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想い出の地の歴史散策

津田山

東海道や甲州街道の脇往還として、江戸・赤坂御門から足柄峠下の矢倉沢までの道を「矢倉沢往還」といわれ、途中に大山阿夫神社への参拝道としても栄え、大山街道とも呼ばれていた。現在は、国道246号線が並行しており、主要な道として絶え間なく車の走るが、かっての大山街道が、二子新地から下作延までの短い間が今でも生活の道として残っている。地元ではその保存運動を進めているが、狭い道に車の往来も多く、又、家並みも新しくなり、往時の面影は所々で偲ぶだけのものとなっている。そんな道は、これまでその歴史を知らぬまま歩いてきたが、改めてその歴史を辿ってみた。

旧二子橋欄干

かって、対岸の二子玉川(瀬田)とは渡し舟であったが、大正14年7月に二子橋がかけられた。かっては、この二子橋に、現田園都市線が通っていた。
「武蔵風土記稿」の二子の項にて、多摩川を『石川にて川幅60間余、夏は船便にて冬の間は橋を架せり、此船渡古より当村の持なりが、水溢の度ごとに両涯がけ崩れ、しばしば変革して隣群瀬田の村内に入しかば、その境界の事により遂に論争に及び、天明8年(1788)官へ訴へかけるに、当村及び瀬田両村にて渡船を出すべしとの命あり・・・』とある。かって渡船の権益を巡った多摩川沿い両村に争いがあったようだが、当時から多摩川の流れが変わっている事が分かる。
この辺りを「二子新地」といわれ、田園都市線の駅も近い。これは、二子橋の建設工事や多摩川の堤防工事などに伴い工事関係者を相手にした小料理屋が出来始め、二子花柳界となっていき「新開地」と呼ばれたものだが、今はその面影は残っていない。

二子橋から溝の口方向へ

二子橋

二子神社

二子神社

二子橋の西側に二子神社があり、その境内の一角には、岡本太郎作の岡本かの子記念碑「誇り」がある。
岡本かの子は、旧家の大貫家に生まれ、その子岡本太郎がモニュメントを造り、台座設計を丹下健三が行ったという。この大貫家は、古い洋館形式の建屋があったが、今は、公園とマンションに変わってしまっている。岡本かの子の兄大貫雪之助も文学の才能があったようで、同人誌などに寄稿していた。

岡本かの子記念碑

大貫家の邸宅跡

光明寺

光明寺

光明寺内のくすのき

「武蔵風土記稿」によれば、『浄土真宗にて相模国大住群岡田村長徳寺末、大悲山と号す。此の寺古は天台宗なりし由、その頃は村の南の方にありて二子塚も其境内にあり。元亀2年(1571)専造坊といえるもの当宗を開基せりと、此僧文禄3年(1594)12月6日寂す、その後何の頃か今のところに移りたれども・・・』ともあるが、しばしばの多摩川の洪水に襲われた事により、、寛永18年(1641)頃矢倉沢往還筋に移転された。
この中にある「二子塚」は、今は史蹟碑のみ残るもので、古代豪族の古墳ではなかったかと思われる。そして、この二子塚が地名の由来と思われる。
寺内に大きなくすのきがある。樹齢数百年位たつだろうか。

道筋の旧家

    タナカヤ
明治時代建築の呉服屋

昭和5年建築。当初は下駄の製造・卸もしてたが、現在は小売のみ。

田中屋。「よろずや」として初め、今は、お茶や秤の小売

薬の灰吹屋。今や溝の口駅前に大きな店を構えている

和菓子「大和屋」から今は洋菓子店。陶芸家 浜田庄司の父方実家

岩崎酒店

稲毛屋金物店の店蔵

創業明治33年の眼鏡屋「スズキ」

江戸時代からの人形店・甲州屋

大田病院跡

二ケ領用水と大石橋
高津図書館

国木田独歩の碑

市立高津図書館

府中街道の北側、高津小学校に隣接して、高津図書館がある。図書館前は公園として整備されている。その公園内に、一つは、かっての亀屋会館前にあった「国木田独歩」の碑が移され、置かれている他、岡本かの子の歌碑もある。「うつら うつら わが夢むらく 遠方(おちかた)の 水晶山に 散るさくら花」岡本太郎撰としてある。

