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TOM'S Slow Life

奈良を巡る

室生・初瀬・桜井

時々、名古屋まで出かけるときに近鉄を使って、名古屋まで行った事がある。新幹線に比べ倍以上の時間がかかるが、如何にも旅をしているという気分になる。関西でのというより日本で最長の鉄道路線を持つ近鉄だが、大阪(難波)から奈良盆地の南を走り、八木・桜井を経由し、三重の名張から名古屋に向かう本線である。新幹線は、大阪から京都・名古屋とほぼ直線的な移動に対し、近鉄は、U字型の移動という感じになり、時間がかかるのも肯ける。そんな近鉄で、桜井駅を過ぎると、山合いを走るようになり、やがて、電話がつながらない地区になると車内アナウンスにやや意外な感を持つ。桜井を過ぎると、長谷寺の駅、榛原、そして室生口大野駅を越えるとトンネルがあり、三重県に入る。榛原は、古くから大和・伊賀・奥宇陀・吉野を結ぶ街道が交わる交通の要衝であった。壬申の乱で、後の天武天皇・大海人皇子が、吉野から逃れ伊賀へ向かった時も榛原を通っている。古代の飛鳥時代では、東国との交流は、伊賀を経由していたであろうから重要な街道筋であったと思われる。今では、交通の幹線が変わってしまった為、そんな往時を思うすべもない。
何時もは、特急で通過してしまう三重との県境地帯だが、有名な室生寺や長谷寺といった古刹がある。そんな古刹を訪ねたのは、2回程で、桜の4月と、牡丹の咲く5月初旬であった。

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室生寺 (むろうじ)
室生川

近鉄「室生口大野駅」のフォームは、高台にある。階段を降りるとバス停のある広場があり、そこからバスで室生寺に向かう。後で、東海自然歩道で室生寺まで行ける事を知った。女人高野と云われる「室生寺」には、多くの悩める女人が詣でた事であろう。そんな人々は、遠く江戸や京からここまで歩いてきたであろうし、そんな強い思いを伺い知るにも、せめて駅から歩いて見るのも良かったかもしれないと改めて思う。
桜の時期、駅からしばらく歩くと、枝垂れ桜で有名な「大野寺」に立ち寄り、そこから再びバスで室生寺に向かう。バスは、高度を上げつつ山あいの道を進んでいくと、やがて室生川の流れで開けた地に出る。
太古の昔、火山活動によって形成されたという室生山一帯は、ここを霊山とする山岳信仰の聖地であったという。寺伝によれば、天武10年(681)、天武天皇の御願により、役ノ小角が創立し、後の平安朝になり空海が入山し、真言密教の道場となったという。更に、奈良朝末期に、皇太子山部親王(桓武天皇)の病気平癒の祈願が5人の僧によって行われ、室生寺が創建されたとも云う。

上の橋と表門 仁王門

行楽シーズンでは、バスは室生寺前よりもかなり手前が終点となる。そこから室生川を見ながら、室生寺に向かう事になる。やがて、門前の店が見えてくる。この辺りは、山深いといっても開けていて、春の陽光が広がり、明るい。茶店や土産物店などが並ぶが、喧騒的な感じではないのが好感が持てる。
橋の袂に写真家・土門拳が宿泊していたという旅館・橋本屋がある。土門拳が讃えたのが、室生寺の釈迦如来像。
朱色の欄干の太鼓橋を渡ると、室生寺の表門、そして深い杉木立の山が迫ってくる。石柱には、「女人高野室生寺」の文字。
拝観受付を通ると、仁王門がそびえたつ。

五重塔

総高16.1mと屋外に建つ五重塔では最小と言われるが、そんな話を聞かなければ、見上げるような高さと感じてしまう。塔の建立は、平安時代初頭と云われているが、天平時代との見解もあるようだ。
この五重塔は、平成10年9月の台風による倒木によって大きな被害を受けたが、多くの人の善意が集まり、平成12年10月には修復完成した。この台風被害後、室生寺五重塔再建支援という名目で、大阪市内のデパートで室生寺展が開かれ、その観覧をしたことを思い出す。この台風被害による復興で、屋根の桧皮修理にて、創建当初より縁の張り方などが変わっていた事が新たに発見されたというTV放送があったが、実際に目の前にした五重塔は、女人高野というにふさわしい優美さを感じた。

