京都に都が遷都したのが、794年(延暦13)で平安京と称された。その推進役の中心は、桓武天皇であり、世俗化した奈良仏教の影響を避けるとか、大化の改新を身にあるものにするため奈良・平城京からの遷都をしたと云われる。既に、恭仁京の造都、甲賀宮の造営、難波宮への遷都などがなされてきていた。そして、桓武朝になり、藤原百川らを先頭として、山背国への遷都が図られ、784年(延暦3)長岡京の造営が計画され、百川の甥、藤原種継を造営大夫とした。しかし、種継の暗殺をはじめとして長岡京での連年の洪水や大雨などにより、793年に長岡京の造営が中止となり、改めて和気清麻呂の発議により現在地への造営が図られ、藤原小黒麻呂が造営大夫となり進められた。京を造都するにあたり、中国・陰陽道の「四神相応之地」として、ふさわしいかどうか占われた。それは、北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎が配されることであり、その地形上のシンボルがあり、北の玄武が大岩・船岡山、南の朱雀が大池・巨椋池(今は埋め立てられてないが)、東の青龍が大川・加茂川、西の白虎が大道・山陽道と擬せられたという。こうして京都の盆地が、平安京として栄えていくが、当然の事ながら、遷都以前から多くの土着民や渡来人によって開発されていた。
京都は、かっては断層によって陥落した湖底であり、あるときには大阪湾に続く江湾であったもいう。そんな盆地の京都には、縄文時代の遺跡が北白川一帯で多く発見されたといい、弥生時代に入ると桂川流域をはじめ多くの集落遺跡が発見されているそうだ。この弥生式農耕文化を導いたのは、丹波から南下した出雲族だろうという見解がある。そして、大和政権が確立し始めた頃、この京都盆地一帯は、「やましろ」と呼ばれ、当初は、「山代」と表記され、後に「山背」と表記される。当初の「山代」は、樹木の生い茂る山中の国という意味のようであったが、大和政権の勢力が広がるにつれ、奈良の都の後背の重要地という意味での「山背」に変わったと思われる。そして、この時、大和から賀茂建角身命がが山背に遣わされたという伝説があるが、この賀茂氏がやがて京都盆地の北側の大きな勢力にない、後に上・下の賀茂神社としてその名を残したといえよう。神話上では、賀茂氏は、神武天皇の先導役であったということから、賀茂氏の先祖が八咫鳥であったというのも面白い。又、先の出雲族とも協調関係が出来ていたようで、そうした伝説が残っている。やがて、4世紀になり、大和を中心とした国家体制が出来上がるにつれ、地方の小国家を県として支配していくようになり、賀茂県として京都盆地を治めていった。
ところで、賀茂も上賀茂神社だが、一方は、下鴨神社となる。川の名前も、上流は賀茂川、下鴨神社で高野川と合流した下流は鴨川となる。何ともややっこしい感じだ。同じ、かもなのだが、漢字に当てはめる時意識的に使いわけたのだろうか。
5世紀になると中国・朝鮮からの帰化人が国内各地に散らばり、開発で大きな役割をはたしていく。京都盆地にも、百済から弓月君が多くの氏族を引き連れ来日し、その大半の氏族が桂川流域の土地改造や桂川の大堰をつくったといい、その氏族を統率していたのが、秦氏であった。更には、農耕だけではなく、養蚕や絹織りなどの技術も持ってきたといわれている。そんな、秦氏が中心に住んでいたのが、今の「太秦」と云われている。こうした秦氏などの開発などから、豊かな国づくりがおこなわれ、それを 応神天皇が褒め称えた歌として、
「千葉の葛野 をみれば 百千(ももち)足る 家庭(やにわ)も見ゆ 国の秀も見ゆ」が有名だが、実際は、山背の人々が歌っていたものだろうと云われている。
秦氏は、大和政権との親交が深く、協調関係が続いた。山背への遷都に当たっても、この秦氏が大きな役割を果たしたと云われる。そして、平安京への遷都が行われ、桓武天皇が平安京に入ったときに、「この国 山河襟帯、自然に城をなす。この形勝によりて新号を制すべし。よろしく山背国を改め山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞し、平安京と号す。」と詔が発せられた。
こうして、平安京という都が開けた。そして、この都を造営するにあたって、当時の山背国の豪族達は、朝廷への協力を惜しまなかっただろうし、その成果に対して、特別の処遇になったであろう事は容易に想像できる。
