奈良を巡る
奈良といえば東大寺というくらい有名であり、誰でもが修学旅行で訪れた事があるだろう。しかし、今の東大寺は、江戸時代の再建であり、創建当初に比べ2/3位になっていると聞くと、天平の時代に創建された東大寺が如何に大きなものであり、国家の威信をかけていたものか容易に想像がつく。聖武天皇の命により大仏建立の宣言が、紫香楽の地であり、それが天平15年(743)であった。その大仏建立に当たり、「一枝の草、一把の土」でも自発的に協力する者を全てを受け入れるとした。そして、この大仏建立という大事業を進めっていったのが、民衆の力の代表と云われる行基とその集団であり、東大寺の初代別当となった良弁であった。更に、国家組織としての造東大寺司が任命されたのが、天平20年(748)の事であった。そして、天平勝宝4年(752)に大仏開眼が行われ。しかし、この時期には、未だ大仏が未完成であったが、聖武天皇の病状悪化があり、そのために開眼供養会が急がれ、4月9日盛大に行われたという。大仏造立は、その後も続けられ、天平勝宝8年(756)の聖武太上天皇が死去する頃まで続けられ、最終的には、翌年の聖武天皇の一周忌に完成が図られたという。詔が発せられてから、14年という永い歳月をかけて完成した東大寺だったが、その後、源平争乱期の治承4年(1180)に、平重衡の南都焼き討ちによって殆どが焼失してしまった。辛うじて残ったのが、正倉院と転害門などであった。大仏も首と手が落ちたが、俊乗房重源の勧進によって復元がなされ、源頼朝の伽藍復興支援もあり、復興がなされた。しかし、永禄10年(1567)の三好・松永両氏の争いによって再び兵火にあい、今度は首や手はおろか胴体も半分が崩れ落ちた。その後、江戸時代に入り、公慶の勧進によって復原されたのが元禄5年(1692)であり、宝永5年(1708)には大仏殿も再建された。
大仏の造立に執念を見せた聖武天皇の天平時代前半は、律令制度による国家運営が軌道に乗っていたという。しかし、長屋王の変による藤原四兄弟の台頭も、全国に流行った天然痘 により四兄弟共死亡するという異常事態や藤原広嗣による乱により、政情不安定になっていく。この乱が直接原因かどうか不明だが、天平12年(740)東国巡幸を始め、まず天平13年(741)に、恭仁京(今の京都・加茂町)を都と定めた。この東国巡幸のルートが、壬申の乱の時の大海皇子(天武天皇)のルートに似ているのが興味深い。又、この時期仏教による国家鎮護・律令体制を強くする事も目的であったのであろ国分寺と国分尼寺の造営を詔として発している。これには、后の光明子の働きかけもあったと伝えられる。更に、紫香楽離宮(滋賀県・信楽)の造営も進めるという状態であったが、天平16年(744)に難波宮に行幸し、遷都を図るも聖武天皇自身は、紫香楽宮に戻り、甲賀宮と改称し新京としたものの、結局天平17年(745)に平城京に戻る。平城京を離れその間、恭仁や紫香楽、難波と次々と宮を転々とした真意、それでいながら、国分寺・国分尼寺(国分寺には、「金光明最勝王経」を、国分尼寺には、「妙法蓮華経」の一部を置いたと云われている)、そして大仏造立の詔を発するなど、どのような背景があったのか興味深い所がある。しかし、こうした行動は、国家財政には大きな負担を強いたのではないだろうか。
普通に奈良の大仏と云っているが、正式には盧遮那如来と云われる仏であり、仏の教えが、宇宙全体に行き渡り、その心が太陽の光のように輝くと云われている。盧遮那仏を本尊とした東大寺は、華厳宗であるが、華厳経を中心とした教えであり、華厳とは、金剛ともいい固いものを指している。宇宙の真理を表す確実な教えを説くという。鎌倉仏教とは違った奈良仏教の特徴を表している。
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東大寺の正面入り口となる南大門に続く参道は、何時も修学旅行生徒の賑やかな声が響き、鹿煎餅を与えてのキーの高い声を耳にする。参道の右(東)側には、若草山に続く奈良公園が広がっている。
幸い、南大門は、戦国の戦乱での焼失をまぬがれ、今に残ったおかげで、鎌倉時代の面影を観る事ができる。大仏殿上棟後の正治元年(1199)に上棟されたもので、屋根は二重だが、二階建てではないという。一本の柱が上の屋根まで伸びていて、上下の屋根の軒先を支えている。この柱は、直径約1m、長さは約19mあるという。この南大門の東西に立つ巨大な仁王像が、象徴的である。この仁王像は、建仁3年(1203)7月14日からわずか69日間で造立されたといわれ、その短さは驚異的とも思える。この像は、運慶や快慶らの集団で行われといい、細かな部材を含めると吽形像3115点、阿形像で2987点に及ぶもので造形されている。今流で云えば、如何に優れたプロジェクト管理がなされていたかを思うと、その技術力もさることながらそれ以上の管理能力には驚きの一語につきてしまう。