高野山にしろ比叡山などの聖地は、明治初期まで「女人禁制」であった。そんな時代にあって、女性を受け入れてきた寺院の一つが室生寺であり、救いを求める女人の聖地として。何時の日からか「女人高野」と呼ばれてきたが、この室生寺の堂宇復興に尽力したのが、徳川綱吉の母・桂昌院であり、更に幅広い女性への門戸を開いたといえるかもしれない。江戸時代といえば、伊勢神宮参りが一つのブームでもあり、伊勢からここ室生寺まで足を延ばした女性も多かったのかもしれない。
仁王門をくぐると、急な石段がせまり、金堂や灌頂堂、そして五重塔まで続く。新緑に囲まれた石段を一気に上り、五重塔が姿を現すと、足取りも軽くなる。
それにしても、この室生寺では、何処の古刹でも聞く戦火の話を聞かない。地理的要因もあるかもしれないが、如何にも女人高野らしさを感じさせてくれる。

灌頂堂(本堂)・金堂・弥勒堂

灌頂堂 金堂 弥勒堂

室生寺には多くの仏像が安置されているが、これらの仏像を身近にゆっくりと拝顔し、拝めるのは有難い。如何にも大事という感じで、遠くから拝む寺院が多いが、室生寺では、近くのお寺のような感覚で、拝む事が出来る。
五重塔から下りると灌頂堂(本堂)があり、鎌倉時代・延慶元年(1308)の創建。更に下ると、左手に金堂の屋根。平安時代初期の創建で、江戸時代に一部補修されたという。右手は。弥勒堂、鎌倉時代創建。何れの堂宇もそんな歴史を感じさせない静かな佇まいである。

灌頂堂は、真言密教の最も大切な法儀である灌頂を行うお堂。
金堂の内陣中央には、一木造りの本尊・釈迦如来立像、右側に薬師如来像、地蔵菩薩像、左側に文殊菩薩像、十一面観音菩薩像か並び、その前に運慶作と伝えられる十二神将像が一列に並んでいる。
弥勒堂の内部には、厨子入り弥勒菩薩立像、脇壇には、土門拳が「日本一の美男子の仏像」と讃えた釈迦如来像が安置されている。

室生寺の桜

山内の桜
赤門そばの枝垂れ桜
表門と桜 橋と桜
大野寺 (おおのじ)

決して広くない境内の2本の枝垂桜が見事である。桜の時期、境内は多くのカメラマンで賑っている。皆、それぞれのシャッターチャンスを待っているようだ。この大野寺は、役行者が開創し、空海が建立したと伝わる古刹で、室生寺創建と似た伝承が残る。
前を流れる宇陀川の対岸には、岸壁に刻まれた弥勒磨崖仏が有名だが、かなり風化が進んでいる。

