cinema / 『ゲド戦記』

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ゲド戦記
原作:アーシュラ・K.ル=グウィン(岩波書店・刊) / 原案:宮崎駿『シュナの旅』(徳間書店・刊) / 監督:宮崎吾朗 / 脚本:宮崎吾朗、丹羽圭子 / プロデューサー:鈴木敏夫 / 作画演出:山下明彦 / 作画監督:稲村武志 / デジタル作画監督:片塰満則 / 美術監督:武重洋二 / 編集:瀬山武司 / 録音演出:若林和宏 / 音楽:寺嶋民哉 / 主題歌・挿入歌:手嶌葵 / 制作:スタジオジブリ / 声の出演:岡田准一、手嶌葵、菅原文太、田中裕子、香川照之、風吹ジュン、内藤剛志、倍賞美津子、夏川結衣、小林薫 / 配給:東宝
2006年日本作品 / 上映時間:1時間55分
2006年07月29日公開
公式サイト : http://www.ghibli.jp/ged/
TOHOシネマズ六本木ヒルズにて初見(2006/07/29)

[粗筋]
 異変は、じわじわと人の世界を侵蝕した。倫理は崩壊し、悪徳が蔓延っていく。やがて、太古の昔に人とは別の世界に移り住んだはずの竜が忽然と現れ、醜い共食いを始める、という奇怪な様子さえ目撃された。このアースシーでいったい何が起きているのか……?
 原因を探るため、幾度めかの旅に赴いたゲドことハイタカ(菅原文太)は、上陸して間もない砂漠で狼の群れに襲われていた青年と遭遇する。何かに追われ怯え、自暴自棄になって行く宛てもなく彷徨う彼――アレン(岡田准一)に、ハイタカは同行を求める。
 ふたりして辿り着いた街、ホート・タウンは、アレンの目には異様なものに映った。人買いが跋扈しほうぼうで奴隷が商われ、アレンのように隙のある若者に近づいて幻覚を見せる薬を売り捌こうとする者も現れる。だがハイタカが言うには、この状態は既にここだけの話ではないらしい。世界中が均衡を失い、異常を来していると言うのである……
 ひとりで周辺をうろついていたアレンは、人買いのウサギ(香川照之)に襲われている少女を発見する。そのつもりもなく、一種自殺衝動にも似たアレンの行動がウサギたちを圧倒し、結果的に少女を救うことになったが、彼女は礼を言うこともなく去っていった。
 その夜、ひとり海を見つめていたアレンはウサギの奇襲に遭い、囚われの身となる。他の者と共に奴隷として売り捌かれるため運ばれる途中、魔法によって居場所を特定したハイタカによって救出されるが、ウサギによって痛めつけられたアレンの消耗は激しかった。ハイタカは彼に休息を与えるため、町外れに住んでいる昔馴染みのテナー(風吹ジュン)のもとを訪れる。
 目醒めたアレンは、そこに彼が図らずも命を救った少女――テルー(手嶌葵)がいることに驚く。しかも彼女は何故か異様にアレンを毛嫌いしていた。「命を大切にしない奴なんか大嫌いだ」アレンには返す言葉もなかった。
 他方、いちどはアレンに仕事を妨害され、雪辱を果たしたと思えば何者かによって奪還されてしまったウサギは、ボスである魔法使い・クモ(田中裕子)に報告する。目撃談から、アレンを連れ帰っていったのが宿縁のあるハイタカであることを感知したクモは、ふたりを捕らえるようにウサギに命じる――

