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清涼寺

六波羅密寺の沿革
    真言宗 智山派  西国第十七番札所
  951年(天暦5)  空也により開創
  963年(応和3)  堂宇完成。西光寺と呼ばれる

    その後源平の戦い以降兵火などで大半の伽藍焼失   

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京都と云えば東山が外せない。事実京都の寺院・神社で一番多く観光客が訪れるのは、「清水寺」である。年間400万人もの参詣客で、小中学生の修学旅行から外人観光客と幅広い人々が集まる。何故にそれほどに人気があるのだろうか。かっての観音信仰から、春の桜・秋の紅葉と四季折々の風景が楽しめ、しかも市中を見渡せる音羽山の中腹にあるという景観の良さを清水の舞台から眺められる点からだろうか。更に、五条通から近い事もあり、交通の便も良い。そんな諸々の条件が重なった結果かもしれない。そんな清水寺から、産寧坂、二年坂からねねの道から、高台寺、八坂神社(祇園社)、そして円山公園までの散策までを狭義での東山としている。
関西に移った当初は、良くこの東山散策をしたものだが、段々と足は別の方角に向いて、近くまでは行くが、清水寺などは久しく訪れる事もなかった。しかし、この一帯は、かって葬送の地、鳥辺野が北側に広がっていたところで、その為のあの世とこの世の分岐点を「六道の辻」と呼ばれ、そこに「六道珍皇寺」や「六波羅密寺」が建つ。その六道の辻一帯が、六波羅と呼ばれた地域だが、六波羅の地名も、髑髏の原野「髑髏原」とも、麓の原野「麓原」とも云われる。想像するだけでも、人が立ち入れないような原野が思い浮かぶ。そんな六波羅も、平家一族の屋敷街になって以来大きく変貌していった。今では、そんな葬送の地であったとは想像も出来ない街並みとなっている。そんな地に、清水寺が建てられたのは、長岡京の時代だったので、未だ鳥辺野の地も無い時代だったが、それが、観音信仰の聖地のような清水になっていくさまは興味深い。そんな、東山麓を散策してみたい。

