ホーム 古都散策 京都編 奈良編 鎌倉編 想い出の地
散策
四季折々 関西アレコレ 日々雑感

想い出の地の歴史散策

長 尾

津田山駅から緑ヶ丘霊園、東高根森林公園、東名高速道を越えると長尾に入る。このルートは、かって小学時代長尾から向ヶ丘遊園地まで歩いた記憶がある。当時は、丘陵の山道を歩き、木々に囲まれた道であったよう記憶しているが、今は宅地として開かれ当時の思い出とは大きく景観を変えてしまっている。今は、自宅から、東高根森林公園やアジサイ寺の妙楽寺、ツツジ寺の等覚院を訪れる際に散策するルートでもある。
長尾という地名は古くからあり、後北条氏の御家人帳にも長尾村の記述が出てくるという。長尾とは、長い尾根伝いの村という意であろうという。但し、地元の伝承では、かって長岡村であったが、長尾影虎の小田原攻めで当地を通り、その後長尾村としたというのは、武蔵国土風土記でも古文書からも否定されているが、村民のロマンが感じられる逸話である。かっての長尾村は、現長尾町から五所塚町、神木本町、神木町といった範囲までを含むものであった。現長尾町1,4、5丁目が二カ領用水沿いの平地であるが、他は、多摩丘陵地帯となる。多摩川が現在のように北側に流れが変るまで、丘陵地帯を中心とした村であった。武蔵国風土記の長尾村の記述によれば、『東西凡そ15町半南北へは23町に余りなり、村内大抵2区に分かれ南の方は神木長尾と云、山丘多くして渓谷あり、されば近き頃土俗改め谷長尾とよべり、此の辺地形高低ありて旱損(ひでり)の患あり、北の方を河内長尾と云、河内は多摩川の内と云る事にや、ここは山丘の根にそふて平かなる地なれば用水の便りは宣けれど、多摩川の水溢れば水損の患あり、土性は真土に砂交じり、若しくは黒赤土野土交じれり、陸田多く水田少なし』とある。そんな旧長尾村を中心とした歴史を訪ねてみた。

五所塚

東名高速道を越え、長尾小学校を過ぎしばらくすると五所塚公園がある。直径4m、高さ2m程の塚が南北に並んでいる。地元では古くから五所塚と呼ばれており、一説では長尾影虎及び従者の墳墓と言伝えられているが、武蔵国風土記でも記されているように、長尾影虎が亡くなったのは此の地でみなく否定されているように、上記長尾の地名伝承と合わせ伝えられたものであろう。
実際は、村境尾根筋に築かれた「境」信仰の塚と考えられる。「境」信仰とは、隣村で疫病が流行った時など、自分達の村に被害が及ばないよう様々な祭祀を行ったものと云われ、その信仰の一つであったと思われる。
隣が「長尾神社」であり、近辺には、縄文や弥生時代の遺跡も多く残っている。そんな地の永い歴史から、何時の時代にか村民が願いをこめ造った塚に思いを偲ぶ所だ。

長尾神社

かっては、五所権現社と呼ばれていたが、明治になってからの合祀により赤城社と合わせ、長尾神社となった。さほど広くない境内には、近くに住むのか捨てられたのか猫が数匹いる。武蔵国風土記の記述『河内長尾の南にあり、村内の鎮守 村内妙楽寺の持ち・・・昔は流鏑馬の式を行ひしと云う・・・今は、射手2人介副2人にて、梅の弧竹の矢を各一手づつ射る』の記述にある「マトー」という儀式が毎年1月7日(又は第二日曜日)今でも行われているとの事。的の裏の鬼の字を書き、矢が鬼の字を貫くとその年は豊作と云われているそうだ。

