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奈良を巡る

薬師寺

薬師寺と云うと、前管長であった高田好胤氏(平成十年没)の事が思い起こされる。学生時代の頃は、未だ管長ではないが、修学旅行生への説明役として有名になっていた。その説話などが分かりやすく、そんな氏の話を聞くために、修学旅行のコースに設定されたとも思わせる位だ。自分が、修学旅行で訪れた時、氏の説明を聞いたかどうか思い出せないが、その伝統は今でもいきているようであり、再び訪れた日にも、修学旅行生や団体旅行客への説明をしているところを見ることが出来た。そんな高田好胤氏が管長になり、精力を注いだのが、金堂再建であった。それまで、仮金堂の中に、薬師三尊像が安置されていたが、雨漏りや隙間風など、とてもこれらの貴重な仏像を守ることが難しい状況であったという。そのため、創建当初の金堂再建という途方もない計画を立て、しかもその資金を、百万巻の般若心経の写経による勧進という方法で行われた。特定の寄進家に頼らず広く一般の善男善女の写経勧進という、これまでに例を見ない方法であったが、金堂再建だけに終わらず、西塔、中門、回廊、更には大講堂までが復興され、白鳳時代の壮大な伽藍が整った。又、平成になり玄奘三蔵院伽藍も新たに造られ、往時の隆盛を見る如くの状況になっている。
そもそも薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病平癒を祈って天武9年(680)に発願し、持統天皇によって本尊の開眼、文武天皇の文武2年(698)に完成された。その後、平城遷都に伴い、養老2年(718)に藤原京から現在の地に移転されたものであった。当初は、壮大な伽藍であり、南都七大寺の一つとして隆盛を極め、特に法相宗の大本山として多くの僧が、難解な唯識という教えを学んでいた。しかし、その後、天禄4年(973)の火災で金堂と東塔・西塔以外の伽藍がすべて焼け、更に、戦国の時代は、享禄元年(1528)の兵火で金堂と西塔も焼けてしまう。残されたのは、東塔と僅かな建物のみで、本尊の薬師如来は仮金堂に置かれ、講堂は江戸時代に再建されたが、往時の伽藍に比べようもない。そんな薬師寺を白鳳の時代に戻す努力が、高田好胤管長の熱意と多くの善男善女によって姿を表した。
薬師寺は、興福寺と並んで法相宗の大本山である。法相宗は、かっての南都六宗(*)の一つで、仏教の中でも極めて難しい「唯識」という思想を研究するもので、この唯識をインドで学び、中国に持ち帰ったのが、かの玄奘三蔵であり、その「唯識」を学び、日本に伝えたのが、玄奘の門下生であった留学僧の道昭である。このような事から、薬師寺では、平成になって玄奘三蔵院を新たに造り、そこに平山郁夫画伯による壁画「大西域障壁画」を飾ったものと思われる。

大講堂・金堂・東塔
金堂 大講堂

東塔

西塔
玄奘三蔵院伽藍
*:南都六宗
寺院 由来 宗祖 教え
華厳宗 東大寺 新羅から来日した審祥が、東大寺の三月堂で「華厳経」を講じたのが始祖。「華厳」とは「金剛」ともいい、「ダイヤモンド」のように固いものを指し、宇宙の真理を表す確実な教えを説くという宗派。、 良弁 時間と空間を包含した宇宙全体にはたらく「大方広仏」の元で、あらゆるものが縁によって起り、互いに関係しあい成長していくという。
律宗 唐招提寺 唐n時代の高僧・道宣によって大成された宗派で、その孫弟子である鑑真によって日本にもたらされた。仏教の集大成である「経・律・論」の三蔵のうち「律」を重視し、その実践である「戒・定・慧」のうち「戒」を中心とする宗派。 鑑真 経とは、釈迦の説法の記録であり、「律」とは、仏の道を実践するために日常守るべき戒律であり、論とは、経と律を理解するための注釈。
法相宗 薬師寺 興福寺 玄奘三蔵がインドにて「唯識」を学び、持ち帰り、その弟子窺基によって法相宗を大成させた。我が国には、留学僧・道昭により伝えられた。 道昭 「唯識論」を重視し、全ての存在は「識」のみによって感知されると説く。その識は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識とその奥の無意識からなる。
三論宗倶舎宗成実宗 現在は、宗派として存続していない。倶舎宗は、「唯識法相学」ともいわれ、「法相学」に付随して学ばれる。成実宗は、小乗仏教に大乗仏教を合わせた仏教概論的なため、仏教基礎学として学ばれている。

