cinema / 『ウルトラヴァイオレット』

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ウルトラヴァイオレット
原題:“Ultraviolet” / 監督・脚本:カート・ウィマー / 製作:ジョン・バルデッチ / 製作総指揮:トニー・マーク、スー・ジェット、T.C.ワン、チャールズ・ワン / 撮影監督:アーサー・ウォン・ニョク・タイ,H.K.S.C. / 美術:チュー・サンボン / 編集:ウィリアム・イェー / 衣装:ジョセフ・ボロ / キャスティング:ジャスティン・バデレイ&キム・デイヴィス・ワグナー,C.S.A. / 音楽:クラウス・バデルト / 出演:ミラ・ジョヴォヴィッチ、ウィリアム・フィクトナー、キャメロン・ブライト、ニック・チンランド / 配給:Sony Pictures
2006年アメリカ作品 / 上映時間:1時間27分 / 日本語字幕:稲田嵯裕里
2006年06月24日日本公開
公式サイト : http://www.sonypictures.jp/movies/ultraviolet/
サロンパス ルーブル丸の内にて初見(2006/06/26)

[粗筋]
 21世紀末、世界は兵器開発のなかで発生したウイルスに冒されていた。ウイルスに感染した者は驚異的な頭脳と運動能力を獲得する代わりに、およそ12年で命を落とす。人間たちは感染を恐れてマスクや手袋で自己防衛し、ファージたちには腕章を義務づけ徹底的に排斥しようとした。だがファージたちもそうした社会情勢に反発し、地下に潜伏して抵抗活動を続けた。
 ヴァイオレット(ミラ・ジョヴォヴィッチ)も感染者のひとりであり、潜伏しファージに対して強硬な策を取る人間たちを手にかける殺し屋として暗躍していた。幾つものセキュリティをかいくぐり、侵入した研究所からファージ掃討のための秘密兵器となるものを略奪したヴァイオレットは、組織に渡す前に自らが命を賭して得たものを確かめたい、という欲求に屈してケースを開き、言葉を失う。そこに隠されていたのは、年端もいかないひとりの少年だった。
 たとえ少年であろうと、計画の内容からしてその体内にはファージを滅亡に追い込むための抗体が埋め込まれていると推測され、組織は“破壊”すべだと断じる。だが、感染したときに愛する夫も、お腹の中にいた子供も奪われた過去を持つヴァイオレットは抵抗する。策略を用いて少年を奪還すると、その手を引いて逃走を図る。
 シックス(キャメロン・ブライト)と名乗る少年を伴っての逃亡は困難を極めた。政府の者も組織の者たちも彼女を追い、シックスはなかなか胸襟を開かない。ましてヴァイオレットに残された時間はもはや限られていた――彼女が感染したのは12年前、死期は間近に迫っている。組織とは一線を画したところでヴァイオレットの治療を手懸けていたガース(ウィリアム・フィクトナー)のもとにいちど身を寄せ、体調を整えたのちにヴァイオレットはふたたびシックスの手を引き逃走した。僅かにある、少年が助かる可能性に賭けて。
 少年の躰に秘められたものは何なのか、果たしてヴァイオレットは無事、彼を助けることが出来るのか……?

