奈良を巡る
大和川に流れ込む龍田川沿いの里である斑鳩。古来より、紅葉で有名な龍田川には、在原業平の有名な歌が「ちはやふる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」であるが、龍田川沿いに歩いたのは4月の桜の時期であった。学生時代の修学旅行で訪れた法隆寺を目指したのだが、今や万葉時代の面影など求めるのは酷というものであろう。その後、再び法隆寺を訪れたのが五月と何れも春から初夏であり、今思うと晩秋の時期に訪れれば、良かったと思う。
斑鳩という地名は、黒と灰色のまだらな模様をした鳥「イカル」が多く棲むところからきたという。「イカル」という鳥を見た事がないが、今でも棲息しているのだろうか。この斑鳩の地は、大和川を使っての水路、さらに生駒山を越える龍田越えと難波や河内へも近い交通の要所であった。そんな地は、古代から物部氏、平群氏、膳氏らが勢力をはったところであった。そして、聖徳太子(本来は、厩戸皇子とすべきだが、ここでは聖徳太子と記述)一家の斑鳩の宮があり、聖徳太子が、政務を司っていた頃には、又違った賑わいを見せていたのかも知れない。聖徳太子と言えば、仏教の普及、12条の憲法や冠位12階、更に遣隋使の派遣といった事が有名だが、これら全てが聖徳太子一人が進めたものではなく、時の権力者であり、血筋に当たる蘇我馬子共々推進してきたものと思われるが、後に蘇我氏が反逆者として位置づけされた事、及び太子信仰の高まりの中で、このような逸話として伝えられてきたものであろう。聖徳太子は、父・用命天皇と母・を持ち、蘇我馬子の娘・刀自古郎女を娶い、蘇我一族とは親密な関係にあった。尚、母の穴穂部間人皇女は、丹後の出身といわれ、今でもその地を間人(たいざ)と呼ばれ、そこでのカニが有名で、同じ松葉カニの種類である越前カニに比べてその上位にランク付けされている。一度賞味してみたいと思ったが、ついに果たせずにきてしまった。
仏教の伝来は、欽明天皇のときに百済から伝えられたが、年代については、宣化3年(538)と欽明13年(552)の二つの説があるという。仏教の扱いで、倭王権にとって大きな対立を生み、廃仏派の代表が物部氏であり、崇仏派の代表が蘇我氏であった。蘇我氏が崇仏派であったのも蘇我氏が、渡来系氏族と密接な関係を持っていたからとも云われている。この両派が、徹底的に対立したのが用明天皇の世で、用明2年(587)には武力対決となり、蘇我馬子が物部守屋等の廃仏派を打ち破った。その結果で造られたのが、摂津の四天王寺、飛鳥の飛鳥寺(法興寺)と云われているが、四天王寺の創建については、歴史学的には否定されている。こうして、倭王権にとって、統治手段としての仏教が採りいれられ、高句麗や百済から僧が渡来し、蘇我氏や聖徳太子などが帰依していったという。特に、聖徳太子は、推古3年(595)に渡来した高句麗僧・恵慈を師として、仏教への信仰を高めていったという。そんな仏教の世界から、12条憲法の理念になったとも云われるが、現実の世界は、用明天皇が死後、即位した崇峻天皇も蘇我馬子によって殺されてしまうという大事件が、崇峻5年(592)に起り、初の女帝としての推古天皇が誕生した。推古天皇の時代、実際の政務を司ったのが、聖徳太子と蘇我馬子であった。そして、この間に前述した、12条憲法や冠位12階などの体制構築が進められていった。特に、遣隋使の派遣は、倭という国のあり方について大きく影響が与えられ、後の律令国家への足がかりとなった。こうして、国としての整備を進めていくなか、推古30年(622)に聖徳太子、推古34年(626)には蘇我馬子が没し、更に翌々年には、推古天皇が亡くなり、新たな幕を開け、やがて蘇我一族が滅亡する。聖徳太子は、晩年「世間虚空、唯仏是真」と云ったと伝えられるが、政情の複雑の中、聖徳太子が掲げた理念が思うように進められないらだちの中、仏のみに真理があるという心境が分かるような気がする。そんな所に、聖人と言われる聖徳太子の人間味を感じてしまう。歴史上の事実はどうあれ、やはり「和を以って貴しとし、さからうことなきを宗とせよ」という一条の条文が、仏の前では人皆平等という精神に通じているという解釈で理解したいものだ。
画像は、クリイクして拡大できます。
中学・高校の修学旅行には、必ずと云って良いほど法隆寺を見学したが、その印象が残っていない。おおよそ40年ぶりという法隆寺を訪れた第一印象は、大きな寺院だと感じた。最初は、王子駅から大和川、竜田川に沿いに訪れ、2度目は、法隆寺駅からシャトルバスで訪れた。世界最古の木像建築として、七世紀はじめに大阪・四天王寺と共に聖徳太子によって創建されたという法隆寺だが、現在の伽藍は、再建されたものというのが学説として定まっている。再建当初の姿を残しているのが、金堂、五重塔、中門、回廊。それ以外の大講堂、南大門などは、平安時代、鎌倉時代に建立された。南大門前には、数百メートルの参道が続き、松並木で覆われている。松並木の参道というのはあまり覚えがない。参道の両脇は、土産物や飲食の店が軒を並べている。
