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清涼寺

鞍馬寺(くらまでら)の沿革
  鞍馬弘教 総本山
  770年(宝亀元) 鑑真和上の高弟鑑禎により毘沙門天が祀られ開創
  796年(延暦15) 造東寺長官・藤原伊勢人が堂塔伽藍を建立、あわせて千手観音を祀る

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京都市街地から北にある鞍馬。かっては、鞍馬寺の門前町として、又、丹波との交流の鞍馬街道により栄えた地であったという。しかし、山々の間を抜け、鬱蒼と繁る木々に囲まれた鞍馬は、「闇部」(くらぶ)から転じたとも云われるほどで、都とは違った雰囲気に神々を感じていたのかもしれない。鞍馬山は、平安京の北に位置していたことにより、北方を護る神として扱われ、そこに鞍馬寺が創建された。そんな鞍馬も、源義経(遮那王)が、夜な夜な天狗により修行した地として、そして、映画「鞍馬天狗」と鞍馬という地名は有名である。そんな鞍馬の地へ3回位出かけた事があったが、初めて訪れようと思った動機は、温泉であった。当時は、嵐山や大原も温泉地ではなく、京都市内唯一の温泉が湧いているところということで、出かけた。温泉は、鞍馬温泉「峰麓湯」(ほうろくゆ)と呼ばれ、叡山電鉄の終着である鞍馬駅からの送迎バスで5分程度の近さにあり、特に、内風呂もあるが、露天風呂は気持ちが良い。眼前に北山杉の山麓を眺めながらの一時は、至福の一時と云って良いかもしれない。
鞍馬駅の一つ手前が、貴船口の駅となる。駅から歩けば30分、貴船神社。ここ貴船は、鴨川の水源地の一つとして、古代より崇められてきた神聖な地が、貴船である。かっては、「気生根」(きふね)と呼ばれた字の如く、大地の気が生まれ、湧きいずる場所。そんな貴船に訪れたのは、梅雨の最中、目的は川床料理であった。貴船川の上に川床を作り、その床上で料理を食すという風情あるもので、川床のすぐ下を川が流れているのせせらぎの音、川辺の緑とで清涼感抜群なのだが、この日は前日の大雨のせいで、川床料理は危険ということで中止、料理は、旅館の部屋で食する事になってしまったのが、今もって残念に思っている。その後、今一度と思いつつ、それを果たせずにきてしまった。
鞍馬にしても貴船にしても、叡山電鉄を使って行くのだが、この叡山電鉄の電車からの車窓が楽しい。出町柳駅を出て、しばらくすると山間をぬって登っていくようで、車窓から木々の緑・紅葉などが手に触れられる近さで楽しめる。特に、展望がきく車両では、天井部分も外の景観が楽しめるようになっているので、お勧めだ。
このように、鞍馬も貴船も、最初の動機が温泉であり料理であったという点が、他とはやや異なっていたかもしれない。

鞍馬・貴船とも、写真撮影はしていないので、画像はありません。

鞍馬寺

鞍馬駅から鞍馬街道を上る。道の両脇には、山椒を使った佃煮「木の芽煮」など、山菜の品々を売る店が立ち並び、門前街の雰囲気。とは云っても、市内の門前店並に比べれば、僅かだし、街道の両脇に山々が連なっているので、まるで雰囲気は異なる。そんな店を眺めていると、直ぐに立派な仁王門が見える。明治24年に焼失し、その後再建されたものだが、石段の上にそびえる姿は、堂々としている。仁王門から鞍馬寺の本殿まで、九十九折参道として、清少納言「枕草子」で「近うて遠きもの」と記した参道。ところが、ここ鞍馬寺にも文明の利器「ケーブル」があり、本殿近くまで運んでくれる。最初の時は、妻が足を痛めていたこともあり、ケーブルのお世話になり、本殿に向かった。
本殿は、昭和20年に焼失し、昭和46年に再建された。奥の院への参道を進んだ所の霊宝殿には、北方の守護神「毘沙門天像」などが祀られている。毘沙門天像は、左手をかざし、はるか京の市中を見渡し守護しているかのような姿が珍しい。本殿前広場からは、比叡の山々の眺望が開けるているが、訪れた時、何れも天気が良くなく、雲がかかっていた。
本殿から更に足を延ばし、奥の院魔王堂まで行き、貴船に下りていけば、義経(遮那王)が武術の修養に励んだという木の根道なのだが、何故か何時も本殿までで戻ってきてしまったのが、今思うと残念であった。

由枝神社

鞍馬寺の仁王門から参道を上っていくと、鞍馬の火祭りで有名な鞍馬の産土神油岐神社がある。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)だが、元々御所内に祀られていたものを、940年(天慶3)に鞍馬山に勧請された。これは、朱雀天皇の詔により天下泰平を願ったものと云われ、それが当時の村人が喜び、松明によって出迎えたのが、火祭りの始まりと云われている。この火祭りも見る事もなかった。

貴船神社

きぶねと読む「貴船」は、字そのものからして優雅な感じを抱かせる。元々は、貴船の産土神であったと思われるが、平安遷都後は、水を司る社として朝廷からも厚い信仰を受けた由緒ある神社である。貴船神社は、二の鳥居から石段を上る「本社」、さらに本社から先にある中宮、そして薄暗い杉並木が続く奥宮とになっている。この奥宮の参道の杉に藁人形を打ちつける丑の刻参りもされていたという。
貴船神社にまつわる話は、何れも女性を中心としたものであり、これらの伝承が現代まで続いているのだろうか。磐長姫命を祀る中宮は、古くから縁結びの神として知られ、平安中期、恋多き女と云われた「和泉式部」が、夫の不貞に対し、自分への愛が戻るよう貴船の神に祈ったという話は有名だ。更に、室町時代末期からの「御伽草子」には、恋仲になった中将と鬼の姫にまつわる貴船神社。そして、呪いの儀式にまつわる奥宮の縁起伝説として、宇治の橋姫伝説がある。夫に裏切られた公家の娘・橋姫が、復讐を願い貴船神社に参籠。その結果おぞましい姿に変わった姫は、21日間宇治川につかり鬼に変身し、ついには夫を取り殺した。何とも、恐ろしい話である。そんな、伝説が生きているかのような奥宮参道は、曇り空の下、余計に暗く、ついつい歩を早めたものだ。
奥宮の境内には、注連縄で囲われた「舟形石」がある。貴船の地名ともなったという玉依姫が乗った黄船を覆ったと伝わる舟形の石組みで、確かに、細長い大きな石である。この玉依姫は、大阪湾から淀川に入り、賀茂川を遡り、更に貴船川を遡り水源を見つけ、そこに祠を建てたのが、貴船神社の起こりという伝承がある。この玉依姫が乗っていた船(黄船或は木船)が、貴船の地名の由来とか。貴船も明治以前は、「気生根」、「気生嶺」とも記されていたという。
本社でのおみくじも面白く、後神水の霊泉に浮かべ、おみくじに字が浮き出てくるという仕組み。いかにも。水の神を祀る貴船神社だと感じてしまう。