cinema / 『キングダム・オブ・ヘブン』

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キングダム・オブ・ヘブン
原題:“Kingdom of Heaven” / 監督・製作:リドリー・スコット / 脚本:ウィリアム・モナハン / 製作総指揮:ブランコ・ラスティング、リサ・エルジー、テリー・ニードハム / 撮影監督:ジョン・マシソン,B.S.C. / 美術:アーサー・マックス / 編集:ドディ・ドーン,A.C.E. / 衣裳:シャンティ・イエーツ / 特殊効果監修:ニール・コーボールド / 視覚効果監修:ウェズリー・スウェル / 音楽:ハリー・グレッグソン=ウィリアムズ / 出演:オーランド・ブルーム、エヴァ・グリーン、ジェレミー・アイアンズ、デヴィッド・シューリス、ブレンダン・グリーソン、マートン・ソーカス、リーアム・ニーソン、ハッサン・マスード、エドワード・ノートン / スコット・フリー製作 / 配給:20世紀フォックス
2005年アメリカ作品 / 上映時間:2時間25分 / 日本語字幕:戸田奈津子
2005年05月14日日本公開
2005年10月05日DVD日本盤発売 [amazon:2枚組特別編1枚組]
公式サイト : http://www.foxjapan.com/movies/kingdomofheaven/
VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズにて初見(2005/05/17)

[粗筋]
 1184年、第一回十字軍がキリスト・イスラム双方の聖地であるエルサレムを奪って百年が経過した。仮初の平穏が支配するかの地に、富と権力を求めてヨーロッパ諸国の貴族が蝟集するなか、ただひと組、十字軍の紋章を胸に郷里を目指して走る一群があった。
 その向かう先、フランスの田舎町で、折しもひとりの女性が埋葬されるところだった。息子を病で失ったことに絶望し、自殺した彼女に対して司祭らの扱いは丁重という言葉から程遠い。十字軍の一行が訪ねたのは、死んだ女の夫である若き鍛冶屋バリアン(オーランド・ブルーム)であった。打ちひしがれる彼に悔やみを述べたあと、一行の主君であるイベリン卿ゴッドフリー(リーアム・ニーソン)は驚くべき事実を口にする。他でもない、バリアンはかつてゴッドフリーがこの地に暮らす女性に孕ませた実の子供だ、というのだ。
 既に縛り付けるものがない以上、自分と共にエルサレムの地へ、と誘うゴッドフリーをいちどは拒絶したバリアンだったが、その夜、妻を埋葬した司祭がその首を刎ね、ペンダントを奪うという侮辱に及んだことを知って逆上、司祭を殺害してしまった。自殺した者は天国へは行けないが、聖地へ赴けば或いは許しが与えられるかも知れない。バリアンはゴッドフリーを追い、合流した。
 一行は快くバリアンを受け入れたが、間もなく司祭殺害の犯人としてやって来た追っ手と交戦状態に陥り、大半を掃討したもののバリアンたちも多大な損害を被った。ゴッドフリーもまた負った傷が原因で何日保つか解らない。メッシーナの港で懸命の治療を続けるが、やがて死を覚悟したゴッドフリーは、バリアンにイベリン卿の地位を継がせる。恐れず、敵に立ち向かえ。勇気を示せ。死を恐れず、真実を語れ。弱者を守り、正義と共に生きよ。それをお前の誓いと為せ――父の言葉にバリアンが頷くと、同道する聖職者ホスピタラー(デヴィッド・シューリス)らが見守るなか、先代イベリン卿は息を引き取った。
 船の転覆、砂漠での小競り合いを経て、どうにかバリアンは聖地エルサレムに辿りつく。話の成り行きから道案内をさせたイスラム教徒の人物とも友好的に別れた彼は磔の丘に赴き一晩を過ごすが、望んでいた神の声は聞こえなかった。次に往くべき道も定められずエルサレムの街を彷徨う彼は、やがて数名の男達に取り囲まれる。彼らはゴッドフリーの臣下であり、バリアンは鄭重に主君の暮らした館へと招かれる。一介の鍛冶屋が初めてイベリン卿バリアンとして臣下の礼を受けた瞬間であった。
 その頃、エルサレムは微妙な情勢にあった。サラセン王サラディン(ハッサン・マスード)との戦闘に勝利し、休戦協定を結ぶことに成功、エルサレムをあらゆる宗徒に開放する政策を採った明敏なエルサレム王ボードワン四世(エドワード・ノートン)であったが、患った癩病(ハンセン氏病)が重篤に陥り、昨今は執政の殆どをティベリアス(ジェレミー・アイアンズ)に委ねている。エルサレムが求心力を衰えさせるのとともに、テンプル騎士団の一員であり戦争を推進する強硬派であるギー・ド・リュジニャン(マートン・ソーカス)や富に固執する悪辣な貴族ルノー・ド・シャティヨン(ブレンダン・グリーソン)らが発言力を強めていた。
 領地であるイベリンに赴任したバリアンは、異教徒が諍いを起こすこともなく共存する領地の人々に満足しながら、しかしより快適な暮らしを保証するためにさっそく井戸の掘削作業を始めさせた。自ら鍬を手にすることを厭わず、誰とも親しげに接する新しい領主に人々も馴染んでいったころ、思わぬ訪問者が現れる。ボードワン四世の妹であり、ギーの妻女でもあるシビラ王女(エヴァ・グリーン)であった。王都でいちど巡り会ったときから密かに心通わせていたふたりだったが、シビラは政情の不安と夫との緊迫した関係に倦み、救いを求めるようにバリアンに一夜、身を委ねる。
 その頃、ギーとルノーはサラセン人の商隊を前に、凶悪な笑みを浮かべていた。この僅か数日の出来事が、バリアンの運命を更なる巨大な渦へと導いていく……

