cinema / 『NOTHING [ナッシング]』

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NOTHING [ナッシング]
原題:“NOTHING” / 監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ / 脚本:ザ・ドリューズ(アンドリュー・ロワリー&アンドリュー・ミラー) / 製作総指揮:ハンノ・ヒュース、酒匂暢彦、アンドリュー・ロワリー、アンドリュー・ミラー、ノア・シーガル / 製作:スティーヴ・ホーバン / ライン・プロデューサー:ポーラ・デヴォンシア / 撮影:デレク・ロジャース / プロダクション・デザイナー:ジャスナ・ステファノヴィッチ、ピーター・コスコ / 編集:ミシェル・コンロイ / 衣装:アレックス・カバナー / 特殊効果:ボブ・マンロー / 特殊効果スーパーヴァイザー:ブレット・カルプ / デジタル特殊効果:C.O.R.E.デジタル・ピクチャーズ / 音楽:マイケル・アンドリュース / 出演:デヴィッド・ヒューレット、アンドリュー・ミラー、ボビー、マリー=ジョゼ・クローズ、アンドリュー・ロワリー、ゴードン・ピンセント / 49フィルムス製作 / 配給:KLOCKWORX
2003年カナダ・日本合作 / 上映時間:1時間29分 / 日本語字幕:林完治
2005年09月17日日本公開 ※短篇『RYAN [ライアン]』併映
公式サイト : http://www.klockworx.com/nothing/
シネセゾン渋谷にて初見(2005/10/13)

[粗筋]
 これは本当の話だ――誰が何と言おうと、真実の物語だ。そのことをゆめゆめ忘れないで頂きたい。
 従って主人公となる男性二人も実在の人物である。アンドリュー(アンドリュー・ミラー)は極度の心配症と、両親や級友達からの度重なるイジメに耐えかねて引き籠もりとなってしまった不幸な男だ。デイヴ(デイヴィッド・ヒューレット)はずっと外向的であるが、しかし生来の独善的な性格が四方八方に敵を作り生活はきつい。かつてはロック・ミュージシャンを志したがまったく才能がないことに気づいたときには身ぐるみ剥がれ、遂にアンドリューがひとりで暮らすしもた屋に転がり込んだ。揃いも揃って欠点だらけの二人だったが、こうして互いを補い合える仲間を見出し、しばらくのあいだは結構幸福な暮らしを送っていた――のだが。
 まず最初の不幸に見舞われたのはアンドリューで、その原因を齎したのは親友であるはずのデイヴであった。いちおう自宅でネット経由の旅行代理店の仕事をしているとはいえ、買い出しにもゴミ出しにも行けないアンドリューにとって、デイヴが唯一外の世界との接点であったが、その彼が突如家を出る、と言い出したのだ。理由は二週間前に逢ったばかりのサラ(マリー=ジョゼ・クルーズ)と一緒に暮らしたいから、というもの。僅か二週間程度の付き合いの女のために、二十年来の親友を裏切るのか、というアンドリューの訴えに耳を貸すことなく、デイヴはあっさりと出て行った。
 しかし天罰覿面と言おうか、そんなデイヴにも早速不幸が降りかかる。出社早々質の悪いイジメに遭う、のはいつものこととしても、上司のクロフォード(アンドリュー・ロワリー)に呼び出されてオフィスを訪ねてみれば、まるで身に覚えのない横領容疑をかけられて即刻解雇を言い渡された。でもサラがいれば仕事なんて何だっていいさ、と彼女のもとを訪ねると、サラのほうにはまるでその気はない。それどころか、実はデイヴから密かにパスワードを盗んだ彼女が横領したのだ、と打ち明けられて、言葉を失った。
 一方、アンドリューも当然の苦境に立たされていた。生活していればゴミが溜まる。しかし、外に出るのが怖くて出しに行けない。決死の覚悟で家を出たらうっかりと自分を閉め出してしまって、たまたま訪れたガールスカウトの女の子に助けられる始末。どうにか家には入れたものの怯えっぱなしのアンドリューを心配した女の子はもうしばらく居てあげると厚意から言ってくれたのに、見知らぬ人との交流さえ恐れるアンドリューは邪険に追い返す。数時間後、彼女はとんでもない方法でしっぺ返しをしてきた――アンドリューにイタズラをされたと母親に訴えたのだ。
 もう生きていけない、と首を括ろうとしたところへ、デイヴがひょっこりと戻ってきた。サラとの事情は伏せたまま、心配して戻ってきたと言い張るデイヴはアンドリューを唆して家を売りに出させ、得た金でどこか他に人のいない場所へ移ろうと提案する。不動産業者に頼む手間賃さえ惜しんだデイヴはただ家の前に立て看板を設けただけだったが、翌日、見知らぬ老紳士(ゴードン・ピンセント)が書類を携えてやって来た。欣喜雀躍して確認したその書類は、しかし取引のものではなく、立ち退きを勧告するものだった。高速道路にあまりにも近すぎるこの家は法に反しており、即刻取り壊しが行われるという。期限は――今日の午後三時。
 慌てて荷造りするデイヴ、出て行くなんて絶対無理だとパニックに陥るアンドリュー、そうこうしているうちに時間が迫り解体業者がやって来たかと思えば、横領容疑のデイヴと児童虐待容疑のアンドリュー双方を逮捕するために警察までが大挙してきた。左右から響きわたる高速道路の騒音、重機の雲集する響きに、遂に催涙弾まで投げ込まれる始末。どうして自分たちがこんな目に遭うんだ、おれ達はいったいどうなるんだ、そう悲鳴を挙げた、次の瞬間。
 世界を突如、異様なまでの静寂が支配した。