府中街道を過ぎて南下すると、そこに久地の円筒分水からの二カ領用水が流れ、そこに懸かる橋を「大石橋」と云われている。この橋の事は、「武蔵風土記稿」にも述べられていて、『往還の内川崎用水に架す、長6間潤8尺此余にも同往還の内に小橋二ヶ所あり、何れも御普請所なり』と、しかも、当時多くの川が流れていたようで、同記稿にも、用水2流、川辺六か村用水、根方用水、稲毛川崎大用水(これが、今の二カ領用水か)といった記述がある。このような事から、風土記稿には『多摩川の水分れ入、川崎の方へ流る、当所は其溝の入口に当たるを以って溝の口のありと云』とあるが、別の論もあるようである。

旧家と関係無いが、府中街道脇に何とも奇妙な店がある。まるでガラクタ市のような感じを受ける。某雑誌でも取り上げられた事があった。

大石橋

二カ領用水(久地方向)

溝の口神社
宗隆寺
二子

多摩川に接した「二子」は、大山街道の宿場町として「溝の口」と共に発展してきた町だが、「武蔵風土記稿」によると『村名の起こりは村内東南の境に二つの塚並びてあり、是を二子塚と云より起りしならんといえり、東西5町南北12町、地形は総て平にして田多く畑少なし、水旱の患あり、相州街道村の中程を南北に貫く、民家82軒此街道の左右に軒を並ぶ、其の内商家旅店も交じれり、溝の口村と組合て宿駅の役を勤むと云』地名の起こりとなった二子塚は、今はないが、この近くで7軒の農家によって開村されたという。しかし、この一帯がしばしば多摩川の洪水に襲われたため、寛永18年(1641)頃、現在の中心地である大山街道の光明寺付近に移ったと伝えられている。大山街道筋は、京都の方向から上宿、中宿、下宿に分けられ、溝の口宿と交代で宿駅を勤めていた。そして、大正時代以降は、花柳界も出来賑やかな町となっていったが、今は、その面影を見る事も少ない街並みが続く。

溝 口

今や、高津区の中心街として発展し、南武線「武蔵溝ノ口駅」と田園都市線「溝の口」が交差することにより、多くの人の乗降する。そして駅前広場は、かっての溝の口駅前の情景を忘れてしまうほど大きく変わってしまった。溝口の地名の由来は、「古代に陸地化された平坦地の低地には、多摩川や平瀬川からの分流水路が網の目のように流れていた。この水路の水口に位置したので、いつしか「溝の口」の地名がおきた「高津村風土記稿」では述べている。「武蔵風土記稿」には、『矢倉沢道中の駅場にて、此道村に係る所12町程、その間に上中下の三宿に分ちて道の左右に軒を並べたり、総じて戸数は94軒に及べり、東西12町余南北13町半、村内総て平にしてただ西の方にのみ丘林あり、水田多くして陸田少なし、土性は真土に砂交じれり、往古は多摩川大河にして、白波岡の下を洗いたる流れなれば、今の水陸の田は其の頃は皆水中なりしなり、後に川瀬もせばまり砂場の地、年を追って平陸となりしかば、自ずから人家も出来しなるべし、其の後今の川崎用水もなり、僅なる渠にて多摩川の水分け入れ、川崎の方へ流れる』とあり、かっては多摩川の流れの中に溝の口があった事を伺わせる。
溝口という表記も、南武線では「溝ノ口」、田園都市線では「溝の口」であり、公式文書では「溝口」となっているのは、ややっこしい感じだ。この溝口に宿駅が指定されたのが、寛文9年(1669)であり、以来大山詣りの参詣客で賑った他江戸時代後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこなどの物資輸送路として栄えていった。又、江戸から多摩丘陵や多摩川沿岸の風物を楽しむ文人墨客も多く訪れた。又、近世、国木田独歩が「忘れえぬ人々」にて『多摩川の二子の渡しを渡って少しばかり行くと溝ノ口という宿場がある。』とある。そんな溝の口は、江戸時代の風情を少しのこしつつ近代的な街並みが複雑に交差する。

溝口神社参道

溝口神社本殿

芭蕉句碑

濱田庄司碑文

宗降寺山門

明治になり、かっての「赤城社」を中心として、「諏訪社」「稲荷社」などと合祈し、溝口神社となった総鎮守。さすが、溝口だけあってこの辺りの神社に比べ、宮司もいるのはさすがだ。
又、「勝海舟」作の幟があるという。

