cinema / 『バットマン・ビギンズ』

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バットマン・ビギンズ
原題:“Batman Begins” / 監督:クリストファー・ノーラン / 脚本:クリストファー・ノーラン、デイヴィッド・S・ゴイヤー / 原案:デイヴィッド・S・ゴイヤー / 製作:チャールズ・ローヴン、エマ・トーマス、ラリー・J・フランコ / 製作総指揮:ベンジャミン・メルニカー、マイケル・E・ウスラン / DCコミックスに登場するキャラクターに基づく / バットマンはボブ・ケインの創作による / 撮影監督:ウォーリー・フィスター,A.S.C. / 美術:ネイサン・クローリー / 編集:リー・スミス,A.C.E. / 衣装デザイン:リンディ・ヘミング / 音楽:ハンス・ジマー、ジェームズ・ニュートン・ハワード / 出演:クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、リーアム・ニーソン、モーガン・フリーマン、ゲイリー・オールドマン、渡辺謙、ケイティ・ホームズ、キリアン・マーフィ、トム・ウィルキンソン、ルトガー・ハウアー、ライナス・ローチ、ラリー・ホールデン、コリン・マクファーレン、ジェラルド・マーフィ / 配給:Warner Bros.
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間20分 / 日本語字幕:石田泰子
2005年06月18日日本公開
公式サイト : http://www.batman-begins.jp/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/06/18)

[粗筋]
 幼いブルース・ウェイン(ガス・ルイス)に大きなトラウマを齎したのは、広大な自宅の庭にある井戸に転落したとき、大量のコウモリに襲われたときの記憶であった――この出来事は、成人してからの彼の運命を大きく左右する。
 程なくして父と母とを同時に、街の貧者の銃弾によって奪われたブルースは、家財のいっさいを信頼する執事アルフレッド(マイケル・ケイン)に委ね、両親がこよなく愛したゴッサム・シティを離れて生活する。14年が過ぎ、成人したブルース(クリスチャン・ベール)は両親を殺害したチルの釈放を求める裁判が開催されたのを契機にゴッサムへと戻った。傍聴人席に着いた彼は、袖の下に一挺の拳銃を忍ばせていた。チルの仮釈放が決定し、退廷する彼に銃口を向けたブルース――だが、彼が引き金を引くより早く、別の凶弾がチルの息の根を止めた。
 ブルースの幼馴染みレイチェル・ドーズ(ケイティ・ホームズ)はブルースがわざわざ傍聴人席についた理由を知って、彼の頬を打つ。そんなあなたを、お父様が誇れると思う? ブルースを乗せた車を貧民街の渦中へと走らせ、これがあなたのお父様が愛し、守ろうとしたゴッサム・シティのなれの果て。代わりに仇を討ってくれたのは、こんな街を牛耳るギャングのファルコーネ(トム・ウィルキンソン)という男だ――挨拶に行ってきたらどう? 苦しんだ挙句に、本当にファルコーネに面会に訪れたブルースだったが、街に蔓延る“悪”の色濃さに呆然とするばかりだった。犯罪というものの現実を自らに痛感させるため、ブルースは御曹司としての暮らしを捨て、各国を彷徨する。
 転機は、とある国で牢獄暮らしをしているときに訪れた。白人の一見線の細そうなブルースは頻繁に悪党から因縁をつけられるが、そのたびに手ひどく相手を痛めつけるために看守でさえ手を焼いていた。そんな彼のもとを突如訪れたのは、ヘンリー・デュカード(リーアム・ニーソン)と名乗る男。デュカードはあっさりとブルースを釈放させると、とある山の頂を目指すよう伝える。途中、わずかに咲く青い花を一輪摘んで。
 辿りついた先に待ち受けていたのは、ラーズ・アル・グール(渡辺謙)を頭目に据えた影の軍団。正義を成し遂げるために他を超越する肉体能力を獲得することを目指し、日本の忍術を援用した体術とギミックによって悪に対する脅威たりうることを目指す集団であった。そこでブルースはデュカードの指導のもと修行を積み、着実に強くなっていった――自らの裡に刻み込まれたトラウマをも飼い慣らし、本物の戦士となっていった。
 やがて、ブルースの実力を認めたラーズ・アル・グールは儀式として、捕らえていた連続殺人犯の処刑をするよう言い渡す。悪を憎みながらも、人を殺めることによって彼らと同等に下ることを良しとしなかったブルースはそれを拒む。そんな彼に、ラーズ・アル・グールは軍団の恐るべき目的を教えた――腐敗した文明はいちど抹殺せねばならない。かつて幾度も繰り返してきたように、お前が育ち両親を奪ったゴッサム・シティも殲滅する。そのために、お前の力が必要だ、と。
 ブルースは反旗を翻した。その際、弾き飛ばされた焼き印が火薬の上に落ちて爆発を引き起こし、軍団の隠れ家は激しく炎上する。ブルースに出来たのは、息のあるデュカードを助け、麓の村落の人々に託すことだけだった。
 そしてブルースは七年振りに郷里ゴッサム・シティに帰還する。かつてより更に著しく腐敗した生まれ故郷を前に、ブルースはやがて意を固めることとなる――この地から悪を一掃するために、悪党どもの心に永劫刻み込まれる“恐怖”に、自らがなることを――