[感想]
 私が本編に対して感じた失望を説明するには、カート・ウィマー監督の前作『リベリオン』の魅力について語る必要がある。しばしお付き合いいただきたい。
リベリオン』は派手なセットや凝ったCGに依存せず――したくても予算の都合で出来なかった、という背景もあるようだが――ロケによって陰鬱な近未来世界を描出し、“ガン=カタ”という荒唐無稽だが奇妙にリアリティのある、独創的な武術をベースとするアクションを積み重ねることで、従来のアクション映画の型に収まらない作品として仕上がっていた。特に“ガン=カタ”に魅せられた観客は多く、二次創作はもとより小説、漫画、アニメでこれを踏襲したと思しい作品が発表されている。
“ガン=カタ”という武術の魅力は、僅かな動きで敵の銃弾の雨をかいくぐり、的確な射撃で相手を仕留める、或いは至近距離で銃自体をトンファーのように用いて攻撃する、という、無茶苦茶だがどこか筋が通っており、訓練次第では本当に出来てしまいそうだと錯覚するような理屈に基づいている点にある。たとえばオープニングでは、敵の潜む暗がりに単身飛び込んだ主人公は、自らに放たれた銃弾で敵の隠れた位置を特定し、灯りを点けないまま撃ち倒す。中盤では、左右から向けられたライフルの砲身を叩き、グリップを軸に一回転させて引き金を手許に、銃口を敵に向けさせて、相手が気づいたときには引き金を引いている。こうしたトリッキーだが、過剰にCGやワイヤーを用いていないせいもあるのだろう、もしかしたら本当に出来てしまうのでは、と感じさせてしまうアクションの数々が魅力となっている。しかも、いずれも“ガン=カタ”という流派があってこそ成立するもので、それ故余計に作品の個性を際立たせていた。
 翻って、本編である。本編は舞台を『リベリオン』よりも未来に設定、重力レベラーという人物の可動領域を格段に押し上げるアイテムを用いることで、バイクが壁を走り回るという常識を逸脱したアクションが登場するくらいで、VFXに注ぎ込んだ手間は激増している。
 だが、そのぶんアクションの説得力を損なっているきらいがある。説明的な冒頭が終わると途端に畳みかけるアクション・シークエンスに突入するが、序盤で幾何学的な美術に高精度のスキャナーや四次元ポケットから取り出すような仕組みの銃などを眼にしてしまっているため、何をされても衝撃に乏しい。
 後半に行けば行くほど顕著になっていく『リベリオン』を彷彿とさせるアイディアを盛り込んだアクション・シーンも、序盤であれほど派手なことをやってしまったため、衝撃度が低くなってしまっている。もともと“ガン=カタ”のような、アクション全体を統括する理念をヴァイオレットが持ち合わせていないため、基礎があってこその意外性やカタルシスが表現されていないことも、折角のアイディアを散漫なものに感じさせているようだ。
 シナリオについても、やや纏まりを欠いた印象は拭えない。ヴァイオレットが仲間と袂を分かつきっかけがナレーションの中でしか説明されず、その後のモチベーションとなるべき少年との交流なども充分に描かれていない、或いは密度が薄いので、万事唐突であったり説得力に乏しかったりしている。心情の変化や裏切りに至る引き金がはっきりしている『リベリオン』と比較すると、やはり散漫としている、と言わざるを得ない。
 ただ、未来を舞台としたアクション映画として、水準を超えているのは間違いない。あちこちのニュアンスが似通っている『イーオン・フラックス』と並べてみると明確だが、アクション・シーンの重みと切れ味、説得力は圧倒的に本編のほうが上である。シャーリズ・セロンもいいのだが、やはり『バイオハザード』などでたびたびアクションを披露してきたミラ・ジョヴォヴィッチの動きの切れ味には及ばない。服装などにも合理性が保たれると同時に、美術に統一感があってヴィジュアルも洗練されている。散々否定的な見解を述べたものの、クライマックスにおける、CGを極力抑えた人間本来の動きを主体としたアクションの発想は実に見事だ。特にいちばん最後のひと幕は、『リベリオン』のとある趣向を裏返したような感があり、気づくとニヤリとさせられる。
 思うに、やたらと超人的なアクションやSFらしい美術・VFXに拘泥することなく、バジェットを抑えこみ実在の景観やセットを駆使し、生身でも再現可能と「思わされる」ようなアクションを主体として構成していれば、『リベリオン』ほどではないにせよ、より重量感のある作品に仕上がっていたのではなかろうか。映像自体は美術的であり、ショットの構成にもセンスが感じられるので、眼をも楽しませてくれるのは事実だが、いま少しアクションの方向性やシナリオなどに平衡感覚があれば、と惜しまれてならない。
 とはいえ、前述のようにアクションの発想やセンス、近未来アクションとしての完成度は高く、貫禄は感じさせる。過剰に『リベリオン』やその他の名作群を意識せず、いささか端折りすぎのプロットを寛容に受け入れることが出来るなら、存分に堪能できるだろう。

(2006/06/27)


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