cinema / 『悪魔の棲む家』

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悪魔の棲む家
原題:“The Amityville Horror” / 原作:ジェイ・アンソン / 監督:アンドリュー・ダグラス / 脚色:スコット・コーサー / オリジナル脚本:サンドール・スターン / 製作:マイケル・ベイ、アンドリュー・フォーム、ブラッド・フラー / 製作総指揮:テッド・フィールド、デヴィッド・クロケット / 撮影監督:ピーター・ライオンズ・コリスター / プロダクション・デザイナー:ジェニファー・ウィリアムズ / 編集:ロジャー・バートン、クリスチャン・ワグナー / 衣装デザイン:デヴィッド・C・ロビンソン / 音楽:スティーヴ・ヤブロンスキー / 出演:ライアン・レイノルズ、メリッサ・ジョージ、ジェシー・ジェームズ、ジミー・ベネット、クロエ・グレース・モレッツ、レイチェル・ニコルズ、フィリップ・ベイカー・ホール、イザベル・コナー、ブランドン・ドナルドソン、アナベル・アーマー、リック・コメニック、デヴィッド・ギー、ダニー・マッカーシー / 配給:20世紀フォックス
2005年アメリカ作品 / 上映時間:1時間30分 / 日本語字幕:栗原とみ子
2006年01月28日日本公開
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/amityville/
新宿オスカーにて初見(2006/02/18)

[粗筋]
 1974年、ニューヨーク州の郊外にあるアミティヴィルという街の一画で、凄惨な事件が起きた。オーシャン・アヴェニュー112番地に暮らすデフェオ一家の長男ロナルド・デフェオJr.(ブランドン・ドナルドソン)が寝ている家族をショットガンで射殺、自ら通報したのちに逮捕された。逮捕されたロナルドは、「家に命じられて殺した」と証言したという……
 ……それから一年。売りに出されていたオーシャン・アヴェニュー112番地の家を購入したのは、ジョージ(ライアン・レイノルズ)とキャシー(メリッサ・ジョージ)のラッツ夫妻。キャシーにはビリー(ジェシー・ジェームズ)、マイケル(ジミー・ベネット)、チェルシー(クロエ・グレース・モレッツ)という三人の子供があり、未だ亡くなった父親の面影を求めている彼らに認められようと躍起になっていたジョージは、不動産屋から事件の経緯を聞かされ一瞬躊躇ったものの、キャシーの薦めもあって購入を決意する。湖のそばに建ち、五人暮らしに充分な広さを確保した新居は、たとえ中古でも陰惨な過去を持っていても、ジョージたちにとってはアメリカン・ドリームの体現のはずだった。
 だが、異変は引っ越して間もなくから、じわじわと親子を襲いはじめる。初日からジョージは妙な不快感を覚えた。キャシーと一緒に寝ていても、誰かに観られているような居心地の悪さを感じるのだ。末娘のチェルシーにも少しずつ奇行が目立ちはじめる。ある日、物音に気づいて様子を見に行ったキャシーは、クロゼットの中に隠れていたチェルシーを発見した。彼女は、ジョディという少女と一緒に遊んでいた、と言う。どこにも見えないその少女を、キャシーはいわゆる“想像上の友人”だろうと考え、深く気に留めずにいた。
 ある晩、ビリーの愛犬ハリーの盛んな鳴き声に目醒めて、外まで様子を見に行くと、施錠したはずのボートハウスにチェルシーが潜りこんでいた。ふたたび固く錠を下ろすジョージだったが、訝しさは消えない。そんな彼は、家のどこにいても寒気がすると訴えはじめ、妻との寝室を離れて、唯一暖かさを感じる地下室で起居するようになった。温もりは確保したが、代わりにそれまでもざわめきのように聴こえていた異音が、少しずつ明確なかたちをとりはじめる――それは彼に、「殺せ」と盛んに訴えかけてくるのだった。
 消耗気味の夫を気遣ったキャシーは、子供達をベビーシッターに任せて、デートに出かけることにした。ちかごろは終始具合の悪そうなジョージも、家を離れると不思議と状態が改善する。ようやくリラックスした彼らが家に帰ってみると、思わぬ出来事が待ち受けていた。ベビーシッターを頼んだリサ(レイチェル・ニコルズ)がクローゼットに閉じこめられ、傷だらけの状態になっていたのである。救急車の担架で運ばれながら、リサは譫言のようにジョディの名を口にした――