[感想]
 書き出してみると何という実の詰まり具合か。これでやっと序盤が終了、ゴッサム・シティの現実を目の当たりにしたブルースが、体得した武術とギミック、そして有り余る財産とを駆使した闇の騎士になる意を決する中盤がようやく始まるのである。
 監督のクリストファー・ノーランは5年前に発表した『メメント』が高く評価されてメジャーに進出した人物である。『メメント』に先んじる『フォロウイング』、スティーヴン・ソダーバーグらの後援を得た『インソムニア』と、一貫して善悪や彼我の価値観が溶け込むような心理的緊張を描いたサスペンスを撮っている。それだけにアメコミ原作のアクション、しかも恐らく旧作よりも遥かに大きなバジェットを投入した作品を手がける、と聞いて幾許か不安を覚えた記憶がある。さすがに畑が違いすぎるんじゃなかろうか、と。
 結論から言えば、まるっきりの杞憂だった。もともとバットマンのヒーローとしての方法論は、自らの存在を恐怖の象徴として悪人たちの胸に刻みつけ、犯罪を抑制する、というものである。必然的に恐怖や緊張感の演出が求められ、しかもその背景にはダークな世界観がある。実は他のどのヒーローよりも、バットマンの創作理念はサスペンスのそれに近かったらしい。お陰で見事なまでにノーラン監督のビリビリと肌が痺れるような演出手法と作品の雰囲気が嵌っている。
 また、バットマンというヒーローが実は大した特殊能力を持ち合わせている訳ではなく、基本的に普通の人間であり、身体能力に火薬などを用いた演出と、資金力にものを言わせたアイテムによってヒーローとしての個性を確立している、という側面が、徹底した現実主義的な作品作りを許した点も、ノーラン監督の作風と巧く噛み合った一因となっている。山奥での修行で忍術の系譜に連なる体術と演出のためのギミックを覚え、郷里に戻ると執事に委ねてあった財産を利用してコスチュームの制作を行い、また父の残した会社の忘れ去られた部署で最先端の(しかし商売としては絶対に採算の取れそうもない)アイテムを調達する――ヒーローが自らのスタイルを決定し、その信念を確立していくまでを追うという物語の骨格に、監督のリアル志向がうまく芯を一本通した格好だ。
 バットマン=ブルース・ウェインの資金力が現実離れしているとか、あれだけの超科学的技術が果たして閑却視されたままでいるだろうか、という疑問はあるが、多少非現実性を残していることがディテールの生々しさにも繋がっていると言えよう。そもそも、バットマンの信念を構築する悲観主義的な部分と理想主義的な部分という矛盾しかねない二面性はこの背景に依るところが大きい。キャラクターとしての魅力を損ねない範囲で徹底されたリアリズムは、バットマンに対する愛着と理解あってこそのものだろう。考えれば考えるほど、実はバットマン――こと再構築されたバットマンをノーラン監督が手がけたのは、理想的な組み合わせだったように思える。