世界最大の木造建築ということが実感できる大仏殿は、高さ46.4m、間口57m、奥行約50.5mという大きさであるが、創建当時と比較して、高さ・奥行はほぼ同じだが、間口が現状に対し、約1.5倍の長さの85.8mあったというから驚きだ。そんな大きな建屋が、天平という時代に造られたというのが、信じられない位である。
大仏殿前の八角灯篭に刻まれた彫刻が、天平の面影を残す天女達の舞が艶やかである。
大仏殿内の中央の基壇に鎮座する盧遮那仏は、基壇の周囲70m、座高15m、顔が4.8m、掌は3m、中指の長さだけでも1.3mあり、頭部の螺髪一つが普通の人間の頭より大きいという世界最大の金銅仏である。盧遮那仏造立で重要なのが金であったが、陸奥国より金産出の報があったのが、天平21年(749)の事であり、その報に聖武天皇が大変喜び、元号を天平感宝と改元したというほどであった。金が貴重なものとして扱われた要因として「さびない」という特質からと云われている。この金を鍍金には、水銀が必要ということであり、このため、所謂水俣病という公害病を患った職人が数多くいたのではないだろうか。こうした事実は、公式の記録には残っていないが、記録に残っていない数多くの人々がいたからこそ、この大仏が完成したものであることを強く感じる。苦難の末完成した大仏も、二度の戦火で焼失し、現在の姿の大部分は江戸時代の再建となったものだが、天平時代に造立されたから再興できたものであり、もし、0から造るとなったら同じものが出来ただろうか。豊臣秀吉が、京都に方向寺に高さ19mの大仏を造立したというが、それも大地震で壊れたという。この奈良の大仏は、そんな自然災害にもめげず残ってきた。天平時代の技術が如何に優れていたものかという証明でもあるかもしれない。
大仏殿の東の丘にある入母屋造本瓦葺きの建物で、通称「奈良太郎」といわれる梵鐘が吊るされている。この梵鐘は、大仏開眼供養の時に初めて鳴らされたという古いもので、高さ3.9m、直径2.7m、重さ26.3tもあるというから、圧倒される。
堂内の柱の一本に、大仏の鼻の穴と同じ大きさといわれる四角くくり貫かれた穴があり、無事くぐり抜けれれば、健康祈願などが成就できるといわれ、多くの老若男女が群がっている姿は、盧遮那仏という宇宙の絶対真理仏の横で、如何にも庶民的な信仰が共存しているようで微笑ましい光景である。
天平勝宝6年(754)、中国における戒律の第一人者である鑑真和上によって、東大寺の前で聖武天皇、光明皇后わ始め400人以上が受戒したのを受け、その翌年、受戒を行う戒壇院が造営された。その後、何度かの火災により、現在の建物は、享保17年(1732)に再建されたものである。創建当初は、大きな伽藍で成り立っていたというが、今は、戒壇院のみとなっている。しかし、その堂宇内には、多宝塔を中心に、四隅の四天王像が異彩をはなっている。この四天王は、元々東大寺中門堂から移されたという。持國天、増長天、廣目天、そして多聞天であり、多くの寺院で観る事ができるが、ここ戒壇院の四天王には、身にまとう甲冑など中央アジアの様式を残しているということから、遠い奈良・天平時代の国際交流を物語る一つといえよう。東大寺の大仏殿に比べれば、訪れる人も少ないが、一見の価値があるだろう。
法華堂(三月堂)は、東大寺大仏殿の東の丘に位置し、最古の建物と云われている。その創建には諸説あるとの事だが、天平12年(740)から天平勝宝元年(749)というのが有力である。この法華堂や二月堂周辺は、聖武天皇の皇子基親王の菩提を弔うために建てられた金鐘寺があり、それがやがて大和国国分寺となり、さらに東大寺と発展した経緯がある由緒あるお堂でもある。この、法華堂は、奈良時代の建屋である正堂、鎌倉時代に再建された礼堂の二つの建屋が繋がっているという構造になっている。堂宇の内部に入ると、数々の仏像が立ち並び、その状況には、圧倒されてしまうものがある。ただただ正面に座視し、静に仏の前で、心静にしているだけとなる。中央は、本尊の不空羂索観音像が安置され、その左右に日光・月光菩薩、周囲を四天王像や梵天や帝釈天、金剛力士像と所狭しと威厳をしめしている。修学旅行生の一団も時々入ってくるが、さすがにこれら仏の前では、静にしているのが何ともいえない。不空羂索観音は、すべての人を救いとる羂索(縄)を持ち、頭上に宝冠を載せているものだが、この宝冠が豪華なもので、金鍍金がなされた銀製に、翡翠、琥珀、真珠、ガラス小玉など2万数千個に及ぶ様々な宝玉で装飾されている。一度、東大寺展で展示されたことがあり、身近にこの宝冠を見たことがあった。こうした見事な宝玉が、奈良の時代に作られたのだから、大仏殿のような大きな建物だけでない細工技術も高いものを持っていたのであろうし、中国や朝鮮半島から帰化した職人集団が活躍しただろうことは、想像がつく。