この一帯の画像が、殆どなく、文章中心となります。

清水寺

清水寺の創建にまつわる縁起からして、観音様が登場する。778年(宝亀9)、奈良の子島寺の高僧・延鎮が、夢告によって北に向かい淀川を上っていくと金色に輝く一条の水脈があり、それを辿って源に行くと、清水の滝にたどり着いた。滝の傍に草庵があり、そこに隠者行叡という白衣の老人がいた。その老人は、「観音の威神力を念じ、千手真言」を唱え、延鎮の来るのを待っていたといい、木で観音をつくり、堂を建てよと云って去ってしまった。その後、延鎮がこの庵で過していたが、狩猟にやってきた坂上田村麻呂が現れた。妻の安産を祈願して、鹿の子を求めにやってきたもので、当時鹿の子の血が安産に良いとされていた。延鎮が、田村麻呂に対し殺生を止めさせた。これを受け、田村麻呂と妻は観音さまに帰依するようになり、その後蝦夷征伐で功のあった田村麻呂に長岡京の紫宸殿が与えられ、798年(延暦17)に、この紫宸殿を移築し、奉納したのが現在の清水寺の本殿になるという。以降、この縁起に関わる観音信仰の寺院として、貴族や一般の人々までが清水参りをする人々が押しかけ、やがて、本堂前を広げていくうち、現在の清水の舞台と呼ばれる物が出来上がってきた。室町時代後期には、ほぼ現在と同じ物になったといわれる。観音信仰の高まりと共に、祈願成就を図るという意味でも、この舞台から飛び降りるものも江戸時代が中心となり実際に行われていたというから驚きである。記録によると、助かった人は8割以上というから、意外でもあり、そんな生存者からの「観音さまのおかげで・・・」といった話が、さらに拡大・比喩されてきたのだろう。それでも、8割以上というのは、かなり高い率だと思われ、信心の賜物であろうかとも感じてしまう。
本尊は、秘仏の十一面千手眼観世音菩薩で、33年に一度ご開帳される。前回は、平成12年(2000年)に開帳され拝顔する機会が出来た。、今、その印象が余り残っていないのも、多くの人波にもまれた為だろうか、それとも、やはり信心が薄いためだろうか。次の開帳で拝顔できる機会があれば、もっとゆっくりと拝顔出来るようにしたいものだ。観音とは、音を観る、即ちすきとおった温かい眼で世の中のあるべき姿を明らかに観る事を意味する。その観音さまが、十一面で、@諸病の苦をとるA如来の愛護を得るB財宝を得るC敵の危害から守るD上司の庇護を受けるE毒蛇・寒熱の苦を免れるF刀杖の害を受けないG水におぼれないH火に焼かれないI天命を全うする という十の誓願が込められ、災害から免れると信じられている。さらに千手であるから、数限りない人々の苦悩を全て救うと信じられている。これだけのご利益のある観音さまであればこそ、平安の時代から幅広く信仰されてきたのであろう。そんな逸話は、今昔物語などに残っている。清水寺の老僧が、女房をみそめる話、貧しい女性が清水詣りを行い、良縁に恵まれたとか財を得たというもので、人の現世利益をかなえてもらえるという、実に分かりやすい説話になっている。今以上に生きていく事がたいへんだったろう時代には、これらの説話から観音信仰がより強まっただろうし、京都という地にあることによって、清水詣が後を絶たなかった事も肯ける。
本堂前の舞台から、京都の街並みも良く見える。この舞台の高さは、約13mだが、本堂が山の中腹に建っていることもあり、より高いように感じられる。本堂から、左手に地主神社があり、右手を進むと「釈迦堂」、「阿弥陀堂」そして「奥の院」と続く。「阿弥陀堂」は、法然が常行念仏を初めて行ったところだそうだ。更に「奥の院」は、空海の像が安置されている。このように清水寺は、宗派にとらわれないで参詣出来るが、元々清水寺は、奈良・興福寺に属し、法相宗と真言宗を兼宗していたが、今は独立して北法相宗の本山になっている。法相宗は、南都六宗の一つで、始祖は「西遊記」で有名な玄奘三蔵である。法相宗では、「唯識論」という学説で、その内容は中々理解できるものではないが、全ての存在は「識」のみによって感知されると説く。万物は自分の心のありようによって受け止められ、即ち自分の心そのものであると考えられ、認識だけが全ての存在を決定するとある。まるで、カントの称えた「我思うゆえに我あり」を思い出す。
「奥の院」から下っていくと「音羽の滝」がある。清水寺の由来となった霊水で、今でも多くの人が、手杓で滝から落ちる水を注いでいる。舞台が高く見れる参道は、桜の木が茂り、舞台を支える柱組が良く見える。クギ一本も使わない構造物は、日本建築の一つの知恵なのだろう。
清水坂の参道の賑わいは、何時も変わらず、喧騒さがあるものの何かそれが気にならない雰囲気である。

成就院

清水寺の塔頭の一つである成就院は、清水寺の管主が住むという由緒ある寺院だが、通常は、非公開となっている。平成17年(2005年)1月、大阪に行く機会があり、その時は特別公開されていたのを機に、参観できるツアーに参加し、参観できた。この成就院を有名にしているのが、借景式庭園で「月の庭」とも呼ばれている。庭園自体さほど広くないのだが、北正面の高台寺山を大きく借景とする工夫がなされている。それは、目の前の池の中島にある灯篭と更にその先の高台寺山の灯篭を一直線上に並んで見る事によって、庭と山が一体となった庭園として見れるという遠近法を利用したものだそうだ。訪れた時は、雪が舞い散る寒い時であった。そんな説明を聞きながら庭園を眺めていたが、寒さの中、そんな風情を感じられぬまま後にしたのが残念であった。又、月光を浴びる庭も見事だそうだ。
この成就院にも幕末の悲劇があったことも初めて知る。それは、西郷隆盛と親交のあった時の住職「月照」が、倒幕運動の最中一時期隆盛と一緒に薩摩に逃れるが、薩摩でも島津斉昭が亡くなった後、鹿児島湾に入水し、月照のみ死亡してしまう。又、弟の信海は、学僧として高野山などで修行をつんでいたが。幕府に捕らえられ処刑されてしまう。

地主神社

かっては、清水寺の地主神を祀る鎮守社であった地主神社も、今や若い二人連れが必ずといっていいほど立ち寄っている。境内に約10m位離れた石の間を、眼を閉じて辿りつけば恋が叶うとされ、試みている若者達で賑やか。ところが、境内の端に大きなイチョウの木がある。木の幹に、藁人形を打ち付けた痕跡が残っている。恋の成就という謂れがある一方、痛手を持った人の願いが残っているのも不思議な思いだった。

