cinema / 『硫黄島からの手紙』

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硫黄島からの手紙
原題:“Letters from Iwo-Jima” / 原案:アイリス・ヤマシタ、ポール・ハギス / 監督:クリント・イーストウッド / 脚本:アイリス・ヤマシタ / 栗林忠通[著]・吉田津由子[編]『「玉砕総指揮官」の絵手紙』(小学館文庫・刊)に基づく / 製作:スティーヴン・スピルバーグ、クリント・イーストウッド、ロバート・ロレンツ / 共同製作:ティム・ムーア / 撮影監督:トム・スターン / 美術:ヘンリー・バムステッド / 編集:ジョエル・コックス,A.C.E. / 衣装:デボラ・ホッパー / 音楽:クリント・イーストウッド / 出演:渡辺謙、二宮和也、伊藤剛志、加瀬亮、中村獅童、裕木奈江 / マルパソ&アンブリン・エンタテインメント製作 / 配給:Warner Bros.
2006年アメリカ・日本合作 / 上映時間:2時間21分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2006年12月09日日本公開
公式サイト : http://www.iwojima-movies.jp/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2006/12/09)

[粗筋]
 1944年、硫黄島。既に敗色の濃厚となった日本にとって、この島の意味は大きくなっていた。間もなく本格的な本土攻撃に臨むと見られるアメリカに制圧されれば、ここは日本にとって致命的な攻撃拠点となる――派遣された兵たちは、命を賭してもアメリカの手からこの島を守ることを厳命されていた。
 栗林忠通陸軍中将(渡辺謙)が新たな指揮官として派遣されたのは6月のことである。着任早々、まず彼は旧態然とした精神論に支えられた戦略に異を唱え、海岸線の塹壕作りを中止させる。不平を漏らした兵に折檻していた部隊長を止め、兵士に急速を与えるように命じる。かつてアメリカで暮らしていたこともある栗林中将の指揮はそれまでになく合理的であったが、すぐさま伊藤中尉(中村獅童)ら指揮官たちの反感を招く。
 他方、下級兵士たちのあいだでは、兵力の温存を第一に訴える栗林中将に対する信望は厚かった。着任早々、折檻されていたところを救われた西郷(二宮和也)もそのひとりである。妻・花子(裕木奈江)とともにパン屋を営んでいた彼は、作っていたパンから調理器具まで供出され営業停止に追い込まれた挙句自らも徴された不条理に未だ怒りを呑んでいる。無為としか思えぬ労役から自分たちを解き放ち、新たな作戦を模索する栗林中将の姿は、西郷の目に好もしく映ったのだ。
 だが、そうしているあいだにも戦況は悪化の一途を辿っていた。島民たちを本土に避難させてもなお糧食は不充分であり、不衛生な環境が原因で発生した赤痢で交戦よりも先に死ぬ兵も出ている。更に、かつてロサンゼルス・オリンピックにて金メダルを獲得した英雄であるバロン西(伊原剛志)は、大本営がひた隠しにしていた連合艦隊壊滅の事実を栗林に伝えた。もはや敵を後退させることよりも、一日も長く米軍を釘付けにすることが至上目的である、と判断した栗林は、思い切った作戦を提示する。
 硫黄島の要衝である、南端に位置する擂鉢山を中心に、地下に洞窟を掘っていく。水際で食い止めるのではなく、上陸した敵勢にゲリラ的な攻撃を仕掛け、一日でも長く兵力を保ちながら応戦を続けるというものである。意表を衝き、長期的な計画が必要となる作戦に司令部は異を唱えるが、もはや援軍が期待できないいま、現存する弾薬と兵力で対処するほかない――
 栗林の赴任から八ヶ月を経た1945年2月19日。遂に、アメリカ軍が擂鉢山東の海岸から上陸を開始した。5日ほどで決着するだろう、と軽視していた米軍への、栗林たちの抵抗はこの日から実に36日に及んだ……

