京都盆地の西端、小塩山(おしおやま)の東に穏やかに広がる丘陵地帯が大野原。平安の王朝時代には、天皇や貴族達が鷹狩りや宴を催してこの広い野原で遊んだという。この地域は、筍の産地としても有名で、竹林が広がっている。そんな土地柄からか、竹取物語の舞台とも云われる。そんな大野原に、桜の季節に訪れた。今では、宅地化が進んだ洛西の大野原だが、それでもまだまだのどかな田園風景が広がり、心地よい汗をかきながらの散策であった。
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善峯寺を初めて知ったのは、数年前のJR東海の京都キャンペーンに善峯寺の桜が登場したことからであった。その写真に魅せられ一度訪ねてみたいと思っていた。しかし、交通の便はさほど良くないこともあり、なかなか訪れる機会がなかったが、やっと桜の季節に訪れる事ができた。桜の季節には、阪急京都線の東向日駅から善峯寺近くまでの臨時バスが運行されているが、多くの人で列をなしていた。
善峯寺は、西国三十三所観音霊場の第二十番札所にあたる古刹だが、応仁の乱で荒廃したのを徳川綱吉の母、桂昌院の尽力で復興されたものだが、この桂昌院は、本名を光子または宗子といい、出自は不明で、大野原出身とも云われている。光子は玉のように美しいことから、「お玉」と呼ばれたという。13歳で大奥に入り、18歳の時に三代将軍家光の寵愛を受け、後の将軍綱吉の生母になった。家光の死後、落飾して桂昌院となり、幼少の頃母と共に2年半ほど過したこの寺の再興に尽力し、現存する殆どの堂舎を寄進したという。
釈迦岳の山腹を切り開いて建てられた山寺だけに、バスを降りてからの参道は急坂で、結構厳しいものがある。山門のたどりついても、更に観音堂への石段が続く。
善峯寺(よしみねでら)の沿革
天台系単立寺院
1029年(長元2) 源算上人(恵心僧都の高弟)が小堂を建立
1034年(長元7) 後一条天皇より鎮護国家の勅願所と定める
その後、代々天皇の庇護のもと隆盛するが
応仁の乱で荒廃した
1688年〜1704年(元禄年間) 桂昌院の尽力で復興
観音堂の右手にある石段を上ると、地を這うような圧倒的な「遊龍の松」に驚かされる。樹齢600年以上といわれるもので、この五葉松は、国の天然記念物に指定されている。更に、「遊龍の松」に沿って進むと、あのキャンペーンで有名な 枝垂れ桜がそびえている。桂昌院の手植えと伝えられ、樹齢約300年とのことだ。
枝垂れ桜は、今を盛りに咲き誇っている。
約3万坪の境内は広く、全体が回遊式庭園設計になっている。著名な庭師・小川治兵衛が大正から昭和初期にかけて整備したもの。
天台系の善峯寺には、さまざまな仏が祀られている。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、などなどである。更に、多宝塔や経堂、桂昌院廟所などなどの堂宇や善峯寺の門主となった法親王が代々住んだ坊の庭園蓮華寿坊庭園など見るべき所の多いお寺である。
善峯寺からバス道を下ると、通称なりひら寺と呼ばれる十輪寺がある。寺自体は、先の善峯寺に比べると小さなお寺だが、かえって心落ち着く感じを抱かせる。ここ十輪寺は、在原業平が晩年隠棲したと伝わり、境内裏山に業平が塩焼きの風流を楽しんだという塩竃の跡がある。このいわれから、十輪寺の山号が小塩山となり、地名も小塩となったという。業平が塩焼きしたのは、十輪寺から近い大野原神社に参詣してくる、かっての恋人清和天皇の后藤原高子への思いを託したものという切ない話も伝わっている。業平が、后となった高子が大野原神社参詣で再会したときに「大原や小塩の山もけふこそは 神世のことも思出づらめ」と歌を奉ったという。そこに遠い昔の恋の思い出を託している事がよみとれる。平城天皇の皇子を父に、桓武天皇の皇女を母に持つ名家に生まれながら、藤原一族との勢力争いに負け、低い身分であった業平は、藤原氏への対抗の意味で藤原高子に接近し、やがて許されぬ恋仲になってしまう。そして、2人して逃げるものの結局高子は捕らえられ、二度と逢う事もできぬままやがて高子は、清和天皇の后となる。そんな風流を抱かせると共にかっての栄華を誇った藤原一族の想いが侘しく残るところでもある。
十輪寺(じゅうりんじ)の沿革
小塩山(おしおやま)十輪寺 (天台宗の単立寺院)
通称「なりひら寺」
850年(嘉祥3) 文徳天皇の后 藤原明子の安産祈願のため創建
後の清和天皇が誕生し、文徳天皇の勅願所となる
応仁の乱後衰退
1661年〜73年(寛文年間)に再興
本堂の屋根が「鳳輦形」(ほうれんがた)と呼ばれる御輿をかたどった珍しいもので、江戸時代中期にこの本堂を再建した藤原北家の系譜を引く花山院家は、天皇中心の世の中が再び来るようにという願いを込め、このような形にしたという。又、小さな庭園「三方普感の庭」は、高廊下、茶室、業平御殿の三ヶ所から場所を変えて見ることによって、様々な想いを感じさせる庭だという。かっての藤原全盛時の庭園に比べようもない小さなものだが、小さいこそだからに想いが込められているのが、何とも哀れにかんじてしまう。
庭園には、盛りが過ぎた「なりひら桜」と呼ばれる枝垂れ桜が、十輪寺のもつ侘しさを消してしまいそうな艶やかさで、向かえてくれる。
通称「花の寺」と呼ばれるこの寺は、平安時代後期には桜の名所として知られていたという。特に。桜では著名な西行は、1140年(保延6)23歳の時、ここ勝持寺で出家し、庵を結んだと伝えられる。そんな西行が、花見に訪れる客の賑わいを見て 「花見にと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜のとがにはありける」と詠んだそうだ。そんな、勝持寺であるが、訪れた時には既に桜が散っていて、見ごろは過ぎていた。有名な西行桜も、盛りが過ぎてしまっていた。
勝持寺(しょうじじ)の沿革
天台宗 大原院勝持寺
680年(天武9) 天武天皇の勅によって創建
791年(延暦10) 桓武天皇の命で最澄が再建
室町時代足利尊氏の庇護を受け隆盛
応仁の乱で伽藍焼失、衰退
明治維新後復興
勝持寺の横に願徳寺(がんとくじ)(正式には、宝菩提院)がある。昭和48年に再建された本堂の中には国宝の「如意輪観世音菩薩半跏像」が祀られている。平安時代前期の作でカヤの一木から彫られている。又、藤原時代の作といわれる薬師瑠璃光如来像や聖徳太子二歳像も祀られている。これらの像を前に住職からの説明を聞き、体面できる。
願徳寺は、元々679年(天武8)に、現在の向日市寺戸に創建された天台宗の大きな寺院であったが、応仁の乱や織田信長の兵火によって諸堂がことごとく焼失してしまい、荒廃してしまったという。
正法寺(しょうほうじ)の沿革
真言宗東寺派 法寿山 正法寺
754年(天平勝宝6) 鑑真和上の高弟
智威大徳が隠棲
応仁の乱で焼失
1615年(元和元) 再興
大野原神社に向かい合う形の正法寺。境内の庭は、白砂の上に獅子や亀をかたどった岩が並ぶ明るく開けた庭園。庭から遠く京都の市街地も遠望できる。
動物に見立てた17個の石は、全国から集められた名石だそうで、「鳥獣の石庭」と呼ぶそうだ。