産寧坂・二年坂

清水坂の両脇には、お土産の店や清水焼の店など、如何にも門前という賑わいを見せる。坂を途中から左に下ると産寧坂、二年坂に続く石段となる。清水坂とは違った雰囲気がある。町家の風情が残っているからであろうか。この坂道は、安産祈願の名所泰産寺への参道として発展してきた所から、産寧坂と名づけられたという。そんな語呂からだろうか、この坂で転ぶと3年以内に死ぬという俗説もある。これは逆説的な意味で、妊婦が転ばないように注意させるために出来たのではないかと云われる。産寧坂を降りた所に「青龍苑」があり、京の名店が並んだ先に立派な庭園がある。抹茶で一休憩したり、会席料理も楽しめる料亭もあるという空間。更に下ると二年坂。かって、竹久夢二と彦乃が通ったという甘味所もある。
最近、3月に清水寺から青蓮院までの道を露地行灯でライトアップするという「花灯路」が催されている。一回その時期に歩いた事があったが、なかなか情緒ある風情ではあったが、あいにくの土砂降り雨の中だった事を思い出す。

「青龍苑」の庭園

ねねの道・石堀小路

石塀小路の路地

高台寺

豊臣秀吉の正室、北政所・ねねが創建した寺、高台寺。秀吉亡き後、大阪城を秀頼とその母淀君に明け渡し京に住んだ。落飾して高台院と号し、父母を弔う寺を建立。この寺院建立を支援したのが、徳川家康。一つはねねの人柄を好いたものと思う。そして、更に関が原の戦いでは、加藤清正や福島正則などのかっての秀吉の子飼であった大名を家康側に就けるなどの尽力をしたためとも云われる。このため、伏見城の主となっていた家康が、城の殿舎を提供し、一時は、壮大な境内に移築された殿舎や新たな堂宇など並ぶものであったという。そこで、ねねは、かっての秀吉ゆかりの武将や前田利家の妻・まつといった木下藤吉郎時代から知り合いなどと穏やかな日々を過していたという。権力の中枢から一歩身を引き、真に話の出来る人々との雑談は、ねねにとって心落ち着いた一時であったろうし、このような生活が送れたのもねねの人柄からだろう。しかし、1615年(慶長20)の大阪夏の陣で、秀頼と淀君が自害、落城し、豊臣家が滅んでしまう。家康は、秀吉を祀る豊国神社も廃却してしまい、ねねは、高台寺で夫の冥福を祈る日々を送るが、1624年(寛永元)、77歳で世を去る。

歴史に「IF」はないが、秀吉とねねの間に子が生まれていたら、歴史はどうなっていたかと想像してみると面白い。子の親として、我が子を思う余り、淀君と同じような道を歩んだのだろうか。それとも前田利家の妻、まつのような生き方をしたのだろうか。何となく後者のような気がする。秀吉の子飼達にも慕われていたねね、信長に夫・秀吉の女癖について注意してもらいたいと出した文など、人間味のあふれた女性であったと思われる。しかし、関が原の戦いでは、結果的に家康の支援をしたことになる。加藤清正等が、家康側についたのもねねの助言だけではなく、対石田三成という意識があったとも云われ、もし、戦場に秀頼が出陣していれば戦いはどうなったか分からないとも云われている。石田三成は官僚としての才に恵まれていたと云われるが、特に朝鮮の役では、前線の加藤清正等との対立が根にあったとも云われる。何時の時代にも、前線と後方部門の対立はあるものだ。とはいえ、関が原の戦い当時、誰もが豊臣家滅亡というストリーを描いてはいなかったのではないだろうか。徳川幕府を容認した上で豊臣家を一大名として存続出来ると思っていたのかも知れないが、現実は甘くなく、やがて加藤家も福島家も滅ぼされてしまう。更に、高台寺もねね亡き後、ねねが秀吉より相続した土地も没収され、厳しい財政運営であった。その為、高台寺の諸堂の公開や寺宝類の展示など、今でいう特別公開などを開催して、傷んだ伽藍の修復などを行ったという。いわば、観光化することによって、寺の維持運営を図った先駆者的なものとも云えよう。高台寺は、夜の特別参観や茶会などの催しをよく行っていて、「良くやるな」と半ば皮肉的に観ていたのだが、こうした歴史を知ると、その寺の持つ一種の伝統が今も続いているのかと感心してしまう。
高台寺の庭園も見事で、春は枝垂れ桜、秋の紅葉が素晴らしいといわれるが、その時期に訪れられなかったのが悔やまれる。しかし、霊屋内陣の須弥壇には、中央に本尊随救菩薩、左に尼僧姿のねねの坐像、右に秀吉の坐像が安置され、そこに施されている蒔絵は華麗で、豪華だ。
庭には、伏見城から移された傘亭と時雨亭と呼ばれる茶室があり、特に、傘亭はの茶室内部は、傘を広げたような竹で組上げられた天井が素晴らしかった。
改めて高台寺の持つ魅力を感じてしまい、次に訪れる機会があれば、ねねの想いを身近に感じられる自分でありたいと思う。