それらが、賀茂氏や秦氏に関係する社寺で、今でもその歴史を伝えている。
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一度、下鴨神社から上賀茂神社まで、賀茂川沿いの道を歩いたことがあった。歩いてみると思っていたより、距離がある。葵祭りで、京都御所から下鴨神社、上賀茂神社へと行列をなし歩いていくのだが、これも大変だろうな妙に感心してしまった。上賀茂神社jは、洛北神山の南の麓に広がる広大な境内を持つ神社である。バス停のある一の鳥居前から、真直ぐに延びる参道の先に二の鳥居が望める。参道の両脇は広場になっているが、5月5日に競馬会神事が行われるところだ。二の鳥居に入ると上賀茂神社の特徴である一対の立砂が、迎えてくれる。円錐形は、ご神体の神山をかたちどったと云われ、鬼門、裏鬼門に砂をまく清めの砂も、この立砂の信仰が起源であると云われている。
上賀茂神社の由緒によれば、本殿の北北西にある神山に祭神の賀茂別雷大神(かもわけいかづち)が降臨したとある。これは、神話ではあるが、上賀茂神社一帯は、縄文遺跡があり、太古からの人の住み着いたところだった。そして、出雲一族と賀茂氏とによる新たな地となった上賀茂には、神話や伝説として、古代の人々の歴史が語られ、農耕の神である水に関連した雷神が祀られたようだ。
賀茂別雷神は、高天原に降り、後に山背国に遷ってきた賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の孫とされる。賀茂建角身命の娘・玉依比売命(たまよりひめのみこと)は、賀茂川に流れてきた丹塗の矢に感応して身ごもり、男児を出産し、後にこの男児が天に昇天し、賀茂別雷神になったとの伝説だが、これは、賀茂氏と出雲族の融合を示す話ではないかと云われている。そうした神話や伝説にあふれる上賀茂神社は、朝廷や幕府の庇護の下、神霊が今でもやどっているのではないかと思うくらい、厳粛な佇まいだ。
上賀茂神社の一の鳥居前を東に進むと、土塀が連なる住宅街に出る。土塀の傍は、上賀茂神社の境内から流れ出た小川で、明神川と呼ばれる。歩を進めると、瓦葺の門を構えた「社家」の屋敷が立ち並んでいる。「社家」とは、世襲神職の家筋で、元々上賀茂神社の縁者、賀茂氏の縁の者が務めた。平安中期からこの地に住んだというから、1000年近い時の流れにいたことになる。
そんな「社家」のなかで、西村家別邸(旧錦部(にしごり)家)を見ることが出来る。庭園の中に小さな池があり、その池の水の量で、市街地の地下水の状況が判断できたという。しかし、近年は、この池は、殆ど空の状態が続くといった話が印象的でだった。
京都は巨大な地下水の上に浮かぶ街と比喩されるくらい水の豊富な所だが、昨今の地下鉄や都市再開発によって、地下水路があちこちで断たれているという。自然の営みの維持と開発という難しい課題を投げかけている。
賀茂氏ノ支配下にあった下鴨。賀茂川と高野川が合流する三角州にあった原始林には、社が設けられ、神々が棲む「糺の森」となった。「糺」とは、二つの川が合う場所「只洲」に由来するとも、祭神の多多須玉依媛命の名にも由来すると云われている。更に、糺という漢字には、罪過の有無を追及する。詮議する。といった意味がある。神がやどる森という糺の森では、己が罪過を悔い改める所という事も考えられるのではないかと思う。
下鴨神社の祭神は、賀茂建角身命と玉依媛命であり、賀茂氏の氏神を祀った社である。そして上賀茂神社が、賀茂建角身命の孫賀茂別雷神であり、この両社に王城鎮護の社という最高の社格を与え、伊勢神宮と同様の社殿を定期的に造替される式年遷宮制が適用されていた。いかに朝廷が、賀茂氏に対し優遇していたか分かる。
糺の森を右手にして参道を進むが、直ぐに左手に「河合社」がある。この社は、神武天皇の母「玉依姫命」を祀る本宮に次ぐ大社。鴨長明は、この社の神官の家に生まれたが、一族の反対にあい神官になれなったという。それが原因で、厭世感を抱き、やがて「方丈記」の名著が著されたという。