[感想]
 これから御覧になる方の楽しみをなるべく奪わないために、本番の一歩手前で粗筋を止めさせていただきました。肝心の、世界が消え始めてからの映像と展開は、なるべく予備知識なしで味わったほうがいいと思いますので。
 ――で済ませては感想の意味がないのでもう少し詳しく綴ろう。取り敢えず本編は、監督ヴィンチェンゾ・ナタリの出世作『CUBE』をそっくり裏返しにした世界、と捉えて間違いない。実際監督はそう認めたようだ。すべてを立方体の部屋が果てしなく連続する空間に押し込め、そこからの脱出と登場人物の心理劇を展開していった『CUBE』に対し、自分から世間を拒絶していった野郎ふたりが突如として物質の消えてしまった、極限まで開かれた世界を彷徨するのが本編である。
 但し、理屈としてこの舞台設定は事実上、『CUBE』以上に閉じた世界でもある。拒絶から許容へと意識をスライドさせてはいるが、設定の根本で夾雑物を排除する方向へと進んでいると考えれば、発想は『CUBE』同様、閉鎖環境を基底にしていると言っていい。その上に、幾つかのルールを乗せていく点でも同様だ。たとえば、本編ではこの粗筋のあと、世界は光源の知れぬ真っ白な光に押し包まれて、目に見える具体的なものはアンドリューの持ち家だけとなる。頭上も前後左右も無論のこと、敷地を一歩出れば足の下でさえ真っ白なのだ。では、敷地を出たらどうなる? 際限なく落ちていくのか? 普通ならば恐怖でなかなか踏み出せないところだが、本編はルールを追加することで、主人公たちが敷地を出ることを認める。不可視の道がどのような代物なのかは、作品を実際に御覧になっていただきたい。
 本編の魅力はこのあたりから全開になる。何もない状況とはいったいどんなものか、をまず規定し、そのうえでまず間違いなく誰しも経験したことのない映像空間を構築していく。だいたいここまでに掲げた条件だけでもかなり異常であることは、SFの造詣や映像の知識があるかたなら解るだろう。本編におけるアイディアの大半は、この異形の空間を表現する手法に注ぎ込まれているのだ。
 しかしその実、そこに至るまでの前振りの時点から、本編のヴィジュアルは既にかなり異質なのだ。終盤まで物語の主な舞台となるアンドリューの家の内装からしてそうだが、彼らが暮らす街トロントの遠景はまるでかつて香港に存在した九龍城を模した箱庭か書き割りのようだし、デイヴが勤務していた会社は意味もなく無数のコードが部屋中を這い回り、上司のオフィスは打ちっ放しのコンクリートが薄ら寒い、デザイン性の極端に高い作りだ。前作『カンパニー・マン』にしてもそうだったが、本筋と直接絡まない部分にまで特殊な意匠を盛り込むのがナタリ監督の流儀らしく、導入部分からそのヴィジュアルに作家性が窺える。“世界が消えていく”という現象の描き方にさえ独創性があるのも、当然と言えば当然なのである。
 では、肝心の物語はどうかというと――正直に言えば、ここにこそ意表を衝かれた。少なくとも『CUBE』や『カンパニー・マン』の監督という先入観から期待するような物語とは百八十度違う。まるで常に観客の期待する反対のほうへ、反対のほうへと選んで突き進むかのようなプロットは、謎を解き明かすのではなく寧ろ激しく拡散させていくようだ。緊張感もなければ、ナタリ監督の先行作のように知的かつ異様な後味を留めるような結末を迎えることもない。シチュエーションを利用するだけ利用し尽くしていきなり手をぱ、っと放すようなエンディングに呆気に取られ、気分を害する向きもあるだろう。
 その理由は、ナタリ監督の作品に謎解きを期待するせいだろう。だが、そもそもこの作品、狙っているのは謎を決着させることではなく、シチュエーションを極限まで駆使して登場人物を翻弄することにあるのだ。四方八方真っ白なだけの世界に混乱し、手探りの挙句にひとつの理由に辿りつくと、思いもよらぬ迷走を開始する。その滑稽なさまはまるっきり、スラップスティック・コメディの体だ。
 そう捉えれば、解決へはどうしても向かわない筋も、予想を大幅に裏切る結末も納得できるだろう。徹底して予定調和を破壊しながら、しかしそう考えていくと、巧妙な伏線も張られていることに気づくはずだ。主人公ふたりの性格付けとその背景も、さりげなく提示されたものがきちんと結末に向かって奉仕している。とりわけ重要なのはアンドリューのペットが亀である、という点だ。もしこれが別の生き物であったなら、ああいうオチには決してならないのである。巧まれているという点で、『CUBE』や『カンパニー・マン』に引けを取るものではない。
 だが、その狙いが些か特殊すぎるのも事実で、普通に『CUBE』や『カンパニー・マン』の監督の新作という見地から期待した場合、失望する可能性はかなり高いと思う。それ故に、人に薦めるのを若干躊躇する代物だ。
 何にしても確実に言えるのは、決して常人に作れるような作品ではない、ということである。ある意味“バカ”を描いた映画だが、その切り口は決して凡人では扱いきれるものではないのだ。ナタリ監督、やっぱりただ者ではない。

(2005/10/13)


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