溝口神社の南、津田山からの丘陵の東隅の麓に「宗隆寺」がある。この寺には、人間国宝の陶芸家「濱田庄司」の墓があることでも知られている。この宗隆寺、「武蔵風土記稿」で、『興林山と号す、日蓮宗池上本門寺の末寺なり、開山開基の由緒詳ならず、昔は天台宗にて本立寺と号せしぞ、寺伝に明応5年(1496)時の住持興林僧都、在夜の夢に千眼天王により日蓮宗帰依すべしと告を豪りけるに、当所の地頭階方新左衛門宗隆と云、もとより池上本門寺の壇越にて法華信心の人なりしが、是も同夜に同霊夢を豪り、語りあいて互いに奇異の思いをなしける、興林つひに池上に登りて本門寺第八世の貫主日調に謁して、師弟の約をなす、日調頓て名を日濃と命ず、ここに於いて新左衛門を以って開基とし其名を寺号に用い、日濃が旧号を以山号寺号となれり、或は此事虚説なり、其実は興林日調と宗意を論じ、辞屈して改宗せしなりと、此日濃は頗聡明の人なり、二十一歳にして関東の知識と呼ばれしぞ』とある。明和4年(1767)に建立された山門手前に濱田庄司の碑文がある。そこには、『昨日在庵 今日不在 明日他行 
濱田庄司
』 とある。山 門を入り本堂入ると、本堂の手前左に俳人・松尾芭蕉の句碑がある。
世を旅に代(とも)かく小田の行き戻り
漢方薬を売る生薬屋の灰吹屋二代目仁兵衛が、文政十二年(1829)に建立したも のである。仁兵衛は俳人で、老人亭宝水と号していた。芭蕉の死後に現在の立正学園のところに建てられた が、その後に宗隆寺へ移設 されている。

栄橋(馬上免橋)
庚申塔

久地駅前から続く「南武沿線道路」と「大山街道」の交差点に、かっての「さかえはし」の欄干の親柱が残っている。この橋は、かっての平瀬川と二カ領用水(根方堀)が交差したところにあり、溝口と下作延との境でもあり、「境橋」或は、古代から中世にかけて、この辺りを馬上からの検身(見積)で税が免ぜられた田畑があったことから「馬上免橋」とも呼ばれていたが、明治になり「栄橋」となった。この馬上免という地について「武蔵風土記稿」では、『村の西七面山の下を云、往還の内なり、相伝ふ昔村内の大石橋を修理せしめるられし時、官吏の前にて旅人等下馬せしを、道中なれば苦しからずとて免ぜしゆえ此名起こりしなりと』とある。
今は、大山街道と南武沿線道路の交差、しかも大山街道は、直ぐに南武線の踏切もあり、溝口駅前も傍とあって、結構渋滞している。

さかえはしの親柱

庚申塔

片町の交差点近くにひっそりと庚申塔が残っている。「見ざる・聞かざる・言わざる」で 知られた庚申信仰は、平安時代に始ま る。特に盛んになった江戸期、この地 に作られた庚申塔は、大山街道をゆく 旅人の道標(みちしるべ)をかねていた

大山街道は、この後、「ねもちり坂」と呼ばれる坂道を上っていく。

溝口駅前

溝口駅前は、すっかり景観を変え、大型のショッピングゾーンも出来た。今後、益々発展していく街になっていくだろう。

一方、以前の溝口駅近くの佇まいを思わせる街角も残っている。

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笹の原子育て地蔵

大山街道の下作延と末長の境に「子育て地蔵」が祀られている。今は、立派な地蔵堂になっているが、溝口からの上り坂を「ねもじり坂」といい、その上り詰めたところにある。笹の原という地名から、昔は淋しい笹鳴りの中にポッンと立っていたとのだろうが、今や地蔵堂の前には、ゴルフ練習場があり、往時の面影はが思い浮かばない。このお地蔵さんは、昔、西国巡礼から戻った村人が、子を授かったお礼に建てたと伝えられ、今でも、子や孫を授かった人の地蔵も祀られていて、いて、庶民のささやかな信仰を思い偲ぶ事ができる。