[感想]
 本編は、『悪魔のいけにえ』を『テキサス・チェーンソー』としてリメイクしたスタッフがふたたび挑んだ、名作ホラー映画のリメイクである。家に不吉なものが潜む、という主題は極めて古くから存在するもので、『たたり』『ヘルハウス』にヘンリー・ジェイムズの名作に基づく『回転』など傑作が多く挙げられるが、本編のオリジナルは1979年に発表され、その後のホラーに対して大きな影響を齎した一本である。
 本編が従来の“館ホラー”と一線を画しているのは、原型が実体験にあるということと、主要登場人物が若い夫婦になっている点である。前述の『たたり』『ヘルハウス』などは何らかの“専門家”が登場して怪異現象の排除に乗り出す、という筋が定番になっているし、また館にはそれに見合った金持ちの主が存在する、或いはしていた、というパターンが大半だ。本編はそれを、映画の一般的な観客により近い位置づけの人物を主体とすることで、恐怖を一歩身近なものにしたことで画期的と言える。また、実体験がもとであるだけに、基本的に神の視点で描かれる映画特有の視点のぶれが抑えられ、恐怖の核が捉えやすくなっている。この形式を敷衍した結果、一時期ホラー映画はただ騒々しいだけの代物になってしまう弊害をも齎したわけだが、本編のオリジナルにその責任まで問うのはお門違いだろう。
 ともあれ、そんな風に文字通り画期的であった作品を、より原体験に近づけるかたちでリメイクした本編は、極めて完成度の高い仕上がりとなっている。今の目で眺めれば、提示される怪奇現象は全般にいささか定番すぎて、意外性や衝撃には乏しい。だが、その扱い方や提示するタイミングは絶妙で、ツボを外していない。理由もなく揺れはじめる棚、何処からともなく聴こえてくる囁き声、突然点灯して不気味な紋様を描き出すテレビ……いずれもオーソドックスであるが、状況がうまく設定され、必然性を感じさせるから恐ろしい。
 但し、そうした堅実な描写がある一方で、ところどころ映画の観客のみを意識した怪奇表現が散見されるのに少々白けた気分にさせられたことも指摘しておきたい。たとえばキャシーが初めてクローゼットに入った場面、マイケルがトイレの鏡を覗きこんだところ、窓が独りでに開く箇所など、いずれも登場人物は基本的に目の当たりにしていない出来事であるため、ああした現象が本編のバックボーンである“実体験に基づく”という箇所に傷をつけていることは否めない。このあたりはもう少し節度を保って欲しかった、と感じる。
 しかし、表現として問題はある、と感じても、きちんと怖さを演出している点は否定できない。何より本編は、そうした観客を過剰に意識した演出にしても、観客の目を充分に意識したエンタテインメントとして極めて熱意のある作りをしていると考えられるのだ。手際よく纏められながら衝撃の強い導入、ぎこちないながらも和やかな家庭の姿を描いた冒頭、それが無数の異様な出来事によって揺すぶられ軋みを生じていく中盤、そして急展開を迎える終盤、と定石を踏まえた構成は巧みで、なおかつそれを90分と手頃な尺に絞り込んでいるため、スピーディーで実の詰まった感がある。観ているあいだ飽きる暇も気の休まる隙もない。詰め込みすぎたせいで、登場人物の個性が充分に描き出せず、彼らでなければならなかった必然性も充分に演出できなかった厭味はあるが、寧ろそれも彼らに親しみを感じさせる効果を齎しており、観客が感じる恐怖を膨らますのに一役買っていることは先に指摘したとおりである。
 最後まで観ても説明しきれない出来事や、観客だけが認識する怪奇現象が散見されるために、“真実に基づいた物語”という大前提にいささか傷をつけている点はどうしても惜しまれるが、娯楽としてのホラー映画、と割り切って鑑賞する限りは文句のつけようがない。玄人ならばそのツボを押さえたプロットに感銘を受けることが出来るし、初心者ならばかなり本格的な恐怖を味わうことが出来る。
 昨今はハリウッドも日本やアジアの影響を受け、ホラー映画の質に変化が生じている。そんななかで、ハリウッドの伝統を見つめ直すような作品が現れたことは、いい傾向である――ととりあえず好意的に解釈しておきたい。……そういう潮流がリメイクではなく、新作オリジナルに波及してくれればなおいいのだけど。

(2006/02/20)


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