長谷寺 (はせでら)
石楠花の花
麓から長谷寺を臨む

近鉄長谷寺の駅から遠く、長谷寺方向が伺える。長谷寺駅といから、駅に近いのかと思うとそうでもない。
この辺りの地名は、初瀬(はせ)といい、お寺は長谷寺にした。元々は、「泊瀬」と書かれていたらしく、飛鳥時代よりも古い時代の大和王権の中心地であったという。この地に建つ長谷寺も創建については、諸説があるらしいが、寺伝によれば、朱鳥元年(686)、天武天皇の勅願によって、興福寺の僧が「銅版法華説相図」を西の岡(現在の五重塔近く)に安置し、その後聖武天皇の勅によって徳道上人が神亀4年(727)、東の岡(今の本堂)に十一面観音立像を祀り、平安時代には、観音霊場として官寺に準じる寺とされていた。
平安時代には、長谷寺は近江の石山寺と並んで、貴族や女性達が参詣し、紫式部「源氏物語」清少納言「枕草子」、菅原孝標女「更級日記」、藤原道綱母「蜻蛉日記」などに参詣の様子が書かれているのは有名。京から3日はかかるという長谷寺に、何を求めてきたのであろうか。現世の利益、特に出世開運の祈願が多かったともいうし、更には、遠く中国・唐時代の皇妃・馬頭夫人が、遠い日本の長谷観音に向かって祈祷したところ素晴らしい美人になったという逸話など、京都の清水寺同様、観音さんのご利益の話が多い。この馬頭夫人にも後日談として、お礼として牡丹を奉納したのが、現在の牡丹園の始まりという。

仁王門への石段 登廊

現在の長谷寺は、全国に末寺3000余の真言宗豊山派総本山であり、又西国三十三観音霊場の第十八番札所でもある。豊山派は、根来寺を総本山とした新義派の流れを組むものであるが、参詣に訪れる人々、或は観音のご利益を求める人にとってはそんな宗派は関係ないであろう。
時節柄、大勢の参拝客が、参道を埋め尽くしているような賑わいで、門前の見せ店々も活気を呈している。やはり、三輪そーめんや吉野葛といった地場の名産を扱うお店が多い。やがて、参道を上っていくと、仁王門が見えてくる。桜が出迎えてくれる。現在の仁王門は、明治18年の再建。そして、本堂に向かうべく、登廊を更に上る。百八間、399段あるという。登廊の左右には、桜・牡丹が咲き誇っていた。

本堂を望む
五重塔
本尊十一面観音像

本堂は、慶安3年(1650)徳川家光の寄進により再建されたもので、京都の清水寺と同じ様に正面が舞台構造となっている。
本尊の十一面観音像は、天文6年(1538)に仏師東大寺良覚の作と伝えられ、丈約10m余、光背約12m余と我が国最大級の木造仏である。東大寺の大仏が約15mだから、その大きさには驚く。まさしく見上げる感じとなる。この十一面観音像は、左手に宝瓶を持ち、右手に地蔵のような錫杖と念珠を持つ独特の姿で、観音と地蔵が合体したものであり、これによってご利益倍増という事かも知れない。

登廊を上って行く時、左右の牡丹園の牡丹が眼を休ませてくれる。そして、桜の花々が、広い境内に咲き誇る姿も美しい。

聖林寺 (しょうりんじ)

長谷寺からの戻り、桜井駅で降り、聖林寺に立ち寄った。駅から結構派なれているので、バスを使おうとしたが、本数が少ない。待つ事にしたが、バスで約10分程度の高台に建つ小さなお寺。聖林寺を有名にしているのが、天平時代に造られたという十一面観音立像であり、国宝に指定されている。ここまで訪れる人が少ないのか、時間が遅くなっていたせいか、参拝客は少なかった。
十一面観音立像は、観音堂に納められ、2mを越える大きさに、長谷寺とは違った圧倒さを感じた。非常に優美な姿で、涼しげな眼元から優しく包み込んでくれるような感覚になる。
奈良でもはずれに近いお寺にこのような仏像が静に安置されているとは、さすがに奈良と改めて感じた一時であった。

安部文殊院 (あべもんじゅいん

聖林寺からの戻り、バスの時間に充分程の時間もあることから、歩いて、安部文殊院に向かう事にした。のどかな田園風景と住宅地がMIXしあような感じの中、小高い岡と思われる古墳が見えてきた。メスリ山古墳といい、発堀調査で、古代大和政権の大王の墓と見られているそうだ。目指す、安部文殊院は、大化の改新で左大臣となった安部倉梯麻呂が一族の寺として建立したものが始まりで、「安部の文殊」さんとして親しまれている。この日、訪れたのが遅くなり、本堂内の拝観が出来なかったが、庭の庭園を眺め、後にした。

浮御堂
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