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TOM'S Slow Life

奈良を巡る

鑑真和上と唐招提寺

奈良天平時代の中で、鑑真和上は興味ある人である。それは、かって井上靖著の「天平の甍」を読んだ事も影響しているかもしれない。以来、同著の西域物も結構楽しく読み、一時期はシルクロードに憧れ、一度は訪ねてみたいと思っていたが、結局果たせずに来ている。そんなシルクロードへの憧れの一歩が、鑑真和上であった。日本の遣唐留学僧であった普照・栄叡により、仏教の戒律伝導師を求め、鑑真和上に会い、伝戒の師の推薦を乞うたのが、天平14年(742)の事であったという。そして、弟子からの申し出も無いことから鑑真和上自ら日本への渡来を決意するが、その頃の唐では、時の政府認可がなければ外国へ行く事が許されなかった。しかし、高僧である鑑真和上の渡航は許可される事もなかったが、それでも決意がひるまず、日本に渡る意思を変えなかった。以来、五度計画し、五度失敗するという苦難のなか、その間、自ら失明するほか、栄叡や愛弟子の祥彦の他界などの不幸も重なる。それでも、鑑真和上は、日本への渡日をあきらめない。この執念は、何処から来るのだろうか。当時の渡日は、シナ海を渡る危険なものであり、そんな渡航に命をかけ続けた鑑真和上という人のすごさを思い知る。並みの人では、到底同じことが出来ない。仏教新国であった大和の国に対する戒律を伝えるという強い使命感があったのであろう。そして六度目に成功し、奈良の都に入ったのが、天平勝宝6年(754)の事であった。実に、12年という歳月を得て、日本に渡った事になる。日本に着いた鑑真和上は、聖武太上天皇、孝謙天皇をはじめとする四百四十人あまりを、東大寺で受戒し、天平宝字年(759)に、律を研究する為に、唐招提寺が創建された。今では、跡でしかないが、金堂の西に大きな石壇が、戒壇である。戒壇のお堂は、嘉永元年(1848)に、盗人の放火により焼失している。後に、下野の薬師寺と筑紫の観世音寺にも戒壇が設けられ、唐招提寺を含め、「天下の三戒壇」と呼ばれている。
鑑真和上は、天平宝字7年(763)5月6日に亡くなったが、鑑真の弟子の一人忍基が、夢により師の最後が迫っていると悟り、鑑真像が作られたという鑑真和上坐像、一度是非拝見したいと思っていた。初めてこの像を拝顔できたのは、平成11年(1999)4月であった。本来は、開山忌である6月6日を中心に公開されているが、この時は、鑑真和上の里帰り20周年記念の特別展が開催されていたものであった。しかし、この日は、雨が降る雲が垂れ込んだ日であった。そんな事もあり、御影堂の中も薄暗く、鑑真和上坐像をハッキリと拝顔できなかった。その後、中々訪れる事が出来なかったが、平成16年(2004)6月、開山忌に訪れ、拝顔させてもらった。実に優しいお顔であり、誰をも抱え込んでしまうような感じというのが印象であった。その顔からは、幾多の困難を克服してきた人には見えない。そして、東山魁夷画伯の襖絵もゆっくりと見学する事が出来たが、金堂の平成大修理が行われていて、金堂は、解体されてしまっていたが、金堂から持ち出された盧舎那仏坐像や千手観音立像が、修理所に持ち込まれていた。その際、光背や脇手などが解体され運ばれ、それらが、修理所に整然と安置され、調査されているところも見学できたのは、幸いであった。この金堂解体修理が終わるのが、平成21年(2009)8月予定であり、改めて訪れたいと思っている。

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戒壇 鐘楼
御影堂
講堂 講堂前から礼堂東室 経蔵

始めて訪れた時には、その優美な姿を表していた金堂も、解体修理されていて、その姿はない。
唐招提寺は、平城京での「右京五条二坊」に位置し、元々新田部親王の邸宅跡だった。新田部親王は、天武天皇の第七皇子で、母は藤原鎌足の娘の五百重娘で、政界の中心人物であったようですが、二人の子、道祖王と塩焼王は、「橘奈良麻呂の変」などに巻き込まれ、邸宅が没収されたもので、その地が鑑真に譲り渡された。
金堂の北側に、講堂がある。この講堂は、平城京の「東朝集殿」と呼ばれる建物を移築したもので、高位高官の役人が毎朝出勤したとき朝集殿に入り、衣服を改め、定刻になって朝堂で政務をとったという。この移築は、鑑真が在世中の天平宝宇5年(761)頃といわれている。
金堂と講堂の間、西側に平安初期の梵鐘が懸かる鐘楼、更に戒壇が並ぶ。現在の戒壇は、石段三段のもので、かっては立派な戒壇院があったが、嘉永元年(1848)に焼失後、覆屋もなく、露天戒壇で受戒の儀式が行われている。

講堂の東側には、舎利殿、そして東室が並び、更に校倉造りの経蔵、宝蔵があり、これらは、新田部親王邸宅時代の遺構とも云われている。そして、講堂の北側に、鑑真和上坐像が祀られている御影堂がある。御影堂の中の襖絵は、東山魁夷画伯による鑑真和上にまつわる数々の障壁画であり、寝殿の間の「涛声」は、鑑真和上がはじめて日本の地に辿り着いたであろう海辺そして、上段の間は、日本の深山を表した「山雲」、厨子の在る間には、鑑真和上の故郷である揚州の柳と風をモチ^フにした「揚州薫風」など、鑑真和上を偲ぶ障壁画の数々である。

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