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近鉄奈良線の西大寺駅から橿原線に乗換二つ目が西ノ京駅に至る。この辺りに来ると窓外の光景ものどかな田園風景が拡がる感じとなり、東大寺や興福寺近辺とは異なり、何かゆったりとした気分にさせられる。進行左手に、こんもりとした森のように見えるのが唐招提寺だ。そして、西ノ京駅から見える五重塔が目指す薬師寺となる。北側受付から薬師寺の境内に入り、南門へ向かう。平成15年3月に完成した大講堂、昭和51年4月に落慶法要した金堂が並ぶ。そして、金堂前に古色蒼然たる東塔、そして、金堂から5年後に再建された西塔は、創建当初を思わせるきらびやかな色彩で建つ。再建された金堂にしろ大講堂にしろ、その色彩の鮮やかさに何となく古都奈良というイメージにそぐわなう感じを受けてしまうが、考えてみれば白鳳の創建時には、今以上に鮮やかな色彩に彩られていたに違いない。その姿を見た人々は、その大きな建屋と鮮やかな色彩を見、仏への敬いと信仰に深く思いをよせたかもしれない。それから1300年という歴史の流れの中、建物も創建当初の鮮やかな色は落ち、古色蒼然たる味わいが残り、そこに現代の人々は、歴史の深さを思い知っていて、自分の脳に古寺というイメージを勝手に作り出してしまうのかもしれない。あと数百年後の人々は、これたの再建建物をどう見るのだろうか。
金堂の姿は、優美であり、龍宮造りとも呼ばれている。堂内には、有名な薬師如来を中心に、向かって右が日光菩薩、左が月光菩薩の薬師三尊像が置かれ、静に人々を見下ろしている。
大講堂は、正面41m、奥行20m、高さ17mある堂々とした伽藍。かっては、この大講堂に多くの学僧が参集し、経典の勉学にいそしんだ所。今、この大講堂には、弥勒三尊像が本尊として祀られ、仏足石も安置されている。釈迦が入滅後、自らの身を崇める事を禁止したという。そのため、釈迦の足跡を崇めるようになったといい、それが、時代と共に仏像と進化したと云われる。そんな仏教初期の仏足が残るのも薬師寺らしい。
東塔の更に東に東院堂がある。養老年間に吉備内親王が元明天皇の冥福を祈り建てたもので、天禄4年(973)の火災で焼失、弘安8年(1285)に再建された鎌倉時代のものだが、堂内には、白鳳時代の作といわれる聖観音菩薩像が安置されている。何処か、法隆寺の釈迦像と似通った姿を思わせる。

薬師寺の金堂が立ち並ぶ伽藍から道路を隔てた北側に「玄奘三蔵院」伽藍が造られている。回廊を辿り玄奘塔に入るが、そこには玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利として奉安してあるという。又、平山郁夫画伯が描いた玄奘三蔵の求法の精神を描いた大唐西域壁画がある。唐招提寺の東山魁夷画伯、そして薬師寺の平山郁夫画伯と両雄の壁画が並ぶのも西ノ京らしいともいえる。
玄奘三蔵と云えば、「西遊記」のモデルとなった事も有名であり、昔は映画などで良く見たものだった。そして今はTVで、玄奘三蔵が辿ったであろうシルクロードを、TVカメラを通して観る事が出来る。自動車や飛行機といった文明の利器を駆使してはいるが、その大変さを画面を通して感じることが出来るだけに、当時の艱難辛苦は思い余るものがある。そんな、玄奘三蔵の求法は、先の鑑真和上の日本への渡航とあわせ、常人には持ち合わせない強い意志と行動力を感じさせるものであり、信仰の持つ強さを改めて思わせる。

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垂心天皇陵正面 田道間守の墓(右の小さな島)

垂仁天皇陵

唐招提寺から北、近鉄橿原線尼ケ辻駅近くに大きな陵がある。垂仁天皇の陵といわれ、巨大な前方後円墳である。今は、木々の生茂った島のようにも見える。この水をたたえた周濠に小さな島があり、田道間守の墓と伝えられる。この人物は、我が国に橘の木を伝えたといわれる伝説上の人で、垂仁天皇の時代に渡来した新羅の王子・天日槍の子孫という。垂仁天皇の命をうけ、常世の国に不老不死の妙薬を求め船出したと伝えられ、不老不死の妙薬・非時香菓(とこごくのかくのこのみ)を得て帰国したが、天皇は既に亡くなっていたのを悲しみ、陵の前で自害したと云われている。この非時香菓が、橘と云われている。