お水取りで有名な二月堂は、小高い丘にある。その造りは、清水寺と同じように懸造りとなっていて、急斜面の上に舞台を作っている。この舞台の上から、大仏殿を身近に見、奈良町を見下す事ができる。二月堂の創建は、天平勝宝4年(752)と伝えられるから、大仏開眼が行われた年に当たる。現存の堂宇は、寛文9年(1669)に再建されたものだ。創建時、この二月堂の舞台から眺めた光景は、どんなものであったろうか。特に、西に向いていることもあり、夕陽の頃に立てば、日の沈む様を堪能出来たに違いない。こんなところからも西方浄土という概念に繋がるものかもしれない。
二月堂への階段を上った所に大国様を祀った小さなお堂がある。そこで、お茶を一服できるのも、何故か心休まるものがある。
二月堂のお水取り(正式には、修二会)は、毎年3月1日から14日まで行われるもので、創建以来一度も途絶えた事がなく、延々と1200年以上変わらず続けられているというから驚きである。このお水取が終わって関西にも春が来るという季節感があふれる行だが、一度だけ見学した事がある。2週間に渡っておこなわれるので、空いている平日に行く事にしたが、始まる30分前にでも行けば良いと思っていたが、間違いであった。既に、二月堂前は、人々の群れでとても近づけない。結局、法華堂近くで見る事になった。幸い、その日の寒さは和らいでいたので、始まるまでの時間、寒さに震えるという事もなかった。そして紙衣と袈裟に身を包んだ練行僧が本堂に駆け上って、籠松明ををかついで大きく振り回しながら回廊を駆け回る様は、正に壮観の一語であった。
修二会とは、二月堂の本尊十一面観音に罪過を懺悔し、国家安泰を祈願するものだが、二月堂を創建した実忠和上が始めたと伝わっているが、戦争中であろうと続けられていたという事だから、その強固な伝統には敬服してしまう。この行法に参加する11名の練行僧は、前年の晦月の良弁の忌日に発表され、修二会の始まる前月の2月20日から共同生活による修行が始まる。このとき、行法で着る紙衣なども自分達で作る。この模様が、かってTVで放映された事があったが、画面を通して厳しさが感じられたものだ。そして、行法が始まるが、その中で神明帳や過去帳が読み上げられるといのが面白い。神明帳には、国内の四百九十箇所の明神と一万四千余の諸神の御名を朗誦し、過去帳では、天平以来から現在までの有縁深い人々の名を読み上げるという。有縁ということで、空海は出てくるが、最澄は出てこないとか、平清盛は出てこないが、源頼朝は出てくるという過去帳、なるほど東大寺の有縁であることが分かる。行法が続き、堂内の内陣を走りと韃靼との特異な所作がある。中国・韃靼に関係するかと思ったが、どうやらダダッという足音の擬音化からきているようだ。そして、練行僧が、二月堂の回廊を松明をかざして廻っていくことで、クライマックスを迎える。
そうして、13日の早暁には、本堂の下にある若狭井から香水を汲み、本尊に供える。この若狭井は、遠く若狭の国と繋がっているという伝承があり、今でも若狭の国でも修二会に関連した行事が行われている。奈良と若狭が何故繋がるのか、興味深い所がであるが、一説によれば、天平時代の若狭は、対外貿易の窓口であったという。そんな関係から、大和と若狭は深く結びついたとも云われている。
修二会(お水取り)一つとっても、汲めどもつきね水のような不思議さを感じてしまう。
依水園は、東大寺の南西側に位置する回遊式庭園で、その庭から東大寺南大門などが借景となっている。この庭園は、江戸時代、奈良晒で財をなした豪商・清須美家の庭園があったもので、前庭・後庭に別れ、随所に茶室と池が配されている。隣接して、美術館もあり、朝鮮青磁・白磁などの美術品が展示されている。
天平の頃より、氷が重宝されていて、その氷の貯蔵している所を氷室と呼ぶ。その氷室が若草山の麓にあり、そこに鎮座していたものが、平安時代初期に移されたという。奈良国立博物館前にひっそりと佇んでいる。