
次に水行1日が30㎞より長い場合は、熊本を通りすぎて八代あたりが視野に入ってきます。しかし当時の八代は大部分が海の底で大きな国があったとは思えません。
またその場合の水行路ですが、一泊目が大牟田と玉名の中間付近、投馬國が現在の熊本城付近、それから宇土半島を回って八代海という経路になりますが、宇土半島の先端部は三角ノ瀬戸と呼ばれる狭い海峡で、その名のとおり潮流が激しい難所です。
従って八代もかなり考えにくいと思われます。
続いて陸行1日が15㎞より短い場合です。この1日15㎞というのが既にかなり短い見積もりなのですが、その条件であれば熊本城周辺が邪馬壹國候補に入ってきます。この地域は律令時代に国府が置かれて以来、ずっと熊本の中心地として栄えてきた場所なので、そういった意味での問題はないでしょう。
しかしいくら弥生時代でも平坦な場所を1日10㎞しか歩けなかったというのはちょっと考えにくいでしょうか。
最後に陸行1日が25㎞よりも長かった場合ですが、まず水行1日の距離が変わらなければ水行の限界点よりは先に行けないわけで、やはり熊本市南部を邪馬壹國と考えるべきだということになります。同時に水行1日も長ければ八代が邪馬壹國になりますが、前述の通り八代とはちょっと考えにくい状況です。
―――こうやってみると水行陸行距離を変えてみても全ての場合で本論よりも無理が大きく、やはり表3の修正道程表の示す先は熊本市南部だと考えるのが一番妥当です。
ここで再度繰り返しますが、この修正道程表は2章で示した一律数値誇張仮説から機械的に生成した表で、数値改竄前の“真の道程”を示すはずの物です。
そしてその修正道程表には今、無理のない“解”が存在しています。
すなわち一律数値誇張仮説が正しければ、邪馬壹國は熊本市南部地域であるということが事実をもって示されたのです。
◆絶妙の倍率
さてこうなると本書の真偽はこの『一律数値誇張仮説』が本当に成立するかどうかという一点にかかってきます。そこでこの仮定に関して再度検討してみましょう。
まず仮説提示の際に魏や魏使、及び陳寿にとってそれぞれ記述を改竄する動機があったことを示しました。しかし残念ながら動機があるというだけでは彼らが“やった”という証明にはなりません。
しかしその仮説から機械的に作成した修正道程表を満たす経路があったという事実もまた動かせません。これまで様々な邪馬壹國論がありますが、その邪馬壹國までの経路がこれほどまでに倭人伝の記述と適合している説は一つもないでしょう。
そのことからも、この仮説が正しかったからこそ妥当な経路が発見できた、という可能性は十分にあります。
しかしそれだけでなく発見された経路を見てみると、記述と実際の不合理が発生しない倍率が“10倍”のとき以外にはあり得ないことが簡単に証明できるのです。
それは次の図6-6を見てもらえばほぼ自明です。
記述によれば末盧國からの経路は東南方向にずっと奴國まで向かい、そこで東に向きを変えます。ところがこの奴國は有明海のちょうど北岸に位置しているのです。
そこで倍率が10倍未満だった場合、すなわち一辺の距離が長くなると、奴國は有明海の中に没してしまうことになりますが、そんなことはあり得ません。
従ってその場合の奴國は有明海対岸より先ということになりますが、そこへ陸行しようとすれば久留米まで大回りになります。ここはどう見ても船で行くところで、最悪でも両者を併記すべきでしょう。
さらに奴國が対岸だとすると不彌國はその東、すなわち九州内陸部にあって、そこから水行が始まるというおかしなことになってしまいます。
それを無理矢理合わせようとすれば、経路は九州山地を斜めに突っ切っていって、太平洋岸の延岡付近が不彌國だったとするしかありません。しかしそうすると伊都國や奴國が九州山地の深奥部になってしまうし、そもそも唐津から延岡に行きたければ歩いて九州横断などせずに、海沿いに船で行くべきです。
以上より誇張の倍率が10倍未満というのはあり得ません。
一方、倍率が10倍を超えると一辺の距離が短くなってしまうので、その場合はすべて松浦川や厳木川沿いから東の山中に分け入り、山の中から水行するという理解不能な経路を想定せざるを得ません。
10倍を超える倍率というのもあり得ないのです。
すなわち数値の一律誇張を前提にした場合なぜか10倍という倍率のときに限って絶妙にうまくいくようになっているのです。
いったいどうしてそんなにキリのいい数字なのでしょうか?
もちろん偶然の可能性は常にあります。しかし現実の地形上で矛盾を起こさない経路というのは極めて強力な限定条件です。
もし倭人伝の道程がサイコロを振って作ったような全くのデタラメだったとしたら、その倍率だけをどう変えてみようと、矛盾のない経路が得られる可能性はほぼゼロです。たまたま上手くいく場合があったにしても、それがこんなにぴったりした倍率になるなど確率的にあり得ません。
ところが実際には10倍といういかにも不自然な倍率のときにかぎり、たった一つだけ矛盾のない経路が存在していたのです。
これはもはや元の正しい記述に人為的操作が加えられたと考える以外には説明のしようがありません。
すなわち―――魏志倭人伝の距離が10倍に誇張されていたというのはほぼ100パーセント確実なのです。
ではなぜ倭人伝記者がそんな操作を行ったかといえば、倭を大国に見せたかったため以外には考えられません。ならば単に距離だけ長くしても意味がないので、国の戸数が100倍に誇張されていたことについても高い確率で真実になります。
ただその先、それではどうして記者は記述を改竄してまで倭を大国に見せようとしたかになると、これは確実なことは言えません。第2章で示したように仲達の陰謀だったのかもしれないし、記者がキャリアアップのためにやったのかもしれないし、陳寿が魏を持ち上げるためだったのかもしれないし、あるいはそれ以外の知られていない理由だったのかもしれません。それが何だったかについては今後の検証を待つしかありません。
ただ少なくとも言えるのは、表3の修正道程表は本来の正しい記述だったということです。だとすればその指し示す先―――熊本市南区城南町にある宮地台地こそが魏志倭人伝の伝える『邪馬壹國』があった場所なのです。
本章のまとめ
以上をまとめると次のようになります。
- 表3の修正道程を辿っていくと、熊本市南部・宇土市・宇城市の地域に無理なく行きついた。
- その地域には弥生時代の大型環濠集落『新御堂遺跡』と、女王の存在を示唆する『向野田古墳』が存在していた。
- 矛盾が起こらない1.のような経路は倍率10倍のとき以外は存在していなかったが、偶然にそうなることは確率的にあり得ない。
- すなわち倭人伝の距離が人為的に10倍誇張されているのは確実で、修正道程が元の正しい記述を示している。
- 従って、1.の場所こそが倭人伝の伝える『邪馬壹國』である。
倭國を訪れて倭人伝の元記事を書いた使者の感覚は狂ってなどおらず、本来の道程記事は極めて正確でしかも要点をおさえた優れた記録だったのです。