[感想]
 先行公開された『父親たちの星条旗』とともに、硫黄島二部作をなす作品である。出来を云々する以前に、ひとつの戦場を双方の視点から別々に描く、という試みを実現に移したことだけで、まず本編の存在意義は充分にある。その上で非常に完成度が高いのだから、素晴らしい、の一言に尽きる。
 先行作である『星条旗』と比較すると、話運びは意外なほどストレートだ。『星条旗』は脚本を担当したポール・ハギスの傑作『クラッシュ』を思わせる多視点と錯綜した時系列が特色となっていたが、本編は視点の数を絞り、ほぼ時系列に添った展開をしている。どちらかと言えばハギスとクリント・イーストウッド監督による『ミリオンダラー・ベイビー』に近い手触りである。
 そう考えると、興味深い解釈が浮かんでくる。本編は戦争映画である以前に、「どう生き、どう死ぬか」ということを観る側に問う作品であり、その意味で『ミリオンダラー・ベイビー』の延長上にあると捉えられるのだ。
 敗色濃厚となった当時の日本軍は迷走を繰り返し、お国のためと称して無為な玉砕作戦を繰り返している。栗林中将が着任するまで、硫黄島の指令室が用意していた作戦もそれに類する極めて場当たり的な代物だった。そのなかにあって栗林は兵力の温存を訴え、軍規に従い死に赴くことを旨としながらも、限界まで命を永らえるよう指示する。だが、軍に蔓延した風潮は司令官たちのあいだに浸透しており、彼らは栗林に反感を抱く。他方、一般兵たちはやもすると単なるシゴキにしかならない指令を破棄し、自分たちを守りながら、本土の人々のために最後まで戦い抜くことを命じた栗林に敬意を表するようになる。そうした一般兵の代表格となる西郷と、栗林自身の視点を軸に、各人の信条とそれに相応しい、或いは皮肉な運命を剔出していく。
 多くの視点を折り重ねていくことで、アメリカ軍にとっての“硫黄島の戦い”を少しずつ強調していった『星条旗』に対して、本編ははじめから観客に感情移入の対象となりやすい西郷という存在を用意することで、個人の目からこの悽愴な戦いを捉えており、“スクラップ”という人物の目からある女性ボクサーとトレーナーの運命を捉えた『ミリオンダラー・ベイビー』とその点でも通じているのである。多くの人間の行く末を捉えることによって、その主題をよりいっそう掘り下げている点にも注目していただきたい。
 観る前に感じていた不安のひとつは、海外のスタッフがどれほどうまく日本軍の様相、その特異な価値観を的確に再現できるか、であったが、まったくの杞憂だった。海外の戦争映画がしばし陥りがちな、狂信者集団のような描き方はせず、しかし“玉砕”を第一とするような風潮を絶妙の匙加減で捉えながら、本質では戦争を良しとしない一般兵たちの意識を巧みに織りこんでおり、日本人の目にも違和感を齎さない。戦う相手である米兵にしても、捕虜の扱いなどでその態度が一様でないこと――良心に基づいて行動する者もいればその場の感情で悪行に及ぶ者もいて、その背景は日本人とさして変わりないことをきちんと描いている。こうした視線の公平さも、本来当然のことではあるはずなのだが、この二部作ほど徹底した例はあまり記憶にない。
 そうした点から、本編がまず、戦争というものの愚かしさくだらなさを容赦なく衝いた作品であることは確かだろう。だがやはり私は、本編はそれぞれの死にざまを通して、生き様を問うた物語であったと思うのだ。それぞれの信義に従い、或いは未練がましく最後まで生きることに執着し、または逃げを打った挙句に悲しい末路を辿り――そうしたそれぞれの苦い引き際を折り重ねていくことで、壮大なドラマを構築したのが本編なのだ。
 観終わって即座に滂沱と涙があふれてくるような、そんな種類の感動は齎さない。だが必ずその奔流のごとき積み重ねられた人々の運命に打ちのめされ、やがて劇場が明るくなって帰り支度をしているあいだに、その重みはじわじわと躰のなかに響いてくるはずだ。敢えてエピソードを絞り込まなかったからこそ、本編には確かな重みが存在する。
 構成をはじめ、解り易い対項目を用意しているわけではないが、先行作『父親たちの星条旗』と接続、或いは共鳴する描写が随所に認められ、きちんと両方を鑑賞すると更に深みが増してくる。単体でもそれぞれ稀有な傑作であることは疑いないが、是非とも両方観ていただきたい。
 個人的にこの二部作は映画史に残る偉業である、と思う。

(2006/12/10)


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