圓徳院

高台寺の前にある圓徳院。伏見城から移した化粧御殿と共にその庭も移したのが前身である。既に、化粧御殿は、焼失してしまったが、庭はそのまま残っている。化粧御殿を移転した年、木下家居館が建築され、ねねの死後、化粧御殿は、永興院、木下家居館が圓徳院として高台寺の塔頭となったが、後に永興院は、圓徳院の一部となった。ねねの終焉の地となった化粧御殿で、ねねを支えていったのが、兄の木下家定とその次男の利房であった。
この圓徳院、夜のライトアップ公開というときに参観した事があった。化粧御殿の前庭は、今でも残っているが、思ったより小さな庭園。巨石が並んでいるが、秀吉が諸大名に命じ各地の巨石を集めて石組みしたものだが、何となくこじんまりとした庭という印象であった。既に、池の水も涸れ、伏見城から移した時とjは、景観も随分と違っているのではないだろうか。

円山公園の南側から、京都霊山神社の参道に至る石畳の道が、ねねの道として言われるようになったのが、平成10年からだから比較的新しい。しかし、ねねの道とは、高台寺から連想したものだが、何か響きが良い。俗な云い方をすれば、京都散策路の銀座通という感じで、何時も清水寺からか、八坂神社からかといった人々で賑っている。このねねの道から一歩入ると石塀小路といわれる小さな路地に入る。両脇には、板塀や石塀を設けた町家が並ぶ静かな所で、一瞬タイムスリップしたかのような錯覚を覚える。
これが、東京・江戸であれば、何処からか三味線の音が聞こえてくるのではと思える風情だ。

六波羅密寺

六波羅密寺(ろくはらみつじ)は、周囲を学校や民家に囲まれた市中にある小さな寺であったのが、予想外であった。何時も交通の激しい東大路通から鴨川方向、五条通の北側に入った所にある。平安後期には、北は四条通、南は七条通、西は鴨川、東は東大路通に囲まれた高大な寺域を持っていたとは信じられない位だ。その頃、境内の塔頭に分宿していた平家一門も、清盛が権力を握るにつれ、その周辺に豪壮な邸宅を構え、「六波羅殿」と呼ばれた平家も、源義仲の入京により、兵庫・福原へ幼い安徳天皇を連れ逃れたのが、1183年(寿永2)。邸宅は、平家自ら焼き払ったという。後に、鎌倉幕府によって、六波羅探題がつくられ、朝廷の監視や京都市中の警備にあたることになる。
六波羅密とは、仏教の説く悟りの彼岸に至るための六つの修行徳目であり、それは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つをさす。そんな意味を持つ六波羅密寺は、醍醐天皇の皇子とされる空也によって開山されたという。

空也は「念仏の祖」と言われ、市民の中に入って念仏を唱え続け、伝道に励み「市の聖」と呼ばれていたという。この空也の念仏が、「空也踊躍念仏」として、今でも伝わっていて、12月13日から大晦日まで行われている。これは、鎌倉時代、念仏の弾圧を受けた事に伴い、外部から「南無阿弥陀仏」と唱えていても、「ノーボーオミトー」「モーダーナンマイトー」と聞こえる念仏だそうで、やがて僧たちがゆったりと躍り、跳ねつつ堂内を廻るという。そして、調子を早めていくうち法悦の境地に至るものとのこと。