[感想]
 事前にあまり芳しくない評判ばかりを耳にして、半ば覚悟を決めて訪れたせいもあるのだろう、予測していたほど悪い印象は受けなかった。好きか嫌いか、で問われれば間違いなく好きな作品だと応えられる。但し、映画としての出来はやはり良くはない。
 まず、場面の流れが拙い。同じ一場面のなかでアングルを切り替える箇所において、普通ならば流れを繋げるために所作やモチーフを一貫させるべきところを、いちいち飛躍したり途切れさせてしまうので、興味が持続しない。あまりに何度もこのパターンが繰り返されているあたり、多分に意図的でもあるのだろうが、流れを壊しているだけでこれといった効果を上げていないのは問題だ。
 同じ方向で、あまり間の取り方が巧くないことも気になった。情緒豊かな台詞やシチュエーションの多いこの作品では、会話の合間や無言の場面で如何にいい間を作るかがポイントとなったはずだが、そのあたりについて全般に神経が行き届いていない印象を受けた。
 人物や舞台設定がいずれも掴み所に欠いていることも気になる。『ハウルの動く城』の魔法によって老いたソフィーや『千と千尋の神隠し』における千尋のふて腐れた表情、民俗学で語られる日本史観を土台にした『もののけ姫』のように、ヴィジュアルや精神性によって即観客の気持ちを掴むような要素があまりないので、全体に空気が曖昧なのだ。
 何よりも問題であるのは、肝心のアレンやハイタカ、テルーたちの行動原理となるものがほとんど伝わってこないことである。アレンが“影”から逃げまわっているのはシンプルながら解り易いが、それ以外の行動はあまりに行き当たりばったりだし、何故ハイタカは彼を旅の仲間としたのか、どうしてああいう位置づけで利用したのかが不明なままだ。結果的にアレンに希望を齎すこととなるテルーなど、どうしてあそこまで毛嫌いしていたアレンを受け入れるようになったのか、そのきっかけも感情的な動きも示されていないので、中盤以降の展開が唐突に映る。何より、序盤で示されたアレンの過去にまつわる出来事が大半、物語に奉仕していない点は問題だ。完全にアレンを逃亡に走らせるためだけのきっかけ程度にしか扱われておらず、ならば描く必要などなく、あの尺を利用してもっとハイタカらの行動原理を掘り下げる、或いは彼らの交流を物語に盛り込むべきではなかったかと首を傾げてしまう。
 物語の構成という点においてかなり乱れた出来であるため、それ故映画としては不出来と言わざるを得ないのだが――他方、切って捨てるには惜しい魅力も多々ある。
 さすがにスタジオジブリだけあって、映像の完成度は非常に高い。もう少し細部のモチーフにこだわって欲しかった気はするが、隅々まできちんと動かし、しかし全体としてのクオリティは一貫して維持している点はさすがであり、傑作ながら背景でスキャニングに頼る箇所の多かった『時をかける少女』と比べると手作りの暖かみが濃厚だ。
 また、従来のジブリ作品とは一線を画した主人公たちの表情の作り方にも目を惹かれる。死を覚悟したときの激情と怯えとが入り交じった様子、泣く直前に顔の筋肉が揺れる様、基本的に膨れっ面ばかりしているテルーの表情の構成などには、アニメの様式にこだわらない幅を感じさせる。
 ナレーションを排した台詞の組み立ても、それ自体は悪くない。そのせいで、恐らくは原作の設定に起因しているのであろう箇所が意味不明に思われる部分が多くなっているが、それは上で指摘した様々な点と同様、構成力の問題である。台詞だけをひとつひとつ検証する限りは、むしろ従来のジブリ作品よりも秀でたセンスを感じた。空々しさがなく自然な言葉遣いは、引っかかりがない分するっと入って意識にも留まらない欠点もあれど、しかし吟味したときの印象深さは洗練の証でもある。
 特に賞賛したいのは、声優の選択である。個性の際立った口調と声とで本来の顔をまったく思い出させない香川照之=ウサギ、静かな言葉遣いが不気味さに繋がり存在感が強烈であった田中裕子=クモ、貫禄たっぷりの菅原文太=ハイタカ。とりわけ、演技達者ぶりを遺憾なく発揮した岡田准一=アレンと、声優としての演技はいまいちだが、その拙さが純朴さによく馴染み、何より傑出した歌唱力がそのままキャラクターを確立させている手嶌葵=テルーの起用は、それ自体大きな功績であると思う。
 繰り返すが、映画としての出来は決して良くない。だが、確かに熱意は感じさせるし、その台詞のセンスや雰囲気作りには可能性を感じさせる。褒めることは出来にくいものの、どこかしらに捨てがたい魅力のある作品である。

(2006/07/31)


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