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西 陣

宝鏡寺(ほうきょうじ)の沿革
  臨済宗単立寺院 宝鏡寺門跡
  1368〜75年(応安年間)  光厳天皇の皇女、華林恵厳禅尼が、御所にあった聖観音菩薩像を尼五山の筆頭である
                  景愛寺の子院に移し宝鏡寺とした。
  1644年(寛永21)       後水尾天皇の皇女、久厳理昌禅尼が入寺して以来、相次いで皇女が住持となる。  

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住所表記上、西陣という地名はないが、誰でもが西陣という地名を知っている。かくいう自分も、西陣織りからきた地名だと思っていた頃もあった。そんな西陣を初めて訪れたのが、関西在住から間もない頃であり、西陣の謂れが、応仁の乱での西軍、山名持豊(宗全)の陣地だった所から来ているのを初めて知ったのも愛嬌ものだった。
それにしても、京の都をほぼ焼き尽くしてしまったという応仁の乱、京都市内の寺院は云うに及ばず、洛外の地の寺院まで、応仁の乱で焼失したという記録が多いのには驚いてしまうのだが、何故、このような10年にも渡る戦いが起こったのか、今もって理解できない複雑な関係になっている。少し、整理してみたい。当時、家督争いを行っていた管領家などの関係をまとめると次のようになる。
畠山家ーー実権を握っていた「持国」の死後、その子「義就」と、同じ管領家の「細川勝元」に支えられていた                           持国の甥「政長」の対立
斯波家ーー今一つの管領家である斯波家も、一族の斯波義敏と傍系渋川家から入った斯波義廉との家督をめぐる紛争
足利家ーー将軍職の足利家でも将軍「義政」の弟「義視」と、義政・日野富子の子「義尚」との対立。義政が将軍職に就いた後、              次は 弟の「義視」と決まっていたが、日野富子が、実子である「義尚」を強く押し出した事によると云われている。
これら足利幕府を支える将軍や重職の家での争いが深刻に絡み合った状況のなか、
1467年(応仁元)に畠山義就と政長との戦いが、上御霊社近くで始まった。それを口火として、山名持豊・畠山義就・斯波義廉の西軍と細川勝元・畠山政長らの東軍が激突、そして、京都の大半が焼失、戦火は地方まで飛び火する事態になった。当初、東軍優位な戦いであったが、西軍の周防の大内政弘が加わった事により、互角の戦いを繰り返した。この戦いのなかで、足軽と呼ばれる槍を持った歩兵集団が顕著になり、後の戦いへの影響を与えた。又、荒廃した京都から土佐の一条、伊予の西園寺、飛騨の姉小路などが地方へ逃れた貴族も出てきた。土佐では、一条氏の京の都も郷愁からだろうか、大文字送り火を土佐でも行い、今でもその行事が続いていると聞いたことがある。そして、1473年(文明5)に、山名持豊、細川勝元が相次いで病死し、1477年(文明9)に、畠山義就が京都から撤退し、戦乱が収まった。戦いの中、将軍職は、子の義尚に、管領には、応仁の乱終了後、畠山政長が継ぐことになる。又、山名家は、その後衰えてしまうし、斯波家は、越前を朝倉氏に、遠江を今川氏に奪われ、織田氏によって命脈を保つものの戦国末期に織田信長によって放逐され滅亡する。
そんな戦いの最中、将軍義政は、その指導力を発揮できず、戦いを終結させる事が出来ず、やがて銀閣寺を造営する。こうして、足利家の威光は無くなり、下克上と云われる戦国時代に時代は変わっていく。考えてみれば、義政自身の才が違った形で生かされていれば、このような事もなく済んだかもしれない。もし、義政に優秀なブレーンが就いていれば、このような無益な戦いもなかったであろう。
足利幕府の命脈を縮めた結果となった応仁の乱だが、この戦いが無くとも、何れは足利家は滅びる運命ではあったかもしれない。やはり、歴史には、その必然性が出ているように思える。義満亡き後の足利幕府は、低落への道に進まざるを得なかったのかも知れない。
それにしても、結果の出ない無意味な戦いであった。そんな中、一般の民は、飢饉で苦しめられるという厳しい状況であり、これらが、一向宗をはじめとした土一揆が、全国に拡がっていく。
乱後、織物の町として復興、発展し、江戸時代に入ると絢爛豪華な織物が盛んに作られるようになり、京の人々は、それを「西陣織」と呼ぶようになった。江戸期には、堀川通以西、七本松通以東、今宮神社御旅所以南、一条通又は中立売以北を西陣とされていたが、現在は更に広い地域をさしている。