空也が「市の聖」といわれたのも、当時の朝廷の混乱と天災などによる世情の不安があったからであろう。空也が念仏の教えを行っている頃、関東での平将門の乱、瀬戸内海では藤原純友の乱という大きな混乱時期であったうえ、大雨や旱魃などの自然災害もあり、一般の人々の生活不安が高まっていたなかの念仏が広く受け入れられていったものと思われる。後年、法然の念仏三昧の教えが広まっていったのも同じような時代背景があったといえる。
この六波羅蜜寺といえば、何と云っても「空也上人像」であり、口から六体の阿弥陀仏が出てくる像である。それは、本堂脇の小さな収蔵庫に展示されていた。実際に拝顔させてもらうと、思っていたイメージよりも小さかったが、南無阿弥陀仏を唱え続けた空也上人の法悦極まった顔と口元から六体の阿弥陀仏の飛翔の姿は、如何にも阿弥陀念仏を唱えた空也そのものを如実に表しているようだ。この収蔵庫には、経巻を手にした平清盛像、運慶・湛慶の父子像、更には平等院の阿弥陀如来像の仏師といわれる定朝昨の地蔵菩薩像、運慶作の地蔵菩薩像などと、六波羅密寺の永い歴史を感じさせる。

八坂神社

「祇園さん」の愛称で親しまれている八坂神社だが、元々祇園感神院、祇園社という名前だったのが、明治の神仏分離政策で、仏教色をとるため八坂神社となり、素戔鳴尊を本殿に祀り、他に素戔鳴尊の妻子、櫛稲田姫命、八柱御子神を祀る神社となっている。
創建については、諸説あるが、656年(斉明2)に高麗国の調進使伊利之使主が来朝し、新羅国牛頭山に鎮座していた牛頭天王の神霊をもたらし祀ったことに始まり、更には、876年(貞観18)に僧・円如が東山山麓の祇園林に垂迹した天神のために堂を建てたことに端を発したとも云われている。
牛頭天王とは、祇園精舎の守護神で、牛頭天王が南海におもむく途中で宿を借りるため、巨旦将来と蘇民将来の兄弟に頼んだところ富裕な兄・巨旦が断り、貧しい弟・蘇民が粟飯で歓待してくれた。そこで、牛頭天王はお礼として、蘇民の子孫を疫病から守る事を約束したという。そのため祇園祭に配布される粽には、「蘇民将来之子孫也」と書かれた札をつけ災難除けを願っている。
八坂神社の年中行事としての祇園祭りと共に大晦日のおけら詣りが有名で、火縄に浄火をつけて、持ち帰りその種火で元旦の雑煮を煮ると疫病除けになるといわれ、多くの参詣客が火縄をクルクル回しながら歩く姿は、大晦日から元旦にかけての京都の風物となっている。このため、このときだけは、電車も火縄を持っての乗車が許されているというのも何となく微笑ましい。そんなおけら詣り。一回は経験したかった。
平安京以前からの歴史を持つ八坂神社は、一つ一つの祠にも謂れがあるが、何時も素通りしてしまっていた。今度は、そんな謂れも訪ねジックリ参拝したいものと思っている。

円山公園

公園内 枝垂れ桜 公園内 枝垂れ桜
公園の紅葉 公園の紅葉

円山公園は、八坂神社と知恩院の間に広がる大きな公園で、明治19年に開設された。開設以来、数度の火災にあい、大正2年に現在の姿になった。
公園内には、茶店などがあり、一服の休憩場にもなる。ねねの道から公園に入ると、「長楽館」という明治時代の煙草王と呼ばれた実業家の村井吉兵衛の元別荘があり、女性専門のホテルとなっているが、昼は喫茶もできる。邸内の建築も見事で、お薦めできるスポットの一つだ。
円山公園といえば、桜であり、特に、中央に位置する枝垂れ桜は、公園の顔として有名。桜の季節、多くの市民の花見客で賑わい、桜の下の宴を見ていると東京・上野を思い出してしまい、京の花見というイメージに合わないが、これもよそ者の勝手な想いだろう。
桜の季節も良いが、秋の紅葉の時期も楽しめる。池に映える紅葉も艶やかであり、桜の時期ほどの人手もなく、ゆったりとした時間が過せるのも楽しい。