ホーム 古都散策 京都編 奈良編 鎌倉編 想い出の地
散策
四季折々 関西アレコレ 日々雑感

想い出の地の歴史散策

津田山

小学校入学前から高校卒業までの期間住んでいたのが、南武線武蔵中原駅近くであった。云わば少年時代を過した地となる。中原駅もすっかり様変わりしてしまい、駅付近も大きく変貌してしまったが、唯一変わらないのが、富士通の工場が、駅前にドンと構えていることである。とは云え、富士通の敷地内建屋は、大きく変わって、高層の建屋など時代の先端企業を思わせる。
かっては、水田が多く散在していた駅近辺であったが、今はすっかり宅地化が進んでしまった。そんな、中原駅近辺を歩いてみた。

武蔵中原駅外観

富士通正門

上小田中

南武線を境に、北側が「上小田中」、南側が「下小田中」と分けられる。そこに武蔵中原駅がある。中原という駅名は、傍を東西に通過する「中原街道」からきたものだが、そもそも中原という地名はここにはない。中原街道は、江戸・虎ノ門から平塚の中原まで結ぶ街道で、東海道が整備される江戸時代初期まで、相模とを結ぶ街道として繁栄してきた歴史ある街道でもある。東海道が整備された事により脇往還道となり、一時の賑わいはないものの、江戸と湘南を結ぶ街道としての機能は発揮してきたという。「小田中」という地名が初めて文書に表れるのは、長寛2年(1164)に藤原摂関家に提出された「大江某注進状」で、これにより宮内に鎮座する春日社の南一帯に広がるこの地が、藤原氏の荘園の一つであったことが分かる。「小田中」の地名から、多摩川の細流を取り込んで田を広げたであろうことが想像できる。「小田中」が上・下に分けられたのは、16世紀の中ごろと見られる。
「武蔵風土記稿」によれば、『村内の広さ東西へ八町半ばかり、南北へ二十町のあまれり、・・・此の辺田多く畑少なしすべて平地にして山なし、・・用水不便にしてややもすれば旱損の患あり、・・家数すべて百七軒・・・』とあり、今と地形は変わらないが、田畑は殆どなくなっている。かっては、水田が広がり、二カ領用水からの分流が流れていたが、今は埋められたのか暗溝になってしまっているのか定かでないが、見ることが出来ない。「上小田中」の小名に「神地」(ごうじ)と「大ケ谷」(おおがやと)があり、この地に住んでいる頃には、この小名が使われていたし、今でも使われいるようだ。

神地橋

小杉御殿町からの中原街道は、二カ領用水を渡る橋を「神地橋」といい上小田中へと入る。

現在の神地橋

神地橋から下流の二カ領用水

小杉十字路(中原街道府中街道)

泉沢寺

山門

境内

神地橋のソバに泉澤寺(せんたくじ)がある。このお寺には、小学生の頃晩秋になると良く銀杏を拾いに来たことを思い出した。拾ったイチョウの木かどうか分からないが、イチョウの木も健在だった。泉澤寺には、知り合いのお墓もあることから、うろ覚えで探し、お参りもしてきた。当時は、大きい寺と思っていたが、改めて訪ねてみると、さほどの広さでもないが、古さを感じさせるお寺である。
泉澤寺は、戦国時代、世田谷豪徳寺付近に本拠を持った吉良氏ゆかりの寺である。同寺はもともと世田谷の烏山にあった吉良氏の菩提寺であったが、五世心誉上人の代に諸堂を焼失したため、天文18年(1549)上小田中に移し再興したものである。武蔵風土記稿では『20石の寺領をたまへり、浄土宗にて京都知恩院末寺なり、宝林山運昌院と号す、開基は吉良右京太夫頼高なり、・・・開山は好善和尚なり、延徳3年(1491)多摩郡烏山の地に当寺を建立すと、・・・天文18年(1549)9月此寺を今の地に引移し・・・あくる19年(1550)に至り再興せし・・・』とある。ここ泉澤寺にて、門前市を開き賑ったという。最近は寂れてしまったというから、小学生時代は開かれていたようだが、記憶にない。尚、この吉良氏は、小田原北條氏と強い結びつきがあり、世田谷から川崎中部、横浜蒔田町一帯まで勢力が及んでいたという。しかし、小田原北條氏が滅んだことにより、吉良氏もその勢力が衰えた。しかし、吉良氏の家来でここ上小田中に住み付き、大谷戸は、その家来の原氏が開墾した地だとも云われている。

鐘楼

長福寺

当時住んでいた近くに「長福寺」がある。境内は、大きな樹木に覆われ、昼でも薄暗い感じのお寺であった。時々、寺域内の墓地が遊び場になった記憶がある。そんな頃だったろうか、人魂を見たという話も噂になったものだった。そんな思いでのある寺だが、境内の感じは、当時とさほど変わっていない。武蔵風土記稿によれば、『瑠璃山薬王院と号す、新義真言宗にて小杉村西明寺の末、開山は詳ならず・・・』とある。

本堂

薬師堂

神明神社

「長福寺」から西に「神明神社がある。この神社の想い出は多い。特に、秋の祭りの時には、旅芸人一座が、芝居興行をしたのだが、それを観に行くことが楽しみだった。たあいのない時代物だったが、娯楽の少ない時代でもあり、露天店の賑わいと芝居は、子供心にも浮き浮きしたものだった。今ではどんな祭礼になっているか知る由もないが、静かな境内に、遥か昔の少年時代に戻してくれる静さだけが、妙に懐かしく感じさせてくれた一時であった。この神社に関する武蔵風土記稿の記述は少ない。『村の中央にあり、小宮にて・・・』

ページTOPに戻る