 ただ、少々残念なのは、アクションシーンが全般に混乱しすぎて、人物の動きが把握しにくいことだ。前作『インソムニア』でもそうだったが、ノーラン監督はアクションシーンではカメラをやたらと動かし、カット数を多くして現場の混乱とスピード感を伝えようとする癖があるように見受ける。人数が絞られていた『インソムニア』はまだしも、多数の人間が参加し、しかも焦点となるバットマンの行動が極めて神出鬼没になる本編では、観ている側に迫力を伝えるより以前に、困惑させるだけになってしまっている。クリスチャン・ベールといえば、興行的にはいまいちだったようだがその後じわじわとカルト的人気を高めていった『リベリオン』において優れた身体能力を披露しており、演技力もさることながらアクション面でもその実力を認められている俳優であり、折角彼を新たなバットマン役に起用したのだから、必要な場面では過剰にカメラを動かすことをせず、肉体そのものの躍動感をじっくり魅せてほしかった。
 本当にもったいなく思ったのはその程度で、他はほとんど文句が付けがたい。強いて言うなら、はなから敵と決めつけられている人々はともかく、執事のアルフレッドや技術畑ながら閑職に追いやられたフォックス(モーガン・フリーマン)、汚職にまみれた警察内部で唯一潔癖を貫くゴードン刑事(ゲイリー・オールドマン)、そして終幕における幼馴染みレイチェルなど、ブルースおよびバットマンの周囲にいる人々がいささか理解が早すぎるきらいがあるのが疑問に思われるが、本編の主題がヒーローであるがゆえの葛藤や周囲の人々の無理解との戦いではなく、どのようにして自らが理想とする善を成し遂げるか、それを固めていく過程を描くことにあるので、必要以上に周囲の人物との対立に描写を費やさなかったのは寧ろ賢明なことだろう。仮にそちらにも気を配って作っていたとしたら、更に二・三十分尺が伸びるか三部作ぐらいに発展するかしていたに違いない。
 この手のアクション映画にありがちなナレーションを徹底的に排除し、会話も極力説明的にせず、それでいて流れが掴みやすいという傑出したストーリーテリングに、きっちりとテーマを押さえたメインの事件内容と、結末の明快なカタルシス。部分的に異論を唱える向きはあろうが、全体として志の高さを窺わせる秀逸な作品である。実は、さきごろ日本で公開された『エレクトラ』と幾つかの共通点が認められるのだが、監督の立ち位置や姿勢が違うだけでこうも別物になってしまうのだ、と気づかされるのもまた面白い。

 ところで。
 日本人なら、本編を観るうえでの興味のひとつは、『ラスト・サムライ』での演技が評価され、海を越えてのオファーが増えているという渡辺謙のハリウッド進出第二作である、という点にも向けられていることと思う。だが、本編での渡辺謙演じるラーズ・アル・グールの位置づけは、同じ正義を掲げながらもまったく異なる視座から実現しようとする人々を象徴するものであり、それゆえ出番はあまり多くない。そのわりに全篇で存在感を発揮しており、重要な役柄であることは間違いないのだが、露出を期待していた方はその点、落胆されませぬよう予め忠告しておきたい。ハリウッド映画で謙さまのご尊顔をもっとたくさん拝みたい、という方は、本編でかるく渇を癒しつつ2005年末あたり公開予定の『SAYURI』をお待ちになったほうがいいかと。

(2005/06/19)


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