本宮の楼門を入り、本宮への中門横に「御手洗社」がある。井戸の上に建立された社で、社前に小さな池となって、糺の森へ流れていく。この御手洗から生まれたのが、御手洗団子の発祥で、近くに茶屋がり、賞味できる。下鴨神社は、京都における水流の原点とも云われ、下鴨神社からの地下水流が、市内の名水ポイントの幾つかと結ばれているという。人が営みを続けるには、水は絶対条件であり、そうした地下水に恵まれた京都だからこそ、1000年以上の都として栄え続けられたのだろう。そんな貴重の水も、今では都市再開発により、障害が出てきている。水の都としての京都を続けられるようにして欲しいものだ。
今では葵祭と呼ばれているが、元々は、平安京以前から賀茂氏の氏神を祀る上賀茂・下鴨両神社の祭礼で、正式には賀茂祭という。6世紀半ばの欽明天皇の頃、風水害をもたらした賀茂の神の祟りを鎮めるために、馬に鈴をつけて走らせる祭りを行ったのが起こりと伝えられている。そして、平安初期、賀茂祭は、勅祭とされ、国家安泰を祈願する天皇が幣物(神への供物)を、上賀茂・下鴨両社に奉納する巡行列が始まった。この行列は、応仁の乱後200年近く途絶えていたが、1694年(元禄7)に再興され、賀茂祭も両社の神紋である二葉葵にちなみ「葵祭」と称されるようになった。再興したのが、徳川期であり、徳川家の紋である葵にも引っ掛けていたのではないかとも思う。賀茂祭は、旧暦4月の吉日、中の酉日を選んで行われていたが、明治17年より、現在の5月15日に行われるようになった。
葵祭は、まず3日の流鏑馬神事、5日の歩射神事、10日前後の斎王代禊の儀、12日の御蔭祭などの前儀をはじめ15日の路頭の儀(行列)、社頭の儀にいたる様々な儀式からなり、そのメインが、京都御所を出発して、下鴨神社、上賀茂神社への路頭の儀であり、当日は、その道筋に多くの見物客が集まる。
この葵祭、日が固定なので中々上手く見学出来なかったが、2003年・2004年と連続しての見学ができた。特に、2003年は印象が深く、当日朝から雨模様、確認したところ催行するとの話であったので、下鴨神社で見学することにしたが、行列が近づくにつれ雨がひどくなり、行列へ参加している人達が可哀想な位であった。結局、この年は、下鴨神社での社頭の儀にて中止となり、上賀茂神社までの路頭の儀はなくなった。そんな、雨の中での様子が、下の幾つかの写真である。斎王代は「腰與」に乗っているので、多少は雨は防げるだろうが、歩行している人達は、傘をさして大変そうだった。更には、馬上の人は、傘をさすわけにもいかないのので尚更だ。この後、雨で濡れてしまった衣装の修復が大変だったとも聞く。
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翌2004年は、天気にも恵まれ、汗ばむ日であった。しかも、この年は、土曜日とあってより多くの人手で賑った。今回も下鴨神社の参道の観覧席で、新緑若葉の下、路頭の儀を見ることができた。
画像は、クリックして拡大できます。尚、画像は、ややピントヅレが多々あると思いますが、雰囲気だけでも感じて戴ければと思います。
本列の最初は、警衛の列で、平安京の警備や裁判を司った検非違使庁の役人たちで構成されている。
次に、内蔵寮の列が続き、宝物や幣物などを管理する役人達で構成され、その先頭には、山城使代(山城国の次官)が先導する。
更に、馬寮の官の列が続く。馬寮は、御所の御厩の馬の飼育、調教や諸国の牧場を管理する役所で、左馬寮と右馬寮があった。
そして、路頭の儀の中心となる勅使舞人陪従の列となる。かっては、勅使と社頭の儀で歌舞を奉納する舞人・陪従などで構成されていた。現在の勅使は、宮内庁掌典職が務めるが、行列には参加しないため近衛使代が代役を務めている。
最後の列は、斎王代の列で、昭和31年に復活した。今では、この斎王代の列が主体となってきている。斎王代とは、伊勢神宮や上賀茂。下鴨両社に奉仕した未婚の内親王や女王であった斎王の代理の事。今では、京都の未婚女性から選ばれるが、毎年、誰が選ばれたか話題となる。斎王代以下女人の列に参加する者は、御禊神事で、上賀茂・下鴨神社(毎年交代)で禊を行う。
最初は、命婦と呼ばれる高級女官が、花傘をさしかけられてくる。次に女嬬と呼ばれる食事を司る女官、そして、腰興に乗る斎王代となり、騎女と呼ばれる、斎王付きの巫女、蔵人所陪従の文官、最後が牛車で、長い行列が終わる。終わってみると、僅かな時間の王朝絵巻を夢見たような感慨にふかり、やがて現実の世界に戻っていく。