残念ながら、この一帯の記録画像がありません。

織成館

西陣織は、分業されていて、職業別に糸屋町、織屋町、紋屋町、染屋町などに分化し発展してきた。江戸時代の最盛期には、約7000台の織機があったという。仲買を通じて仕入れた糸を必要に応じて染屋に染めさせ、帯びや生地の柄を図案化に依頼してデザインを決め、その絵をもとに織り上げていく。明治以前は、手織りだったが、明治以降機械化されてきた。これらの西陣織の製作を統括し、すべてを差配するのは、織元の仕事であった。
西陣織を知るには、堀川沿いの「西陣織会館」の方が良いのかもしれない。しかし、より西陣織の世界に近づきたいのなら今出川通北側にある、「織成館」の方が風情があるように思える。ここでは、昔ながら織屋の風情が残っていて、隣の工房での手織り帯などの西陣織の繊維工程を見学できる。今では、コンピューター化が進んでいる織機だが、明治初期に導入されたジャガー織機での手織が見れる。見ているだけでも大変な作業だと言う事が分かる。昔は、一人前の織り手になるのに10年はかかると云われていた。
更に、今出川通の南の町中に冨田屋がある。冨田屋は、明治18年に建てられた西陣織の産地問屋で、西陣特有の商家の様式を残している。昭和10年に増築された茶室は、武者小路千家・千宗守氏より「楽寿」の名をつけられた。この伝統ある商家を、13代目の田中峰子さんが、西陣 くらし美術館として開放した。

宝鏡寺

人形の寺として有名な宝鏡寺は、春と秋に特別公開され、人形展が開かれる。堀川通の西、寺ノ内通に面した小さな門跡寺院は、代々皇女達が住持を務めた尼寺だ。公武合体のため徳川家茂に嫁いだ皇女和宮も、ここ宝鏡寺で四カ月過したという。そんな皇女達が持ち込んだ人形の数々を、春と秋に特別公開される。又、あわせて貝合わせなど、宮廷での遊戯具なども展示される。御所人形や加茂人形、そして雛人形など、興味のある人にとっては、見逃せない人形かもしれない。無精な自分には、今一つだったと記憶している。只、面白かったには、塀の内側に踏み台があり、それが、寺院にいる女人達が、町の様子を伺い知る覗き用の高台だと聞いて、なにやら切なく、そして微笑ましいものを感じてしまった。めったに、寺の外に出ることの無かった女人達にとって、やはり、外の世界が気になってしょうがなかったのだろう。そんな所に、人の営みが感じられ、何故かホットしたことを人形以上に覚えている。

清明神社

云わずと知れた陰陽師「安部清明」を祀る神社で、清明の邸宅跡地と云われる。関西在住間もなくして訪れた時には、人影もまばらであった境内だったが、数年後再び訪れた時には、観光バスも発着するほどの人々で賑っていた。安部清明に関わる伝説などが小説化され、それを元にしたTV・映画化が図られ、一気に安部清明人気が盛り上がった事による。特に、若い女性の姿が眼についた。
陰陽道は、古代中国で生まれたもので、月と太陽(陰陽)、木・火・土・金・水(五行)の組み合わせが森羅万象を支配するという陰陽五行説に基づき、世事の吉凶を予測したもので、日本には、7世紀初頭に百済から伝播し、陰陽寮という役所が設置され、占いを受け持つ「陰陽」、暦を造る「暦」、星の動きを測り気象の異常を見つけて吉凶を占う「天文」の四つの実務部門を持っていた。そこに所属していた役人が陰陽師と呼ばれていた。そんな陰陽師の清明は、朝廷から信頼される、優れた学者で、特に天文学には、その能力が遺憾なく発揮されたと思われる。そんな、清明が、後々数々の伝説を生み出し、今、清明人気を盛り上げているのは面白い。

一条戻り橋

清明神社のそば堀川にかかる小さな橋が、一条戻り橋である。伝説が多い上に、ジンクスがある。この橋を渡ると必ずまたここへ戻ってこられるといので、戦争当時、出征兵士はここを通って出征したという。又、婚約中の女性は、出戻りしないようにこの橋を渡らないとも云う。今でも、そうなのかどうかは、良く分からないが。更に、渡辺綱が切り落とした腕を、取り返した鬼女の伝説など、今の橋からは到底思いつかない。どうして、この橋にそうしたいわれなどが残っているのか、不思議だ。