南大門前に小さな茶店があったが、最近、強制撤去されたというニュースを見た。法律的には、法隆寺の敷地だったのか、県の敷地だったのか覚えていないが、壊されていく建物を見ている悲しそうな店主の顔が印象的であった。聖徳太子の説く「和」とは反する光景が、何とも皮肉に感じた。南大門をくぐり、砂利道の先に中門と回廊が見える。そういえば、修学旅行のとき、中門の柱が丸みをおびていることから、これはギリシャ文明の影響を受けたものという説明を受けた事を突然思い出した。
回廊の中に入り、西院伽藍の中に入る。伽藍は、法隆寺独特の構成で、五重塔と金堂が並行に建てられ、その先に大講堂がある。金堂内部の薄暗いなか、金銅釈迦三尊像が本尊として祀られているほか、聖徳太子の父・用明天皇のために造られた金銅薬師如来像、母・穴穂部間人皇后の為に造られた金銅阿弥陀如来坐像などが祀られ、荘厳な雰囲気を作り出している。本尊の釈迦三尊像は、飛鳥時代の作ということもあるのだろう、どことなく異国風の顔立ちという印象を受ける。作が止利仏師と伝わる。北魏の技術にたけていたというから、後世の仏像とは違った印象になるのは当然であろう。壁画は、昭和24年に焼失してしまっているので、今は再現壁画であるが、往時を偲ばせる事ができる。眼を転ずれば、高さ31.5mの五重塔がそびえたつ。飛鳥時代、この斑鳩の里にそびえたつ五重塔が、いかに威容であったかと思わせる。
回廊を出ると、鏡池があり、その前に聖霊院がある。その脇道に入っていくと、大宝蔵院があり、法隆寺の持つ数々の寺宝が保管・展示されている。院の北側には、有名な百済観音像が安置され、その優美ですらっとした姿が実に印象深い。その他、夢違観音、玉虫厨子などを始めとした宝物がある。飛鳥時代から江戸時代にかけての多くの遺産であり、法隆寺の歩みを知ることができる。
東大門から東院伽藍に向かう。有名な夢殿があり、かっての斑鳩宮の跡地であったという。この跡地に行信僧都が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍であり、その中心となる建物が夢殿。本尊は、秘仏の救世観音。この救世観音が、聖徳太子の化身であるという説から、太子信仰が広がっていった。特に、親鸞は、聖徳太子を讃えたことから、真宗寺院には聖徳太子像などが多く伝わっているという。
かっては、唯識などの仏教学問の場であった法隆寺も、今は、聖徳宗総本山という独自の宗派で、聖徳太子の教えを伝えている。
聖徳太子が目指した社会が、1400年たっても実現できていない、むしろより複雑になってしまった人と人の絡み合い。どんな思いで、この世をみているのであろうか。
中宮寺から北に向かって歩を進めると、田園風景が広がる。溜池であろう池も散在している。約30分の道程で法輪寺に着く。創建は、聖徳太子の皇子・山背大兄王と伝えられ、法隆寺の西伽藍の2/3の大きさであったという。しかし、江戸時代の正保2年(1645)の台風で殆どの建屋が倒壊し、一部復興されたものの昭和19年、三重塔が雷により焼失したが、昭和50年に三重塔が復興された。創建した山背大兄王も、皇極2年(6439に蘇我入鹿の兵によって攻められ、一族共に自害するという悲劇が起る。この悲劇が、そのまま法輪寺にも時をえて襲ってしまったようだ。
今では、静かな境内で、訪れる人も法隆寺に比べものにならないくらいであるが、周囲の田園風景に溶け込んでしまったような雰囲気が残っている。
法起寺は、聖徳太子が法華経を講説した岡本宮を寺としたもので、聖徳太子建立の七ケ寺の一つであった。現在も残る三重塔は、慶雲3年(706)に創建された国内最古の三重塔である。奈良時代には栄えていたが、その後衰退、江戸時代の初め頃は、三重塔のみ残すというさびれようであったという。その後、再建され現在の姿になったというが、寺域はけっして大きいものではない。創建当初の伽藍配置は、法隆寺と逆で東に塔、西に金堂を配していた法起寺伽藍と呼ばれているとのこと。
寺域内の小さな池から三重塔を眺める。
法起寺のそばを立派な県道が通っている。その道沿いにイチゴ販売をしている所があった。季節はやや遅めだが、少しほおばりつつ、法隆寺方向へ戻った。そんな、のどやかな光景が合う所だ。
かっての政争の地となった斑鳩だが、今では、かっての日本の風景を残す地になっているように思える。
奈良出身の陶芸家である富元憲吉の生家を修復しての記念館が、JR法隆寺駅からバスで約10分の所にある。妻が陶芸をしている事もあり、立ち寄ってみた。色絵磁器の重要無形文化財に昭和30年に登録された、昭和36年には文化勲章を受章した。