[感想]
 近年ハリウッドでやたらと作られる傾向にあるのは、実在の人物の生涯をモチーフにした伝記風の作品、アメコミを原作にした娯楽アクション、アジアやヨーロッパなどの他国で製作された良品をアメリカの風土に合わせてアレンジしたリメイク、そして本編のような史実に基づく歴史スペクタクルである。
 乱発しやすい他の作品群に対し、制作費と演技力に定評のある役者とを投入する必要のある歴史スペクタクルは本数にすると決して多くないものの、年に数本ずつ確実に世界各国に供給されているので、特に印象は強い。近年だと『キング・アーサー』『トロイ』などがそのいい例で、出来については賛否が分かれるものの、いずれも興行的にはそこそこ成功しており、間違いなくハリウッドの重要な潮流のひとつに成長している。そうした潮流を本格的にハリウッドに浸透させたのが、本編のリドリー・スコット監督が手がけた『グラディエーター』だった、と言われている。
 近年独特の映像美に加えて演出技倆も確実に重厚さを増している感のあるリドリー・スコット監督であるが、本編もまた“先覚者”らしく実に安定感のある充実した仕上がりだ。
 冒頭で提示される背景と、いまわの際にあるゴッドフリーが出会ったばかりの息子バリアンに求めた誓い、このふたつだけで物語の赴く先は予想がつく。だが、そのことが本編の面白さに疵をつけていない。無名の鍛冶屋のもとを突如訪れたエルサレムの領主が彼の父を名乗り、いちどはその誘いを固辞しながらも激情のために犯した殺人を悔いて聖都を目指す決意をし、だがすぐさまかかった討っ手によって父を喪い、いきなり領主に祭り上げられ……殆ど休む間もなく急転する物語に、半ば引きずられるように見入ってしまう。
 ある程度十字軍及びエルサレムというものについての知識がある、というのを前提にしているようで、序盤ではエルサレムの政情やその中でのキリスト教徒とイスラム教徒との共存のありようなどが把握できず困惑させられるが、しかし各人が次第に旗幟を鮮明にし、自らの願望に忠実に行動することで流れが戦争に傾いていくと、物語の意図とそのなかでの主人公バリアンの立ち位置もある意味で解りやすいものとなる。このあたりの流れの作り方は堂に入っていて、文句のつけようがない。
 そうして、否応なく激動の渦に巻き込まれながらも、早い段階から己の態度を明確にしているバリアンが実に“英雄”らしいのが素晴らしい。もともと普通の民衆として――しかし設定を読み解くと母ひとり子ひとりの家だったと考えられるから、実際にはその中でも立場の低い者として――育ち鍛冶屋となった若者が、突如父を名乗る人間によってエルサレムに招かれあれよあれよという間に領主から最終的にエルサレム守護の責任者に命じられるという急激な流れにあって殆ど動じている気配もないのがいささか奇妙だが、寧ろその明瞭な姿勢こそが彼の英雄性をよく表現しているとも言える。
 場面場面では迷っている様子もあるし、彼の行動が完璧に理想通りの結果を出している訳でもない。にも拘わらずバリアンが凛々しく映るのは、迷いながらもその態度は一貫しており、感情的に揺れていてさえ“誓い”に忠実に、父の望んだ“騎士”たろうとしたその佇まいゆえである。この役柄に、妖精にも似た美貌に飄々とした演技力を備えたオーランド・ブルームが実によく合う。これまで大作・話題作に出演しながら(ブレイクのきっかけであった『ロード・オブ・ザ・リング』を除いて)あまり恵まれた印象のなかった彼だが、本編でようやくその真価を発揮できたのではないか。
 映画のなかで英雄が英雄として存在感を示すには、個性の際立った脇役もまた重要だが、その点でも本編は成功している。エルサレムのなかに巣くう害虫の役割を理想的に果たしたマートン・ソーカスとブレンダン・グリーソン、また構図的には敵方ではあるが歴史のうえでは著名な英雄であるサラディンを演じたシリアの俳優ハッサン・マスードも見事な貫禄を示している。現代の盟主が手本としても良さそうな名君ボードワン四世を、癩病のために崩れた顔を覆うマスクの下で屈指の演技派のひとりエドワード・ノートンが演じているのも気が利いている――そういえばリドリー・スコット監督は『ハンニバル』で顔の皮を毟られた富豪役にゲイリー・オールドマンを宛がうという荒技をやってのけたことがあるが、そういうのが好きなのかも知れない。ほか、ほんの一瞬だけ登場する市井の人々にもドラマを感じさせる描写を随所に盛り込んでおり、見所に事欠かない。
 終盤のカタルシスを倍加させるために有効であるからこそ、そうした完成された細部をシンプルなプロットに載せたと言えようが、しかしそれだけならあのリドリー・スコットが大いに評価された『グラディエーター』と同じ路線に捉えられかねないテーマを、僅か五年程度の間隔で扱うはずはない、と思う。それを敢えて採りあげたのは、西欧諸国とアラブ諸国との対立の原点を描き、そこにあったのが単純な略奪と奪還、排除の歴史ではなかったことを再確認させたかったからではなかろうか。
ブラックホーク・ダウン』は全米同時テロと報復攻撃の時代に戦争のリアルを突きつける作品であったが、本編はもしかしたらあの作品で描かれることのなかった、多くの価値観が混在する時代の理想を提示しようとした試みなのかも知れない。まさにいまこの時代に作られる意義のあった、志の高い大作である。

(2005/05/18・2005/10/06追記)


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