妙楽寺

長尾神社の前を下るとアジサイ寺として有名な「妙楽寺」がある。6月中旬には、境内に所狭しと咲くアジサイの木々には圧倒される。このアジサイは、先代の住職が、ツツジの木が枯れていたのに変え、アジサイを植え始め、現住職まで境内の空き地に植え続けてきた結果だという。近くの等覚院がツツジで有名であるが、こうした方法も寺院を身近にする一つの手段ではないかと思う。
最近(2006年7月)妙楽寺の住職の話を伺う機会があった。そこで改めて「妙楽寺」の歴史を実感され、旧長尾村の殆どがこの妙楽寺の檀徒であること聞くと、地域と共にあり続けたこの寺の重みを知った。武蔵国風土記によると『天台宗にて長尾山勝寿院と号す 深大寺の末 本尊阿弥陀・・又道情といいし者の木像あり、法体にて坐せり・・此人の事は、旧家の条に出せり、 [東鑑]治承4年(1180)11月19日の条に、武蔵国長尾寺井救明寺等、長栄可至沙汰此旨云々とあり、・・・長尾寺といえるはは未だ何れの寺院と云ことか聞かず・・恐らく[東鑑]にいえるもの当事の事になるにや、かの条にいえる僧長栄は今豊島郡雑司ケ谷村法明寺の住僧にて[東鑑]には法明寺の事を威光寺と記せり、・・・開山開基詳ならず』とあり、当時から[東鑑」にある威光寺と関係があったのではないかと予想されていたが、近年の調査で、妙楽寺にある薬師三尊像のうち、日光菩薩像の天文14年(1545)の墨書銘に「長尾山威光寺」と記述が発見され、妙楽寺がその後身或は塔頭であったのではないかと推測されるようになった。尚。薬師如来像は、永正6年(1509)、月光菩薩像は、元亀年代(1570〜)の記述がったといいい、三尊像が揃うまで60年以上の時がかかったというのも興味深い。この威光寺は、源頼朝が平家打倒へ旗揚げした際、戦勝祈願寺として度々「東鑑」に登場し、特に、治承4年(1180)11月には、頼朝の弟(義経の実兄)であった阿野全成(今若丸)を院主に任命するなどの名刹として知られていたが、詳しい歴史や所在地が分らないままだったという。 

大師穴

妙楽寺の裏山斜面に「大師穴」と呼ばれる横穴の墳墓があるそうだが、今は、危険なため立ち入り禁止になっている。この横穴は、江戸時代には物見遊山の一つだったそうだ。武蔵国風土記では、『谷谷尾にあり、内に石像を立つ・・・その様は地蔵に似たり、背には長尾村妙楽寺とあり・・享保の頃ある修験の者初めて入しより、其後は土人も折々入て見るに、・・・其のうち弘法大師の遺跡なりと云えり、大師穴と唱える』とある。

等覚院

等覚院は、先の「五所塚」の手前・長尾小学校の南側を下った神木本町1丁目にある。神木(しんぼく)という地名も面白い。武蔵国風土記では、簡単に『谷長尾の乾にあり 天台宗 深大寺の門徒神木山長徳寺と号す・・本尊不動尊・・開山開基詳ならず』のみの記述だが、寺の縁起によると神木の云われは「ヤマトタケル」が、東征の折、この地で鶴の導かれて喉の渇きを癒したお礼に、一本の木を植え、それを神木としてあがめた事からきている」との事..
等覚院は、4月下旬から5月の初旬にかけて、ツツジが境内を彩り多くの参拝客で賑う。
又、「不動尊の巡行」という珍しい行事もあり、不動尊が世話人の家々を回り、参拝・お礼をするというもので、時々見聞きする行事の一つである。

等覚院のツツジ

天満宮

かっての赤城社の跡地に戦後造られた社で、武蔵国風土記には『谷長尾の中央にあり 村内の鎮守  村内等覚院の持ち』とある。今は、宿河原と梶ヶ谷を結ぶ交通量の多い道脇にあり、神木公民館も傍にある。その近くに「長尾寺」という標識があり、どのようなお寺か探してみたが、何と普通の民家風であるに驚いた。どのような云われがあるのか良く分らない。

ページのTOPに戻る